第1章 アラベルと魔法学【1】
まずは、異母弟アラベル・キールストラとの関係を見直そうと思う。
アラベルはとても内気で気弱な少年で、狂気性を持つラゼルの恰好のおもちゃだった。アラベルが誰にも打ち明けられないとわかっていて虐げていたのである。なんて非道なんだ。僕に向けられるアラベルの視線には、恐怖に近い感情が見受けられる。それでもジークハイド以外の家族に気付いてもらえないのだから、あまりにあまりである。
とりあえず、アラベルへの干渉を必要最低限まで下げてみようと思う。そうしていれば、きっと程良い距離感を探れるはずだ。関心を失くしたと思われない程度に、慎重に。
アラベルとヒロインの馴れ初めはわかりやすく、ラゼルによって傷付けられた心を癒やされることだ。ジークハイドと同じで、もう出会いは済んでいるはず。オープニングが入学式だったと考えると、他の攻略対象についても同じはずだ。
確か、アラベルは魔法学研究に打ち込んでいるという設定だった。魔法を科学として捉える学問なのだとか。そもそも魔法の存在しない世界の住人だったから、とても面白そうな学問だと思う。アラベルに干渉するかどうかはともかく、ガリ勉の血が騒ぐというものだ。もしかしたら、アラベルから教わることで仲良くなれるかもしれない。それはそれで楽しみだ。
そんなことを考えつつ寝室を出ると、ちょうど廊下の角でアラベルと鉢合った。途端にアラベルの表情が曇るので、僕は努めて爽やかな笑顔を浮かべる。
「おはよう、アラベル。良い朝だね」
「あ、うん……おはよう……」
怯えつつも挨拶を返してくれるなんて、良い子なんだなあ。ジークハイドだったら屑を見るような目を向けるだけだっただろう。
アラベルは母親譲りの綺麗な金髪を、眉毛が完全に隠れるくらい長めに垂らしている。それが気弱さを際立たせるのだ。緑色の瞳が綺麗で、可愛い系の顔立ちだと思う。体の線は細めで、身長はラゼルと同じくらい。運動より勉強を好む性質のように見えた。
ダイニングには父と義母、ジークハイドの姿がすでにあった。ジークハイドの視線は相変わらずシベリアで、そんな極寒の右隣に座らなければならないのは冷え性には辛い。とは言え、アラベルのことがなければジークハイドはラゼルに対して無関心だっただろうと思う。関心があるわけではないのかもしれないが。
ジークハイドは父親譲りの美形で、釣り上がった青色の目とスッと通る鼻筋がクールさを演出している。アラベルとは対照的に気の強さが感じられた。アラベルは母親似だ。
「ラゼルとアラベルは、今日は何をするの?」
公爵夫人が朗らかに問いかける。庶子のラゼルにも優しく接するのは、実に愛情深い女性である。
ジークハイドは父親の手伝いがあるようだが、ラゼルとアラベルは休暇中であるためほとんどの時間が自由だ。僕はもうやることを決めている。
「今日は書籍室で本を読もうと思っています」
微かに残るラゼルの記憶によれば、キールストラ公爵邸の書籍室は様々な本が多数、取り揃えられているらしい。読書家としては見逃せない場所だ。
「あら、それならアラベルと一緒に行ったらどう? アラベルはいつも書籍室にいるから」
ラゼルがアラベルを虐げているなどとはつゆ知らず、公爵夫人は朗らかに微笑んで言う。アラベルからすれば地獄のお誘いだろう。
「いえ、邪魔をしたら悪いし、僕は僕で行きます」
「そう?」
「邪魔なんかじゃないよ……! い、一緒に行こうよ」
アラベルが慌てた様子で言った。その表情は相変わらず怯えた色を湛えており、仲良くしようと思って言ったわけではない。ラゼルの機嫌を損ねないようにしているのだ。
それでも、わざわざ意地悪なことを言う必要はないだろう。
「そう? じゃあお邪魔しようかな」
アラベルは安堵したように薄く微笑む。ラゼルの加虐性に機嫌は関係ないように思うが、こうして顔色を伺いながら接し続けているのだとすれば不憫だ。ジークハイドの冷ややかな横目がそれを物語っている。ずっと弟が欲しいと思っていたし、僕に課された任務はただただ甘やかすことだけだ。
朝食を終えて、僕とアラベルは一階の端に向かった。キールストラ公爵邸には書籍室の他に書庫とそれぞれの書斎がある。書庫は古い本や資料を保管しておく場所で、それぞれの書斎は仕事に使われているらしい。僕とアラベルには書斎はないようだ。
アラベルの案内で書籍室に足を踏み入れた僕は、あまりの広さに思わず絶句してしまう。思っていた書籍室の三倍ほど広く、整然と立ち並んだ本棚には端から端までぎっしり本が詰まっている。図書館のようにインデックスになっていればよかったのだが、公爵邸とはいえ個人の所有する書籍室。そんな親切設計にはなっていないようだ。
「この中から探さなくちゃならないのか……」
溜め息とともに呟いた僕に、アラベルが遠慮がちに口を開く。
「えっと、何を探してるの……?」
「魔法学の参考書を読みたいんだ。そうだ、よかったらアラベルのおすすめを見せてもらえない?」
我ながら良い案だと思う。オタクは推しを問われると活き活きと語り始めるものである。アラベルも魔法学に熱中していたのなら、きっと良い一冊を選び出してくれるはずだ。
「わかった……ちょっと待ってて」
アラベルは足早に書籍室の奥に入って行く。魔法学の参考書がある場所を把握しているようだ。
そこでふと、僅かに残ったラゼルの記憶から、ある魔法が思い浮かんだ。この世界には「報せ鳥」という、魔力を消費せずに使用できる伝達魔法がある。伝書鳩のようなもので、離れた場所から言付けを出すことができるのだ。
