第1章【2】
優しい声がする。温かく、懐かしく、忘れられない音色。
陽光を目指し咲き誇る向日葵が眩しく、穏やかな風が絹のように頬を撫でる。
過ぎ去りし願いは、
――次に目を覚ましたとき、私はもっと幸せでありますように――
* * *
「イリー。……イリー、起きて」
リッツに肩を揺さぶられ、イリーはハッと目を覚ます。いつの間にか教壇にいた講師は姿を消し、生徒たちはお喋りをしながら教室をあとにしている。
「あれ……いつの間に……」
「あなた、説明会の開始から五分で寝てたわよ。そんなことじゃ先が思いやられるじゃない」
「あは、緊張してたのかな」
「もう……。とにかく、説明会は終わったし昼食に行きましょ。今日から食堂を使えるはずよ」
「うん。お腹空いたー」
寝るつもりはなかったが、イリーにとって説明会はあまり重要ではなかった。ゲームの中のチュートリアルで何度も読んだものであるため、ほとんど記憶している。とは言え、寝てしまうのは講師に失礼だったな、と心の中で少し反省した。
「授業は明日から始まるんだよね」
「そうね。授業で寝たら置いていかれるわよ」
「気を付けるよ」
そのとき、イリーは何かに足を取られて躓いた。リッツに支えられて体勢を持ち直すと、くすくすと笑う声が聞こえる。
「平民がフローティア様とお近付きになろうなんて身のほど知らずですわ」
ひそひそと囁き合いながら、三人の女子生徒が去って行った。その後ろ姿に、リッツはむっと顔をしかめる。
「いまの、もしかしてフローティア様の?」
「フローティア様に取り入ろうとしてる家の子たちじゃないかな。ああやってフローティア様の周りにいる子たちが、ヒロインに嫌がらせをするんだ」
「くだらない。まるで子どもじゃない」
行こう、とイリーはリッツの手を引いた。リッツは不満げな表情をしていたが、すぐに気を取り直してイリーに続く。
「中には犯罪まがいの嫌がらせをする子もいるんだけど、その罪がすべてフローティア様に被せられるんだ。さっきリッツが言った通り、フローティア様はあまり酷いことを言ったりしない」
悪役令嬢は平民出身ということでヒロインに厳しく当たるが、的外れなことを言っているとはイリーには思えなかった。取り巻きが嫌がらせをする場面では画面上にフローティアの姿はあるが、実際の嫌がらせはフローティアからのものではない。それも、フローティアが最推しになってから気付いたことだ。
「フローティア様の指示で取り巻きがそうしているかのように描かれるんだ。そうやって、フローティア様は破滅の道へと追い詰められていくの」
「なぜフローティア様が罪を被るの?」
「悪役令嬢だから……としか言いようがないけど、たぶん、ヒロインに最も接触しているのがフローティア様で、ヒロインをいびる人の中で一番に目立つからじゃないかな」
「フローティア様に取り入ろうとしていた者たちが、手のひらを返すってわけね」
「うん。だから、フローティア様が首謀者として裁かれるんだ」
悪役令嬢を裁くのはヒロインではなく攻略対象だ。ヒロインはフローティアだけの仕業でないことは知っているが、断罪イベントではヒロインに選択肢はほとんどない。それは、裁かれるのが悪役令嬢でなければ物語が破綻するためだ。もし断罪の瞬間が訪れたとしても絶対に黙るものか、とイリーは心に決めている。
「私が誤解を解く。フローティア様は悪役なんかじゃない」
「どうしてそんなことを知っているの?」
「追加ダウンロードコンテンツに、悪役令嬢視点の話があるの」
「追加……なに?」
「追加ダウンロードコンテンツっていうのは、番外編みたいなものかな。その話では、フローティア様の心情が語られるの。だから私はフローティア様の心情を知ってる」
初めて悪役令嬢視点をプレイしたとき、イリーは涙が止まらなかった。追加ダウンロードコンテンツとしては賛否両論であったが、イリーの最推しがフローティアに決まった瞬間であった。
「私はフローティア様を守りたい。最推しじゃなかったとしても、そう考えたと思う」
「……そっか。そうだね。フローティア様だけが罪を被るのはおかしいものね」
「うん。私とリッツは絶対に裏切らないって、フローティア様には気付いてほしいな」
