第9章【1】
「えーと……イリー? これは正しいことなの?」
始業のチャイムを待つ教室。賑やかさとは裏腹なリッツの表情に、イリーは同じ方向を横目で見遣りながら首を捻った。
「いや、どうかな……」
イリーの右斜め後ろから注がれる視線は、喧騒の中でもはっきりとイリーを捉えている。それは、リティカ・フェルバレート子爵令嬢の輝く双眸。
事の始まりは、人のいない階段の踊り場だった。
* * *
「あの……イリー・マッケンロー様」
鈴を転がすような可愛らしい声が呼び掛ける。教室に向かっていたイリーとリッツが振り向くと、絹のような美しい金髪の女子生徒が階段を降りて来るところだった。紫色の瞳が可憐さを際立たせるその少女は、続編ヒロイン――リティカ・フェルバレート子爵令嬢だ。
「セシリアから聞きました。あなたも転生者なんですよね」
確信をはらんだ言葉に、隠してもしょうがない、とイリーはひとつ頷く。
「そうだよ。あなたと同じ、ね」
「フローティア様の破滅を防いだ……ということですよね」
「そうだね」
リティカの視線が足元に落ちる。リティカはこの世界の続編ヒロインであり、前世はプレイヤーである。イリーが物語とは違う道を歩んだこと、それにより悪役令嬢であるフローティアが破滅していないことに何か思うところがあるのだろう。イリーがそう考えていると、リティカがパッと顔を上げた。両手を組むリティカの瞳は、光を湛えて輝いている。
「私、
これにはイリーもリッツも言葉を失った。ふたりが呆然としている間に、リティカはイリーに駆け寄り手を握り締める。
「あの、イリー様とお呼びしてもよろしいですか?」
「え、ああ、うん、好きなように呼んでもらっていいけど……」
「ありがとうございます! イリー様と同じ学園に……いえ、同じ世界にいられるなんて、夢のようです!」
恍惚の表情を浮かべるリティカに、あれ、とイリーは首を傾げた。このセリフには、既視感がある。それはまさしく、
「あ、あの……お許しいただけるなら、授業を一緒に受けたいのですが……」
「うーん……授業は……」
「イリー?」
階段を降りて来る声に、イリーはパッと振り向く。しゃんと背筋を伸ばした姿が美しい、イリーの最推しフローティアだった。思わず賞賛の言葉を口にしようとしたイリーは、ふと思い留まってリティカを振り向く。
「ごめん、授業はふたりと受けるんだ」
「そうですか……」
リティカがしょんぼりと肩を落とすと、また別の声が呼び掛けた。
「リティカ! ここにいたのね」
駆け寄って来るのはセシリアだった。セシリアはリティカに駆け寄ると、イリーの手を握り締めていた両手を引き剥がす。
「イリー先輩、リッツ先輩。この子が何か失礼なことをしませんでしたか?」
「いや、失礼なんてことはないけど……」
イリーは困って曖昧な笑みを浮かべる。セシリアは悟った様子で溜め息を落とした。
「決して悪気があるわけではないんです」
「私は平気だよ。リティカ嬢の気持ちもよくわかるから」
「ありがとうございます……。ほら、行くよ」
セシリアに引き摺られるようにしてリティカは去って行く。その表情は名残惜しさを全面に表していた。
「何かあったの?」
フローティアが不思議そうに問いかける。フローティアにとって、リティカとセシリアはただの新入生である。不思議に思うのは当然だろう。
「なんでもないです。以前からのちょっとした知り合いと言うか……」
「ふうん。とにかく授業に行きましょう。もうすぐ始まってしまうわ」
「はい」
イリーはいまにも「最推しはフェリクス様じゃなかったの!?」と叫びたい気分だった。イリーは
そしてリティカとセシリアは、イリーの右斜め後ろの席に着くに至ったのである。
やりづらさのようなものを感じながら、イリーは少し離れたところの席に着くドロテアを見遣った。ドロテアを挟むふたりの女生徒が取り巻きの女の子なのだろう。断罪イベントが起これば、きっとドロテアを裏切るに違いない。友情エンドを果たした攻略対象たちがドロテアを断罪するとは想像しづらいが、リティカの行動次第で変わってしまうこともあるかもしれない。リティカがすべてを知った上で破滅させる可能性もゼロではないが、防げるものなら防いでやりたいとイリーは考えていた。
