第1章【3】

 入学してからの数日間の座学では、イリーは居眠りしないよう努めた。もともと勉強ができるほうではないし、平民出身は頭も悪い、とでもなれば伯爵家に汚名を被せてしまう。このエルスティード王国では、貴族の子息子女は十五歳で王立魔導学園に入学し、卒業するとそれぞれの仕事に就く。イリーは攻略対象と恋をする気はないため、将来は伯爵家の営む家業に就くつもりだ。そのためには能力の向上を目指す必要がある。前世の学生生活は惨憺さんたんたるものであったが、今世では真剣に学ぶと心に決めている。


「イリー、起きて」

 リッツに肩を叩かれて、イリーは意識を取り戻した。国史の授業はとうに終わり、教室を出て行く生徒たちがイリーを見てくすくすと笑っている。講師が教壇を降りるのを見て、イリーは項垂うなだれた。

「絶対に寝ないってフローティア様に誓ったのに……!」

「いつの間にそんな誓約を結んだの」

「さっき心の中で」

 リッツは頬を引きつらせ、そう、と呆れたように呟いた。

「でも、寝ていたのは最後の五分くらいよ。居眠りの時間がどんどん短くなっているから、そのうち寝ないようにできるんじゃない? ノートはあとで写させてあげるから」

「ありがとう、助かる……」

 どうにも座学の時間は眠くなる、とイリーは息をつく。確かにリッツの言う通り、居眠りしてリッツに肩を叩かれるまでの時間は短くなってきている。ヒロインはもっと勤勉であったはずだが、前世で身に付いた怠け癖が発動しているのかもしれない。伯爵家に汚名を着せないためにも、もっと寝ないための努力をしなければならない。努力する方向が他の生徒とは違うような気はするが、まずは寝ないということで他の生徒と同じ土俵に立たなければならない。

「次は実習だし」と、リッツ。「早く着替えに行こ」

「うん」

 ふたりが向かう魔法実習の授業は、座学で魔法のことを充分に習ったあとに始まる。生徒たちはまだ魔法について学び始めたばかりで、入学前にそれぞれの方法で勉強しているだろうが、魔法に対する知識は充分とは言えない。その状態で実習を始めては魔法の力を上手く制御できず、危険な目に遭う生徒が出てくる可能性もあるのだ。

 王立魔導学園では、実習の授業はローブを身に着けることが定められている。魔法攻撃耐性を付与したローブで、魔法が暴発した際のダメージを軽減するためのものである。実習の授業がある日は、登校の際にローブを校庭前の更衣室に置いておく。授業前に更衣室に寄り、準備を整えて校庭に出るのだ。

 魔法実習の授業は、一年生と二年生の合同で行われる。講師ひとりではすべての生徒を見ることができないため、講師役として二年生が一年生につくのだ。

「実習の授業って、何割の力でやるべきだと思う?」

 愛用の杖を確認しながらイリーが言うと、リッツは怪訝な表情で首を傾げた。

「十割でいいと思うけど」

「全力でやれってこと?」

「そうしないと駄目でしょう。授業なんだから」

 正直なところ、とイリーは考える。イリーは聖女であるため、一般的な貴族より魔法の能力がかなり高い。人より強力な魔法を扱えることは平民時代に確認したし、伯爵邸でも義兄を相手に実習を行い危うく怪我をさせるところだった。これから魔法の基礎を学んでいく貴族の子息子女が相手では、ともすれば命の危機に晒すことすらあるかもしれない。

「本気を出さないといけないのか……」

「あら、随分と自信がおありのようですわね」

 金髪の女子生徒が馬鹿にしたようにつんとして言う。そのとなりにいたふたりの女子生徒たちも、意地の悪い笑みを浮かべていた。

「さすが平民。ご自分の能力を把握しておりませんのね」

「これから学ばれるのだから、仕方のないことですわ」

「お怪我をなさいませんように、せいぜいお気を付けあそばせ」

 ムッと顔をしかめたリッツが前に出ようとするので、イリーはその肩に手を当てそれを制した。イリーはこういった貴族の嫌がらせは想定内であるし、腹を立てたり言い返したりする労力がもったいにないと思っている。

「おやめなさい。その言動は民の上に立つ者として相応しくありませんわ」

 凛とした声が聞こえると、三人の女子生徒はびくりと肩を震わせた。生徒たちが畏怖の念を懐く存在からの忠告は、誰が発する言葉よりも重いものだ。

「フローティア様!」

 イリーが手を組んで目を輝かせると、フローティアはついとそっぽを向いて去って行った。

「うう……美しすぎる……。その上、たったあれだけの発言で厭味を退けるなんて、痺れる……。はあ……尊い……」

「あの方が本当にイリーをいびるの?」

「いまのは私を助けてくださったわけじゃないからね。悪役令嬢とは言っても、地位の高い身分の方だから、貴族精神に反する貴族は許さないよ」

「ふうん……。フローティア様もけっこうイリーのことを見下していたと思うけど」

「わかってないなあ、リッツ」

 得意げに胸を張るイリーに、リッツはいよいよわけがわからないといった様子で肩をすくめた。

 講師の挨拶で授業が開始される。指示によって数人ずつでグループが形成されたが、イリーとリッツに声をかける者はいなかった。ゲームでは描かれていなかったが、ヒロインがこれほどまでに孤立していたとは、イリーにも想定外のことだった。ただ、ゲームのヒロインは人懐っこく天真爛漫なイメージであるため、徐々にクラスに馴染んでいくのだろう。イリーにそのつもりがないだけである。

「やあ、おふたりさん」

 そんな陽気な声が聞こえ、イリーとリッツは教本から顔を上げた。明るいプラチナブロンドの長髪を一括りにした新緑の瞳の青年が、柔らかく微笑みながらふたりに歩み寄って来る。イリーには、この青年が誰なのかはすぐにわかった。

「教師役は決まったか? まだなら俺と組まないか?」

「間に合ってます」

 にこりともせず即答するイリーに、リッツも青年もきょとんと目を丸くする。リッツは即座にその理由を察知したようだが、青年は不思議そうに首を傾げた。しかしイリーは説明をせず、だっ、とその場から駆け出す。

「フローティア様! 私と組んでください!」

 教本を閉じ実践の準備を始めていたフローティアと取り巻きの女の子ふたりは、突如としてかけられた声に驚いて目を剥く。講師役の二年生は背の低い可愛らしい女子生徒だった。

「わたくしが平民出身とつるむわけがないでしょう?」フローティアが呆れて言う。「いくら魔法が使えるからといって、平民出身であることに変わりはありませんわ」

 つんと澄ますフローティアに、イリーは自分に集まる周囲の視線など気にならないほど胸が高鳴っていた。目の前に推しがいる。あまつさえ自分と口を利いてくれている。その事実に目眩がするが、イリーはフローティアを見つめるのをやめなかった。

「わたくしとあなたとでは実力が釣り合いませんの。悔しかったら、貴族より優れていると証明してみせなさい」

「はい! ありがとうございます!」

 フローティアがついとそっぽを向くので、イリーは諦めてリッツのもとへ戻った。リッツは呆れてイリーを肘で小突き、青年はフローティアを眺めている。

「相変わらず厭味なご令嬢だなあ」

「あれはフローティア様なりの激励ですよ」

 教本を開きながらイリーが言うと、青年は促すようにイリーを見遣る。

「要は、優れた魔法使いになったら認めるってことじゃないですか。フローティア様がお認めになれば、周りも私の実力を認めざるを得なくなります」

「公爵家のご令嬢だからなあ。フローティア嬢が認めた人間を見下せば、公爵家のご令嬢の判断に反発することになる。……そういうことか」

「はい。それに、先輩もご覧になったかもしれませんが、私はかなり見下されています」

「フローティア嬢がいさめていたね」

「でも」と、リッツ。「ご自分もイリーのことを平民出身って仰ってたわよ」

「簡単に言うと、自分より身分の低い者の嫌がらせを許さないと表明された感じ……かな」

 ふたりが揃って首を傾げるが、さて、とイリーは話を切った。そろそろ真面目に授業に取り掛からなければならない。

「始めようか、リッツ」

「ええ」

「じゃあ俺が講師役で――」

「他を当たってください」

 きっぱりとイリーが言うと青年は、えー、と不満げな表情になる。

「リグレット・ヴァラン様ですよね。未来の宮廷魔法使い様が平民出身とつるんでいたら、何を言われるかわからないですよ」

 青年――リグレットは面食らったようだった。だが、リグレットはアルヴァルドとジークローアに次いで目立つ人物だ。新入生のイリーが知っていても不思議はないだろう。

「そんなことを気にしていたら、宮廷魔法使いは務まらないよ」

「それだけじゃないです。そもそも、実力差がありすぎます」

 というのは名目だ。イリーは聖女であるため、宮廷魔法使いに匹敵、ともすれば上回る魔法の力を持っている。自習で事足りるだろうし、リッツに教えることもできる。講師役として、わざわざリグレットと接点を作る必要はないだろう。