フローティアのそばには、明確な「味方」はいない。フローティアの取り巻きはその地位に取り入ろうとしている者ばかりで、フローティアが断罪された際に簡単に手のひらを返す。そんな者たちにフローティアを任せるわけにはいかないだろう。イリーは、この世界では自分が一番にフローティアを敬愛しているとすら言える。自分がフローティアを守るしかないのだ。
* * *
学生食堂はすでに多くの生徒で賑わっていた。王立魔導学園の中ではすべての身分が平等だとされているが、偉そうな生徒が他の生徒を使い走りにしている様子も見て取れた。まさに貴族社会の縮図のような光景であった。
「人がいっぱいだねえ」食堂内を見回してイリーは言う。「あっ! あそこにフローティア様が!」
「待って」と、リッツ。「行きたいのはわかるけど、いきなりあなたが声をかけるのは遠慮しておいたほうがいいわ」
「わかってるよお。ああ、この堅牢な壁が私たちの愛を阻むのね……」
「はいはい。じゃあ、ご飯もらいに行こ」
学生食堂では、食事をもらいに行くのも席まで運ぶのも自分でやらなければならない。中にはそれが不服な生徒もいるようで、先のように身分が下の生徒を使い走りにする生徒もいる。リッツはイリーより身分が上だが、リッツがそんなことをするわけがないと確信を持って言える。
各々の食事を受け取ると、イリーとリッツは食堂の端の席についた。賑わいからは離れた場所だが、落ち着いて食事を取るにはちょうどいい席だった。
食事に舌鼓を打っていたとき、食堂にどよめきが広がるのでイリーは顔を上げる。生徒たちの視線が集まる先に、ついに来た、とイリーは心の中で呟いた。
「リッツ、攻略対象の登場だよ」
「ほんとに?」
リッツは目を丸くする。信じられない、といった表情だ。
生徒たちは熱い視線を送りながらも、声をかけることはできない。なぜなら、その人物はこの学園の中で最も高い身分だからである。
アルヴァルド・エルスティード王太子。さらりと揺れる金髪が美形を際立たせ、身長が高くすらりとしている。攻略対象の中で最初に出会うため、そのルートは王道とされている。
そのあとに続くのが、宮廷騎士見習いのジークローアだ。生真面目で硬派な印象を与える顔立ちをしている。アルヴァルドの護衛騎士である。ジークローアを推しとしているプレイヤーは多く、二番目に人気と言えるルートだ。
「じゃあ」と、リッツ。「王太子殿下と恋仲になる可能性があるってことなの?」
「そうだね。それが乙女ゲームってものだよ」
アルヴァルドとジークローアは二年生。本来ならイリーは視界に入らないどころか、認識すらされないだろう。平民出身と王族とでは身分の差が大きすぎる。しかし、それを越えてしまうのが乙女ゲームの醍醐味である。
イリーの思っていた通り、アルヴァルドとジークローアは視線を送る生徒たちに軽く手を振りながら、イリーとリッツのもとへと歩み寄って来た。リッツが慌てて立ち上がろうとするのを、アルヴァルドは優しく制止する。
「やあ、イリー・マッケンローだね」
「はい、殿下」
「私の婚約者が酷いことを言ったらしいね。すまなかった」
アルヴァルド王太子は、フローティアの婚約者なのだ。この王子がいずれフローティアを断罪すると考えると愛想良くする気にはなれないが、王族に対して不敬を働くつもりはない。
「酷いことなんて言われてないです」イリーは言う。「フローティア様の仰ったことは、すべて事実ですから」
アルヴァルドとジークローアは目を丸くした。イリーが気の弱い女の子だと思っていたのかもしれない。
「フローティアにいびられて泣かないなんてな」と、ジークローア。「いままで何人が泣かされてきたことか」
「フローティア様は心配してくださっているだけです」
「心配?」
アルヴァルドが首を傾げるので、イリーはにこりと微笑んで見せた。
「私が伯爵家に引き取られたのが二年前。貴族教育はまったく足りていません。貴族の子息子女が集まる中でちゃんとやっていけるのか、それを心配してくださっているだけです」
アルヴァルドとジークローアは呆気に取られている。しかしイリーには、自分の主張を変える気はなかった。
