第6章【2】

 生徒会室をあとにしたフローティアは、ひとりぼんやりと考える。リッツの話していたことは、本当だろうか。

(わたくしがイリーさんを救った……。そんな、まさか。わたくしたちは入学式の日が初対面だったのに)

 もし社交パーティなどで接触したことがあったとしても、あんな印象的な娘が記憶から消えることはない。そもそも、フローティアは一度でも会った者を忘れない。入学式の日が初対面で間違いはないはずだ。

(……可愛らしい人。あの笑顔こそ、眩しいものだわ)

 あの素直さが自分にもあればよかった、と思うこともある。そうであれば、何かが変わっていたのかもしれない。

(あの眩しさが……少し、羨ましい)


 ――私には持っていないものを持っている。


 悪戯っぽく楽しげな声が聞こえ、フローティアは背後を振り返る。廊下には誰の姿も見受けられなかった。

(……そうね)

 誰にでもなく頷いて、フローティアはまた歩き出す。

(みんなあの子が好きになる)


   *  *  *


 マルクに打ち明けてから数日。フローティアを救うための手立ての良い案を探し出すのに時間がかかり、悪霊がいつフローティアに取り憑くかという緊張感の中、イリーは慎重にフローティアの観察を続けた。たとえ座学の時間だったとしても。

「イリー・マッケンロー。よそ見をするな。前を向け」

 講師の声で、周囲の生徒たちがイリーを見遣る。イリーはと言うと、斜め右後ろにいるフローティアを眺めていた。

「はい、私はいつでも前を向いています」

 ノートから顔を上げたフローティアが、イリーの視線に気付いてひたいに手を当てる。

「私が言っている前は教壇だ」

 フローティアは呆れたように顔をしかめたあと、くい、と顎で教壇を差した。イリーがようやく姿勢を正すと、リッツがイリーの脇を肘で小突いた。


 授業が終わり机の上を片付けていると、フローティアが肩を怒(いか)らせながらイリーのもとへ来た。

「あなたのせいで恥をかきましたわ!」

 イリーの鼻先に指を突き立てるフローティアに、たはは、とイリーは笑って見せる。

「元気がないように見えたので……」

「そんなこと、授業中でなくても確認できますし、なにより余計なお世話ですわ!」

 つい、とそっぽを向いてフローティアは去って行く。その背中をにこにこと笑って見送るイリーの脇を、リッツが呆れた表情でまた小突いた。

「それで、どうするの?」

 リッツが真剣な表情になって問いかける。イリーもふざけるのをやめ、ひとつ頷いた。

「護符である程度は防げると思うけど、完全ではないね。接触して来た感じ、護符が負ける可能性があると思った」

「そう……。取り憑くのを防ぐのと同時に、滅ぼす方法を考えないといけないのね」

「うん。悪霊は人に取り憑く瞬間にしか姿を現わさない。だから、誘き出す必要がある。呪詛魔具を作ろうと思うんだ」

「呪詛魔具?」

「生徒会室に行こう。歩きながら説明する」

 今日は土曜日。イリーの前世の学校でもよく見られる慣習だが、土曜日は午前中で授業が終わる。生徒たちのほとんどが帰路に着く放課後。解放感に満ち溢れ賑やかにお喋りをする生徒たちの流れに逆行していると、誰もイリーとリッツを気に留める者はいない。秘密の作戦会議をするにはちょうどいい喧騒だった。

「呪詛魔具は護符と似たようなものだね。素材を組み合わせて魔力を注げばいい」

「簡単に作れる物なの?」

「闇を祓うだけの護符と違って、魔法はちょっと複雑なものになるね。これが材料一覧ね」

 そう言ってイリーが渡したメモを見て、リッツは眉をひそめる。奉書紙に魔力を注いで紋様を描くだけの護符とは違い、悪霊を誘き出すための呪詛魔具は材料が多く、作製には少々コツを要する。

