第8章【2】

 座学の時間、フローティアが左隣、リッツが右隣の席に着くことはすでに当然のことになっているが、イリーはいまだに夢かと疑う瞬間があった。最推しと親友に挟まれている状況が、まるで現実ではないように感じられる。プレイヤー気分はとっくに消えているが、都合の良い夢を見ているのではないかと、時折、自分の頬をつねっていた。

 そんな中、イリーには考えなければならないことがあった。

(続編ヒロインは一年生……。前作の悪役令嬢であるフローティア様と関わり合いになることはないはず……)

 そう信じたいが、前作の主人公ヒロインであるイリーが、シナリオと大きく異なる行動を取っている。リティカ・フェルバレート子爵令嬢がイリーの考えている通り転生者だった場合、イリー同様、独自の行動を取るかもしれない。しかし、イリーは続編のシナリオを知らない。リティカの行動がシナリオ通りなのか差異があるのか、それはイリーには確かめようのないことだった。



   *  *  *



 生徒会室でアルヴァルドの隣でフローティアが微笑んでいることはいつもの光景になった。王立魔道学園に入学した当初、アルヴァルドはフローティアを持て余していた。ふたりが並んでいる光景は、イリーにとって推し事の至高だった。

「最近の兄さんとフローティアは良い雰囲気だね」エンリケが声を潜めて言った。「イリーちゃんのおかげだよ」

「私はおふたりの結婚式が終わるまで満足しません」

「ぶれないね~」

 アルヴァルドとフローティアの親密度が上がったことは、すでに学校中に伝わっている。イリーは、それがリティカの耳にも届いていることを祈るばかりであった。

「そうですわ、殿下」フローティアが言う。「生徒会に入れる一年生はどなたにするご予定ですか?」

「まだ正式には決まっていないが」と、アルヴァルド。「成績と家柄で考慮するなら、リティカ・フェルバレート子爵令嬢、ドロテア・ラフィット侯爵令嬢、セシリア・カールストン男爵令嬢が有力候補だろうね」

「入学試験上位のお三方ですわね。きっと優秀な人材ですわ」

 イリーは頭を抱えそうになるのを堪えていた。ヒロインであるリティカが生徒会に入るのは当然のことだ。しかし、それについて考えていなかった。だが、イリーにどうこうできる話ではない。生徒会長の決定に逆らう権限はないのだ。

「また生徒会が賑やかになりそうだ」

 のほほんと笑うリグレットに、そうだな、とジークローアが頷く。

「先輩たちがいた頃はもう少し賑やかだったがな」

「そういえば」イリーは思い立って言った。「上級生の方がいないですね」

「この学園では」と、アルヴァルド。「三年生になると仕事に就くか四年に進級するかを決めなければならないんだ。だから先輩たちは引退しているよ」

 そういえばそうだった、とイリーは考える。三年は前世の世界で言うところの高校三年生で、四年生以降は大学院のような学部だ。王立魔道学園は最低三年で卒業することができ、仕事に就くことも充分に可能だ。四年生の数も少なくない。イリーの印象ではちょうど半分半分というところだ。

「じゃあ、先輩方も引退されるんですか?」

「私たちはまだ当分いるよ。私たちは四年に進級することが決まっているからね」

「将来が決まっていますから」リッツが言う。「学園に残って勉強されるということですね」

「そうだね」

「じゃあ、先輩方が引退されていたら、私かリッツかフローティア様が生徒会長になっていたということですか?」

「そうなるね」

 よかった、とイリーは胸を撫で下ろす。生徒会は生徒たちの上に立つ存在で、所属するメンバーも漏れなくそうであるが、イリーは生徒たちを引っ張って行くほどの気概はない。アルヴァルドたちが所属しているうちに引退したいところだ。

 しかし、顔を見合わせたリッツとフローティアが声を合わせる。

「生徒会長はイリーでしょうね」

「えっ……」

「私は宰相の家系だし」リッツが言う。「上に立つには向いてないわ」

「絶対、無理! 私が全校生徒の上に立つなんて……! 平民出身だし、それならフローティア様のほうが適任です!」

「わたくしも、支える側のほうが性に合っていますわ」

 フローティアが少しだけ頬を染めながらアルヴァルドを横目で見遣るので、イリーは変な声が出そうになるのを堪えた。フローティアは未来の国母。国王となったアルヴァルドをそばで支える立場だ。アルヴァルドも優しい微笑みを浮かべている。ふたりの中で、それはすでに決定事項なのだ。

