第8話
一方、萌香は早くも自分のコミュ力の限界を感じて、奥で涙を流していた。
メイドカフェとは、もっとほんわかしていて、お淑やかで、癒しと夢を与える場所だと思っていたから、初日の勢いのある雰囲気についていけなかったのもある。
「うっ……、うぅ……、うぅぅ……」
堪えきれず、ついにしゃくり泣きだした萌香を見つけてキイチがパイプ椅子を持ってきてそこに腰かけて、萌香に話しかける。
「皆そこまで気にしてないよ、泣かないで戻ろうよ、こんなことで泣くなんて涙がもったいない」
キイチの声掛けは優しくて、迷惑をかけていることが申し訳なくなった萌香は余計に泣いてしまった。
初めての空間の中で、気を張っていながらも、そこにいつまで経っても馴染めなかったのも、萌香にとってはとても耐えがたいものがあったのだ。
そこに、更にトマトジュースを零すというハプニングで、もう無理だ……、と、余計に苦しくなってしまったという事だ。
「私、辞めますっ……」
涙で埋もれてしっかり話すことはできなかったものの、萌香は確かにやめる、と言ったのだ。
「何も今日辞めなくてもいいじゃんか、ちょっと考え直したらきっと変わると思うんだけどな」
それを聞いた萌香は、それでも泣きじゃくっていた。
もう瞼は赤く腫れて、並行二重だったのが一重になってしまったし、鼻水も止まらなくて、萌香はどんな理由があっても、今日は誰にも顔を合わせたくはないと思ったのだ。
小さな事で泣きすぎだし考えすぎだ、と思うかもしれないが、そのハプニングと騒ぎ立てる男たちは、萌香にとって相当のストレスとなっていたのである。
「うーん、本当に無理だったら今日はもう帰ってもいいんだけど、ちょっと考え直してみてくれよ。俺はライチの気が変わるまで待っているからさ」
キイチが萌香の肩をポンポンと叩き、続けて言った。
「人生苦しい、辛いとか思うことは誰だってあるさ。でもそういうことを受け止めて前に進むことが大切で、結局、慣れたもの勝ちなんだぜ。俺もある。付き合っていた彼女と一緒に死産を経験した事があるけど、でもさ、今の俺の顔見てみて?笑えてるっしょ」
キイチの顔を見た萌香は拒否反応を起こしそうになり、その場で吐きそうになってしまった。
いいことを言っているようだが、全く助言になっていない。
清々しいと言わんばかりのその笑みに、はらわたが煮えくり返りそうになった萌香は、同時に人間の恐ろしさというものに気が付いたのである。
前に進むことは大切だと思ったが、死産の経験を笑って話せるというのがどうにも理解できなくて、ココのメイドカフェの責任者はとんでもないサイコパスで、その周りにいるメイド達も既にサイコパスの責任者と同様の思考を持っているのではないかと思ってしまったのだ。
ココに居続けると、何れ自分もそんな価値観になってしまうのではないかと思い、一刻も早くココから立ち去りたくなってしまった。
「すみません、やっぱり今日はもう帰りたいです」
「まだ、始発出てないよ、せめて始発まで待ったら?」
キイチは何とか引き留めようとしたが、萌香はそれでも帰りたくて仕方がなかった。
「遠くないので歩いて帰ります」
そう言ったものの、アキハバラから萌香の住む場所までの徒歩での距離は、大体二時間ぐらいはかかってしまう。近いと言えない。寧ろ遠い方だ。
「そうかぁ……、わかった、皆には何とか言っておくから、着替え終わったらそのまま帰っていいよ。今日はお疲れ」
キイチは渋々といった形だが帰ることを許可してくれた。
着替えが終わって外へ出た萌香は携帯電話を開いて時間を確認する。
午前三時三十分。確かに、もう少し待っていれば始発に乗れた時間であったが、萌香は待って電車に乗るより、一刻も早くアキハバラから逃げる事を重視していたので、徒歩でも全く躊躇うことはなかった。
騒がしかった店内と比べて、外はとても静かでなんだか閑散としていた。
おかしな夢からようやく目を覚まして、現実がいかに簡素なものなのか気付かされたという感じだ。
きっと警察に見つかったら萌香は補導されるのだろう。萌香がアキハバラに行くのはいつも日中であったので、深夜のすっかり静まり返ったアキハバラは萌香にとって新鮮で、まるで深夜徘徊をしている気分を味わいながら帰っていったのだ。
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