第2章【2】

 王立魔導学園に入学してから数日が経っても、イリーとリッツはクラスの中で浮いていた。イリーもリッツも新しい友達を作ろうという気はなく、おためごかしと足の引っ張り合いの中に溶け込むつもりもない。先日、自分のせいで交友が広がらないのでは、と言ったイリーにリッツは、この学園では一切も求めていない、とあっけらかんと言った。イリーは気が楽になって、リッツの防波堤を続けることにしたのである。


 魔法学研究の授業が科学室で始まると、学生たちは各々の研究素材を机に並べた。魔法学研究では、魔法の源であるマナの解析をしたり、魔道具を作ったり、爪や牙を採取し魔獣の能力を解析したりするのだ。

「イリーは何をするの?」

「護符を作ろうと思う。もしフローティア様が悪霊に取り憑かれそうになっても守れるように」

 イリーは机に、色紙などに使われる奉書紙と、魔力をインクに込めることができるペンを用意した。このペンで奉書紙に紋様を描き込めば、対象物から身を守る護符が出来上がる。今回は悪霊から身を守るため闇属性耐性を付与する物になる。

「護符なんて作れるの?」

 リッツが驚いたように言うので、イリーはあっけらかんと頷いた。護符とは本来、学生が作れるようなものではない。位の高い聖職者や呪術師などが作るものである。

「よくお母さんと作って小遣い稼ぎをしてたから」

「……あのあと、連絡あった?」

「ううん。梨のつぶて。あのお母さんのことだから、どこかで新しい恋人でも作ってるんじゃないかな」

 明るく言うイリーに、リッツは眉尻を下げて微笑んだ。

「でも」気を取り直すようにリッツが言う。「フローティア様が素直に受け取ってくださるかな」

「受け取っていただけなかったときのために、自動装備機能をつけるから大丈夫」

 イリーはあくまで真剣に言う。自動装備機能とは、要はホーミングシステムである。高位な技術ではあるが、イリーは問題なくその効果を付与することができる。

「そこまでしなくても、断罪されなければ大丈夫なんでしょ?」

「万全を期したいの。私はこの世界の本来のヒロインとは別物になっているから、万が一ってことも有り得ると思う」

「そっか……」

 イリーがすべての攻略対象との親密度を上げないことは、ゲームのシナリオと大きくかけ離れている。その影響がどんな形で現れるかはイリーにもわからない。すべての可能性をひとつずつ潰すしかないのだ。

「護符を作っているのかい?」

 柔らかい声が聞こえるので、イリーとリッツは顔を上げる。物珍しそうにイリーの手元を覗き込むのは、アルヴァルドだった。

「護符が作れるなんて、きみは高い能力を持っているんだね」

「ありがとうございます、殿下」

 アルヴァルドがイリーに接触して来るのはイリーがヒロインだからであるが、それを知る由もない周囲の生徒は冷ややかな視線をイリーに向ける。女子生徒の中には、アルヴァルドしか視界に入っていない者もいるようだった。

「きみは平民出身とは思えないほど、高い魔法の力を感じる。この学園に来たのは正解だったかもしれないね」

「はい。義父ちちには感謝しています」

 アルヴァルドが言いたいのは、イリーの力を利用しようとする者がいるかもしれない、ということだろうとイリーは思った。王立魔導学園ではすべての生徒が魔法の力を持っている。利用しようとする者は、町にいるよりはるかに少ないだろう。

「よかったら、次のエメラルドの森での実習用に作ってみないかい?」

 その提案に、イリーは一瞬だけ言葉を詰まらせた。アルヴァルドが首を傾げるので、なんとか気を取り直す。

「クラス全員分を作るなんて、私の能力ではとても……」

「そうかな」

「アルヴァルド殿下」

 厳しく鋭い声が聞こえるので、三人は振り向いた。歩み寄って来るのは、冷ややかな表情のフローティアだった。

「お喋りの時間ではありませんのよ。他のみなさまにもご教授して差し上げてくださいませ」

「うん、そうだね。すぐ行くよ」

「フローティア様! 昨日も今日も明日もお美しい……!」

「昨日はともかく、明日はわからなくてよ」

 ついとそっぽを向いてフローティアは去って行く。

「殿下、フローティア様が嫉妬してらっしゃいます」

「え?」

 慌てて言ったイリーに、アルヴァルドは驚いたように不思議そうに目を丸くしてイリーを見遣った。それから、いや、と首を横に振る。

「私は嫌われているからね」

「そんなことありません」

 イリーが力強く否定すると、アルヴァルドは少し怪訝な表情になった。

「フローティア様は愛情深いお方です。殿下を心からお慕いしていらっしゃることはすぐにわかります」

「……フローティアと私は、彼女が七歳の頃に婚約が決まってね」

 アルヴァルドが静かに話し始めるので、イリーは口を噤む。

 フローティアは高い魔法の力を誇るレヴァラレン公爵家の娘で、王位継承権を持つアルヴァルドと婚約をしたのは、国家にとって有用だからというためである。だからこそ、フローティアは恋心を隠しているのだ。

