第5章【2】
「それで、引っ掛かる点って?」
食堂の端の席に落ち着いて夕食を始めたとき、リッツが真剣な表情で言った。
「これ」イリーはペンダントを見せる。「昼休み、食堂に入る前にジークローア様からもらったんだ。これはジークローア様の特殊イベントで、最後のフラグのときにもらうんだ」
ジークローアルートでは、ペンダントをもらう特殊イベントが起こらない場合もある。そのルートでもハッピーエンドに向かうことはできるが、この特殊イベントでペンダントをもらうことでハッピーエンドに向かいやすくなるという利点がある。ジークローアルートでハッピーエンドを狙うなら、積極的に立てたいフラグだ。
「じゃあ……ジークローア様がイリーにプロポーズする可能性があるってこと?」
「断罪イベントが起こったとき、そうなるかもしれないと思ったんだよね。もし私がフローティア様の罪を認めていれば、糾弾するのはジークローア様になったかもしれない。でも……特殊イベントが起こるほどジークローア様の好感度は上がってないと思うんだよね……」
「好感度がどうやって上がっていくのかはわからないけど、ジークローア様はプロポーズするほどイリーに惹かれてはいなそうだし……」
「……もしかしたらだけど、断罪イベントが起こるからジークローア様はこれをくれたのかな、って……」
ゆっくりと確かめるように言うイリーに、リッツは眉をひそめる。イリーもまだ説明できる材料がなく、また考え込んだ。
これは、ゲームのシナリオではなかった展開だ。考え得るすべての可能性を挙げたとしても、完璧に解明することができるかどうか、イリーにはまだわからない。
「でも」と、リッツ。「フローティア様のそばにはリグレット様がいたわ。もしあなたがフローティア様の罪を認めれば、糾弾していたのはリグレット様だったんじゃない?」
「うん……普通に考えればそうなんだけど……。そもそも、ジークローア様がこれをくださったのに、断罪イベントの場にリグレット様がいたのでは、辻褄が合わない。考えられるのは、断罪イベントは強制力によって起こったんじゃないか、ってこと」
「……強制力……」
「断罪イベントの場に出て行こうとしたとき、私は見えない何かに阻まれた。それを、このペンダントの力で破壊したの。ジークローア様がペンダントをくださったから断罪イベントが起こったのか、断罪イベントが起こるからこのペンダントをくださったのか……。どちらにしても、強制力が働いている可能性は否定できなくなったよ」
強制力はいずれ姿を現わすだろう、とイリーは思っていた。それはおそらく、誰のどのルートを辿ったとしても避けられなかっただろう。覚悟はしていたつもりだったが、いざ目の前にすると何もできないものだ、と思うと歯痒かった。
「……でも」リッツは首を捻る。「もしこれが強制力だったなら、フローティア様は破滅したんじゃない?」
「うん……そうだね。私がいくら止めたとしても、フローティア様は破滅していたかもしれない。いや、まだ破滅しないと決まったわけじゃない」
「あの場では、破滅しなかった……というだけだものね」
「うん。いまもどこかで、フローティア様を破滅させようとする者が動いているかもしれない」
そうでなくとも、地位の高い家の者は敵を作りやすい。どこであろうと敵は生まれる。陰で動き陥れるためにどんな手段を選ぶかわからない。その不穏な風がフローティアのもとに届く可能性は、いくら手を尽くしたとしてもゼロになることはないだろう。
「この世界に私が転生したことによって」イリーは言う。「物語はシナリオ通りに動かなくなった。私の存在が、この世界の運命を狂わせているのかもしれない」
イリーがフローティアの嫌がらせを受けていないことで、そもそもの根底が揺らいでいる。受けていないと言うと多少の語弊があるが、イリーはひとつも嫌がらせだとは思っていない。
「本来、断罪イベントが起こるのは、秋のアルヴァルド殿下の誕生日パーティの前。まだ入学して一ヶ月半……。断罪イベントが起こるのが早すぎる」
「入学して一ヶ月半では、フローティア様を糾弾するほどの嫌がらせも受けていないでしょうしね」
「このシナリオの狂いが、この先、私たちにどういう影響を及ぼすのかがわからない……。もしその影響で闇堕ちルートに進んでしまったら……」
最も避けなければならないのが闇堕ちルートだとイリーは考えている。通常ルートのバッドエンドも阻止しなければならないが、かと言ってハッピーエンドなら良いという話でもない。イリーが防ぎたいのはフローティアの破滅だ。どのルートにも進まないようにしなければならない。
