第7章【2】

 まもなく授業が終わると言うのに、イリーが教室に戻って来ない。昼休みにフェリクスが連れて行ってそのままだ。フェリクスがともにいれば危険に巻き込まれるようなことはないだろうが、授業に来ないということは何かしらの事態があったのだろう。

 リッツとフローティアのあいだの席は、終業のチャイムが鳴るまで空いたままだった。

「どうしたんでしょう」リッツは言った。「イリーはサボるような子ではないはずですが……」

「講師は把握しているようでしたわね」

「え?」

「もしイリーさんが無断欠席でしたら、講師がわたくしかあなたに所在を尋ねたはずですわ」

「……なるほど。許可を得て欠席した、ということですね」

「フェリクス様がご一緒なら、危険な目に遭うことはそうそうないはずですわ。とにかく、生徒会室に向かいましょう」

「はい」

 リッツはイリーの言葉を思い出していた。彼女の知っている物語では、フェリクスは条件を揃えないと登場しないとのことだった。それはつまり、ヒロインイリーに接触することはない、ということである。しかし現実では、イリーとリッツは入学前からの友人であるため、リッツの兄であるフェリクスと接点があるのは当然のことだ。イリーの知識と現実が異なることで、何かイリーの運命が変わることがあるのだろうか。フェリクスがイリーを害するようなことは有り得ないが、イリーの中の物語と現実の乖離が、リッツを不安にさせた。


 ふたりの心配をよそに、イリーの姿は生徒会室にあった。すでに机に向かって、自分の仕事に取り掛かっているようだ。

「イリー」

「リッツ! フローティア様!」

 パッと表情を明るくしたイリーが、即座に立ち上がりフローティアに向けて腕を広げた。

「……なんですの?」

「再会のハグを……」

「しません! 心配して損しましたわ」

 呆れてひたいに手を当てるフローティアに、たはは、とイリーは軽く笑う。生徒会メンバーがそれを微笑ましく眺めるのも、お馴染みの光景となってきた。

「授業に来なかったけど、どうしていたの?」

「ん、ちょっとね」

 リッツは首を傾げた。イリーが曖昧な返事をすることはあまりない。率直な少女であるため、なんでもというのは驕りかもしれないが、あまり隠し事をすることはない。フェリクスが連れて行ったあとに曖昧な返事をされるのは、リッツにとっては少々、不安なことだった。

 それから、いつものように並んで仕事に取り掛かると、生徒会室は静かながらも穏やかな空気が流れる。そんな中、フローティアは胸が苦しくなるのを感じた。

(わたくしは……相変わらず可愛げがないわね……)

 たったひとつの授業で会わなかっただけで、再会のハグだなんて。けれど、それがイリーの可愛らしさ。自分がこんなに意地っ張りでなければ、きっと応えることができた。そんなことはわかっている。自分が一番、よくわかっている。だからこそ、もっと素直な人間であれば、と考えてしまうのだ。そう、イリーのような。

 ――じゃあ、イリーと入れ替わっちゃいましょうよ。

 不意に耳元で聞こえた声に、ぞくりと背筋が凍った。悪戯っぽく、楽しげで、しかし自分に似ている。

 ――イリーになれたら、みんなから愛される。アルヴァルド殿下にだって、ね。

 呼吸が止まりそうになり、気付いたときには生徒会室を飛び出していた。あの場所に居てはいけない。イリーの隣に居てはいけない。そうでなければ、そうでなければ……。

(ついて来ないで!)

 ――本当は憎らしいんでしょう?

(そんなこと思っていないわ!)

 ――私はそう思う。私があの子になれば、すべてが上手くいく。あの子の「聖女」の力を奪えばいいのよ。

(そんなの許されない。いいえ、許さない)

 ――誰のことも信用していないのに?