授業が始まると、リティカの視線は黒板へと注がれる。そんな中、イリーとリッツは薬指の内緒話をしていた。
『なんだか、少し前のあなたを見ているようだわ』
『私もこんなことになるとは……。ドロテアには興味がなさそうだね』
『いいことなんじゃない? リティカには誰も攻略するつもりがないのかもしれないわ』
『うーん……それはどうだろう。セシリアが、フェリクス様が最推しだって言ってたし……』
『まあ、とにかく様子を見ましょ。確かに無邪気な子のようね。悪い子には見えないわ』
『そうだね。断罪イベントは十一月。ドロテアとも話す機会があるといいんだけど』
これから三人は生徒会入りする。きっとドロテアと接する機会もあるだろう。せめてリティカが自分のように大胆かつ自由な振る舞いを攻略対象にしないように、とイリーは祈った。
* * *
授業が終わると、リティカは一目散にイリーのもとへと詰め寄った。
「イリー様! 昼食をご一緒してもよろしいですか?」
「あー、ごめん。昼食はリッツとフローティア様と取るから……」
自分もフローティアから見るとこんな感じだったのか、とイリーは苦笑いを浮かべる。嫌というわけではないが、どうにも対応に困ってしまう。それでもイリーを受け入れてくれたのだから、やはりフローティアの心は広く美しい。イリーはそんなことを考えていた。
「では、食堂までご一緒してもよろしいですか?」
眉尻を下げるリティカは、さすがのイリーでも断りづらい表情だった。
「イリー」
正面から歩み寄って来る人物に、イリーは思わず目を逸らしたくなった。軽く手を振るフェリクスは、きっとイリーの微妙な気持ちに気付いているだろう。
「フェリクス様、ごきげ――」
「フェリクス様!」
イリーの脇を擦り抜け、セシリアが止める間もなくリティカがフェリクスの手を取った。その表情は、眩いほどに輝いている。
「まさか、本当にお会いできるなんて!」
イリーは心の中で、しまった、と呟く。リティカはフェリクスが最推しだとセシリアが言っていた。プレイヤーの頃の感覚が抜けていない、とも。リティカの行動は貴族として相応しくない。貴族社会において、身分が上の者をファーストネームで呼べるのは本人が許可した者だけ。それに加え、気安く触れてはならない。リティカは明らかな不敬を働いていた。
「リティカ!」
セシリアが真っ青な顔をしてリティカを引き剝がす。フェリクスの穏やかな微笑みは崩れていないが、言葉を発しないところを見ると、心中は穏やかでないらしい。
「申し訳ありません、ドロシー様!」セシリアが頭を下げる。「この子、入学前からドロシー様のファンで……!」
土下座でもしそうな勢いで謝るセシリアに、リティカもようやく自分の失態に気付いたようだった。同じように頭を下げつつ、横目でイリーを見遣る。イリーはまた苦笑いを浮かべた。
「大丈夫。フェリクス様はそう簡単に怒るお方じゃないから」
「イリーにそう言われたら怒るわけにいかないなあ」
やれやれ、といった様子でフェリクスは肩をすくめる。それはイリーの狙い通りで、フェリクスも狙い通りであることを知っている表情だ。
「イリーの友人かな」
「まあ、そのような……」
イリーは思わず口ごもる。友人と言えなくはないが、まだ友人と呼ぶほど親しくもない。とは言え、切り捨てるのはセシリアがあまりに不憫だ。リティカのためにこれほど頭を下げられる少女を、見捨てることはイリーにはできなかった。
「あ、あの……トロジー様」と、リティカ。「私、以前からトロジー様のファンで……。もしよろしければ、フェリクス様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
これにはさすがのイリーとリッツも焦った。本来のリティカ・フェルバレート子爵令嬢であれば、これほど踏み込んだ言動をすることはなかっただろう。それと同時に、イリーにはヒロイン補正がかかるのではないかという不安もあった。しかし、フェリクスの表情は、そんなものは存在しないことを物語っている。穏やかに見えるその微笑みは凍り付いていた。
「ちょっと、あなた!」
鋭い声に振り向くと、ふたりの金髪の少女がリティカを睨み付けている。ドロテアの取り巻きの女生徒たちだ。
