第7章【1】
『フローティア様、また明日!』
その声に振り向けば、愛らしい彼女が大きく手を振っている。ひまわりのような笑顔が眩しい。彼女が居る世界は月のように輝き、そして太陽のように遠い。手を伸ばせば、少しでも届くだろうか。
しかし、その光がもやに包まれていく。グラス越しの瞳に闇が落ち、矢の如く鋭く心を貫いた。
『フローティア様って、可愛げがないですよね』
冷たい声。せめてもの抵抗に耳を塞いでも、それは氷のように手をすり抜けた。
『どうして素直になれないんですか? だから友達がいないんですよ。それに……』
その言葉の続きは聞きたくない。しかし、重苦しい空気がまとわりついて身動きが取れなかった。
『だから、アルヴァルド殿下だって腫れ物扱いする』
心臓の鼓動が激しく響き、押し出されるように涙が溢れる。呼吸が上手くできない。このままでは死んでしまう、と思った。闇の中で死ぬのは嫌だ。せめて、明るい場所に行きたい。しかし、その道は固く閉ざされた。
『私、フローティア様のこと――』
――やめて!
ようやく綺麗な空気が肺を満たした。ほの明るいランプの光が、見慣れた部屋を照らしている。何度か浅い呼吸を繰り返し、本当に帰って来ることができているかと手の甲をつねった。少し痛い。どうやら戻って来たようだ。
ベッドに体を起こすと、汗か涙かわからない雫が頬を伝った。貫かれた心臓がまだ痛い。
「……イリー……」
その名を呟くと、何か重いものがドッと肩に圧し掛かった。呪いにかけられたかのように、頭がズキズキと痛む。暖かい季節だと言うのに、雪の平原に佇んでいるように寒い。
「……あなたを疑いたくない……」
無意識にこぼれた言葉につられるように、涙が次から次に滑り落ちた。止めどなくあふれ、このまま枯れてしまうのではないか。ぼんやりと、そんなことを思った。
* * *
重苦しい空気が、まだ肺の中に残っているような気がした。楽しげな声で溢れる賑やかな校内。その中でひとり、闇に足を引っ張られているような気がした。
「フローティア様、少々よろしいでしょうか」
不意に声をかけられて足を止めると、三人の女子生徒が厳しい表情をしている。確か同じクラスの生徒だったが、あまり接点はなかったように思う。
「あの平民とつるむのはおよしになられたほうがいいですわ!」
またその話、とひとつ息をつく。それでも、また別の生徒が口を開いた。
「フローティア様を利用しようとしているだけですわ!」
「ご忠告ありがとう」フローティアは言った。「でも、わたくしがどなたと交友を持とうとも、みなさまには関係のないことですのよ」
自分を利用しようとする者に平民も貴族も関係ない。自分が利用価値の高い人間であることも自覚しているし、そんな不埒な輩が近付いて来ればすぐにわかる。人間の機微には敏いほうだと自負している。だから、彼女の称賛が打算的なものではないということは、火を見るより明らかである。
「あの平民が裏で陰口を叩いているのを見ましたわ! フローティア様をお褒めになるのも、きっとおためごかしですわ!」
その瞬間、カッと頭に血が上った。鋭い視線を向けるフローティアに、三人の女子生徒はびくりと肩を振るわせる。そのとき――
「どうしたんだい?」
優しい声とともに、暖かい手が肩に添えられる。頬を紅潮させるフローティアとは対照的に、三人の女子生徒は顔を青くした。
アルヴァルドの澄んだ声を聞いた途端、体にまとわりついていた闇が浄化されたような気がした。冷静さを取り戻し、ひとつ咳払いする。
「お話はわかりました。ですが、ご心配は不要ですわ」
三人の女子生徒は恭しく辞儀をして、そそくさと立ち去って行く。アルヴァルドが来てくれなければ、彼女たちに何を言ったかわからない。実に的確な助け舟であった。
「ありがとうございます、アルヴァルド殿下」
「いや。こういったことはよくあるのかい?」
フローティアは少し逡巡する。それから、いつものように胸を張った。
「公爵家の娘として、致し方ないことですわ」
「そう。あまりしつこいようなら私に言うんだよ」
思わずきょとんと目を丸くしたフローティアに、アルヴァルドは優しく微笑む。彼が心配りをしてくれることは初めてではないが、こういった真正面からの、フローティア個人に対する気遣いは、フローティアにとっては珍しいことのように感じられた。
「殿下のお手を煩わせるほどではありませんわ」
じんと胸の奥が熱くなるのを誤魔化すように、ついとそっぽを向いて肩の髪を払った。それから、また可愛げのないことを、と少し歯痒さを感じた。
「じゃあ、言い方を変えようか」
アルヴァルドがフローティアの肩に手を遣る。それから、真っ直ぐにフローティアの瞳を見つめた。
「もっと私を頼ってくれ。きみは私の未来の妻なのだから」
これ以上ないというくらいに顔が熱くなる。アルヴァルドの美しい瞳に射抜かれて、せっかく取り戻した呼吸も心臓の鼓動も止まるところだった。
こんなふうに暖かく微笑まれたのはいつぶりだろう。アルヴァルドはいつでも優しい。しかしそれは、国家にとって有用である自分の機嫌を損ねて面倒なことになるのを防ぐため。そう思っていた。公爵令嬢のフローティアとしてではなく、ただのフローティアに向けられた光。それはあまりに眩しく、直視し続けることができなかった。
「フローティア様ー!」
明るい声にハッと意識を取り戻して振り向くと、また別の光が駆け寄って来ている。大きく手を振っていたかと思うと、イリーはリッツの手を引いて廊下の角に身を滑り込ませた。
「……なんですの?」
「おふたりのお邪魔はしません! 見守らせていただきます!」