「闇堕ちルートのバッドエンドでは、五人はどうなるの?」
「アルヴァルド殿下のルートが一番わかりやすくて、最後の最後の選択肢で決まるんだ。悪霊に取り憑かれた悪役令嬢を倒したあと、ふたつの選択肢が出るの。それで『みんなを守れてよかった』を選ぶとハッピーエンドに行って『フローティア様を救えなかった』と選ぶとバッドエンドになる。バッドエンドではヒロインとアルヴァルド殿下の関係が終わるだけだから、闇堕ちルートのバッドエンドの中では最も平和だね」
「愛し合っていたふたりのお別れが最も平和か……」
「うん。ジークローア様のルートでは、ジークローア様が糾弾は間違えたものだったと自分を責めるんだ。悪役令嬢を死なせてしまった責任を負って、国外へと姿を消す」
「アルヴァルド殿下のルートとは違って、その後の安否がわからなくなるという点でも不穏な終わり方ね」
「うん。追放ってわけではないから、戻って来ることも可能ではあるんだけどね。リグレット様のルートでは、このあいだも言ったように、負けイベントになってリグレット様が死ぬ。でも、リグレット様のルートでは、ハッピーエンドとバッドエンドの境目が明確なんだ。悪役令嬢が糾弾されたとき『出鱈目です』を選ぶとハッピーエンドで『本当です』を選択すると負けイベントに突入してバッドエンドになる。リグレット様は悪霊に取り憑かれた悪役令嬢によって殺されてしまうんだ」
「なるほど……。じゃあ、リグレット様の死は明確に防ぐことができるのね」
「たぶんね。ただ、ここは現実だから、選択肢があるかどうかは保証できないけどね」
先の断罪イベントでは、イリーが強制的に横槍を入れたことでフローティアの断罪を阻止することができたが、選択肢があったかどうかは判然としない。
「でも、現実だからこそ、選択は自分次第だとも思うんだよね」
静かに言うイリーに、リッツは促すように首を傾げた。
「ゲームだと、選択肢はせいぜいふたつかみっつ。でも現実では、思い付いたことすべてが選択肢になる。ゲームのシナリオや強制力の影響が生じたとしても、自分の選択次第では運命を変えることも可能なんじゃないかと思うんだ」
「……そうね。フローティア様を敬愛するというのも、きっと選択肢のひとつだものね」
「うん。そうやって、少しでもフローティア様の運命を変えられるようにしたい」
フローティアの運命を変えることができるなら、攻略対象たちの運命も変えることができるはずだ。いまはそれを信じて行動するしかない。何もできず怯えて泣いていることしかできないヒロインではないのだ。
「それで、エンリケ様とマルク様のルートはどうなるの?」
「エンリケ様のルートでは、悪霊に取り憑かれた悪役令嬢にアルヴァルド殿下が殺されて、エンリケ様に王位継承権が渡ることになるの。エンリケ様はヒロインを王宮に縛り付けないため、ヒロインを王宮から追放して、それからふたりは二度と会えないんだ」
「第一王子とその婚約者を一度に失い国が揺らぐ上に、恋愛物としても最悪の結末ね」
「うん……。一番に避けなければならないのは、エンリケ様のルートかもしれないね」
ヒロインの登場によって未来の王妃が変わる可能性もあるが、ヒロインは有能な魔法使いであることに加えて聖女である。国家にとって有用だと言えるだろう。そのため、悪役令嬢が破滅しても国家は揺るがない。だが、アルヴァルドが巻き込まれ命を落とすことは損失でしかない。エンリケが王となっても立派な王となり国を導いて行くだろうが、ヒロインのために三人もの若者の運命を変えてしまうのは悲劇でしかない。
「マルク兄様のルートでは、マルク兄様が悪霊に負けて、ヒロインも悲しみによって魔法を暴走させて命を落とすんだ。ゲームとしては、一番に悲惨なルートだろうね」
「ヒロインって、物語の主人公よね? 主人公が死んでしまうの?」
「うん。バッドエンドだからね。でも、マルク兄様の闇堕ちルートのハッピーエンドは、通常ルートのハッピーエンドとは結末がちょっと違うんだ。マルク兄様は伯爵位を継いで、ヒロインはその補佐になる。だから、伯爵家にとっては通常ハッピーエンドより平和な結末だね。皮肉だけど」
「なるほどね……。なんだか……複雑すぎて何も言えないわ」
「あは。
「乙女ゲームなんてちょっと可愛らしい感じがするのに、死人が出るなんて……」
