第8章【3】

 昨日のトロジー兄妹の爆弾発言により、イリーはよく眠ることができなかった。自分が思い悩んでいたのは続編ヒロインのことだったはずが、いきなり頭の中身が入れ替わってしまったのだ。ふたりのことはイリーも信用している。イリーを困らせるためだけに言ったわけではないことは、イリーもよくわかっている。それでも、溜め息が漏れてしまうのは仕方のないことだろう。

「何かあったのかしら?」

 次の授業の教科書を用意しながらフローティアが問いかけた。まだ教室にリッツは来ていない。実は、とイリーは口を開いた。愚痴のようになってしまったが、フローティアは真剣に耳を傾ける。

「あら、いいじゃない。高貴な身分と安定した将来性のあるお方ですもの」

「うーん……それはそうなんですけど……」

 フェリクスは夫とするに充分なほど申し分ない。場合が場合なら、そういう話になって悪い気のする女性はいないだろう。トロジー家への嫁入りには大きな価値がある。それでも、イリーは即決することはできなかった。

「恋愛結婚したいの?」

「そういうわけではないんですけど……。平民出身の伯爵令嬢が宰相家の嫡男と婚約なんて、不釣り合いにもほどがあるじゃないですか」

「マッケンロー伯爵家も名門よ。昔から実力で勝ち上がってきた家系ですもの」

「そうですけど……私がフェリクス様と……」

 イリーは思わず頭を抱える。伯爵家の養女になってから、誰かと結婚することになるだろうとは思っていた。結婚して血筋を残していくことは貴族の当然の務めだ。伯爵より身分の高い男性と結婚する可能性も充分にあった。それでも、フェリクスとの結婚は理由が理由である。

 溜め息をつくイリーに対し、フローティアがくすりと小さく笑った。イリーが窺うように視線をやると、悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「あなたでもそんなふうに悩むことがあるのね」

「そりゃそうですよ……私だって人間なんですから……」

 唇を尖らせながら、そう、とイリーは心の中で呟く。自分は、この世界に生きるひとりの人間。自分の意思で動く、イリー・マッケンローという、ひとりの人間だ。

 リッツが来るので、ふたりは話すのをやめる。寮がイリーと同室であるリッツは、イリーが思い悩んでいることを知っている。追撃して来ることがないのは、イリーの意思を尊重しようと考えているのだろう。トロジー家との婚姻はマッケンロー伯爵家にも恩恵がある。本来なら、迷う必要のない話のはずだ。ただ、イリーにまだ前世の感覚が残っているだけである。



   *  *  *



 生徒会の活動時間になると、イリーも幾分、気を取り直していた。リッツもフェリクスも、イリーに損をさせるようなことはないだろう。ただ、少しだけ揶揄っているような気配を感じるのも確かだ。それも、悪意ではないのだが。フェリクスと婚約することでイリーを守るという点に嘘はないだろう。

 さて、とアルヴァルドが口を開くので、イリーは考えるのをやめた。

「今年は学園祭がある。二年に一度の祭りだから、万事滞りなく進められるように準備しよう」

(学園祭か……)

 イリーの脳裏に、大学で参加した文化祭の光景が思い浮かぶ。一年のときはシナリオと闘うことに必死だったが、今年の学園祭は純粋に楽しむことができそうだ。だが、学園祭は悪役令嬢の断罪イベントには恰好の舞台だ。おそらく、そういうことなのだろう。

「詳しい話は一年生が入ってからにしよう。学園祭は十一月。近々、全生徒に報せを出そう」

「楽しみだな~」エンリケが笑う。「街のお祭りとは違うんだろうな~」

「学生が主催ですものね」と、フローティア。「街のお祭りの主催は領主ですもの」

「どんな出店が集まるかな~」

 学園祭は純粋に楽しみだが、イリーにはまだ素直に楽しめない点がある。学園祭は十一月。ヒロインが悪役令嬢を断罪するのにはちょうどいい期間だ。リティカがどう出るかはわからないが、イリーの友人たちを攻略されるのはなんとしても避けなければならない。今回も断罪イベントは回避するべきだろう。せめて、三人の情報でもあれば話は変わっていたのかもしれない。

