乙女ゲームのヒロインに転生したので悪役令嬢の破滅ルートなんてぶち壊してみせます!

加賀谷イコ

第1章【1】

「平民出身であるのに、よくこの学園の敷居を跨げたものね。身のほどを弁えなさい。この学園の伝統を穢すことは、このわたくしが許さなくてよ」

 浴びせられる厳しい言葉より、待ち望んだ邂逅が叶ったという事実に目が眩み――

「はい……ありがとうございます……」

 イリー・マッケンローは初手を誤った。






   第一章


 エルスティード王国王立魔導学園。魔法の素質を持つ未来の紳士淑女が通う魔法学校だ。長い歴史と高貴な伝統を有する王立魔導学園は、貴族の子息子女のみが入学を許される。穏やかな六月。将来を期待される十五歳たちが、希望に満ちた表情で次々と門をくぐって行った。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

 親友のリッツ・トロジーが、青空の瞳に心配の色を湛えて問いかける。背が高いため少し腰を屈めると、綺麗な栗毛の長髪がさらりと揺れる。体の線も細くしなやかで、十五歳にしてすでに美女が完成されていた。

「あなたの話では、あなたはこの学園で悪役令嬢という人にいびられるんでしょう?」

「大丈夫だよ。私に任せといてって」

「うーん……。まあ、あなたを信用するわ、イリー」

 イリー・マッケンロー。マッケンロー伯爵家に養女として迎えられた平民出身の子。平民出身でありながら魔法の素質を持ち、リッツと同じく新一年生としてこの王立魔導学園への入学を許可された。それは、イリーがこの「蒼の瞳に星が輝く刻」の世界のヒロインだからである。イリーにとっては、乙女ゲームの中の物語であった。親友のリッツに打ち明けたのは、前世の記憶が蘇った一ヶ月前のこと。いちから説明するのは骨が折れることだった。

「その悪役令嬢という人はどの方なの?」

「出会ったら教えてあげる。すぐにわかるよ」

「ふうん、そう」

 リッツは同性のイリーから見ても美女だ。ヒロインであるイリーはそれを上回る美女――ということはない。ゲームをプレイしていた頃から、なぜヒロインより友人のリッツのほうが顔面偏差値が高いんだ、と思っていた。つまりイリーは、平均的な可愛さの少女、ということである。そのほうが感情移入しやすいのかもしれないが、せっかくなら美少女になりたかった、とイリーは思った。

 魔法というものは本来、貴族だけが使えるものである。イリーが平民出身でありながら魔法の素質を持っているのは、この世界において重要な役割を持つ「聖女」だからである。イリーは前世の記憶を取り戻すのと同時に聖女として覚醒した。本来なら物語中盤での出来事である。それがこの世界にどんな影響を及ぼすかは計り知れず、これはリッツにも秘密にしている。加えて、聖女の証である瞳の星は、特殊加工の施された眼鏡で隠している。聖女であることは容易には知られないはずだ。

 ヒロイン・イリーは、この王立魔導学園で攻略対象と恋をする。そして、この世界に必要不可欠なのが――

「お待ちなさい」

 フローティア・レヴァラレン公爵令嬢。悪役令嬢である。

 凛と響く声にイリーとリッツが振り向くと、フローティアはウェーブのかかった美しい銀髪を払い、アメジストの瞳を細めてイリーをねめつけた。

「ごきげんよう。あなた、平民出身だそうですわね」

「はい。そうです」

「平民出身であるのに、よくこの学園の敷居を跨げたものね。身分を弁えなさい」

 フローティアの後ろで、ふたりの女子生徒が力強く頷いている。いわゆる取り巻きの女の子たちだろう。ゲーム内では取り巻きの女の子の名前は語られていなかった。

「あなたのような身のほど知らずが学園の伝統を穢すことは、このわたくしが許さなくてよ」

「はい……ありがとうございます……」

 瞳を輝かせ頬を紅潮させ、あまつさえ手を組んで言うイリーに、フローティアと取り巻きの女の子たちは頬を引きつらせた。リッツも怪訝な表情でイリーを見ている。だが当の本人は、フローティアに目を奪われていた。

「……息して、イリー」

 リッツに肩を叩かれて、イリーはハッと意識を取り戻す。何度か深呼吸を繰り返したあと、再び手を組んで天を仰いだ。

「あまりの美しさに心臓が止まりかけました……」

 フローティアと取り巻きの女の子たちは、イリーが泣き出すとすら思っていたかもしれない。実際、ゲームの中ではヒロインは悔し涙を流してこの場から逃げ出している。というのも、ヒロインは言い返すことができず、もっとくどくどと長く説教をされるのだ。間違っても、お礼を言うなどということはない。

「ああ、美しすぎる……」イリーは続ける。「まさに美女。美しいという意味の言葉はすべてこのお方のためにあると思わざるを得ない。いや、言葉だけじゃ足りない。むしろ言葉だけでは足りなさすぎる。絵画にしてもその美しさはひとつとして再現することができない……。美の女神すら嫉妬する美しさ……。はあ……尊い……」

 興奮して捲し立てるイリーに、フローティアも取り巻きの女の子たちもこの上なく引いている。それでもイリーは自分の世界に浸って、また溜め息を落とした。

「あの、美しいお方……よろしければ、お名前を教えてくださいませんか? 私はイリー・マッケンローと申します。マッケンロー伯爵家の娘です」

 自己紹介を受けていないのに名前を知っているのはおかしい。そして、貴族社会では身分が下の者から名乗るのがルールだ。その上でイリーは、名乗られたからには名乗り返さなければならないという貴族の心理を突いたのだ。