どうしよう。アラベルが「ラゼルが無茶振りして来る」ってジークハイドに助けを求めていたら……。
そんな心配は数分で解除された。数冊の本を抱えたアラベルが、ほんの少しだけ興奮した様子で戻って来る。三冊の参考書が机に並べられた。
「これが基礎の参考書で、これが通説の参考書。こっちが新説の参考書だよ」
アラベルはこの短時間で渾身の三冊を選んで来てくれたらしい。どれも分厚く、僕の好奇心を充分に満たしてくれそうだ。
「通説と新説があるんだね。魔法学研究も日々進展しているということか……」
「研究に使う機材が進化していってるから……。魔法学の進歩は、ほとんど計測器の進歩に付随するかな……」
「なるほど。空気中のマナを正確に計測できれば、マナが何にどんな影響を及ぼすかも正確にわかるってことか」
僕が居た世界には存在しなかった物質「マナ」のことは、妹から聞き齧った知識だ。魔法学という特殊な学問の作りが精巧で、いちから学んでみたいと思っていた。
「あとは……研究員が感知系のスキルや魔法を研磨することでも魔法学の発展に繋がったりするかな……」
「時代の変化とともに魔法学研究も進歩しているんだね」
科学についてはどの世界でも共通のはずだ。その内訳は世界によって変わるかもしれないが、進展の仕組みはどんな学問でも同じ。人材や機材が進歩することで発展するのは、きっとどの世界でも同じことだろう。
「魔法学研究を進めることで、魔道具にも活用することができそうだね。便利な魔道具が増えるのかな」
「そうだね……。この国は魔法大国だから、魔法学の進展は他の国より早いかもしれないね……」
こうして和やかに会話しているように思えても、アラベルは気を張っているように見える。おそらくラゼルは、アラベルが気を抜いた瞬間を狙って嫌がらせをしていたのだろう。いつ攻撃を仕掛けて来るかと怯えているのだ。もうその必要はないということを、時間をかけて伝えていければいいと僕は思っている。
僕がアラベル推薦の三冊を読み込んでいるあいだ、アラベルは窓際のソファで別の本を読んでいた。そうしていると、アラベルも緊張せずに過ごせているようだ。ラゼルは元々、本に熱中しやすいのかもしれない。
僕はと言うと、魔法学を通してアラベルと良い関係を築けると確信を持っていた。ラゼルの心が別人になったことは打ち明けないにしても、夏季休暇前までのラゼルとは違うことを少しずつでもわかってもらえればいい。せっかく兄弟になれたのだから、仲良くやっていきたいと僕は思っている。そのすべては僕にかかっているのだ。
「失礼します。昼食のご用意ができました」
呼びかける声に顔を上げると、執事のメイソンが恭しく辞儀をする。読書に熱中するあまり、僕もアラベルも時間を見ていなかった。午前中いっぱい読書に費やしてしまったようだ。
いま行くよ、とメイソンを下がらせつつ、アラベルの手を借りて参考書を元の場所に戻す。出しっぱなし厳禁だとアラベルが教えてくれた。
「ありがとう、アラベル。おかげで有意義な時間を過ごせたよ」
「うん……それならよかった」
アラベルは柔らかく微笑む。本心からそう思っていることが伝わったようだ。
それにしても、魔法学……思っていた以上に面白い学問だ。マナや魔力を解析することで、魔法を科学的に捉えている。残念ながら、マナの成分を正確に解析することは人間には不可能だとされているらしい。それでも、魔法学を知ることで魔法の腕を上げることは充分に可能だろう。
深く考えていなかったが、いまの僕には念願の魔法が使える。すべてのオタクが憧れるあの“魔法”を。ラゼルがどの程度の魔法使いだったかはわからないが、近いうちに試してみようと思うと、オタクの血が騒いで仕方がなかった。
* * *
湯浴みを終えると、僕は寝室でまた読書に耽った。僕は自室に本が
コンコンコン、と静かなノックに顔を上げる。眼鏡をかけ直してドアを開けると、噂をすればなんとやら。アラベルが応対を待っていた。
「アラベル、どうしたの?」
「これ……魔法学の面白い参考書だから、貸そうと思って……」
アラベルが差し出して来たのは、傷みつつも大事に扱われて来たことがよくわかる重厚な本だった。しっかり見なくても、アラベルの気に入りで大事な一冊であることが明白だ。もしかしたら、元来のラゼルだったら良い笑顔で燃やしていたかもしれない。
「ありがとう。もっと魔法学を勉強したいと思ってたんだ」
「うん……それならよかった」
アラベルは安堵したように微笑む。それはご機嫌取りとは違う笑顔だった。
なんて良い子なんだ! こんな可愛い弟を虐げていたなんて、ラゼル・キールストラという少年はなんて残酷なんだろう。
魔法学という共通の目標ができたことで、アラベルとの心の距離はほんの少しだけ縮まったような気がする。唯一の問題点を挙げるとすれば、僕がアラベルと良好な関係を築くことより魔法学の勉強に比重を置きつつあることかな。
だって魔法を科学で捉えるなんて、これ以上にオタクを喜ばせる学問は他にないだろ! こんなの学ばずにはいられないよ!
とは言っても、アラベルの警戒心がほんの少しだけ薄くなったことは確かだ。畏怖の念を懐くラゼルが魔法学に興味を持ったことを喜んでいるのだから、とても素直な子なのだろう。僕があの笑顔を裏切ることは絶対にない。もしそんなことがあれば、断罪されようとも受け入れる。アラベルの参考書を手に、そんな決意を固めた。
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