第5章【1】

「平民のくせに生徒会に入るなんて、思い上がりもいいところですわ!」

 眉を厳しくつり上げる令嬢に、イリーは一言も発さなかった。反論する気はないし、いまさら気弱な女の子を演じるつもりもない。イリーにとっては「沈黙」が最適な対応だった。

 ある昼休みのこと。ひとりで廊下を歩いていたイリーは、気の強そうな三人の令嬢とふたりの令息に取り囲まれ、階段下の暗がりに連れ込まれた。抵抗することは簡単だったが、無駄な労力を使いたくない気持ちが全面に押し出されてしまった結果である。

「フローティア様だって、きっと迷惑してらっしゃいますわ!」

「身のほどを知りなさい!」

 とりあえず嵐が過ぎ去るのを待とう、とイリーはぼんやりとしていた。イリーが何を言ったところで、火に油を注ぐようなもの。一を言えば五が返ってくる。それほどまでに面倒くさいものはない。

 令嬢たちが何も言わないイリーにあれやこれやと畳み掛ける。実際のところこれでヒロインは弱々しく涙するんだよな、とイリーがぼんやりとそんなことを考え始めていたとき、令嬢たちの背後に影がかかった。

「こんなところで身のほどを説くなんて、未来の紳士淑女が聞いて呆れるな」

 耳の奥に響く低い声に、令嬢と令息は肩を震わせる。油が切れたロボットのような動きで振り向く五人の視線の先には、冷ややかな視線を注ぐジークローアの姿があった。

「身のほどを知らしめたいなら、実力で示してみたらどうだ」

「そこまでしなくて結構ですから!」

 五人の輪から飛び出し、イリーはジークローアの背中を押す。急いでここから離れさせなければ、と腕に力を込めた。

「みなさま、ごきげんよう」

 不満げなジークローアの背中をぐいぐいと押し、イリーは五人に背を向ける。五人は何も言えず、ただふたりの後ろ姿を見送った。

「ああいうことは、よくあることなのか?」

 眉間にしわを寄せて言うジークローアに、イリーは肩をすくめる。

「なくはないです」

「リッツはどうした」

「いまは講師に質問に行っています」

「ひとりのときを狙って来ているということか。卑劣だな」

「まあ、貴族の子息子女なんて、みんなそんなものじゃないですか?」

 イリーは、あはは、と暢気に笑って見せた。ジークローアは不服そうな表情をしているが、イリーは本当にそう思っている。貴族社会はどす黒い思惑で溢れている。家の権力と財産を誇示し、自分にとって都合の悪い相手を如何に陥れるかと目論んでいる。イリーは貴族の仲間入りをして二年しか経っていないが、それでもそう思うほどわかりやすい世界だ。

「……そうだ。これをきみにやるよ」

 そう言って、ジークローアは首にかけていた物を外す。差し出されたそれは、小さな十字架のペンダントだった。

「……これは……」

「退魔の守りだ。要は、悪いものを遠ざけるお守りだな」

「……、……ありがとうございます……」

 少し言葉に詰まりながら言うイリーに、ジークローアは不思議そうな表情になる。イリーはもう一度、礼を言ってから、ペンダントを首にかけた。十字架に込められた魔力が体中に行き渡るのを感じる。退魔の魔道具の中でも高位な物であることがよくわかった。

「……普通の子は、フローティア様が歯止めになっているんです」

 イリーが顔を上げて話し始めると、ジークローアは促すようにイリーを見遣る。

「フローティア様は、貴族より優れていると証明して見せるようにと仰ったんですが、それというのはつまり、貴族より優れていると証明する権利が私に与えられたってことです」

「なるほど。証明すると自ら宣言したところで、相手にされなければ意味がないからな」

「はい。それが証明できた暁には、フローティア様は私を認めざるを得ません。フローティア様がお認めになれば、誰も異論を唱えられなくなります」

「公爵家の娘だからな。フローティア自身も優れた魔法使いであるから、フローティアが認めたとなれば高位の魔法使いであることに間違いはないだろうからな」

「はい。そして、フローティア様に権利を与えていただいた私を、誰も妨げることができません。先ほどの五人は、それがわかっていないということです」

「なるほどな……。フローティアはそこまで考えていたのか。したたかなあいつらしいな」

「どうでしょう。私がそう解釈しただけって話かもしれないですけどね」

 この学園においてフローティアに反論できるのは、生徒会メンバーくらいのものだろう。それも、フローティアと同等かそれ以上の地位を持つためである。この学園のほとんどの生徒がフローティアより地位が低い。フローティアの心証が悪くなれば、何かの影響が家に及ぶかもしれない。そんな危険を冒す生徒はいないだろう。

