第7章【3】
布擦れの音に顔を上げると、身じろぎしたフローティアが目を開く。イリーに気付いたフローティアは、どこか安心したように表情を和らげて起き上がった。しかし、イリーが両手を広げるので、頬を引き攣らせる。
「……なんですの?」
「目覚めのハグを……」
いつものように呆れて冷たくあしらわれると思っていたイリーは、フローティアが自分の背中に腕を回すので一瞬にして心拍数が跳ね上がるのを感じた。心臓が爆発するかと思った。
「ひょえっ……あっ、ふ、フローティアさま……」
「なぜいまさら動揺するの!」
体を離して眉をつり上げるフローティアは、いつもの呆れたような表情になる。イリーはぜえはあと肩で息を整えつつ、祈るように天を仰いだ。
「推しのデレ……それは推し事の至高……」
フローティアは溜め息を落としたあと、ふと、小さく息をついた。
「……あなたには、酷いことを言いましたわ」
正面に視線を戻したイリーは、いつものようにへらりと笑って見せる。
「言ったのはフローティア様ではなく闇の悪魔ですから。それに、フローティア様にだったらいくら罵倒されても平気です。むしろご褒美です!」
「そう……逞ましいわね……」
頬を引き攣らせたあと、フローティアは不安そうに視線を落とした。
「……わたくしの心に何かが棲み着いているのはわかっていましたわ。……誰にも話せなかった。話しても、きっと誰にも信じてもらえない……。その結果がこの様ですわ」
フローティアは自虐的に笑い、小さく息をつく。イリーは真っ直ぐにフローティアの瞳を見つめ、柔らかい手に触れた。その澄んだ瞳は、儚く揺れている。
「フローティア様には、ご自身で思ってらっしゃる以上に多くの味方がいます。フローティア様のことを疑う人なんて、ひとりもいません」
「…………」
「今度、何か困ったことがあったら、真っ先に私に話してください。私ほどフローティア様のお力になれる下僕はいませんよ?」
明るくそう言ってウィンクして見せたイリーに、フローティアは少し困ったような、それでいて呆れているような微笑みを浮かべる。それから、ええ、と小さく頷いた。
* * *
医務員の許可が下りたあと、イリーとフローティアは生徒会室に向かった。フローティアもすっかり元来の彼女を取り戻した様子で、イリーが繋ごうとした手は冷たく払われたのだった。安堵したように微笑むイリーに、フローティアはついとそっぽを向く。フローティア様はこうでなくちゃ、とイリーは心の中で拳を握りしめた。
生徒会室では、攻略対象たちとリッツ、フェリクスが待っていた。
「フローティア」と、アルヴアルド。「具合はどうだい?」
「もう万全ですわ。ご心配をおかけし、誠に申し訳ございません」
安堵したように優しく微笑むアルヴァルドに、フローティアは少し頬を紅潮させたが、誤魔化すように辞儀をした。
「それで」と、マルク。「どうするの?」
「学園から距離を置きたいので、東の平原で決行します」
「僕は悪魔召喚を行えばいいのかな」
いつになく真剣な表情のエンリケに、イリーは力強く頷く。
「あとで闇の悪魔の魔力をお伝えします。それを元に、召喚してください」
「もう魔力を解析できてるのか」
リグレットが感心して言うので、イリーはお得意のウィンクをして明るく笑って見せた。
「自分と正反対の属性は自分の魔力と反発するので解析は簡単ですよ」
「だとしても早すぎるよ」
本来、魔力の解析には多少なりとも時間がかかる。イリーの感覚としては、魔力の属性を円で表現したとき、聖女の持つ聖属性もしくは光属性は、闇の悪魔の属性の真反対にある。円の中で近付けば近付くほど類似点が増えるため、本来はその類似点が多いほうが解析が簡単だと言われている。しかしイリーには、まったく異なる属性のほうがわかりやすい。赤と緑を判別しているような感覚だ。
「各々で武装していただきますが、まず魔法陣から出させません。三秒で終わらせますから」
「きみが呪われる可能性があるのでは?」
ジークローアはイリーにすべてを任せるという点が不服のようだ、とイリーは思う。イリーの能力を疑っているわけではなく、騎士としての責任感のためだ。
「そんな間抜けなことはしません! 聖女ですから」
「……本当に大丈夫なの?」リッツが案ずる表情で言う。「確かにあなたは聖女だけど、万が一ということはない?」
「大丈夫! もし私の魔法で弱体化しかできなかったとしても、この国の若き精鋭たちがいるんだから」
「そうじゃなくて……。弱体化しかできなかったとき、あなたはどうなるの?」
いくらチートを得た聖女と言えど、負ける可能性はゼロではない。その僅かな可能性を、リッツは案じているのだ。
「……どうなるかな。闇属性魔法攻撃耐性強化はするけど、わからないな」
リッツの表情が歪む。その僅かな可能性を考えていてはキリがない、とイリーは思っている。可能性をゼロにすることは不可能で、その中でも最善だと思う方法を採択したのだ。
「……では、あなたの命はわたくしが預かりますわ」
凛とした声に振り向くと、フローティアが不敵に微笑む。
