第1章 アラベルと魔法学【2】

 昨日よりほんの少しだけアラベルが僕に心を開いたことで、朝食の席は本当に和やかになった気がした。目敏いジークハイドはもちろんそれに気付いているが、まだ僕を疑っているらしい。確かにラゼルの狂気性があれば、大人しくしていた三日後に何かをやらかすなんてこともあり得る。ジークハイドはそれを警戒しているのだ。その加虐性からアラベルを守るために。そんなことは絶対にないと誓ってもいいが、自分がラゼルと完全な別人になったとはまだ自信を持っては言えない。自分の中にラゼルの狂気性が残っている可能性も残されているいま、期待させるようなことは言わないほうがいいだろう。

 朝食を終えると、僕は一旦、寝室に戻った。アラベルの参考書は一晩で読み切ってしまったため、大事な物だろうから早めに返そうと思って取りに行ったのだ。

 オタクには、人に貸し出す用と保存用で同じ本を二冊以上も買う習性がある。この世界では容易なことではないと考えると、早めに返したほうがいいと思うのがオタク心だ。

 書籍室ではすでにアラベルが読書を始めていた。ジークハイドも同室しており、手が空いたため僕の監視をするといったところだろうか。

「アラベル。これ、ありがとう。とても面白かったよ」

「もう読んじゃったの?」

「うん。おかげで寝不足だよ」

 ラゼルが明るく笑うと、アラベルの頬が微かに紅潮する。自分推薦の本で寝不足になるということは、面白くて熱中して止まらなかったということ。これ以上にオタクを喜ばせる言葉はないと僕は思っている。

「また読みたくなったら貸してくれる?」

「もちろんだよ。いつでも言って」

「ありがとう」

 アラベルは純粋に喜んでいるようだが、彼の背後に控えるジークハイドの視線は冷ややかだ。元来のラゼル・キールストラは、アラベルの大事な本を一晩で無事に返した程度では信用を取り戻せないようだ。

「いま、ラゼルにおすすめできる他の参考書を探していたんだ」

 アラベルの視線を追って机を見ると、何冊もの本が積まれている。魔法学研究の参考書がそれだけ揃っているのも驚きだが、アラベルは随分と熱心に勉強しているようだ。参考書ともなると、しっかり読み込んでいないと人に勧めることはできない。その中でさらに吟味するほど、僕が魔法学に興味を持ったことがよほど嬉しいようだ。この調子で一緒に勉強していればアラベルと良好な関係を築けると期待してしまう。ただ、ジークハイドの“圧”がすごい。警戒心を隠そうともせず、僕がアラベルを陥れると考えているようだ。確かに、急に魔法学に興味を持つなんて不自然だったかもしれない。

 まあ、陥れなければいいだけの話だよね。それより魔法学に対する興味が抑えられないんだ。

 それから、僕とアラベルはそれぞれ選んだ本に熱中した。アラベル推薦の参考書はどれも面白くて、推し作家の新刊を読んでいるような気分になる。ラゼルは優秀な頭脳を持っているため、読んだら読んだだけ頭に入る。この頭脳が前世にもあれば、数学の成績はもっと良かっただろうな。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました」

 メイソンの言葉で僕たちは顔を上げる。ついでに時計を見ると、ちょうど午前のお茶時だ。僕も大概だけど、アラベルも本に熱中すると時間を忘れる性質らしい。メイソンがお茶を持って来なければ、昼食までのあいだ読書に耽っていただろう。

 個人的な感想だけど、貴族の家の紅茶ってどこでもこんなに美味しいの? 上質であることに間違いないのは僕にもわかる。とは言っても、前世では庶民だった僕には手の届かない価格の物だと考えると、そこら辺の喫茶店で嗜める「ちょっと良いお茶」とは比べ物にならないんだろうね。

 美味しい紅茶でひと息つくと、僕はふと思い立ってアラベルに言った。

「光の魔法を持つ平民の女の子って、どんな人?」

「……覚えてないの……?」

「え」

 アラベルは少し呆れをはらんだ苦笑を浮かべている。ラゼルが光の魔法を持つ平民の女の子と何度も接触していることは、学年も違い生徒会メンバーでもないアラベルにも認識されているようだ。