「……フローティアは孤独だ」

 静かな声でジークローアが言うので、イリーは促すように彼を見上げた。

「周囲の令嬢は、公爵家に取り入ろうとする家の者。フローティアが望んでつるんでいるわけではない。あいつはいつも、様々な思惑に囲まれているんだ。だから、あいつの心が休まるときはない」

「…………」

「きみに出会ってから、フローティアは楽しそうだ。あんなに活き活きとしているフローティアを見るのは、初めてだよ」

 確かに、とイリーは考える。フローティアはいつも無感情な表情をしている印象だ。周囲の令嬢たちはご機嫌取りのために明るく接しているが、フローティアが同じように返すことはない。心を開いていない、ということだろう。

「フローティア様は、幸せになるべきです。私がフローティア様を幸せにして見せますから!」

「婚約者が言うべき台詞だが……。きみは変わっているな」

 どこか安堵したように笑うジークローアにイリーは、ふふん、と得意げに笑って見せた。


 学生食堂は、すでに多くの生徒でごった返している。いつもの辺りに席を取っておけばいいか、と周囲を見渡したイリーは、あっ、と声を上げて駆け出した。

「フローティア様!」

 食堂の端の席で、フローティアが優雅に食事を取っている。イリーが駆け寄って行くと、視線を上げたフローティアは煙たがるように眉間にしわを寄せた。

「ごきげんよう、イリーさん」

「ごきげんよう、フローティア様! ご一緒してもよろしいですか?」

「他を当たってくださいませ」

 つんと澄まして言うフローティアに、イリーは唇を尖らせる。それから、はたと気付いて問いかけた。

「いつもご一緒のご令嬢たちは……」

 フローティアはいつも、複数の令嬢に囲まれて食事を取っている。それも、フローティアのご機嫌取りのうちのひとつである。

「みなさん、他に行くところがおありのようで」

「そうですか……。じゃあ」

 イリーはにこにこと笑いながら、フローティアの向かいの席に腰を下ろした。

「特等席ってことで」

「ちょっと、許可していませんわ」

 食事中であるため声を潜めて言うフローティアに、イリーは祈るように手を組んで目を潤ませた。

「私もリッツがいなくてひとりなんです。お願いします」

「先ほどジークローア様とご一緒では……」

 眉をひそめたままフローティアは辺りを見回す。ジークローアは、フローティアを見つけて駆け出したイリーを見送って去って行ったのだ。

「食堂の入り口から私のことを認識してくださっていたんですね……!」

 目を輝かせるイリーに、ああもう、とフローティアはひたいに手を当てる。

「わかりましたわ。早くもらってらっしゃい」

「はい!」

 嬉々として立ち上がったイリーは、はたと気が付いて、よくこんな良いことを思い付いたものだと自分で感心しながら、制服の上着を脱ぎ椅子の背もたれにかけた。

「じゃあ、席の予約ということで! いってきます!」

 明るく笑い大きく手を振りながら駆け出すイリーを見送り、フローティアは小さく息をつく。

(……不思議な子)

 思えば、初めて出会ったときから自分に畏怖の念を懐いていなかった、とフローティアは考える。平民出身で貴族になって数年内にこの学園に来たようだが、公爵家の娘のことくらいは知っているだろう。この学園では多くの生徒がフローティアを恐れ、関わりを避けるか取り入ろうとするかで周囲が二分している。その中で、イリーだけが取り繕わずに接して来た。家のためではなく、純粋に自分を慕ってくれているようにフローティアには感じられた。

(……羨ましいだなんて……)

