第9章【3】

 生徒会の仕事が粗方、片付こうとしていた頃、生徒会室を訪れる者があった。顔を覗かせたのはフェリクスで、イリーには、リティカが少し緊張した面持ちになるのがわかった。フェリクスはにこやかな表情をしている。

「フェリクス」アルヴァルドが言う。「何か用か?」

「新入生たちが上手くやっているか様子を見に来たんだ。それと……」

 フェリクスが横目を寄越すので、イリーは嫌な予感に思わず眉間にしわを寄せた。

「イリーをデートに誘いに来たんだよ」

 その途端、リティカの目が輝き、セシリアは驚いて頬を染める。ドロテアは平静を装っているが、少しだけ唇を引き締めた。

「あっ、あの噂は本当なのですか!?」リティカが興奮気味に言う。「フェリクス様とイリー先輩がご婚約なさるって……!」

 噂の的になっていたとは知らず、イリーは頭を抱えた。貴族という生き物は噂好きである。どこからか情報を仕入れ、まことしやかに囁き合うのだ。

「噂ではなくなるだろうね」

 フェリクスはあくまで爽やかに微笑む。乙女心の熱いまなざしに居ても立っても居られず、イリーは口を閉ざしたまま生徒会室を飛び出していた。驚く一同の中で、リッツだけがイリーを追う気配がある。イリーは生徒会室を充分に離れたところで、俯いたまま足を止めた。

「イリー……。ごめんなさい。あなたを困らせたかったわけではないの」

「……うん、わかってる」

 罪悪感を湛えるリッツに、イリーは薄く微笑んで見せる。

「それが私にとって最善なのもよく理解してるよ。フェリクス様は女子生徒の憧れの的だし、私にとっても、伯爵家にとっても得策なこともわかってる」

 一年の頃に起きた事件は公にされていない。イリーが聖女であることも、新入生を除いた生徒会メンバーだけが知っていることだ。フェリクスは高い身分で、将来性が安定している。イリーが聖女であることが公になれば、利用しようとする輩が当然に湧くだろう。フェリクスもトロジー家も、イリーを守る盾となるのだ。イリーはそのこともよく理解していた。

「でも……まだ嬉しいと思えないの」

 目を伏せるイリーに、リッツは先を促すように首を傾げる。

「まだ、ちゃんとフェリクス様と向き合えてない。自信を持ってフェリクス様と並べるようになりたいんだ」

 フェリクスがどう思っているかをイリーはまだ聞いていないが、イリーを守る盾を作るためとは言え、フェリクスと婚約すればいずれ夫婦となる。そのとき、いまのままではイリーは自信を持ってフェリクスの妻を名乗れない。

「どうせなら、フェリクス様にも私と結婚してよかったって思ってもらいたいし」

 いつもの笑顔で言うイリーに、リッツは安心したように微笑む。

「イリーのそういうとこ、好きよ」

「からかわないで」

 生徒会室へ戻る道すがら、イリーは、自分がフェリクスと結婚すればリッツと義姉妹になるわけか、と考えていた。リッツが親友であることは終生、変わらない。

「私がフェリクス様と結婚したら、お義姉様ねえさまって呼んでもらおうかな」

「やだ、何それ。イリーはイリーでしょ」

「ま、そうだけどさ」



   *  *  *



 一日の終わり。寮の部屋でリッツが紅茶を淹れるささやかなお茶会がふたりの寝る前の習慣となっていた。その日の出来事を話したり、イリーがフローティア最推しについて熱く語ったり、のんびりとした時間を過ごす。イリーはこの時間が好きだった。

 カップに残った紅茶が少なくなってきた頃、部屋のドアが静かにノックされた。リッツと顔を見合わせつつ、イリーは立ち上がる。男子禁制の女子寮で、一日も終わろうという時間帯に訪れる人物、と想像しながらドアを開いたイリーは、思ってもいない訪問者に目を丸くした。

「ドロテア?」

 きっとリティカかセシリアだろう、とイリーは考えていた。しかし、応対を待っていたのは、いつもと表情の違うドロテアだった。いつもの自信を湛えた様子は消え、所在なげに肩を落としている。

「非常識な時間に申し訳ありません。少し、お話をさせていただきたいのです」

「構わないよ。入って」

 イリーが自分の座っていたソファにドロテアを促すと、リッツは新しく紅茶を淹れる。ドロテアは緊張した面持ちだった。澄んだ紅茶のティーカップが差し出されると、ほんの少しだけ表情が和らいで見える。

「それで、話って?」

「……あの……。イリー様、あなたは聖なる力をお持ちなのではありませんか?」

 ドロテアは真っ直ぐにイリーを見つめる。イリーは小さく頷き、眼鏡を外して見せた。聖女の証である瞳の星を。

「私の魔法は聖属性だよ」

 ドロテアは唇を噛み、また俯く。ドロテアが話したいと思っていることは、イリーにはなんとなく予想がついていた。おそらくリッツも同じで、ドロテアから次の言葉が出るのを穏やかに待っている。

「……すでに噂が耳に入っていらっしゃるでしょうけれど、わたくしは……闇属性の魔法を持っています」

 イリーはリッツに目配せしつつ、また小さく頷いた。ドロテア・ラフィット侯爵令嬢が闇属性の魔法を持っていることは、すでに社交界では知られている。当然、生徒たちのあいだでも噂されることだろう。