発売された当初、是か非かがはっきりと分かれるゲームであった。物語が「重さが良い」か「重すぎる」かで評価が二分していた。イリーはどちらかと言えば後者で、それもフローティアの結末に反発していたためである。
「私は誰にも死んでほしくない」イリーは拳を握り締める。「ゲームには存在しなかった友情エンドを叶えてみせる!」
「……そうね。あなたなら、きっとやり遂げるわ」
「うん!」
リッツは以前、秋までそうして気を張っていないといけないのかとイリーを案じていた。実際のところ、イリーは一切、気を抜けない。フローティアを破滅から遠ざけ、違う結末へと導かなければならない。心労がないと言えば嘘になるが、友情エンドがイリーにとって悲願である。
* * *
ある日。授業を終えたイリーとリッツが生徒会室に入ると、マルクがひとり机に向かっていた。
「マルク兄様」
「やあ、イリー、リッツ。授業お疲れ様」
「兄様もお疲れ様です。何かやることありますか?」
「そうだね……。そこの書類は殿下の確認が終わってるから、学年別にして、それからクラス別にしてくれる?」
「わかりました」
生徒会長の机に積まれていた書類を取り、イリーとリッツで半分に分けると、ふたりは隣り合って席につく。それほど時間のかかる作業ではないと思われ、おそらく終わる頃には他のメンバーも集まって来るだろう。
「そういえば」と、マルク。「イリーに見合いの話がきているよ」
「私にですか?」イリーは首を傾げる。「伯爵家と関わりのある方なんですか?」
「昔から交友がある家でね。爵位はないけど、貿易でそれなりの地位を築いた貴族だよ」
「……お父様はなんて……」
「イリーの好きにしていいそうだ。父さんはイリーに政略結婚をさせる気はないし、断りたいなら断ってもいい。興味があるなら、会うだけ会ってみてもいいよ」
見合い、とイリーは考え込む。攻略対象と恋仲になるつもりはないため、いずれ家のために政略結婚するだろうとは思っていた。伯爵家の利益になるなら嫁に行くし、もしくはマルクの補佐となるため婿を取る。そのどちらかだろうと以前から考えていた。
「伯爵家に何かしらの利益があるならお受けします」
「そんなことを考える必要はないよ。自分の将来のことだけを考えればいいんだよ」
「……自分の将来のことを考えるなら、兄様の補佐をするために有能な方を探していただきたいです。婿に取るので家督のない方で」
「普段からそんなことを考えていたのかい?」
「伯爵家に恩義を返すためです」
「義理堅い子なんだねえ。フローティア嬢の側仕えになるんじゃないの?」
「それは私の有用さを認められたらの話ですね」
マルクはおかしそうに、しかし困ったように小さく笑う。義父とマルクがイリーの自由にと考えているのは、イリーが平民出身であるためだろう。もともと何もしがらみのない家で育って来た。貴族に引き取られたからといって貴族としの役割を果たすようにとは考えていないのだろう。イリーは自分の有用さを知っている。マッケンロー伯爵家のためにこの力を役立てたいと常々思っていることだ。
ノックの音が聞こえて振り向くと、フローティアが粛々と生徒会室に入って来た。その途端、うっ、と唸るイリーに、フローティアは眉をひそめる。
「フローティア様……今日も眩しすぎる……! まさに美の女神……!」
呆れたように溜め息をつきつつ、フローティアは生徒会長の机から書類の束を手に取った。それから、マルクを振り向く。
「わたくしは昨日の続きをやりますわ」
「うん、よろしく」
フローティアの席はイリーの右隣で、その反対にリッツが座っている。なんだこの役得は、とイリーはペンを握り潰しそうになった。
「……わたくしのせいで、嫌がらせを受けたりしていなくて?」
書類に目を落としたまま、フローティアが静かな声で言う。イリーはその横顔を窺い見てから、明るく笑って見せた。
「ご心配には及びません。私に喧嘩を売っても無駄だってことはわかったはずです」
「…………」
「私は簡単にはへこたれませんし、魔法の力だって一般的な貴族の方には負けませんから」
「……逞しいのね」
フローティアは心から案じているようだ、とイリーは思った。普段のフローティアであれば、最後の一言に必ず反論したはずだ。実力を認めているかどうかはさておき、貴族の令嬢にありがちないびりを心配しているのだろう。
「フローティア様こそ大丈夫ですか? 私のせいで嫌がらせを受けたりしていませんか?」
「……なぜわたくしが?」
「平民に庇われて、みたいな因縁をつけられてないかなって」