 一気に肺へと流れ込んだ空気が押し出すように、支えを失った涙が次々と溢れ出した。生温く頬を伝う雫が、風に攫われて蒸発する。その代わりに、何か重くどす黒いものが心へ押し入ってくるのを感じた。


   *  *  *


「いた! フローティア様!」

 フローティアの姿は東の平原にあった。イリーの声で、リッツが報せ鳥を放つ。他の場所でフローティアを探す五人に発見を報せるためだ。

「フローティア様!」

 イリーが呼びかけても、フローティアは呆然と空を見つめていた。明らかに様子がおかしい。イリーの胸に嫌な予感が走った。

「フローティア様――」

「触らなで」

 肩に伸ばした手が冷たく払われる。フローティアはイリーに背を向けたまま、彼女がどういう状態なのか、イリーは掴み兼ねていた。

 万が一のときに備え、イリーは他の五人が到着するのを待つことにした。それまでに、フローティアから漏れ出している魔力を解析し、対抗策を考えなければならない。フローティアの魔力は異常だった。通常時であれば、これほどまでに魔力が漏れ出すことはない。それは、何かがフローティアの魔力回路に干渉し、蝕んでいるということである。

「……どこかに行って」

 フローティアが絞り出すように言った。もう駄目だ、これ以上は待っていられない。

「フローティア様、私の手を――」

 伸ばした手が何かに弾かれた。電気が走ったようにビリと痺れ、火傷のような痛みが指先を刺す。

「……あなたを……傷付けたくない……!」

 その瞬間、フローティアの体を黒い炎が包み込んだ。

「フローティア様!」

 大きくなる炎に、イリーは退かざるを得なかった。紛れもない悪霊の気配。あの炎にイリーが巻き込まれれば、フローティアを救うことが叶わなくなってしまう。

 フローティアの胸元から、一枚の護符が滑り出た。イリーが渡した魔除けの護符である。その効果が発揮されることに懐いていたイリーの期待は、一瞬にして砕け散った。黒く泥のような炎に包まれ、あっという間に燃え尽きてしまった。

 そうであれば、この手を伸ばすしかない。しかし手を伸ばした瞬間、足に闇がまとわりついた。

「フローティア様!」

 振り向いたフローティアの顔が苦悶に歪む。イリーを傷付けることへの不安、心に影を差す闇、身動きの取れない苦しみ、そして、救いを求めるアメジストの瞳。

「私がフローティア様のせいで傷付くなんて有り得ません! 何を言われても、どんなことをされても! 絶対に!」

 魔力の限りを尽くしても、足の拘束を解くことができない。それは、フローティアの心がいまだ固く閉ざされている証拠である。

「私の、フローティア様への尊敬と敬愛の気持ちは、嘘偽りありません!」

 パキン、と甲高い音が鳴り響く。足にまとわりついていた闇を蹴り飛ばし、手を伸ばした。

「フローティア様!」

「……イリー!」

 しかし、またしてもその手が届くことはなかった。フローティアを黒い炎が包み込み、地面から伸びた闇の手がイリーの体を縛り付ける。悪霊の力を強固にするもの。それは、フローティアの中にのさばっていた暗いものである。イリーが思っていた以上に、フローティアの心は蝕まれていたのだ。

「……馬鹿な子。私が平民なんて気にかけると思った?」

 闇の中から嘲笑う声が聞こえる。凍てついた微笑みに、しんと空気が張り詰めた。

 リッツがイリーの肩に手を添え、魔力の解析を続ける。呪いの一種である拘束の魔法は、回路を分析しなければ解くことができないのだ。

「簡単に騙されてくれたわね。あなたみたいな子は大嫌いよ」

 どす黒いものが支配するフローティアは、息を呑むほど美しい。しかし、それはイリーが愛する美しさではない。フローティアの美しさは暖かさを帯びている。だからこそ、イリーは敬愛を懐いているのだ。