「だから、私が聖属性の魔法を持っているって気付いたんだね」

「はい。わたくしは……闇属性の魔法を持って生まれたことで、周囲から疎まれて来ました」

 闇の力が壮絶なものであることは、イリーもリッツも知っている。あのフローティアが呑み込まれるほどの力が、ドロテアの体内に宿っている。それは周囲に恐怖を懐かせるには充分すぎる事実だろう。

「光を持つ人々を見ていると……どうしても、心が黒い感情で覆い尽くされてしまいそうになるのです。いつか、傷付けてしまうのではないか、と……」

 ドロテアの澄んだ濃紺の瞳が揺れる。ドロテアは闇魔法の恐ろしさを知っているのだ。

「……ドロテア、あなたの勇気に感謝するよ」

 優しく言うイリーに、ドロテアは不安そうに顔を上げた。

「話してくれてよかった。その不安は、もうあなただけのものではないよ」

「ひとりで思い詰める必要はないわ」と、リッツ。「頼れる人はたくさん居るはずよ」

「……ありがとう、ございます……」

 瞳からぽろぽろと零れ落ちる涙が、ドロテアが心を痛め続けて来た証だった。誰にも苦しみを打ち明けられず、恐怖に呑まれそうになりながら、どんな扱いを受けてもこれまで耐えて来たのだ。

「生まれ持ったものはしょうがない」イリーは言う。「でも、それによってあなたの価値が決まるわけじゃないよ。特性のひとつというだけ」

「生徒会のみなさんは、きっとそれを理解してくださるわ」と、リッツ。「心を開いてみるといいわ」

「はい……」

 ドロテアの表情が少しだけ明るくなる。理解者を得たことで、少しでも心が軽くなったのだろう。それだけドロテアは孤独だったのだ。ただの特性ひとつで罪なき少女が悪とされることは、現実世界においては残酷なことだった。

「わたくしは、エンリケ様との婚約の話がありましたが、わたくしの属性のことで渋られているのです」

「王宮としては」リッツが言う。「闇属性の魔法を持っている人間を王家に入れるのはよしとしないでしょうね」

「エンリケ様は受け入れてくださるだろうけど」と、イリー。「周りの人は良い顔はしないだろうね」

「魔法を主力とする私たちにとって、属性は軽視できないものね」

 闇属性の魔法は、言わば破壊の魔法だ。エンリケと結婚することで、その力を継承することになる。ラフィット侯爵家は家柄としては申し分ないが、高貴な血筋である王家にとって、まるで呪いのような闇魔法を受け入れるのは易いことではないだろう。

「イリーの魔法でどうにかできないかしら」

 考えながら言うリッツに、ううん、とイリーも首を捻った。

「どうかな……。方法があるならそうしてあげたいけど……」

「それなら、兄様の役目ね」

 リッツが明るく微笑む。ドロテアは先を促すように首を傾げた。

「方法があるなら、トロジー家にそれを調べるのは難しいことではないわ」

「ですが……」と、ドロテア。「わたくしが頼ってもよろしいのでしょうか」

「もちろん。苦しんでいる女の子を見捨てるほど薄情な家ではないわ」

 ドロテアの表情が明るくなる。トロジー家は諜報活動を得意とする部門がある。フェリクスの指示で動かすとすれば、イリーが聖女であることは上手く隠匿するだろう。

「……ありがとうございます。こんなこと、誰にも打ち明けられなかった……」

 ドロテアの頬に再び涙が伝うが、これは先ほどとは違う涙だった。

「頼ってくれてよかったよ」

「打ち明けたあなたはとても勇敢よ」

「はい……ありがとうございます」

 リッツが差し出したハンカチでドロテアは涙を拭う。その表情に、訪れたときの張り詰めた色は少しだけ明るくなっていた。

「ドロテアは、リティカと友達になりたいと思う?」

 イリーの問いに、ドロテアは俯く。

「わかりません……。まだ、リティカさんがどのようなお方かわかりませんもの」

「そう。でも、きっと良い友達になれるよ。少しずつ、心を開いていこう」

「私たちもできる限りの支援はするわ」

「ありがとうございます。何から何まで……。このご恩は必ずお返しいたしますわ」

「お礼を言うのはまだ早いよ。問題解決まではまだ遠いかもしれないしね」

「はい」

 希望を得た表情でドロテアが去ると、イリーは小さく息をついた。

「まるでドロテアがヒロインで、リティカが攻略対象みたい」

 そこでイリーは、ハッと息を呑む。

「もしかして、百合ルート……?」

「何? ユリルートって」

「あ、いや、なんでもない」

 乙女ゲームの二次創作において、悪役令嬢とヒロインのカップリングはどのゲームにも存在している。イリーも二次創作はそれなりに嗜んでいたが、イリー・マッケンローと悪役令嬢フローティアのカップリングは「解釈違いだ!」と頭を抱えることが多かった。

 またひとつ息をついて、イリーは気を持ち直した。

「でも、本当にトロジー家を頼ってもいいのかな」

「宰相だもの」リッツは微笑む。「ドロテアがエンリケ様と婚約するなら無関係ではないわ」

「本当ありがたいよ。でも、ドロテアが前作ヒロインを頼ってくるなんてね」

「あなたなら信用できると思ったんじゃない? リティカは危なっかしいもの」

 肩をすくめるリッツに、イリーは小さく笑う。イリーと同じヒロインだとしても、いまのリティカに相談しようとはドロテアには思えないだろう。イリーはいつか、すべてを知っている者同士、リティカと協力しなければならないときが来るだろう。イリーがそうだったように、きっとリティカにも、ドロテアを救うだけの力があるはずだ。イリーには、それがすべてを知るヒロインに生まれた意義のように感じられた。



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