第3章【1】

 美しい浅葱色の髪が頬にかかる。誰かの膝に頭を乗せて寝ている。美しい女性が、金色の瞳に穏やかな微笑みを湛えていた。

「愛しているわ、ロズ」

 慈愛に満ちた優しい声が降り注ぐ。この音色を忘れるはずがない。ずっと耳の奥に残り続ける煌めき。それは永遠にも似た、手の届かない輝き。遠くもあり、近くもあり。

 手を伸ばした瞬間、それは離れていく。



   *  *  *



 ロザナンドが目を覚ますと、すでにヘルカが朝の支度を始めていた。少し寝坊してしまったようだ。その物音すら聞こえないほど熟睡していたらしい。

「おはよう、ヘルカ」

「殿下、おはようございます」

 人間の国では、王族はいつもジャケットを身に着けているらしい。ロザナンドはカチッとした服装が苦手だ。外交に出るわけでもないし、もっと楽な格好で過ごすほうが好ましく思っている。

 ヘルカが髪を整えているあいだ、ロザナンドは夢のことを考えていた。

 ロザナンドの母エルヴィ。ロザナンドが幼い頃に亡くなっており、ロザナンドの中に母の記憶はほとんどない。

「ねえ、ヘルカ。母上ってどんな人だった?」

「とても美しいお方でした。誰にでもお優しく、とても気高く、穏やかなお方でした。あのお年でお亡くなりになったのが本当に惜しいですわ」

「母上はどうして亡くなったか覚えてる?」

「ご病気だとされておりますが、詳細は不明とのことで……。私もあまり詳しいことは存じ上げません。きっとご存じなのは魔王陛下だけだと思いますわ」

「そう」

 それを魔王に問いただしたところで何も話はしないだろう、とロザナンドは考えている。魔王はロザナンドの母エルヴィについて秘匿している。それがロザナンドにとって明らかであるのに、魔王は何も語ろうとしない。隠し事をしているのはロザナンドの左目にはすべて視えているというのに。

 コンコンコン、と軽快なノックが聞こえた。どうぞ、と応えたロザナンドの声に、ニクラスがドアを開く。その手には数枚の書類があった。

「ご報告に上がりました」

「ああ」

 ニクラスは従順に任務をこなしている。怪しい動きがあれば左目に視える。実に便利な能力である。

「シェルからの報告です。勇者選抜は候補がふたりに絞られ、ロレッタ・カルロッテも残ったようです。偵察隊を送り込みましたが、さすがにガードが硬いようでまだ侵入できていないようです」

「シェルがわざとそうしている可能性は?」

「可能性は否めませんが、シェルは勘がいいです。いま反乱を企てれば婚約者が危険に晒される可能性があることは察しているかと思われます。さすがに婚約者を犠牲にしてまで反乱を起こそうという気にならないのではないでしょうか」

 シェルに反乱の可能性があるとすれば、ロザナンドが切り捨てることは容易である。賢明なシェルのことだから、それはきっとわかっていることだろう。婚約者を守るため、そんな危険を犯すようなことはしない。信用できるとまでは言わないが、いまのところは切り捨てることを考える必要はないだろう。

「反乱するつもりなら」ロザナンドは言う。「僕に取り入って先に婚約者を解放させるはずだね」

「仰る通りかと」

「シェルの婚約者はいまどこでどうしてる?」

 その実、ロザナンドはシェルの婚約者のことはよく知らない。一度も会ったことはなく、気にしたことすらなかった。接触する必要がなかったからだ。

「宮廷の離れで暮らしています。シェルとも面会できるし、健全な暮らしは確保されています。使用人との接触も禁じられておりませんし、寂しい思いはしていないのではないでしょうか」

「ふむ……」

 もし婚約者の健全な暮らしが脅かされることになっても、シェルにはどうしようもないだろう。健全な暮らしより命のほうが重い。健全な暮らしを送れているなら、わざわざ危険を犯すようなことをするほどシェルも愚かではないだろう。

「婚約者を解放できれば、シェルを完全な味方につけることができるかな」

「それはどうでしょう……。忠誠を誓うか、好機と捉えて反乱に出るか……いまのところ予測はできません」

「どちらにせよ、いまは人質として確保しているほうがいいか」

「仰る通りかと。健全な暮らしを確約しておけば、シェルは献身的に働くのではないでしょうか。ただ、シェルは神官ですから、透視耐性は自分以上であると思っておいたほうがよろしいかと」

 ロザナンドの千里眼を防ぐ「透視耐性」は誰でも身につけることのできる簡単なスキルだ。ニクラスの透視耐性は働いていることを見抜くことができたが、国で上位の地位にある神官はそれすら隠せる可能性が大きい。心の底で反乱の機会を窺っていたとしても、それを見抜けない場合もあるのだ。それでも、実行に移せばロザナンドも容赦をする必要がなくなる。

 ニクラスが下がって行くと、入れ替わりでコニーが報告に来た。コニーも信用が置けるかいまだに探っている最中だが、その真面目腐った表情を見ると、ニクラスよりは信用できるのではないかとロザナンドは思っている。