フローティアはまた顔が熱くなった。大勢の生徒が見ている中で自分は何を、と。慌ててアルヴァルドの手を振り払って背を向ける。アルヴァルドは、くすりと小さく笑った。
「じゃあ、また放課後に」
「……はい、殿下」
優しく微笑んでアルヴァルドが去って行くと、ニヤニヤと笑いながらイリーが歩み寄って来る。張り手でもしてやろうかと思いつつ、フローティアはついとそっぽを向いた。
イリーとリッツが教室の端の席に着くと、フローティアはイリーの左隣に座った。確実に好感度が上がっている、とプレイヤーの頃を思い出しつつ、それを表に出せばフローティアは離れて行くだろうと緩みかける頬に力を込めた。
授業が始まってしばらく、イリーは右手の薬指でリッツの手に触れた。
『さっきのフローティア様、最高に可愛かったね』
『……そんなことを言うために話しかけたの?』
『冗談。悪霊の気配が濃くなったよ』
フローティアは気丈に振舞っているが、心が蝕まれつつあるのかもしれない。もしかしたら、アルヴァルドはそれに気付いて声をかけたのだろうか、とそんなことを思った。
『呪詛魔具はあれで完成?』
夜更かしして製作を続けた呪詛魔具は、ある程度は形になっている。製作の工程は最後まで進んだが、最初のひとつ目は満足に機能しない可能性がある。
『あれはまだ試作品。あのまま使うのは少し心許ない』
『そう……。あなたの護符は防げそう?』
『完全に防げるとは言えないね。なんにしても、フローティア様から目を離さないようにしよう』
『わかった』
イリーは聖女であるため悪霊の接近を判別できるが、リッツも能力の高い魔法使いである。何やらよからぬ気配がフローティアに近付いている、ということは察知できるはずだ。何かしらの対策を講じることもできるだろう。自分たちはフローティアを守るための騎士であると、イリーはそんなことを思った。
食事の最中も、どういった対策を練るかとイリーは頭を悩ませていた。そうして、ブロッコリーをフォークに刺して考え込むイリーに、リッツとフローティアは顔を見合わせた。
「イリー、ブロッコリー嫌いだっけ?」
リッツの声で我に返って、イリーはかぶりを振る。
「バケツいっぱい食べたいくらい大好きだよ」
「そこまで……?」
「あなたが静かなのは珍しいですわね」
「お食事をなさるフローティア様が美しすぎて、どういった言葉でご賞賛差し上げようか考えていました!」
「そう……邪魔をしましたわ……」
フローティアが頬を引き攣らせると、リッツは呆れたように溜め息を落とした。
品を損なわない程度にお喋りをしつつ、穏やかな昼食を終えた頃、誰かがイリーの肩をたたいた。三人が視線を向けると、フェリクスが穏やかに微笑んだ。
「フェリクス様、ごきげんよう」
「こんにちは。イリー、ちょっといいかな」
「はい?」
「話したいことがあるんだ。少し時間をもらえるかな」
「わかりました」
リッツとフローティアに声をかけ、イリーは食器を持って席を立つ。フェリクスはそのあとについて来るが、まだ話を始めるつもりはないようだ。イリーはフェリクスが何を考えているのか掴み兼ね、居心地の悪さのようなものを感じた。
食堂を出ると、フェリクスはようやく口を開く。
「リッツとなんの話をしていたんだい?」
イリーは首を傾げた。質問の意図がいまいち掴めない。
「放課後の生徒会のことですが……」
それはリッツだけではない。フローティアも交えて、生徒会の仕事に関する話をしていた。
そうじゃない、とフェリクスが首を振るので、いよいよわけがわからない、とイリーは眉根を寄せる。
「授業中だよ」
ハッと顔をしかめるイリーに、フェリクスは薄く微笑んだ。授業中のイリーとリッツの会話、それは心で結ぶ会話である。イリーが薬指で触れることで、互いの心の声が届くようになる。第三者に聞かれることはないはずだ。だが、フェリクスならそれが可能かもしれない、とイリーは納得した。
「盗み聞きしたことは謝るよ。だが、話を聞いた限り、きみたちは危険なことをしようとしているように思う。それも、リッツとふたりだけで。このあいだの素材採取は、そのためのものなんだろう?」
イリーは口を噤んだ。フローティアに危機が迫っていることを話せば、その理由を問われる。本来、イリーが知るはずのないことだ。未来を予知しているとも言える。フローティアの行く末を話すということに、イリーの出生を話す必要が付随するようにイリーには思えた。
「……それを知って、どうするのですか?」
表情が強張っていることが、自分にもよくわかる。正直なところ、フェリクスは何を考えているのかが見抜けない。どういった意図であるのかが、イリーにはわからなかった。
「……何か勘違いしているようだね」
「え?」
「リッツとの会話を聞く限り、きみたちはずっと前からその問題に直面していたようだ」
ふ、とフェリクスは目を細め、優しく微笑む。
「妹とその親友が困っているなら、そこは私の出番だろう? それが兄の役目だよ」
イリーはいつも、フェリクスの考えていることがわからない。ゲームの中でも、フェリクスは謎多き男だった。穏やかでありながら、何かを企んでいるのではないかと思わせる雰囲気があった。しかしいま、フェリクスの言葉は疑いようがない。それは紛れもない本心。フェリクスは心から、イリーとリッツの力になりたいと思っている。それはイリーにもよくわかった。フェリクスなら、自分の言葉を信じてくれる。そう確信し、イリーは顔を上げた。
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