 天真爛漫で、真っ直ぐで、可愛げがある。捻くれた自分とは大違いだ。あの素直さが自分にもあれば、何か変わっていたのだろうか、とそんなことをぼんやりと考えた。

「フローティア様」

 声をかけられるので顔を上げると、それはリッツだった。

「ごきげんよう、リッツさん」

「ごきげんよう、フローティア様。イリーは……」

「食事をもらいに行きましたわ」

「そうですか。じゃあ……」

 おそらく、自分も、と言おうとしたと思われるリッツが、椅子にかけられた制服の上着にはたと気が付いて、同じように上着を脱いでとなりの椅子の背もたれにかけた。

「私も行って来ますね」

 少し悪戯っぽく笑って、リッツはくるりときびすを返す。その背中を見送って、フローティアはまたひとつ息をついた。

 そのとき、近寄って来る複数人の影が視界に入るので、フローティアはまた顔を上げた。

「フローティア様、少々よろしいでしょうか」



   *  *  *



 受け取りカウンターの上に張り出されているメニュー表を眺めながら、今日はなんにしよう、とイリーは考え込む。フローティアが食べていたのはおそらく白身魚のムニエルで、同じものにしようかと思っていたが、いざメニュー表を前にすると迷ってしまう。イリーがメニュー表を眺めながらぐるぐると考え続けているあいだにリッツが先に席へ行くのはよくあることだ。そのため、座席の確保はほとんどリッツの役目である。

「イリー、まだ迷ってるの?」

 肩を叩かれて振り向くと、リッツが呆れたように笑っていた。

「んー、なんの気分でもなくて……。それというのはつまり、なんでも美味しく食べられるってことなんだよ。そう考えたら余計に迷っちゃって……」

「じゃあ、私が決めてあげる。今日は……」

 リッツがメニュー表を指差そうとしたとき、食堂の奥のほうが騒がしくなった。波を打つようにざわめきが食堂内へと広がっていく。

「……フローティア様がいる辺り……?」

 イリーは嫌な予感がして、リッツと顔を見合わせた。リッツが頷くのに合わせてふたりは駆け出す。徐々に厚くなっていく人混みを掻き分けて行くと、複数の女子生徒が声を荒らげているのが聞こえた。

「あなたはイリー・マッケンローを平民と見下し、数々の嫌がらせをしている!」

 イリーはハッと息を呑んだ。この状況に心当たりがある。

「……断罪イベント……」

「そんな……どうして」

 苦々しく顔をしかめるリッツに、イリーは口を噤んだ。

 責め立てる女子生徒たちの言葉を聞けば、誰に向けられているのかがすぐにわかる。間違いなくフローティアだ、とイリーは確信を持っていた。そうであれば、断罪イベントであることは疑いようがない。

「あなたの悪事はすべて暴かせてもらったわ!」

「証人もいますのよ。観念なさいませ!」

「何を騒いでいるんだ?」

 聞こえてきた別の声に、また生徒たちのあいだにどよめきが広がる。その声は、リグレットのものだった。

 とにかくフローティアのもとへ、と踏み出したイリーは、どん、と何かに押されて足を止めた。人にぶつかったのかと顔を上げると、目の前には誰もいない。

「どうしたの?」

 リッツが怪訝にイリーの顔を覗き込む。

「なんかここに、見えない何かが……」

「どういうこと?」

 もう一度と足を踏み込むが、やはり何かがイリーの肩を押し返した。その向こうでは、女子生徒たちによるフローティアの糾弾が続いている。

「…………」

「イリー?」

「……もしこれが、闇堕ちルートだったら……」

 イリーの漏らした声に、リッツは眉間にしわを寄せた。

「私は、答えを間違えられない。私の選択次第で、フローティア様は破滅して……リグレット様は死ぬかもしれない」

 画面の前で冷静に選択肢を眺めていたのが嘘のように、小刻みに指先が震えた。ゲームは何度でもやり直せる。「最初から始める」を選択すれば、すべてが元通りになる。だが、ここが現実であることを考えると、情けなくも立ち尽くしてしまった。

「それはゲームの中の話でしょう」

 リッツの力強い声に、イリーはハッと顔を上げる。

「ここは現実よ。いまあなたの前にいる私たちを信じて」

 青空の瞳が、真っ直ぐにイリーを射貫く。

「あなたの目に映る……私と、フローティア様と、リグレット様を」

 イリーはひとつ深呼吸をして、大きく頷いた。

 行く手を阻む見えない何かに手を伸ばし、指先に意識を集中させ魔力を注ぐ。目を開くのと同時に力を込めるが、見えない何かはびくともしない。

(……もしかして……)