「悪霊と接触できたのはついてたよ。悪霊の魔力はある程度は解析できてる」

 標的となる悪霊の魔力を解析できていれば、それに似た魔力を込めた呪詛魔具を作れば誘き出しやすくなるはずだ。

「こんなに素材が必要なの?」

 リッツが顔をしかめるのは無理もない。通常の魔道具に比べて入手に手間のかかる素材も含まれているのだ。

「よく呪詛魔具なんて思いついたね」

「昔、お母さんが作ってたのを思い出したんだ。それで、図書館で作り方を調べた」

「言ってくれたら手伝ったのに」

「すぐ見つかると思ったから。それに、素材の採取を手伝ってほしいから。見ての通り、素材の採取がちょっと大変なんだよね」

「レッドバイソンの角もあるものね……」

「マルク兄様にも手伝ってもらおう。三人で行けばなんとかなると思う」

 リッツにはマルクに打ち明けたことは話していないが、イリーの言葉でなんとなく察しがついたらしい。そう、と小さく呟いて頷いた。

「長期戦をしている時間はなくなった。すぐにでも呪詛魔具を用意しないと」

「秋までは大丈夫、とは言えなくなったね」

「うん。いつフローティア様が取り憑かれてもおかしくない。取り憑かれて心の深いところまで侵入されたら、たぶん助けられなくなるんじゃないかと思う。アルヴァルド殿下の誕生日パーティまで、あと約一ヶ月。たぶん、その日が近付くにつれて危険度が高まっていくんじゃないかと思う」

「素材の数は多いけど、人手があれば一日で集まりそうね。生徒会が終わったらすぐに行くんでしょ?」

「そうだね。ちょっと慌ただしくなってしまうけど……」

「大丈夫。少しも時間を無駄にできないもの」

「……ありがとう、リッツ」

 小さく笑って言うイリーに、リッツは優しく微笑む。

 リッツはすごい、とイリーは思った。もし自分がリッツの立場であったら、親友と言えど信じられなかったかもしれない。況して、リッツにとって――入学時点では――縁もゆかりもない公爵令嬢を助けようなどとは思わなかったことだろう。イリーを信用し、あまつさえ力を貸してくれている。それがリッツの強さなのだろう、とイリーはそんなことをぼんやりと考えた。



 生徒会室には、すでに他のメンバーが集まって各々の仕事に取りかかっていた。ドアを開けたイリーに最初に気付いたのはフローティアで、イリーは目が合うのと同時に低く唸って胸を押さえた。

「な、なんですの?」

「放課後もフローティア様とご一緒できるという事実を再認識したら動悸が……」

 フローティアはいつものように呆れて顔をしかめたあと、深く重い溜め息を落とす。

「あなたはそういうことを言わないと死ぬんですの?」

「いやあ、それほどでも」

「褒めてませんわ」

「物憂げな横顔もお美しい……」

 思わず手を合わせて拝むイリーに、フローティアはまたうんざりした様子で溜め息を落としたあと、書類の束をイリーに差し出した。

「あなたが見つめるのは、わたくしではなくこれ」

 それは生徒会予算に関する書類だった。フローティアはリッツにも別の書類の束を渡す。

「光速で終わらせます!」

「はいはい。精一杯に務めてくださいませ」

 フローティアが仕事に戻ると、イリーとリッツも並んで席に着いた。ふたりも口を謹んで作業を始め、生徒会室はペンを走らせる音だけが支配する。時折、確認事項のために口を開く者がいたが、無駄口を利く者はいなかった。

 そうしてしばらく仕事をこなしたあと、イリーは横目で様子を見てから、リッツの手に右手の薬指で触れた。リッツはちらりとイリーに視線を遣る。

『フローティア様はすでに悪霊に呑まれつつあるのかもしれない』

 あくまで作業中を装いながら、心の中でそう語り掛けた。リッツも書類に目を落としたまま、心の中で返事をする。

『どういうこと?』

『怒り方に覇気がなかったでしょ? それに、微かに悪霊の気配を感じる』

『急がないといけないみたいね』

 悪霊への対処法を探すことに時間をかけすぎた、とイリーは思った。フローティアの闇堕ちルートを防ぐために、もっと早く準備をしておくのだった。悪霊がこれほどまでに早くフローティアに接近するとは思っていなかった、というのが言い訳だが、想定が甘かったことは否めない。攻略対象の好感度が上がるのを防ぐことだけでは足りなかったのだ。