「あなたの体をもらって、私は完璧な存在になる。単純な子で助かるわ」

 アルヴァルドがイリーを背に庇った。他の四人もイリーを囲うと、気に入らない、といった様子で闇は顔をしかめる。

「殿下、そんな子を守る必要はありませんわ。聖女であることしか価値がないのですもの」

 五人の攻略対象たちは、イリーが聖女であることを知らない。本来ならフローティアも知らないはずだ。五人がその事実をどう思ったかは定かではないが、いまはそれを追及している暇はない。

 そこへ、フェリクスがリッツに替わってイリーの肩に手を添えた。誰かが報せ鳥を出したのだろう。解析が速度を上げたのを感じる。フェリクスの魔力があれば、闇の力を打ち破るのも容易いことだろう。

 闇が手を振り上げた。五人が身構えたとき、イリーの体は自由を取り戻す。

「フローティア様のような心の綺麗な人が、そんなこと言うわけない!」

 懐に忍ばせていた呪詛魔具を、嘲笑う闇へ投げつけた。試作品で心許ないものだったが、感知の範囲内に触れた瞬間、闇が耳をつんざく悲鳴を上げた。鼓膜を突き破るのではないかと思うほど鋭い叫び声に、常人であれば正気を失っていたかもしれない、とイリーは心の中で呟く。

「……出て行って……あなたの声は、もう聞きたくない!」

 フローティアが声を絞り出した。その魔力に弾き出された闇が、苦痛に顔を歪める。しかし、最後の抵抗にフローティアの体を掴み上げた。持ち前の瞬発力で誰よりも早く駆け出したイリーは、意地でも離すものか、とフローティアの体を強く抱き締める。しかし、闇の力は壮絶だった。ふたりの体を持ち上げ、高く飛び立ったのである。先ほどまでの悲鳴が、甲高い笑い声へと変わった。

「……フローティア様は渡さない。私があんたなんかに、負けるわけがない!」

 イリーが眼鏡を投げ捨てた瞬間、眩い光の柱が闇を貫いた。焼き尽くされるように闇が掻き消えると、イリーとフローティアの体は宙に投げ出される。イリーは瞬時に身体強化魔法をかけた。自分が緩衝材になれば、フローティアは無傷で済むはずだ。フローティアのためなら骨の一本や三本や五本くらい安いものである。そうして身構えていたが、ジークローアとリグレットがふたりを受け止めた。どうやら身体強化魔法を使って待ち構えていたようだ。フローティアを見ると、気を失っていた。呼吸や脈は正常で、闇の力に体を乗っ取られた反動を受けたようだ。

 ホッと一息つくと、イリーは顔を上げた。もう隠し立てすることはできない。

「みなさんに、お話しなければならないことがあります」

 この蒼の瞳に輝く星を。



   *  *  *



 フローティアを医務室に運んだあと、八人は生徒会室に向かった。フローティアを追い詰めた脅威について、イリーは彼らに説明しなければならない。

 生徒会室には、重苦しい空気が流れた。彼らが目の当たりにした出来事は尋常ではない。

「あれは闇の悪魔だ」

 最初に口を開いたのはフェリクスだった。ここにいる者は全員、高い魔法能力を有している。おそらく、誰もがその正体に気付いていただろう。

「なぜフローティアに?」

 アルヴァルドがイリーに視線を遣る。この場でその問いに答えられるのはイリーだけである。

「心の波長が合ったんだと思います。闇の悪魔は通常、人間に感知されない空間に身を潜めています。そうして、人の心の隙を狙っている……」

 それが闇の悪魔の厄介な点だ。イリーが自作の護符を贈ってまでフローティアの守りを固めたかったのは、それを防ぐためである。

「以前、ジークローア様が仰っていました。フローティア様は孤独だと……。公爵家の娘として、未来の国母として相応しい者であるために自分を律し、周囲はその地位に取り入ろうとする貴族で溢れている。誰にも弱音を吐けず、本音を言えず、淡い恋心も隠して……。そうして、フローティア様の心は蝕まれていったんです」