「あまりに無礼な言動ですわ! トロジー様は学園の上級であり、身分もはるかに上のお方ですのよ!?」
「気安く触れていいお方ではありませんわ! 身の程を弁えなさいませ!」
顔を青くしたリティカが、ふたりの女生徒の背後に視線を向ける。静かに歩み寄って来るのはドロテアだった。
「あまり騒ぎ立てるのはお止しなさい。フェルバレートさん。もう少し、子爵家の娘として相応しい振る舞いを身に付けられるとよろしいでしょう」
「も、申し訳ありません……! この学園に入学できたのが嬉しくて、少しはしゃぎすぎてしまいました……」
「嬉しいのはわたくしも同じですわ。けれど、貴族として、この学園の生徒として、礼節を守ることをお忘れなきよう」
「はい……」
やはり根っからの悪役令嬢なんていない、とイリーは考える。ドロテアの風采は貴族に相応しく、その言葉には彼女の優しさが湛えられている。しかし、リティカにヒロイン補正がかかっていれば、きっとフェリクスが庇ったことだろう。そうして、ドロテアは悪役令嬢へと導かれていくのだ。
「どうかしたのかい?」
澄んだ声が、辺りのざわめきを打ち消す。生徒たちがサッと開ける道の中を歩いて来るのはアルヴァルドだった。その後ろにフローティアの姿もある。ふたりが肩を並べる光景が自然になったことで、イリーは感慨に浸っていた。
「アルヴァルド王太子殿下」ドロテアが辞儀をする。「騒ぎを起こしてしまい、誠に申し訳ございません」
「悪いのは私です……!」リティカが頭を下げる。「少し羽目を外しすぎてしまいました……」
アルヴァルドが視線を寄越すと、フェリクスは軽く肩をすくめた。
「リティカ嬢も学園で過ごすうちに、貴族として相応しい振る舞いを学べるはずだよ」
「はい……しっかり学びます」
リティカが素直な少女であることで、イリーは少しだけ安堵していた。自分がヒロインだからと大胆かつ自由に振る舞い、場を掻き乱すような言動をするつもりはないらしい。ただ、セシリアの言う通り無邪気なだけである。
「でも、ちょうどよかった」と、アルヴァルド。「ドロテア、リティカ、セシリア。放課後、生徒会室に来てくれるかな」
三人が揃って頷くと、アルヴァルドは満足そうに頷いて去って行く。フェリクスもイリーとリッツに挨拶して背を向けると、フローティアがイリーのもとへ歩み寄って来た。
「なんとか場が収まったようでよかったわ」
「そうですね」
「皆様、申し訳ありません」
ドロテアがまた頭を下げるので、リッツが明るく微笑んで見せる。
「あなたが謝ることはないわ。場を収めようとしてくれたのだし」
「本当にすみませんでした……」
リティカはしょんぼりと肩を落とす。イリーは苦笑いを浮かべた。
「みんなが優しいだけだから気を付けてね。礼節は守るようにしよう」
「気を付けます……」
「ドロテア様、ありがとうございます」
イリーが微笑みかけると、ドロテアは表情を崩さず口を開く。
「どうぞ、わたくしのことはドロテアとお呼びください。イリー様は先輩なのですから」
「でも、私のほうが身分が下だし……」
「この学園では、すべての身分が平等ですわ。わたくしは侯爵家の娘ですが、学園では後輩です」
「そう。わかった。ありがとう、ドロテア」
ドロテアは微かに口角を上げて薄く微笑む。その表情に何かが隠れているようで、イリーは少しだけ心がざわついたような気がした。
「イリーも随分と先輩らしくなったわね」
悪戯っぽく微笑むフローティアに、たはは、とイリーは頬を掻く。
「私もみなさんの優しさに助けられましたから……。特に、フローティア様に」
イリーが祈るように両手を組むと、フローティアはついとそっぽを向く。
「わたくしは優しくなんてありませんわ。あなたの押しが強かっただけ」
「はあ……まさに女神。今頃、天界はきっと大騒ぎです。心の美しい女神が脱走してここにおられるのですから……」
こうなってはイリーは止まらない。フローティアもリッツもそれをよく知っていた。後輩たち三人も、これからその姿を何度も目にすることだろう。
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