 ひとり反省会をしていても仕方がない、とイリーは目を通し終えた書類をまとめる。

「殿下、こちらの書類は終わりました」

 立ち上がってアルヴァルドに歩み寄る途中、イリーは左手の薬指でマルクの手に触れた。

『終わったら東の平原に来てください』

『わかった』

 マルクの返事を確認し、イリーはアルヴァルドに書類を手渡す。書類をぱらぱらと捲って目を通すと、お疲れ様、とアルヴァルドは優しく微笑んだ。

「やけに早いな」

 ジークローアが感心したように言うので、イリーはにこりと笑って背後を手のひらで差す。

「フローティア様が私の倍以上やってくださっていますので……」

 アルヴァルドとジークローアの視線が注がれると、フローティアは頬を紅潮させて机をどんと叩いた。

「そんなことありません! ちゃんとわたくしと同じだけの量をお渡ししましたわ!」

 リッツも仕事を終えて提出に立つので、アルヴァルドとジークローアだけでなくリグレットとエンリケも微笑ましくフローティアを見遣る。フローティアは顔を真っ赤にして、何も言えなくなって俯いた。

「お手伝いしたいのは山々なのですが」イリーは言う。「五分ほど前から腹痛でお腹が痛いんです」

「大丈夫ですの?」

 眉根を寄せて言うフローティアに、イリーは思わず頭を抱えた。

「ご心配をおかけしてしまうなんて罪深い……!」

「元気じゃない。もういいからさっさとお帰りなさい」

 フローティアが呆れて肩をすくめるので、たはは、とイリーは軽く笑って見せた。

「心配だから僕もついて行くよ」

 そう言ってマルクが立ち上がる。マルクが差し出した書類を受け取り、そのほうがいい、とアルヴァルドも頷いた。

「フローティア様。明日にはすっかり元気な私ですから」

「はいはい。お大事に」

 素っ気なく言うフローティアに辞儀をして、他の四人にも丁寧に礼をすると、イリーとリッツ、マルクは生徒会室をあとにした。

「それで、何をするの?」

 急ぎ足になるイリーに続きながら、マルクが問いかける。

「フローティア様に取り憑こうとしている悪霊を、呪詛魔具を使って誘き出します。フローティア様に取り憑く前に討伐したい……。そのためには材料が必要です」

 リッツが手帳に挟んでいた素材のメモを差し出すと、うわ、とマルクは顔をしかめた。

「こんなに必要なのか……」

「のんびりはしていられません。幸い、素材はほとんど東の平原で採れますし、いくつかは街で揃えることもできます」

「それより」と、マルク。「呪詛魔具なんて作れるの?」

「作ったことはありませんが、作れるはずです」

 作り方はそう難しいものではない。おそらく肝となるのは魔力を込める段階で、そこさえ誤らなければ作れるだろうとイリーは考えている。そして聖女の力を持つ自分ならそうそう失敗することはないのではないだろうか。

「そんなに急いでどうしたんだ?」

 廊下の角から出て来たフェリクスが、ぶつかりそうになったイリーを支えながら不思議そうに言う。あ、と表情を固めるイリーに目配せをして、マルクが素材のメモをフェリクスに差し出した。

「訳は話せないが、これが必要でね」

 マルクとフェリクスは幼い頃からの付き合いで、イリーはこのふたりが嘘をついたり隠し事をしたりしているのを見たことがない。そんなフェリクスに「訳は話せない」が通じるのか、とイリーはどぎまぎした。

「なるほど。では僕も手伝おう」

「えっ……」

 思わず声を漏らしたイリーに、フェリクスは少し悪戯っぽく笑う。

「レッドバイソンの角は、きみたち三人では三人掛かりになる。僕がいれば、マルクとふたりで倒せるからね」

「なるほど……。ありがとうございます。心強いです」

 イリーにはフェリクスが何を考えているのかという読みが当たったことはない。正直なところいまも判然としないが、フェリクスが敵でないことは知っている。おそらく、それだけ信じていれば充分だろう。

 三人とともに学園の外へ向かいながら、それにしても、とイリーは心の中で呟いた。

(美形ふたりと美少女の中に平凡な私って……すごく、肩身が狭いな……)



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