「そうですよね……。王位を継承されたアルヴァルド殿下のお隣に立つ国母ですからね……。模範的で完璧で女神のようなお方ですから」

 胸に手を当てて未来のフローティアに思いを馳せるイリーに、始まった、とエンリケが楽しそうに笑う。

「王妃となられたフローティア様のお姿は、それはそれは美しいことでしょう。すべての国民がひれ伏すこと間違いなし。まさに国母に相応しいお方です……」

 イリーがうっとりと祈るように手を組むと、フローティアは肩をすくめた。

「大袈裟。わたくしはそんな立派な人ではありませんわ」

「いえ! フローティア様は模範的で完璧で女神のようなお方ですから!」

「二回も言わなくていいですわ」

 フローティアは呆れを含んだ表情で溜め息をつく。まだイリーの賞賛を正面から受け止めることができないようだ。

「だけど、私もきみには期待しているよ」

 そう言って、アルヴァルドがフローティアの肩に優しく手をやる。その途端、フローティアの頬がカッと赤く染まった。

「ごっ、ご期待に沿えるよう努力いたしますわ」

 フローティアはアルヴァルドから目を逸らしつつ背筋を伸ばす。その光景に、イリーは太陽を遮るときのように目元を手で覆った。

「くうっ……眩しい……! 本当に結婚式が楽しみですっ……!」

「もうっ! 気が早いと言っているでしょう!」

 それというのはつまり結婚式を挙げるのは決定事項、という言葉をイリーは呑み込んだ。あれほど暗い表情をしていたフローティアの愛が、フローティアを国のための婚約者としか思っていなかったアルヴァルドに受け止められている。その事実だけでイリーは胸がいっぱいだった。


 しかし、イリーは喜んでばかりはいられなかった。

「ヒロインと悪役令嬢なんだから、生徒会に入るのは当然だよね……」

 頭を抱えながら廊下を歩くイリーに、ううん、とリッツは腕を組む。

「あの五人と接点を作るために必要なことなら、そうなるのが自然よね」

「フローティア様と接点ができてしまう……!」

 続編のヒロインも悪役令嬢もフローティアには関係ない。フローティアは、秋のアルヴァルドの誕生日パーティで破滅していたはずだからである。

「ねえ、セシリア・カールストンのことは知ってるの?」

「ううん、知らない。私が知ってるのはリティカとドロテアだけだよ」

 イリーももともとはヒロインと悪役令嬢、攻略対象の情報しか知らなかった。聞き覚えのない名前があったとしても不思議はないだろう。ヒロインと悪役令嬢とどういった関係であるかはわからないが、せめて無害な令嬢であるといい、とイリーは考えていた。

「できれば生徒会入りを阻止したいところだけど、私にそんな権限があるはずがないし……」

「リティカ嬢を慎重に監視しましょ。アルヴァルド殿下の攻略だけでも阻止しないと」

「そうだね……」

 惜しむらくは、イリーが物語を少しも知らないということだ。ストーリーを知っていれば、それを邪魔することができただろう。ヒロインは転生者である可能性が高い。イリー同様、シナリオ通りではない行動を取ることもあり得る。そうなれば、イリーにはどうしようもないルートに入る可能性もあるだろう。

「ヒロインがヒロインの存在に憂いているなんて……」

「せめて話のわかるヒロインだったらいいんだけど」

「そうだね……」

 シナリオ通りであったとしてもイリーには困る。いまの生徒会メンバーの関係性を変えるわけにはいかないのだ。

「また難しい顔をしているね」

 穏やかな声に顔を上げると、正面から歩み寄って来るのはフェリクスだった。

「フェリクス様、ご進級おめでとうございます」

「ありがとう」

 イリーより学年がふたつ上のフェリクスは、四年生に進級した。フェリクスは将来、王宮の宰相になることが決まっている。まだ王立魔道学園で勉強することがあるのだろう。

「そういえば」イリーは思い立って言った。「フェリクス様は生徒会には入ってないんですね」

「おととしまで入っていたけどね」

「そうなんですか。四年生に進級することが決まっていたなら引退する必要はなさそうですけど……」

「生徒会長をやりたくなかったんだよ。僕はあくまで宰相だからね」

 生徒会長は全生徒の上に立つ。国で言えば国王だ。宰相と言えば、生徒会では副会長といったところだろう。宰相家の嫡男であるフェリクスは、生徒会長となるアルヴァルドを支える側に向いているようにイリーには思えた。