「……わたくしに嫌がらせをできるなら大した度胸ですわ」
「ん、確かに、それもそうですね」
たはは、と笑うイリーに、フローティアは肩をすくめて見せる。レヴァラレン公爵家は、この国で王家の次に権力を持っていると言っても過言ではない。家の地位だけでなく、公爵家の者たちが高い能力を誇っていることも、周知の事実である。周囲の者がレヴァラレン公爵家に畏怖の念を懐くのは、自分たちでは敵わないと悟っているためである。その公爵家の一人娘であるフローティアに嫌がらせをするのは、子ども同士であろうとも家の存続に関わる可能性が出てくる。いくら傲慢な貴族の子息子女と言えど、そんな危険を冒す者はいないだろう。
「フローティア様、何かあったらすぐに私を呼んでください。何があってもお守りしますから!」
拳を握り締めるイリーに、フローティアはつんと澄ましてそっぽを向いた。
「その必要はありませんわ。わたくしを誰だとお思いですの?」
「はい! この学園で最強のご令嬢、フローティア・レヴァラレン公爵令嬢様です!」
「最強は言いすぎですわ」
にこにこと明るく笑うイリーの横で、リッツも微笑ましく眺めているので、フローティアはひとつ溜め息を落とした。
* * *
翌日。魔法実習の授業でどの魔法を練習するかと教科書を眺めながら、講師役の二年生を待つ。おそらく、またリグレットが来るのではないかと思われる。
「フラグはまだ残ってるの?」
周りを気にしながら声を潜めて言うリッツに、イリーは小さく頷いた。
「いくつか残ってるけど、ジークローア様が最終フラグまで立ったし、残りは起こらないかもしれない。何より、フローティア様の断罪イベントがもう発生したし」
「闇堕ちルートは?」
「起こる可能性はゼロではないね。シナリオの強制力は否めないし、断罪イベントが発生して他のフラグが立たなくなったいま、残るは闇堕ちルートだけだからね」
「闇堕ちルートに進むのも、断罪イベントのあとなんでしょう? 断罪イベントを阻止できたのだから、闇堕ちルートに進むことはないんじゃないの?」
「そう思いたいけど、そもそも断罪イベントが発生するのが早すぎるし、私は何もしていないのにジークローア様の最終フラグが立った。そういう強制力に、もしかしたら私たちは抗えないかもしれない。秋までは気を抜けないかな」
「そう……。闇堕ちルートは、ヒロインの選択次第になるんだっけ」
「うん。でも、大丈夫。フローティア様の味方は、私たちだけじゃないはずだよ。私はみんなを信じる」
明るく笑って見せるイリーに、リッツも優しく微笑んで頷く。思えば、とイリーは考えた。リッツは初めからいままでずっとイリーを信用している。異世界から来たなど、荒唐無稽な作り話だと一蹴してもおかしくない。それでもリッツは一切、疑うことはなかった。もともとこの世界に存在していたイリーがどうだったかはわからないが、イリーがそういった嘘をつく人間ではないと確信を持っていたのだろう。心強い味方を得たことは、イリーにとって幸運なことだった。
「イリー、リッツ」
穏やかな声に振り向くと、アルヴァルドがふたりに歩み寄って来る。
「準備はいいかな」
「アルヴァルド殿下が講師役をやってくださるんですか?」
「うん」
優しく微笑んで頷いたアルヴァルドが、ふと、どこかに視線を向けた。その先を見遣ったイリーとリッツは、顔を見合わせて悪戯を思い付いたように笑う。それからイリーは、大きく息を吸い込んだ。
* * *
あの一件以来、フローティアは、自分が周囲から浮いていることは自覚していた。家に取り入ろうと擦り寄って来た者たちでさえ、腫れ物のように遠巻きに横目で見ている。いつかはこうなるだろうと薄々思っていたが、実習のときにこうでは困る。どこかのグループに入らなければと辺りを見回したとき――
「フローティア様!」
明るい声が聞こえた。その方向に視線を遣ると、イリーが大きく手を振っている。
「何してるんですか? 始めますよ!」
思わずきょとんと目を丸くした。傍らにいるリッツとアルヴァルドも、優しく微笑みながらフローティアのことを待っている。
なんて眩しい光景だろう。貴族社会の濁った空気の中で生きて来たフローティアには、出会ったことのない光だった。その中に自分が足を踏み入れていいのかと躊躇っていると、早く、と手招きをされる。フローティアはひとつ息をつき、黎明の中へと足を踏み出した。
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