「フローティアを幼い頃から妃教育で縛り付けてしまってね。彼女には……自由がなかったんだ」

 アルヴァルドはおそらく、フローティアがそれを義務だとして自分を抑え込んでいると思っているのだろう。イリーにはそう見えたが、違うのに、と歯痒さに心の中で叫んだ。

「フローティアが婚約者であることに不満があるわけではないよ。家のために運命が決められても、文句を言わずに私について来てくれているからね」

 そんな人が、ヒロインひとりのために運命を狂わされてしまう。この世界が現実となったいま、そんな残酷なことは、少なくともイリーにはできない。

「殿下は、フローティア様のことをどうお思いなんですか?」

 それは、どうしても確かめておきたかったことだ。アルヴァルドがフローティアを国のための婚約者としか思っていないことはわかっている。だが、直接に聞かなければならない。

「フローティアが婚約者でよかったと思っているよ」

 貼り付けた微笑みだった。これでもイリーは、前世で十五歳より多くのことを経験してきた。アルヴァルドが言ったことは嘘ではないが、自分自身の感情は一切、込められていない。未来の国王として、数ある貴族の令嬢の中でフローティアが最も適任であると思っている。ただそれだけのことだ。

「……フローティア様のこと、大事にして差し上げてください」

 アルヴァルドは不思議そうにイリーを見遣った。イリーは、話を切るように微笑んで見せる。

「フローティア様に怒られてしまいましたし、お喋りはこれくらいにしましょうか」

「……そうだね」

 アルヴァルドはいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、他の生徒たちの見回りへ向かった。イリーはその背中を見送り、少しでもフローティアの運命が変わることを祈った。

 それより、いまのイリーには考えなければならないことがある。

「まずいよ、リッツ。リグレット様とのフラグが立ってる」

 声の調子を落として言うイリーに、リッツは眉根を寄せた。

「どういうこと?」

「アルヴァルド殿下に護符を依頼されるのは、リグレット様との最初のフラグが立ってるときだけなんだよ」

 このとき、その依頼を受けることにより好感度が上がるのはリグレットで、アルヴァルドの好感度には影響しない。護符の依頼を受けることが、ふたつ目のフラグである。

「魔法実習の授業でフラグを折るのに失敗したし、やっぱり立ってしまってたんだよ」

「リグレット様と結ばれる可能性があるってこと?」

「可能性は出てきたね。私にその気がなくても、最後までフラグを立ててしまったら、フローティア様は断罪されるかもしれない」

 断罪イベントが起こるのは、攻略対象の好感度を最高値まで上げ最後のフラグが立ったときだ。悪役令嬢の断罪後、エンディングへ向かう場面で攻略対象はヒロインに愛を告げる。プロポーズを断るつもりでいても、最後のフラグが立っていれば悪役令嬢の断罪は始まってしまうのだ。

「最後までフラグを立てるのを阻止するために」と、リッツ。「どうしたらいいの?」

「とにかくリグレット様との接触を減らすしかないね。リグレット様とヒロインは、魔法学研究でリグレット様に魔法を教わることで親密度を上げていくんだ」

 この時点では、ヒロインがなぜ魔法の力を所有しているかの理由は語られていない。ヒロインの魔法の力に興味を惹かれたリグレットがヒロインに接触し、その謎を究明するためにともに研究をする。そうして、リグレットの好感度が上がっていくのだ。

「バッドエンドに向かうことだけは阻止しなきゃ」

「イリーの責任は重大ね」

「適当なことをするわけにいかないから。ただフローティア様を守っていればいいというわけじゃない」

 フローティアの断罪を回避したとしても、攻略対象がバッドエンドに陥っては意味がない。フローティアとすべての攻略対象を守るため、選択を誤るわけにはいかないのだ。

「何かあったら必ず相談して」リッツが力強く言う。「何もなくても相談して」

「何もなかったら相談することないよ」

 明るく笑うイリーに、リッツは穏やかに微笑む。

 もしリッツが自分の話を信じてくれなかったら、とイリーは考える。イリーがおかしな妄想をしていると思い、それが原因でリッツがイリーから離れて行ったら。おそらくイリーはいまよりさらに孤立し、ひとりでバッドエンドと闘うことになっていただろう。もしかしたらシナリオの強制力に負けていたかもしれない。頼もしい親友がそばにいることは、とても心強いことだった。




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