「賊の六人の報告はディーサ姫からお聞きになるのですよね」

「ああ」

 昨日、南のアルヴィドに侵攻した無謀な六人のことは、この場で報告を受ける必要はない。コニーは別のメモを手に取った。

「魔王陛下に反感を懐いている者を調査しました。宮廷すべての従者三百五十人中、二百九十人が魔王陛下に反感を懐いております」

 思っていたより大きな数字に、ロザナンドは思わず息を漏らした。

「よく調べたね」

「僕の手にかかれば簡単なことです」

「他人の思念を取り込めるんだっけ」

「はい」

 コニーは千里眼に似た能力を持っている。相手から僅かに漏れる魔力を感知し、それに乗る思念を察知する。魔力を持たない人間には意味を成さない能力だが、魔族はすべからく魔力を有している。それに気取けどられることなく思念を盗み見ることができるのだ。

「心が読めるとまでは申せませんが、反感のような感情はわかりやすいですね」

「逆に反感を懐いていない者が六十人もいることのほうが驚きだけど」

 魔王のやり方には、ロザナンドでさえついて行けないと思うことがある。その残った六十人は、忠誠を誓うまではいかずとも、魔王のやり方が間違いではないと思っているということだ。

「反感を懐いていないというだけで、好感かどうかは甚だ疑問です」

「まあ、そうだろうね。父に好感を懐く者なんていないさ」

 確信を持って断言するロザナンドに、コニーは苦笑いを浮かべる。魔王とロザナンドは腐っても親子である。そのロザナンドが最も強い反発を懐いている可能性はコニーも承知しているだろう。

「でも、反乱予備軍がそれだけいるってことか」

「どうでしょう。大抵の者は殿下の千里眼を恐れて実際に行動に起こそうとは思わないはずです」

 神官、宮廷女官、宮廷騎士、宮廷魔法使いは「透視耐性」を身につけるのはさほど苦労することではない。しかしそれらに当てはまらない従者は、千里眼をごまかせるほどの能力はない。当てはまってもロザナンドより能力が低ければ誤魔化すほどの効力はない。反乱を隠せる者は少ないだろう。

「シェル、ラーシュ、ニクラス、アニタは殿下の任務を真面目にこなしているようです。ディーサ姫はお会いになればおわかりになるかと」

「そう。ありがとう」

 コニーが下がって行くと、ロザナンドはダイニングに向かった。魔王がロザナンドのことをどう思っているかは判然としないが、朝食は必ず同席する。ロザナンドは、この時間があまり好きではなかった。

「調査はどうだ?」

 おはようの挨拶のあと、魔王アンブロシウスが朗らかな笑みでそう問いかけた。

「いまのところは順調です」

「そうか、そうか」

 食事が運び込まれる。どんな料理が用意されているかは、ロザナンドにはあまり重要ではない。早くこの時間を終えてしまいたかった。

「私は、反乱を起こすならお前ではないかと思っていた」

 挑戦的に目を細めてアンブロシウスが言う。ロザナンドは表情を崩さず、父を見遣った。

「お前の千里眼なら、エルヴィのことを何か視えているのではないか?」

「なんのことでしょう。母上のことはあまり記憶にありませんが、病死と聞いています。もし父上が母上の死のことをご存じだとしても、父上には千里眼が効かないのもご存じのはずです」

「そうだな」

 アンブロシウスはあくまで楽しげに笑う。ロザナンドの反応を見て面白がっているのだ。剣呑な視線を向けるロザナンドの表情を見ても笑っていられるのだから、魔王は相変わらずなのである。

 早々に朝食を切り上げてダイニングをあとにすると、ユトリロとともにディーサの姿があった。

「遅い!」と、ディーサ。「人に仕事を任せておいてよくそんなにゆっくり朝食が取れたものね!」

「朝食は大事でしょ。ディーサだって、そんなに急いで報告に来なくてよかったんだよ」

 冷ややかに言うロザナンドに、ディーサは不満げに眉尻をつり上げる。これもディーサが真面目に任務をこなしているという証明である。

「それで?」

「義理の妹を労ってやろうという気はないの?」

「お疲れ様。それで?」

 ディーサは顔をしかめて溜め息をついたあと、真剣な表情になった。

「あの六人に自白術を使ったわ。小遣い稼ぎで雇われた間者のようね」

 この調査結果のためにディーサに任務を課したのだ。宮廷魔法使いで魔王の養女であるディーサなら、自白術の腕が確かである。隠し立てることはできないだろう。

「六人が情報を伝達した様子はないけど、監視の魔法がかけられていた痕跡があったわ。情報は漏れていると考えておいたほうがよさそうよ。いつ奇襲をかけられてもおかしくないわね」

「そう。じゃあ、宮廷騎士団と宮廷魔法隊を強化しておいてくれ」

「それも私が手配するの?」

 ディーサはまた不満げに顔をしかめる。ロザナンドは肩をすくめてそれを流した。

「打倒ロザナンドなんでしょ? それくらいなんともないでしょ」

「もー……。いまは宮廷騎士団と宮廷魔法隊で連携を取ろうと計画しているところよ。兄様の思うように動かせるでしょうね」

 そう言いながら、ディーサはやはり不満げな表情になる。勇者に対抗するために訓練するのは必要不可欠であるが、ロザナンドが何もしていない様子であるため怪訝に思っているのだろう。実際、ロザナンドはすべてを部下に一任している。

「そうだ。良いこと思いついた」

 ぽんと手を叩くロザナンドに、ディーサとユトリロは揃って首を傾げる。ロザナンドは、自分でもなかなか良い発想ではないかと自負していた。




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