「アルヴァルド殿下が生徒会長をやられるなら、副会長になれたんじゃないですか?」

「それがこの学園の面倒なところでね。生徒会長は上級生がやることになるんだ」

「へえ……。引退しなければ唯一の上級生になっていたから、嫌でも生徒会長になることになっていたんですね」

「そういうこと。殿下を差し置いて僕が生徒会長になるわけにもいかないしね」

「それでいまの立ち位置に落ち着いているんですね。裏番みたいな……」

 イリーはハッとして口を手で塞ぐ。リッツとフェリクスが揃って「裏番?」と首を傾げるので安堵の息をついた。イリーの前世の記憶では、フェリクスはいわゆる「裏番長」のような存在だ。直接的なリーダーではなく、裏でチームを操る。そういった存在である。それをフェリクスに知られたら怒られるような気がして、なんでもありません、とイリーは曖昧な笑みを浮かべた。それから、もうひとつ思い立ったことがあり誤魔化すようにまた口を開く。

「そういえば、フェリクス様はまだどなたともご婚約されてないんですね。ご予定はまだないんですか?」

「うん。僕の婚約者の座はきみのために空けているからね」

「……きみ……?」

「うん。イリーだよ」

「……はっ⁉」

 声が裏返るイリーに対して、リッツとフェリクスはにこにこと微笑んでいる。リッツに至っては満足そうな表情で、否定する様子はない。

「リッツにそう頼まれているからね」

「リッツ⁉」

「言ったでしょ? あなたを保護する人が必要だって」

「もうそんな必要ないでしょ⁉」

 イリーは、まだこの学園に来たばかりの頃、聖女であることを周囲に隠していた。リッツとフローティア、マルクがそれに気付いていたことは後々に確認したのだが。リッツは危うい立場にいたイリーに、誰かと婚約して保護してもらうべきだと進言していた。イリーは攻略対象と結ばれるつもりはなかったことに加え、利用するような婚約はしたくなかった。それも、すべて済んだいまは必要のない話である。

「だいたい、私がトロジー家の嫁になんて……」

「私はイリーと義姉妹しまいになれるのは大歓迎よ?」

 リッツがあまりに穏やかに微笑むので、イリーはぶんぶんと首を振った。

「いやいやいや! 私より身分も地位もある人がもっと他にいるはずでしょ⁉」

「聖女に敵う女性はいないんじゃないかな」と、フェリクス。「父ももうそのつもりだよ?」

 嵌められた、と叫びそうになったところでイリーは口を塞ぐ。イリーの養家であるマッケンロー伯爵家は伯爵という地位ではあるが、実力で勝ち上がってきた家系であるため、名門と言われることが多い。それに加え、イリーの母はアスクティード侯爵家の次女で、レヴァラレン公爵夫人の妹だ。血筋としても申し分ないだろう。

「……だとしても! フェリクス様はそれでいいんですか?」

 頼むから拒否してくれ、というイリーの祈りは、フェリクスの穏やかな笑みによって打ち砕かれた。

「僕は構わないよ。妹の親友を守れるなら栄誉なことだ」

「…………」

 本来であれば、喜んで受ける話だろう。トロジー家は身分も地位も充分で、フェリクスは隠れ攻略対象であることが納得の容姿だ。腹黒さは否めないが、夫とするには充分すぎるほど魅力的な男性である。

「ちなみに」と、リッツ。「もうマッケンロー伯爵にはお話ししてあるわ」

「はっ⁉」

「伯爵はまだ考え中のようだけど。イリーはまだ十五歳だし、勝手に決めると政略結婚みたいになるから、って」

 イリーは思わず頭を抱えた。すでに外堀が埋められつつある。義父が頷いていれば、イリーはすでにフェリクスとの婚約が決まっていただろう。そうしなかったのは、義父のイリーに対する愛情の表れだ。

「……でも……」

「いいかい、イリー。僕の妻になれば、王妃となったフローティア嬢の側近ができるよ」

「……正式にフローティア様の下僕に……」

 信念がぐらつきかけたイリーは、またハッとしてかぶりを振る。

「いやいや、それでも駄目ですよ!」

「いいじゃない。考えてみて」

「前向きにね」

 あまりに爽やかなトロジー兄妹に、イリーはまた頭を抱えた。

「なんでそんな前向きなんですか!」

 いつも自分が困らせる側だったのに自分が困る側になるとは、とイリーは因果関係を恨まずにはいられなかった。貴族になった以上、誰かと結婚することになるだろうとは思っていた。家のための結婚でも受け入れようと考えていた。しかしいま、イリーには選択権が与えられている。トロジー家との婚約があれば、マッケンロー伯爵家の地位は確かなものとなる。トロジー家にとっても、聖女であり高貴な血筋を引くイリーを嫁に迎えることには充分な価値がある。それでも、前世の感覚が残っている。結婚はそんな簡単に決められるものではない。こんな、穏やかな微笑みに迫られて決めるようなものではない。そのはずなのだが、イリーはすでに退路を断たれているような気分だった。




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