フローティア・レヴァラレン公爵令嬢は、かなり気の強い令嬢だ。物言いはきつく、他人に対して厳しく接する。ジークローアの言うように、何人もの子息子女がフローティアの説教を受けてきただろう。生温い貴族社会の中で生きて来た者は、その厳しさに耐えられないかもしれない。この学園でフローティアに畏怖の念を懐く者は少なくないだろう。
「フローティアに対してそんなふうに言う子は初めてだよ」アルヴァルドが感心したように言う。「フローティアを恐れる者は多いからね」
「優しいお方だと思います」
イリーが確信を持って言うと、アルヴァルドはどこか安堵しているように見えた。イリーが打ちのめされて学園生活がつらいものになる可能性があると思っていたのかもしれない。イリーはフローティアにどれだけ罵倒されても変わらぬ敬愛を持ち続ける自信があった。
「きみはリッツ・トロジーだね」
「はい、殿下」
「フェリクスにはよく世話になっているよ。きみの将来にも期待している。実力を遺憾なく発揮してくれ」
「ありがとうございます」
にこやかに微笑んで、アルヴァルドはふたりに背を向ける。そのあとにジークローアが続いて食堂をあとにすると、冷ややかな視線がイリーとリッツに注がれた。ふたりは気に留めることなく、意識を食事に戻す。そんな目で睨まれても、とイリーは溜め息を落とした。自分から接触したならまだしも、今回は向こうから声をかけて来たのだから致し方ないこと。周囲の生徒たちは、そうは思わなかったようだ。
「第一フラグ破壊完了だよ」
学生たちの視線がようやく解除されると、イリーは小さな声でそう言った。リッツは首を傾げる。
「フラグって?」
「攻略対象との恋が発展する分岐点、って感じかな」
「もともとは攻略対象と恋をするのが目的なんだっけ」
「うん。アルヴァルド殿下のルートの最初のフラグは、ヒロインが悪役令嬢にいびられて泣いていたのを慰められることなの」
アルヴァルドとジークローアがイリーのもとへ赴いたのはそのためだ。もし本当にイリーが泣いていれば、アルヴァルドルートにひとつフラグが立っただろう。ジークローアも行動をともにしていたのは護衛騎士であるためで、彼のルートの最初のフラグはここではない。
「アルヴァルド殿下には、フローティア様を大事にしてほしい。アルヴァルド殿下と結ばれないと、フローティア様は幸せにはなれないから」
フローティア・レヴァラレン公爵令嬢は、最初は平民出身ということでヒロインに厳しく当たる。それが次第に、アルヴァルドをヒロインに奪われる危機感によるものになっていくのだ。そんな悪役令嬢の焦りに、取り巻きたちの嫌がらせも増長していく。そうして、悪役令嬢は破滅への道を辿っていくのである。
「この物語の目的は、イリーが誰かと恋をすることなのよね?」
「そうだね。攻略対象の好感度を上げていくのが目的。その結果、フローティア様は破滅するの」
「フローティア様を守るために、攻略対象の人と結ばれる気はないんでしょう?」
「うん。攻略対象とはないかな」
「じゃあ、うちの兄はどう? 攻略対象なの?」
リッツが身を乗り出して言うので、イリーは首を傾げた。
「フェリクス様? 素敵な方だけど、将来有望な宰相家のご長男と私とじゃ釣り合わないよ」
それをリッツはよくわかっているはずだが、とイリーは首を捻る。平民出身の伯爵令嬢が未来の宰相と婚約することは大きなメリットがあるが、未来の宰相が平民出身の伯爵令嬢と婚約することにはデメリットが大きいように思う。乙女ゲームでは身分の差を越えることに胸が熱くなるものだが、それが現実となったいま、利益と損失のことを考えざるを得ない。それが貴族の務めというものだろう。
学生寮は二人部屋になっている。イリーはリッツと同室で、授業と食事を終えた帰るとすでに荷物が運び込まれていた。日用品などを整理整頓し、二段ベッドはどちらが上かという話になると、リッツは高いところが苦手だと言う。イリーは、寝相が悪いから落ちないか心配、と笑って見せた。そうして、入学初日の夜は穏やかなものとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます