第2章【1】
翌日、イリーとリッツが教室に入ると、相変わらず不躾な視線がふたりに注がれる。蔑むものに加えて、昨日の実習でのイリーの魔法をまぐれだなんだと囁く者もある。この学園に通う意義があるイリーとリッツには、どれも気にかけるようなものではなかった。
空いている席に並んでついたとき、冷ややかな視線を切り開く穏やかな声がふたりにかけられた。
「やあ、イリーちゃんとリッツちゃんだよね」
それはエンリケ・エルスティード第二王子だった。美少年という言葉がよく似合う可愛らしい顔立ちが、女子生徒たちから熱い人気を集めている。アルヴァルドとはまた違う魅力を持ち、少々ミステリアスさを感じさせる王子だ。エンリケに声をかけられたイリーとリッツは、もちろん女子生徒たちから睨まれた。
「イリーちゃんは何か不思議な雰囲気があるね」
「そうですか?」
エンリケから悪意や敵意、詮索するような雰囲気は感じられない。ゲームのプレイヤーからは腹黒王子と称されていたが、純粋に興味を持っているだけのようだ。
「平民出身なのに高い魔法の力を持っている……。もしかしたら、王宮が欲しがるかもしれないね」
「できれば、王宮とは無関係でいたいですね」
イリーがあっけらかんとそう言うと、エンリケは目を丸くする。それから、楽しげに笑った。
「面倒だもんね」
王宮に何かしらの職で就くことができれば、将来は安定だと言える。王宮に召し上げられるのも栄誉なことだ。それを蹴るという選択は、ほとんどの者がしないことだろう。だがイリーは、王宮で働けるだけの能力があるかというと自信はない。魔法では高い能力を持っているが、それ以外の能力が高いかというと甚だ疑問だ。
何より、王宮と関わりを持つためには、アルヴァルドかエンリケのどちらかと懇意になる必要がある。フローティアを守るために、イリーには採れない選択肢だ。
「もし王宮で働きたくなったら声かけてよ。有能な魔法使いは大歓迎だよ」
「そうですね……。それは貴族より優れていると証明できてからの話ですかね」
「まだ入学したてだもんね。もし自分で満足できる魔法使いになれたら、僕の護衛をしてほしいな~」
「検討しておきます」
前向きにね、と笑ってエンリケは去って行く。それまでエンリケに向けられていた敬愛や憧れの視線は、冷ややかなものとなってイリーに戻って来る。イリーが気に留めずに教本を開くと、リッツがイリーに身を寄せた。
「やっぱりエンリケ様も攻略対象なの?」
「そうだよ」
「フラグは破壊できた?」
「どうかな……。エンリケ様は最初からヒロインに興味を持っていて、話しただけでフラグが立ってしまうんだ」
エンリケルートの最初のフラグはエンリケに声をかけられることだが、選択肢には「無視」も存在している。ゲームでは選択できる行動であるが、現実では積極的に採用することのできない選択肢だ。王族の声掛けを無視することは不敬にもほどがあるし、何より周囲から袋叩きにされることは間違いないだろう。
「でも、エンリケ様は他の攻略対象と比べてフラグが多いから、どこかで折れれば大丈夫だと思う。ただ、エンリケ様は掴みづらいお方だから、どこでどうフラグが立つかわからないけど」
フラグが破壊できるのと同じように、本来なら立つ場面でないところで立つ可能性もある。やはり攻略対象との接触は可能な限り避けたほうが堅実だろう。
「ちょっと、あなた」
鋭い声が降り注ぐので、イリーとリッツは顔を上げた。フローティアの取り巻きの令嬢ふたりが、目尻を釣り上げてイリーをねめつけている。
「エンリケ様に対して失礼ですわ! せっかくのご厚意でお声掛けくださいましたのに!」
「調子に乗るのも大概になさいませ! わたくしたちにとって雲の上のお方ですのよ!」
「おやめなさい」
フローティアが静かに言うので、取り巻きの令嬢たちは少し不満げにフローティアを振り向いた。
「けれど、フローティア様……」
「エンリケ様がお許しになられたのだから、それでよろしいでしょう。はしたない真似はおやめなさい」
「……はい、フローティア様……」
「フローティア様! 今日もお美しい……!」
しょんぼりと肩を落とすふたりは可哀想だが、イリーはそれよりフローティアに目を奪われた。手を組んで目を輝かせるイリーに、フローティアはうんざりしたように顔をしかめる。
「その賞賛はもっと他に向けるお方がいるのではなくて?」
「私の口から出る賞賛の言葉は、すべてフローティア様のためのものです!」
フローティアは溜め息を落とし、ひたいに手を当てる。それから気を取り直して、少しだけイリーのほうへ体を向けた。
「いいこと? わたくしを褒めそやしても意味がありません。むしろ不要ですわ。それより、王族へ対する敬意をお持ちなさい。学園ではどんな身分でも平等と謳われるけれど、王族に対する最低限の節度は守りなさい」
「はい! わかりました、フローティア様!」
素直に頷くイリーに、リッツも苦笑いを浮かべている。フローティアは呆れの色を湛えたまま、ふっと小さく笑った。
「あなた、犬みたいね」
「飼ってくださるんですか⁉」
「冗談じゃありませんわ」
フローティアがついとそっぽを向いたとき、イリーは背後からぽんと肩を叩かれた。
「うちの妹が申し訳ない、フローティア嬢」
それは義兄のマルク・マッケンロー伯爵令息だった。
「兄様、どうして一年生のクラスに?」
「講師の補助だよ。僕が見張っているから、寝ないようにね」
綺麗な茶色の短髪が揺れ、エメラルドグリーンの瞳を細めて微笑むと、周囲の女子生徒たちが見惚れて溜め息を落とす。アルヴァルドやジークローアとはまた違う雰囲気を持つ美形だ。兄妹でさえなければ賞賛できただろう。
「ごきげんよう、マルク様」
「こんにちは。イリーはこんな変わり者だから、友達がリッツしかいないんだ。よかったら仲良くしてやってくれるとありがたい」
「考えておきますわ」
「前向きにお願いします!」
イリーが明るく言うと、フローティアはついとそっぽを向いた。
「イリー。フローティア嬢を手本に、貴族に令嬢として相応しい人間を目指すんだよ」
「はい! 立派なフローティア様になってみせます!」
「できればイリー・マッケンローのまま立派になってほしいかな」
授業中、イリーは斜め前のフローティアを眺めていた。リッツに肘で小突かれたり、マルクに頭の向きを正されたりしながら、最後まで居眠りすることなく授業を終えたのだった。
* * *
昼休み、イリーとリッツはまた食堂の端の席に並んでついた。料理に舌鼓を打っているあいだ、和食が懐かしい、とイリーは考える。学生食堂は幅広く各地の料理を取り揃えているらしいが、和食はないようだ。素材さえあれば作れそうだなと考えたが、そもそも醤油や味噌が手に入らないので無理だと思い至った。
「イリーって」リッツが言う。「マッケンロー伯爵家は別邸がこの街にあるのに寮で暮らしているのね」
「ああ、そうだね。できればあの家で暮らしたくないんだ」
「どういうこと?」
「マルク兄様は攻略対象なんだ」
「兄妹なのに……?」
「血の繋がりはないからね」
その背徳感に魅せられるプレイヤーは多かった。王道に比べると見劣りはするが、マルクはアルヴァルドとはまた違う魅力の素朴な美青年だ。攻略対象の中で最も好感度が上がりやすく難易度が最も低いと言えるが、いまのイリーには結ばれることのできない攻略対象である。
「マルク兄様と私が結ばれると、駆け落ちすることになるの。お父様に恩を仇で返したくないから、結ばれてはならないんだ」
「なるほど……。同じ屋敷で過ごすと好感度が上がるから、離れ離れになるようにしたのね」
「うん」
マルクとの接触は意識的に徹底的に最小限で済ませて来た。前世では一人っ子で兄弟姉妹に憧れていたが、駆け落ちする攻略対象となれば話は別だ。伯爵もマルクもイリーをとても可愛がってくれた。だから、マルクと結ばれるわけにはいかないのだ。
「攻略対象は全部で何人なの?」
「全部で五人だよ。アルヴァルド殿下、ジークローア様、リグレット様、エンリケ様、マルク兄様ね。もうひとり隠し攻略対象がいるんだけど、条件は達していないし心配しなくても大丈夫かな」
隠し攻略対象は、いくつかの条件をクリアした上でフラグを立てなければならない。攻略難易度が他のルートより高めで、すべての攻略対象ルートを終えたあとに挑戦するルートだ。
「すべてのルートでフローティア様は妨害してくるの?」
「それが悪役令嬢の役目だからね。ヒロインが平民出身ってところで厳しく当たるんだ」
「でも、フローティア様が好きなのはアルヴァルド殿下だけなのよね?」
「そうだね。他の方のルートだと、学園に入るために伯爵家を利用した卑怯者とか、平民出身が魔法使いを目指すなんて身のほど知らずとか、そういうところで攻めて来る」
「ふうん……。まあ、貴族意識の高い方なら、そう思うこともあるかもしれないね」
悪役令嬢と取り巻きの女の子たちの嫌がらせは、攻略対象の見ていないところで行われる。最終的に、リッツ・トロジーを含めた周囲の学生たちによって罪が明らかとなり、そうして断罪へと進んで行くのだ。
「あなたと五人の恋を阻止できれば、フローティア様の破滅は防げるのよね」
「たぶんね。私がいじめられてなければ、断罪はされないはず。いまの私だったら、いじめられているようには見えないでしょ?」
「まあ、見えないわね。あなたが震えながら泣いていたら、私も庇ったかもしれないけど」
ヒロインが悪役令嬢にいびられている場面で、リッツ・トロジーはいつもそばにいる。リッツの言った通り、ヒロインを庇うこともある。悪役令嬢の罪を明らかにするうちのひとりだ。いまのリッツは、フローティアを断罪しようという気は一切ない。そもそもイリーがいびられているように見えないためである。リッツも、フローティアがイリーをいびっているとは思っていないだろう。
「フローティア様が愛情に溢れた人だってことは、私がよく知ってる。私がみんなに思い知らせてやるんだ」
「なんだか悪役みたいなこと言ってるわね」
「みんな、フローティア様の魅力を知らなすぎるんだよ」
「イリーがそこまで言うなら、きっと良い方なんだろうね」
「そのうちリッツも罵倒されたくなるよ」
「それはちょっと遠慮したいかな」
明るく笑うイリーに、リッツは少し呆れた表情で肩をすくめる。リッツが親友でよかった、とイリーはそんなことを思った。
「誰と結ばれるかによって」と、リッツ。「イリーの運命が変わるってことよね」
「そうだね」イリーは頷く。「アルヴァルド殿下のルートでは、未来の王妃になる。ジークローア様のルートが最も平和で、宮廷騎士になるジークローア様を支える妻になる。リグレット様のルートでは、ともに宮廷魔法使いを目指す。エンリケ様のルートは、王位を継いだアルヴァルド殿下を支える補佐になる。マルク兄様のルートは、さっきも言ったように駆け落ちすることになるよ」
平民出身のヒロインが攻略対象と結ばれることによって王族やそれに準ずる身分になることは、乙女ゲームではよく見られることだ。王道と言われるアルヴァルドルートは攻略難易度は低めで、平民出身の伯爵令嬢であるヒロインが未来の王妃となる展開は物語としても胸が熱くなるものである。ジークローアやリグレットのルートでは身分が上がることはないが、多くの責務を負うことになる王妃よりヒロインが幸せになるルートではないかと言われていた。
「ただし、これはハッピーエンドだった場合の話ね」
「ハッピーエンドじゃなかったらどうなるの?」
「バッドエンドだった場合、ヒロインの前から姿を消す人もいるし、命を落とす人もいるよ。ヒロインの選択次第でね」
リッツが言葉を失うので、大丈夫、とイリーは拳を握り締めて見せる。
「絶対にバッドエンドなんかにさせないよ。私はどうしたらハッピーエンドに導けるか知ってるんだし!」
「……そう」
安堵したように微笑むリッツに、イリーは明るく笑って見せた。それから、リッツはまた真剣な表情になる。
「バッドエンドになったとき、みんなの運命はどうなるの?」
イリーは一瞬だけ躊躇った。バッドエンドのことを考えるのは自分だけでいいと思っていたからだ。だが、リッツに誤魔化しは効かないだろう。
「アルヴァルド殿下のルートは、断罪された悪役令嬢が逆上してヒロインに襲いかかったときにアルヴァルド殿下が返り討ちにするんだけど、婚約者を死なせてしまった罪で廃嫡と国外追放になるんだ」
「本当にそうなったら国中が大騒ぎになると思うけど」
「物語はそこで終わるから、その後のことは私にもちょっとわからないんだよね」
「そっか。まあ、物語ってそういうものよね」
「うん。ジークローア様のルートはもうちょっと悲惨で、逆上した悪役令嬢をジークローア様が返り討ちにするんだけど、悪役令嬢はその時点では死なないの。でも投獄されて、その牢獄で息を引き取るんだ。それで、ジークローア様は騎士失格とされて、資格を剥奪されたあと、ヒロインの前から姿を消すんだ」
リッツが眉間のしわを深めて黙り込むので、イリーは思わず苦笑した。ゲームをプレイしていた頃は単なる物語を見る第三者であったためあまり深く考えていなかったが、現実となったいま、バッドエンドはあまりに悲惨である。
「リグレット様のルートでは、逆上した悪役令嬢の魔法からヒロインを守って深手を負い、魔法の力を失って、傷が治りきらないうちにヒロインの前から姿を消すの。エンリケ様のルートはちょっと複雑なことになるんだよね。マルク兄様のルートは、ハッピーエンドは駆け落ちしたところで物語が終わるんだけど、バッドエンドではそのあとにも物語が続いて、最終的に兄様は命を落としてマッケンロー伯爵家は没落することになる」
もう何も言えない、といった様子でリッツは顔をしかめている。リッツのこんな表情は見たことがない、とイリーがそんなことを考えていると、リッツは気を取り直したように口を開いた。
「攻略対象もそうだけど、悪役令嬢もバッドエンドだと命を落とすのね……」
「そうだね。ハッピーエンドだったら追放で済むんだけど」
「エンリケ様のルートの複雑なことって?」
「エンリケ様が私と結ばれると、王位継承権がエンリケ様に渡ることになるの」
リッツの表情がまた渋くなるのでイリーは困って、たはは、と小さく笑ってから続ける。
「アルヴァルド殿下は長男だけど、第二側妃の御子。一番目に生まれたから、王位継承権が与えられたの。その一年後に生まれたエンリケ様は、次男だけど正妃の御子。おふたりはそれを認め合っているし、兄弟仲も良好だから、問題は起こらない」
「ヒロインのために、おふたりが争うことになるの?」
「おふたりが直接に争い合うと言うより、周囲が争いを生む感じかな。まあ、発端は悪役令嬢の断罪なんだけど」
悪役令嬢の断罪後、婚約者が罪を犯したことでアルヴァルドへの風当たりが強くなる。そこに付け込んだエンリケ派の者が、ヒロインの聖女としての力を利用し、アルヴァルド派との対立を生み出す。それはヒロインとエンリケが望んだものではなく、争いはアルヴァルドの暗殺という最悪の形で決着する。そうして、エンリケに王位継承権が渡るのだ。最も高い人気を誇っていたアルヴァルド推しからの評価は低く、エンリケルートは絶対にバッドエンドにしてはいけない、と意志を固める派閥が発生していたものだ。
「ヒロインの選択次第で」と、リッツ。「こんなにも運命が変わってしまうのね」
「うん。でも、そもそもヒロインと結ばれなければ、五人の運命は変わりようがないよ。私は誰にも恋愛感情を懐いていないし、誰とも結ばれる気はないから。私はただフローティア様を愛でていたいだけ」
強く拳を握り締めて言うイリーに、リッツはようやくいつもの呆れた笑みに戻る。馬鹿にしたり怒ったりしないところは、さすが自分の親友だ、とイリーはそんなことを思った。
「フローティア様には、アルヴァルド殿下と結ばれて幸せになってほしい」
「アルヴァルド殿下はフローティア様のことをどう思っていらっしゃるのかな」
「嫌ってはいないけど、国のための婚約者としか思っていないよ。だから、私の応援でフローティア様の気持ちに気付かせる」
「……うまくいくように頑張ろうね」
そう言ってリッツが微笑むので、イリーも明るく笑って頷いた。
リッツに打ち明けると判断したのは正しかった、とイリーは思う。自分ひとりだけでは限界があっただろう。リッツもフローティアの味方でいてくれるなら、きっとフローティアをハッピーエンドに導くことができるはずだ。それが叶うなら、イリーは今世の人生の目的を果たしたと言える。転生はきっと、そのためのものなのだ。
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