「わたくしの命は、あなたが預かっている。そのあなたが命を賭するなら、わたくしもそれに応えるのが礼儀ですわ」
「……はい。フローティア様のことを信じます」
敢えて挑戦的に微笑んで見せたイリーに、フローティアは肩の髪を払う。どこか満足そうにも見えた。
「……介入の余地なし」
ぽそりとこぼしたエンリケに、アルヴァルドとジークローアは同意するように頷く。リグレットとマルクが苦笑いを浮かべる中、フェリクスは面白そうに笑っていた。その様子を眺めていたのはリッツだけで、イリーとフローティアはそれに気付いていなかった。
* * *
数日後、決戦は東の平原。イリーは愛用の杖を確認する。その傍らではエンリケが魔法陣を描く準備をし、他の六人はそれぞれの武器を手に距離を置いて見守った。
イリーは万全の状態で挑むため、朝ご飯は肉料理を選んだし睡眠は八時間ほど取った。授業では魔力を一割ほどに抑え、フローティアを眺めて気力も充分である。
闇の悪魔への一撃を体の中で練り上げる。魔法陣の上に現れたその瞬間、三秒で闇の悪魔は塵となり消え失せるはずだ。
「……準備完了です」
顔を上げたイリーに、エンリケが力強く頷く。
「エンリケ様は、魔法陣を描き終えたらすぐ退避してください」
「……僕も戦うって言いたいところだけど、僕では力不足みたいだね」
ゲーム画面では一度も見たことのない真剣な表情でエンリケは言う。この世界に転生して来なければ、見ることのできなかった一面だ。
「頼んだよ、イリーちゃん」
「はい。私はもう怒っていますから。絶対に逃さないし、許さない」
エンリケは頷き、ひとつ息をつく。それから、地面に杖の先を突き立て、器用に模様を描いていく。線と線が繋がる瞬間に光を帯び、魔力の波が溢れ砕け散った。そうして魔法陣が完成すると、ひときわ大きな光が辺りを照らす。目を手で庇いつつエンリケが退避するのを確認したイリーは、右手にすべての力を集中しつつ杖を振り上げた。光の中に闇の悪魔の姿が映し出された瞬間、イリーはハッと息を呑む。
「……お母さん……」
光に照らされた闇は、暖かさを宿して微笑む。その明かりが、指先に絡み付いた。
『……――』
懐かしい響きが、耳に纏わり付く。その瞬間、イリーは大きく杖を振りかざした。天空から降り注いだ光の柱が、一瞬にして闇の悪魔を焼き尽くす。塵が風に乗って消え失せ、イリーは清々しく晴れ渡る蒼天を睨みつけた。
「私はイリー・マッケンロー。それ以外の、何者でもないわ」
ひとつ息をつき、固唾を飲んで見守る七人を振り向く。イリーが明るく笑ってピースサインして見せると、彼らもようやく息をついた。
「見事だったよ」と、アルヴァルド。「まさか本当に一瞬で終わるとは……」
「容赦なかったわね」リッツが笑う。「お母さんって聞こえたけど……」
「ううん、間違い。知らない人だった!」
「イリー!」
フローティアが張り詰めた声で、イリーの背後を指差す。再び杖を構えつつ振り向くと、地に着くほど長い黒髪の赤いワンピースを纏った少女が蹲って震えている。
『……どうして……居心地、良かったのに……棲みやすかったのに……』
「運がなかったわね」フローティアが毅然と言う。「もしイリーがイリーでなければ、わたくしの体はあなたのものだったかもね」
見た目は幼気な少女である。しかし、その体からは微量ながらも黒い気配が漏れ出している。イリーの魔法を真正面から受けても核を残せる点は、さすが闇の悪魔と言わざるを得ない。
『……許さない……聖女、憎い……呪ってやる……お前の過去も現在も未来もすべて!』
闇の悪魔が手を振り上げるのと、イリーとフローティアが杖を振りかざすのはほぼ同時だった。しかし、消滅しかけた悪魔の力が、聖女と最高峰の魔法の血を誇る公爵令嬢の力に敵うはずもなく、あっけなく光に呑まれて消えていった。今度こそ、完全勝利だった。
「やりましたね、フローティア様!」
拳を握り締めるイリーに、フローティアは不敵に微笑む。
「あなたには、借りができましたわね」
「百倍返しでお願いします!」
「桁が大きすぎますわ!」
「私たちは邪魔だったようだね」
困ったように笑うアルヴァルドに、いいえ、とフローティアは首を振った。
「そんなことはございませんわ。皆様がそばにいてくださったこと、とても心強く感じておりました」
まさに憑き物が落ちたような微笑みだった。安堵したように頷くアルヴァルドに、フローティアは頬を染めて俯く。その美しい光景に、イリーは思わず唸って胸を抑えた。
「イリー⁉︎」
リッツとフローティアが声を揃える。他の五人も一様にどよめいた。
「気の抜けたフローティア様の笑顔……尊い……」
「もうっ! 紛らわしい真似はおやめなさい!」
たはは、と明るく笑うイリーに、フローティアは呆れたように肩をすくめる。それに対して他の者がそれぞれ笑うのは、いつもの光景であった。
リグレットが闇の悪魔の影響を受けていないか診察を始めると、リッツがイリーのもとへ身を寄せた。
「お疲れ様」
少し悪戯っぽい笑みに、イリーはいつものように、ウインクをして見せた。
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