「俺が教えるよ。フローティア嬢に認められたいんだろ?」

 このとき、イリーは冷静さを著しく欠いた。

「確かに実力は必要ですね」

 そう言ってから、イリーはハッと我に返る。リグレットは、してやったり、といった様子である。自分の失策には呆れるばかりだが、いまさら取り消すのも気が引けた。

「では、私を鍛えてください。どんな敵でも打ち勝てるように」

「いいね。きみは強くなるよ」

 爽やかに微笑んで、どこから始めようかな、とリグレットは教本を開く。その隙に、リッツがイリーの耳元に口元を寄せた。

「もしかして、リグレット様って……」

「うん。攻略対象のひとりだよ」

 今日がその出会いの日だ。ゲームの印象と違わぬ爽やかな好青年である。フローティアを破滅へ導くひとりであるため接点は作りたくなかったが、こうなってしまった以上、仕方がないだろう。

「この魔法実習がリグレット様のルートの最初のフラグなんだけど、破壊に失敗しちゃったな。できればリグレット様の好感度を上げたくないんだよね」

「どうして?」

「リグレット様のルートは負けイベントがあるんだよ」

「負けイベントって?」

「勝てない戦いのこと。負けイベントに進んじゃうと、リグレット様は命を落とすことになるんだ」

 リッツは眉間にしわを寄せる。

「じゃあ……守らなければならないのは、フローティア様だけじゃないってこと」

「うん。破滅の危険があるのは、フローティア様だけじゃないんだ」

「……酷い物語ね」

 この世界が現実となったいま、イリーもそう思っている。フローティアのみならず、攻略対象もヒロインの選択次第で運命が変わってしまう。その鍵を自分が握っていると思うと、ひとつも選択を誤れない重責が肩に圧し掛かった。

「イリー、試しにこの魔法を使って見せてくれ」

 そう言ってリグレットが指したのは、基本中の基本である炎の魔法だった。手のひらに小さな炎を浮かべるものである。何かに火を点けたいときなどに使う魔法だ。

「わかりました」

 小さな炎、とイメージを描きながら手のひらを上に向ける。指先まで魔力が伝わった瞬間、ごう、と音を立て大きな炎が噴き上がった。周囲にいた生徒たちが、驚いて声を上げる。

「どうですか?」

 イリーが振り向くと、リグレットは渋い表情をしていた。

「もうちょっと難しいほうに進んでみようか」

「そうですか」


 魔法実習の授業のあと、イリー・マッケンローに仇なす者は燃やされる、とそんな噂が密かに流れていた。



   *  *  *



 夕食を終えて寮の部屋に戻ると、リッツが紅茶を淹れた。貴族の令嬢が自らお茶を用意することは本来ならないことだが、リッツはそれが趣味のようなもので、各国の茶葉を入手してはこうして振る舞ってくれるのだ。

「実習でのあなたの魔法を見る限り、あなたの実力は貴族に匹敵すると思う」

 一息ついた頃、真剣な表情でリッツが言った。

「むしろ上回るかもしれない」

 さすがリッツ、とイリーは心の中で感心する。トロジー家は優れた魔法使いの家系でもある。イリーの魔法を見れば、その血に有する魔法の力がどれほどのものであるかはすぐにわかっただろう。

「その上で、あなたは実力が必要だと言った……宮廷魔法使い見習いの力を借りてまで。何か……フローティア様に認められる以上の実力が必要だということでしょう?」

「……隠していたわけではないんだけど……実は、フローティア様が悪霊に取り憑かれるルートがあるの」

 それはどの攻略対象と結ばれても有り得るルートだ。打ちのめされたフローティアが絶望に呑まれ、その心に付け込んだ悪霊がフローティアの体を乗っ取るのだ。もちろんヒロインは攻略対象と力を合わせて討伐することになる。最推しのフローティアをこの手で討ち滅ぼすなど、想像するだけで心臓がはちきれそうになる。

「フローティア様は本当にアルヴァルド殿下が好きなんだけど、アルヴァルド殿下は国のための婚約としか思っていないの。でも、アルヴァルド殿下はヒロインと恋に落ちる。そうやって、フローティア様は少しずつ心に闇を溜めていって、秋のアルヴァルド殿下の誕生日パーティで、フローティア様が悪霊に乗っ取られるイベントが起こるんだ」

「じゃあ、イリーがアルヴァルド殿下と結ばれなければ避けられるってこと?」

「そう簡単な話でもなくて、他の攻略対象と結ばれるルートでも、そうなることがあるの」

「そっか……」

 フローティアは必ずしも闇に堕ちるわけではない。ゲームでの分岐は、秋のアルヴァルドの誕生日パーティだ。フローティアが悪霊化しないルートでは、秋のアルヴァルドの誕生日パーティイベントは起こらない。フローティアは別のイベントで断罪され、追放もしくは処刑となる。

「フローティア様の破滅って、どういったものなの?」

「悪霊に取り憑かれるルートだと、ヒロインは最も好感度の高い攻略対象とダンスを踊るの。そのあと、フローティア様の断罪が始まる。そこでフローティア様は心を蝕まれて、悪霊に心を乗っ取られてヒロインと攻略対象が倒す。悪霊ルートじゃなければ、ヒロインへの犯罪まがいの嫌がらせを裁かれて追放か処刑、って感じかな」

「……フローティア様と攻略対象の運命は、すべてヒロインにかかっているのね」

「そういうこと。だから、迂闊な行動は取れないんだ」

「そう考えると確かに、あなたが誰とも結ばれないほうがフローティア様のためになるのね。でも、あなたが誰とも結ばれなかったらどうなるの?」

「この世界には友情エンドがなくて、私が誰とも結ばれなくてもフローティア様が断罪される可能性はあるね」

 リッツが困ったように眉尻を下げるので、イリーは薄く笑って肩をすくめる。

 ゲームでは、ヒロインと結ばれた攻略対象が悪役令嬢の断罪をする。ヒロインに対する悪役令嬢の嫌がらせを攻略対象が裁くのだ。現在、イリーは自らフローティアのもとへ行くが、厭味な令嬢だとリグレットが言っていたように、ただの嫌がらせでフローティアへの心証が悪くなる可能性もある。

「フローティア様が断罪されるのは、私への犯罪まがいの嫌がらせのせいなんだけど、ここが現実である以上、フローティア様がそれをやらないっていう確証はないからね」

「本当にそう思ってるの?」

「思ってないよ。見ての通り、フローティア様はお小言を言ってくるだけだから。本当に犯罪まがいの嫌がらせをして来るのは、フローティア様の取り巻きの令嬢たちだよ」

「それなのにフローティア様が断罪されるの?」

「取り巻きたちの罪がすべてフローティア様に被せられて、取り巻きたちも手のひらを返して、フローティア様を擁護する人は誰もいなくなるからね」

「それでフローティア様は追放か処刑というわけね」

「ヒロインがハッピーエンドに進めば追放。バッドエンドに進めば攻略対象に殺される」

「本当に酷い物語ね」

「ほんとにね。物語の最後、フローティア様が孤立するのは見ててしんどかった……」

「だからあなたはフローティア様を庇うのね」

「庇ってるわけじゃないよ。あれはフローティア様なりの愛だから」

 胸に手を当て溜め息を落とすイリーに、リッツは少し呆れたように笑う。イリーは肩をすくめて、また真剣な表情に戻った。

「フローティア様は、本当はとても愛情深いお方なの。誤解されやすいだけだよ」

 フローティアが理由なくイリーをいびることはない。理不尽なことを言ったり、意味もなく傷付けようとしたりすることはないだろう。フローティアの言動には理由がある。それを知っているのはイリーだけなのだ。

「なんとしてもフローティア様の破滅を防ぎたい」

 イリーは強く拳を握り締める。ここが「蒼の瞳に星が輝く刻」の世界だと気付いたときから、それだけを目標としてきた。自分が転生した意味もそうだと思っている。

「もちろん、私にも協力させてくれるんでしょ?」

 リッツが不敵に微笑んで言うので、イリーは首を傾げた。

「ありがたいけど、リッツはフローティア様にはなんの思い入れもないでしょ?」

「フローティア様がどんな方なのかは私にはまだわからないけど、親友の力になりたいって思うのは当然よ」

「……ありがとう、リッツ」

 リッツが親友でよかった、とイリーは思った。これほどまでに心強い親友を得たことは、イリーにとってとても幸運なことだった。





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