 生徒会が散開になっても、イリーは憂鬱な気分のままだった。

「ヒロインと悪役令嬢ってことは、同じような物語になるの?」

 寮に向かう道すがら、リッツが声を潜めて問いかけた。周囲にはまだ生徒がいる。不可思議な話は秘密にしたほうがいい。

「そうなると思うよ」

「もし、五人の誰か……もしくは全員が“攻略”されたら、悪役令嬢は裁かれるの?」

「たぶんね」

「それは阻止するつもり?」

 真剣な表情のリッツに、ううん、とイリーは首を捻る。

「続編の悪役令嬢に思い入れはないけど、みんなが攻略されるのは困る。せっかく友情エンドに到達することができたんだし」

「攻略を阻止できれば、悪役令嬢は断罪されないのかしら」

「どうかな……。続編の情報がないから、なんとも言えないんだよね。でも、できることなら回避してあげたい。ドロテアもきっと、フローティア様と同じ。悪い人ではないと思うんだ」

「……そうね。何か私たちにできることがあるといいんだけど」

 リッツなら続編ヒロインとも、悪役令嬢とも友人になれるのではないか、とイリーは考える。考えたところで、リッツはイリー・マッケンローと元から友人であったためイリーを信じてくれたのだと思い返す。イリーがいなければ、続編の三人のことはただの後輩としか見なかっただろう。きっと、断罪イベントは起きたはずだ。

「――あのっ……!」

 意を決したような声が聞こえるので、イリーとリッツは振り返る。栗色の長髪を肩でまとめた、澄んだ薄紫色の瞳の少女が緊張した面持ちで立っていた。

「あなたは?」

「一年のセシリア・カールストンです。男爵家の娘です。あの……マッケンロー様にお話ししたいことがあります。えっと……リティカ・フェルバレート子爵令嬢について、です」

 少女――セシリア・カールストンの手が小刻みに震えている。入学したての一年生が上級生に声をかける以上の緊張感があった。イリーに対してある考えを持っているが、まだ確証がないのだろう。

「私たちの部屋に行こう」

 リッツに目配せしてイリーは言う。リッツは小さく頷いた。セシリアもちらりとリッツを見遣り、それから俯いてしまう。

「あの、えっと……」

「大丈夫。リッツはぜんぶ知ってる・・・・・・・よ」

 顔を上げたセシリアは、安堵の表情を浮かべた。彼女の中の考えに確信が加わったのだろう。小さく頷き、ふたりのあとに続いた。



   *  *  *



 寮の部屋に戻ると、リッツが紅茶を淹れた。私が、とセシリアは慌てたが、お茶を淹れるのはリッツの趣味のひとつだ。仄かに花の香りがする紅茶が入ると、セシリアは少し緊張がほどけたようだった。

「あの……マッケンロー様……」

「私のことはイリー先輩でいいよ」

「私はリッツ先輩でいいわ」

「はい、ありがとうございます。私のことは、どうぞセシリアと呼んでください」

 セシリアは安堵した様子で頷き、真剣な表情で口を開いた。

「あの、フローティア様が断罪されていないということは……イリー先輩も転生者、ということですか?」

「うん、そうだよ。ということは、セシリアも?」

「はい。リティカもそうです」

 やっぱり、とイリーは心の中で呟く。リティカは、フローティアを見て驚いていた。前作の悪役令嬢であることを知っており、断罪されずヒロインイリーの隣にいたことで驚いていたのだ。

「イリー先輩は、ヒロインでありながら、悪役令嬢であるフローティア様を救ったということですよね」

「そうなる、かな。リッツの協力もあってね」

 イリーの目配せに、リッツは優しく微笑む。リッツがいなければ、きっと成し遂げることはできなかっただろう。

「私……セシリア・カールストンは、ヒロインの親友枠なんです。リッツ先輩と同じ立場です」

「じゃあ」と、リッツ。「リティカ嬢がどういう行動に出るかも知ってるの?」

「物語は知っています。ですが……リティカも転生者である以上、きっとシナリオ通りには動きません」

「どうして?」イリーは言う。「どうしてって、私が言えることじゃないけど」

「まさしくそうなんです。イリー先輩はヒロインでありながら、転生者であることで、シナリオとは違う行動に出たと思います。きっとリティカもそうです」

 イリーは合点がいった。ヒロインであるイリーは、転生者であることで大胆に、自由に動き回った。リティカ・フェルバレート子爵令嬢も、ヒロインという立場を利用して好きに立ち回ることだろう。