 見えない何かに手のひらを押し付けたまま、胸元に手を当てる。ジークローアに渡されたペンダントに触れると、静かに魔力が流れ込んでくるのを感じた。それを指先へと送り、一気に力を込める。次の瞬間、キン、と甲高い音を立てて見えない何かにが砕け散った。周囲の生徒たちを見回すとその音に気付いた様子はなく、イリーにだけ聞こえていたようだ。

 イリーは人混みを掻き分け、断罪イベントの場へと足を踏み入れた。糾弾する女子生徒は五人。フローティアのそばにはリグレットの姿がある。

「イリー・マッケンロー」と、女子生徒のひとり。「あなたはいままで彼女の嫌がらせに耐えてきたのでしょう?」

「もう大丈夫」と、別のひとり。「私たちはあなたの味方よ」

「……フローティア様が私に嫌がらせをすることなんて有り得ません」

 毅然として言うイリーに、フローティアの眉がぴくりと震えた。五人の女子生徒たちも怯んだ様子を見せる。

「何を仰っているの。私たちはぜんぶ知っているのよ?」

「嫌がらせだけじゃないわ。あなたは散々見下されて……」

「あなた、覚えてますよ」

 イリーがひとりの女子生徒を手のひらで差して言うと、女子生徒はびくりと肩を震わせた。

「私に足払いして転ばせましたよね。それに、フローティア様が私を見下していたことなんてありません」

 女子生徒たちが気圧されて言葉に詰まる。イリーが反論するとは思いも寄らなかったようで、振りかざした正義感が行き場を失い消滅しようとしていた。

「他の方が私を平民と言うのに対し、フローティア様は絶対に平民出身と仰るんです」

「な、何が違うと言うの?」

「私を平民と称するということは、私の養家であるマッケンロー伯爵家を平民だと言っているということですから」

 女子生徒たちの顔が一気に青ざめる。少なからず心当たりがあり、尚且つそういった点について考えていなかったということだろう。

「それに、フローティア様が私に嫌がらせをすることは有り得ないと、この私が証明しています。私は心からフローティア様に敬愛を懐いています。敬愛の一言では足りないくらいに!」

 もう女子生徒たちは何も言うことができなかった。イリーがこれほどまでに力強く否定するとは思っていなかったのだろう。イリーには女子生徒たちの主張を認めるための材料はない。それは前世から変わらないことだ。

「そこまで」

 澄んだ声に空気が一変した。それまで広がっていたざわめきがぴたりと止み、女子生徒たちの表情が凍り付く。彼女たちのもとへ歩み寄るのはアルヴァルドだった。

「きみたち、あとで生徒会室に来てくれるかな」

 厳しく言うアルヴァルドに、女子生徒たちは言葉を失ったままただ頷く。騒ぎを起こし生徒たちを混乱させた彼女たちには、叱責で済めば良いほうだが、重く取られれば罰が与えられるかもしれない。

「イリー、リッツ、フローティア。きみたちは教室に戻るように」

「はい」

 三人は声を合わせ、好奇心と不審の視線を背に受けながら食堂をあとにした。この騒ぎはしばらく生徒たちの中で話題となるだろう。

「……馬鹿な子」

 フローティアがぽそりと小さく言うので、イリーは促すように振り向いた。

「わたくしなんかを庇って……」

「庇ったわけではありません。私が言ったことは、すべて事実ですから」

 フローティアは視線を落とし固く口を閉ざしたまま、教室の外でふたりのもとを離れて行った。

「イリー、あなたは大丈夫?」

 窓際の席に並んでつくと、リッツが心配そうに言った。大丈夫だよ、とイリーは明るく笑って見せる。

「フローティア様が悪役なんかじゃないって大々的に宣言できたんだから、私にとってはむしろ好機だったよ」

「そう……」

「でも、引っ掛かる点は多いね」

 イリーがそれについて話そうとしたとき、講師が教室に入って来る。ふたりは話すのをやめ、講師の指示通りに教科書を開いた。



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