「あれだけ絡まれていたのに……。興味がなかったんだね」

「いや、どうかな……」

 しどろもどろになる僕に対し、アラベルにとってラゼルが他者に興味を持たないのは普通のことのようだった。

「優しい子だと思うけど……平民という点で周りから浮いて、嫌がらせを受けたりしているみたいだよ」

 どこの世界にも身分による差別は当然に存在しているらしい。特に貴族の子息子女は平民を見下しがちな印象だ。貴族の集まる王立魔道学院では、魔法の力を持っていたとしても平民は平民。ヒロインという点を差し引いても、嫌がらせを受けるのは当然のことなのかもしれない。

「レイデン王太子殿下とジェマ様も、それで気にかけてらっしゃるみたい」

 攻略対象、第一と第二だ。彼らが気にかけなければ物語は成り立たない。しかし、この世界は僕にとって現実になった。僕が悪役令息でなくなったいま、ヒロインの運命が変わることもあるのだろうか。

「光の魔法を持つことと、成績がずば抜けて良いというところで、休暇が明けたら生徒会に入るらしいよ」

 乙女ゲームのヒロインによくある展開だ。貴族の子息子女に虐げられていたのを、生徒会に入ることで見返すのだ。悪役令息ラゼル・キールストラは、それでもヒロインに嫌がらせをすることは変わらないのだろう。

 それにしても、ヒロインはなぜ攻略対象の四人を差し置いて悪役令息のラゼルに接触していたのだろう。もしかして、ラゼルが隠し攻略対象だと知っている……? そんなまさか。そうなると、ヒロインも僕と同じ転生者であることを疑わないといけなくなる。現時点の物語では、ラゼルルートはまだないはずだ。

「どうしたの……?」

 黙り込んだ僕に、アラベルが心配そうに問いかける。僕はパッと顔を上げると、適当に微笑んでみせた。

「なんでもないよ。少し考え事」

「そう……」

 ヒロインも実は記憶あり転生者だというのは、ラノベにありがちな設定た。もしそうだとしたら、ヒロインはラゼルと結ばれることを望んでいるのだろうか。ラゼルはいずれ破滅を導くことになるのに? そうしていずれ対立するのに。なんにしても注意が必要だ。

 ヒロインのことを覚えていない以上、アラベルとジークハイドと良好な関係を築くことが先決だ。とにかく休暇が明けなければヒロインに会うこともないのだから。



 それから僕は、アラベルとともに魔法学に関する勉強を続けた。手が空いているときはジークハイドが見張りに来たが、アラベルは着実に僕に心を開いてきている。魔法学のことも熱心に教えてくれて、推薦の参考書を何冊も見せてくれた。それでもジークハイドの警戒が解けないのは、ラゼルの日頃の行いのせいであって僕のせいではない。

「アラベルは将来、魔法学研究員になるの?」

 読書の合間のお茶のとき、僕はふと思い立って問いかけた。アラベルは、うーん、と首を捻る。

「そうなれたらいいけど……僕はラゼルほど勉強ができるわけではないから……」

 年齢が一歳差となると、どうしても上と比べたくなるのはどこの世界でも同じのようだ。いわゆる“地頭”の違いはどうしてもあることで、比べても仕方がないのではないかと僕は思っている。