「リティカ嬢が誰を攻略しようとするかわかる?」

 リッツの問いに、セシリアは眉をひそめた。

「それはわかりませんが……リティカの話を聞いたところ、おそらく最推しはフェリクス様だと思います」

 イリーは思わずリッツと顔を見合わせる。五人の攻略対象が引き継がれている上、フェリクス・トロジーも隠れ攻略対象として再び舞台に上がったということだ。おそらく、出現条件は前作とそう変わらないだろう。

「フェリクス様を攻略するためには、まず逆ハーレムエンドを目指す必要があるんです」

「逆ハーレム……」と、リッツ。「攻略対象の全員と結ばれるってこと?」

「そういうことです」

「もしかしてイリーのときもそうだったの?」

「うん……実はそうなんだ。フェリクス様とは昔馴染みだから登場しないってことはなかったんだけど、ゲームでは攻略するためには逆ハーレムエンドを達成する必要があるから、現実ではフェリクス様のルートにはいかないかなって思ってた。んだけど?」

 剣呑な視線を向けるイリーに、リッツは困ったように笑う。イリーは逆ハーレムエンドを達成していないが、フェリクスに求婚されている。その点でリッツを恨めしく思っているのは確かだ。

「でも」リッツが誤魔化すように言う。「兄様であっても他の五人であっても、攻略されれば悪役令嬢は裁かれてしまうのよね」

「はい。ドロテア様は十一月の学園祭で断罪イベントが起きます」

「やっぱり……」イリーは呟く。「おあつらえ向きの行事だと思ってたんだ」

「リティカ嬢は、ドロテア嬢が断罪されるのをどう思っているのかしら」

「……たぶん、どうとも思っていません」

 セシリアの視線が、悲しげに手元に落ちる。イリーは思わず眉根を寄せた。リッツも厳しい表情になる。

「というか、深く考えていないんだと思います。リティカは、まだ異世界に来たプレイヤーという感覚が抜けていません。とても無邪気な子です。自分はヒロインだから攻略対象と結ばれるのが当然……そう思っているんだと思います」

「攻略対象と結ばれることと悪役令嬢の断罪が繋がっていないんだね」

「はい。ここが私たちにとっての現実になったことをいまだに理解しきれていないところがあります」

 イリーには、その気持ちがよくわかる。フローティアが最推しでなければ、自分もそう考えていたかもしれないと、そう思う。六人の中に最推しがいれば、悪役令嬢のことを考えることはなかったかもしれない。断罪の直前に気付くことになっていた可能性がある。そうなれば、断罪を止めることはできなかっただろう。セシリアは、それを恐れているのだ。

「私たちとしては」イリーは口を開く。「六人を攻略されるのは困る。せっかく友情エンドを実現できたんだもの」

「そうね」リッツが頷く。「どうにかこの世界が現実になったことを伝えられないかしら」

「……それはきっと、私の役目……なんですよね」

 セシリアは手をきつく結ぶ。ヒロインであり、転生者であるリティカは、セシリアの言葉を聞かずに突き進むかもしれない。六人がいまさら誰かに攻略されるとはイリーには思えないが、ヒロイン補正がどれくらいかかるかは判然としない。それにより、下手をすればアルヴァルドが攻略される可能性もある。それだけはなんとしても避けなければならない。

「イリー先輩とリッツ先輩は、攻略対象のみなさんを守ってください」

 顔を上げたセシリアの表情には、固い決意が湛えられていた。

「リティカに攻略されないように……。ドロテア様が破滅したら、私も目覚めが悪いです。私も、友情エンドを目指したいです」

「……そうだね。わかった。攻略対象のみなさんは私たちに任せて」

「でも、ひとりで抱え込まないように」と、リッツ。「何かあったら、イリーと私に相談して」

「はい、ありがとうございます。先輩たちがいてくださって、本当によかったです。親友枠として頑張ります」

「うん。一緒に頑張ろう」

「はい!」

 セシリアの表情はすっかり明るい。前作ヒロインであるイリーと、ヒロインの親友枠であるリッツを味方につけたことで、少しだけでも希望が見えたのだろう。イリーとしても、なんの憂いもなく学園祭を楽しみたい。続編のシナリオは知らないが、それを知り尽くしたセシリアに任せておけば、きっと未来は変わるのだろう。イリーにとってはまったく新しい物語が始まっていた。




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