 アルヴァルド、ジークローア、リグレット、エンリケは不思議そうに、はたまた怪訝にイリーを見つめる。マルク、フェリクス、リッツにはすでに打ち明けているが、他の四人にはまだ何も話していない。

「どうしてそんなことを知っているんだい?」

 きっとそう問われるだろう、とイリーは思っていた。だから、その答えもすでに用意している。

「私のことは、一切お話ししません。聖女である理由、魔法の力の血筋、闇の悪魔のことを知っている訳、一切、すべて」

 そのことを聞き出すために躍起になるような者たちでないことは、イリーにはわかっている。

「それは、フローティア様を救うことに不要な情報です」

 イリーが闇の悪魔に対抗し得る「聖女」であるということだけを知っていればそれでいい。

「……わかった」アルヴァルドが強く頷く。「フローティアを救うことが先決だ」

 イリーが不敵に笑って見せると、アルヴァルドも力強く微笑んで頷いた。

「とりあえず」と、エンリケ。「闇の悪魔は祓えたのかな」

「完全ではありません。まだ核のようなものがフローティア様の中に残っているはずです」

「どういう作戦で行く?」

 挑戦的に問いかけるリグレットに、イリーは強く拳を握り締めた。

「私が徹底的に叩きます。フローティア様に手を出したこと、消滅してもなお後悔するほどに」

 イリーの拳は怒りで震える。そんないつものイリーに、四人はどこか安心したように苦笑いを浮かべた。

「でも」リッツが言う。「護符が効かなかったのは想定外なんじゃない?」

「そうだね。フローティア様の中に核が根付くのを防げればよかったんだけど……。それに失敗したいま、もう二度とフローティア様に取り憑くのは許されない」

「では」と、ジークローア。「どうやって?」

「悪魔召喚で強制的に呼び出して速攻でぶちのめします」

「悪魔召喚もできるの?」

 リグレットが目を丸くする。悪魔召喚は本来、召喚術士の家系の者でなければ使えない魔法だ。いくら聖女と言えど、イリーの家系では扱えるはずのないものである。

「私はできません。なので……できるお方にお願いしようかと」

 そう言ってイリーが横目で見遣ると、エンリケが珍しく驚いたように呆気に取られた。その場にあるすべての視線が集まるので、エンリケは困ったように笑う。

「なんでもお見通しってわけか〜」

「なぜ悪魔召喚ができるんだ」

 厳しく問いかけるアルヴァルドに、いやいや、とエンリケは両手を振った。

「何かするために身に付けたとかじゃないから! 生まれたときから使えたってだけ。家系が召喚術士の血筋なんだよ」

「そうだったのか。知らなかったな」

「話したことも使ったこともなかったからね」

 イリーには、エンリケがその力を悪用するような人物とは思えない。もちろんそれはアルヴァルドも同じことで、なるほどな、と薄く微笑んだ。

「でも、ひとりで闇の悪魔と戦うつもりかい?」

 案ずるように言うマルクに、イリーは強く頷いた。

「そのほうが安全です。三秒で終わらせて見せます。そのための特訓ですから」

 イリーが拳を握り締めると、アルヴァルドが安堵したように微笑んだ。

「フローティアは良い友人を持ったようだね」

「私はフローティア様の愛の下僕です!」

「そう。フローティアは、きみと接しているときは活き活きとしているよ。……私がなんとかしてやりたいが、私では力不足のようだ。フローティアを頼むよ」

 イリーを真っ直ぐ見つめ、アルヴァルドは力強く言う。それに応えるため、イリーは毅然として頷いた。

「はい。絶対に救い出してみせます」

 フローティアの運命は変えられる。アルヴァルドの瞳は、そう確信させるには充分だった。それは、他の者たちも同じこと。誰もがフローティアを救うため、イリーにすべてを懸けている。イリーには、その期待に応えるだけの自信があった。それだけの能力を持ち、それを惜しみなく発揮することができる。そう、自分を信じている。



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