「きっとなれるよ。僕に教えるほどの知識と熱意があるんだから」

 夢が目標になると、熱意が大事になってくることもある。それだけで達成できるほど甘くないが、それさえあれば少しずつでも近付けるはずだ。僕はそう信じている。

「アラベルのおかげで、僕も魔法学の知識がだいぶ付いてきたよ」

「ラゼルは元々頭が良いから……。自分ひとりだけでも勉強できるはずだよ」

「アラベルの教え方が上手いから、楽しく魔法学の知識を深めることができているんだよ」

「そう……?」

 アラベルは自信がないようだった。優秀さで言えばラゼルが上であることは確かだろうが、アラベルはアラベルで優秀のように思える。魔法学に関する知識は群を抜いている。

「アラベルは努力家だから、その努力はきっと実るはずだよ」

「……そうかな……」

「そうだよ」

 僕の言葉でどれくらい励ますことができるかはわからないが、アラベルが努力家であることに間違いはない。その努力が無駄になることはないはずだ。例え魔法学研究員になれなかったとしても、その努力を活かせる場面は他にもあるだろう。これまでの時間は決して無駄ではないはずだ。

 メイソンが夕食に呼びに来る。僕とアラベルは机に並べていた参考書を片付けて、書籍室を出ようとした。

「アラベル、先に行ってろ」

 ジークハイドが僕の足を止めたのだ。アラベルは不思議そうにしつつも書籍室をあとにする。僕を振り向いたジークハイドの表情は、この上なく冷ややかだった。

「今度は何が目的だ」

「へっ?」

 思わず間抜けな声を上げた僕に、ジークハイドは目を細める。

「次はアラベルをどんな目に遭わせるつもりだ?」

 わお、イッケメ〜ン! こんな顔で迫られたら、婦女子は間違いなくどぎまぎしてしまうよ。さすが攻略対象。顔面の破壊力が桁違いだ。

 そんなことより、ジークハイドはやはり僕のことを疑っているようだ。それは当然の反応と言える。これまでのラゼルの行いを顧みれば。

「誤解です。僕は兄弟としてアラベルと仲良くしたいと思っているだけです」

 胡散臭くならない程度の笑顔を努めたが、奮闘虚しくやはり胡散臭い笑みになっているらしい。ジークハイドの表情は厳しいままだ。心底から疑っている。

「疑いたくなる気持ちはわかります。だから……試用期間をください」

「試用期間?」

「はい。夏季休暇が終わるまでに僕がアラベルを嫌な目に遭わせたら、この屋敷から追い出していただいて構いません」

 勘当された貴族の令息が果たして街で生きていけるかはわからないが、前世は平民だし、なんとかやっていけるのではないかと思っている。それはもう逞しく。

「適当な理由をつけて追い出してもらって構いません」

「適当な理由で追い出せるわけないだろ。だが、覚悟はわかった」

 自分で思った以上に良い提案だったらしい。突っ撥ねられたらどうしようかと思っていたけど、ジークハイドは話せばわかる人のようだ。

「俺の見ていないところで嫌な目に遭わせていたら、メアリに報告させるからな」

 メアリはアラベル付きの侍女だ。もちろんアラベルの味方のひとりである。僕の蛮行を見かけた際、メアリはジークハイドへの報告を躊躇うことはないだろう。

「それで構いません。でも、兄弟喧嘩は当然あるでしょうから、それは大目に見てください……」

「兄弟喧嘩の範囲内ならな」

「ありがとうございます。兄さんは優しいですね」

 思ったことをそのまま言っただけなのだが、ジークハイドの表情がより険しくなった。賞賛の言葉を間違えただろうか。

「アラベルのためだ。これまでのお前の言動を許すわけではないからな」

「はい。取り返せるよう頑張ります」

 ジークハイドは肩をすくめて書籍室を出て行く。許せない言動をしたラゼルに挽回の機会を与えてくれるなんて、優しいというより寛大と言うのかな。それを裏切らないようにしないと、もう二度とその機会が与えられることはないだろう。

 夏季休暇が終わる前にジークハイドとも分かり合えたらいいんだけど。ジークハイドはアラベルを虐げることでラゼルの本性に気付いている。それを誰も理解してくれないほど、ラゼルは外面が良かったようだ。いまの僕は元のラゼルとは違うし、兄弟仲良くしたいと思っている。せっかく欲しかった男兄弟ができたのだから、良好な関係を築いていきたい。

 ラゼル・キールストラは「呪いの子」と陰口を叩かれ、ヒロインと出会うことで劣等感と絶望を溜めていく。その結末が父と義母の殺害を発端とする破滅だ。罪は命をもって償わされる。いまの僕は、そういった暗い感情は懐いていない。父と義母を殺すようなことはあり得ないと断言してもいい。とは言え、いまの僕がラゼル・キールストラであることにも間違いはない。気を抜くわけにはいかないだろう。



   *  *  *



 そうして数日、一緒に過ごしていると、アラベルに怯えた様子は徐々に少なくなっていった。アラベルに自然な笑顔が見られるようになり、ふと、アラベルはラゼルと兄弟になれたことを喜んでいたのではないかと思った。仲良くなりたかったのかもしれない。そうでなければ、酷い目に遭わされたのにこんなに懐いてくれることはないだろう。ジークハイドは相変わらず警戒したままだが、信用を失うようなことはしていないはずだ。


 昼食を終えると、夜更かしをしていた僕は少し昼寝でもしようと寝室に戻った。それでもアラベル推薦の参考書を読み始めてしまったのだから、僕も大概、本の虫である。

 コンコンコン、と軽快なノックが聞こえた。どうぞ、と僕が声をかけると、執事のメイソンが顔を出す。

「ラゼル様。お手紙が届いております」

「手紙?」

 封筒の送り主には、可愛らしい字で「オースティン伯爵領 首都三番街 リーネ・トライトン」と書かれている。

 リーネ・トライトン……って、誰だっけ? 名前からして女の人だろうけど、まったく心当たりがないな。

 封を開いてみると、一般的な便箋に可愛らしい字で夏の挨拶が書かれている。夏の休暇をどう過ごしているか、それから、休暇明けに会えるのを楽しみにしている、という旨の文章が記されていた。王立魔道学院の生徒のようだが、名前にまったく覚えがない。ラゼルは興味がなかったのだろう。

 もしかしてヒロインなのか? 入学式から夏季休暇に入るまでのあいだ、学年の違うジークハイドとアラベルにも認識されるほど絡まれていたらしい。やはりラゼル・キールストラを攻略しようとしているのだろうか。そうなると、僕と同じ転生者の可能性が高くなったように思う。そうでなければ、ラゼル・キールストラが攻略対象のひとりだと知らないはずだ。ラゼルは二年生で、ヒロインは入学したての一年生。入学してすぐ一目惚れしたとしても、夏季休暇までのあいだにそんな頻繁に絡むのは積極的すぎる。そういう女の人を否定するわけではないが、大胆すぎるように思える。

 攻略する目的はよくわからない。ラゼル・キールストラは呪いの悪役令息で、攻略したとしても破滅の結末を迎えることは変わりない。転生者だとしたら、ラゼルを破滅させない方法を知っているのだろうか。それとも、隠し攻略対象を攻略する満足感のためだけなのだろうか。

 リーネ・トライトン……顔がまったく出てこない。ラゼルは本当に心から興味がなかったようだ。

 なんにしても、夏の休暇が終わるまでは気になり続けるしかないようだ。



   *  *  *



「次の週末で夏季休暇が終わりだね」

 アラベルが名残惜しそうに呟く。街は夏の頂点を超えたようで、ここから秋に向かう予感のする風が吹き始めていた。僕としては、とても充実した夏休みだったように思う。

「アラベルのおかげで魔法学の勉強をたくさんできて、とても有意義だったよ」

「それならよかった。……学校が始まってからも、こうやって一緒に勉強してもいいかな……」

 遠慮がちに言うアラベルに、僕は明るく微笑んで見せた。

「もちろん。兄弟は競い合って伸びるものなんだから」

「うん……!」

 アラベルが嬉しそうに頷くので、ほんの少しでも心の距離が縮まったことを僕は実感した。アラベルはラゼルと仲良くしたいと思って、虐げられても避けなかったのかもしれない。

 しかし、僕がヒロインに攻略されたら、将来的に敵対することになるのだろうか。そんな悲運は御免だ。ヒロインにはジークハイド並みに警戒しておいたほうがいいのかもしれない。





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