「……フローティア・レヴァラレン。レヴァラレン公爵家の娘ですわ」

 よしきた、とイリーは心の中で拳を握り締める。フローティアは渋々といった様子であるが、名乗らせてしまえばこちらのものである。

「フローティア様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

「ちょっとあなた」と、金髪の令嬢。「厚かましいのではありませんこと? 身のほどを弁えなさいませ!」

「そうですわ」と、黒髪の令嬢。「フローティア様はあなたのような平民では手の届かないお方ですのよ!」

「何せ、入学試験を首席で合格なされたのだから。あなたとは身分も実力も釣り合わなくてよ」

「本当にその通りですわ」

「……そうですよね」

 イリーがしょんぼりと肩を落として言うと、令嬢たちが一瞬だけ怯んだ。押して駄目なら引いてみろ、である。

「私のような下賤の者がそのお名前をお呼びするなんて、本当に身のほど知らずですよね……」

 悲しげに言うイリーに、フローティアと令嬢たちは、ぐっと言葉を詰まらせる。ひたいに手を当てたフローティアが、深く溜め息を落とした。

「……好きにお呼びあそばせ」

 フローティアが不承不承ながら言うので、イリーは再び目を輝かせる。この情緒のジェットコースターに、フローティアも令嬢たちも気圧されるばかりだ。

「ありがとうございます、フローティア様! ああ、お名前の響きすら美しい……。その御心はまるで女神の如く美しいのでしょうね……」

「も、もういいですわ! あなたがそのような態度を取られるなら、こちらにも考えがあります。お覚悟なさい!」

 顔を真っ赤にしてそう言い、フローティアと令嬢たちは逃げるように去って行く。呼び止めようとしたイリーを、リッツが呆れたように制した。イリーはひとつ咳払いをする。

「あのお方が悪役令嬢だよ」

「ほんとに?」リッツは目を丸くする。「あんな身分の高い方が、平民出身のあなたをいびるの?」

「それが乙女ゲームってものさ」

「ああ、そう……」

 苦笑いを浮かべて言ったリッツが、待って、とイリーの肩を掴んだ。

「ヒロインというのは、悪役令嬢を褒めそやす取り巻きになる子なの?」

「悪役令嬢にいびられて悔しさを胸に努力するのがヒロインだよ」

 リッツはひたいに手を当て、沈痛な面持ちになる。イリーの情緒のジェットコースターにてられたのは、リッツもまた同じことであった。

「イリー……私、正直なところ、あなたは変わった子だと思ってた」

「ハハ、兄様にもよく言われる」

「でも、いまのあなたは狂っているようにしか思えないわ」

「それは間違ってない」

 あっけらかんと笑いながら言うイリーに、リッツはまた溜め息を落とす。

「フローティア様は私の最推しなの」

 狂っている、というのは間違いではない。イリーはこの乙女ゲーム「蒼の瞳に星が輝く刻」をプレイしていた頃から、フローティア・レヴァラレン公爵令嬢が最推しだった。その最推しが目の前に現れたのだから、狂わずにいられるはずがないだろう。なぜ悪役令嬢ルートがないのかと当時の友人に泣き言をもらしたほどだ。この世界に転生したと気付いたときから、その邂逅を心から待ち望んでいた。

「最推し、って?」

「一番に応援してる人、かな」

 先ほどまでは、遠巻きに見ているだけでいいと思っていた。同じ次元にフローティアがいるという事実があればそれでいい。しかし、本人を前にして欲が出た結果がこれである。本当はほどほどにして去ろうと思っていたが、どうしても賞賛の気持ちが抑えきれなかった。

「あの美しさは私の語彙力では表現できないし、ご婚約者への一途な愛……。何より、まるでお手本のように完璧なご令嬢だもの」

 ほう、と溜め息を落とすイリーに、リッツはまた呆れたように引きつった笑みを浮かべている。

「好きってこと?」

「恋愛感情ではないよ。あくまで推し、応援したいだけ。あわよくば下僕になりたいだけ」

「あ、そう……」

 できれば取り巻きのひとりになれたらいいのだが、とイリーは考えている。フローティアの取り巻きとして登場する女の子たちは、最終的にフローティアを見限る。そんな薄情な取り巻きには、フローティアを任せられない。

「でも、あんまりいびられた感じしないね」リッツが不思議そうに言う。「他のふたりのほうがキツかったけど」

「私が途中で口を挟んじゃったのもあるけど、フローティア様は実際、そんな酷いことは言わないよ。フローティア様は優しく女神のような御心の持ち主だから……」

 すべてのルートを完全攻略したイリーだからこそわかる。この世界で、イリーが一番よくわかっている。

「私はフローティア様の心情を知ってる。だから、破滅を防ぎたいの」

「……悪役令嬢の末路だっけ」

 フローティア・レヴァラレン公爵令嬢も、悪役令嬢として例に漏れず破滅する。どのルートを選んだとしても、必ず破滅ルートを辿る。悪役令嬢が破滅しないルートがあったっていいじゃない、と当時の友人に愚痴をこぼしたものだ。

「良くて追放。悪くて処刑、かな」

 ヒロインがハッピーエンドに進んだ場合、悪役令嬢は公爵家から勘当され国外へ追放となる。それはヒロインの恩情のためである。バッドエンドに進むと、その罪を裁かれ命を落とすことになるのだ。

「フローティア様は悪役なんかじゃない。それは、この世界では私が一番よく知ってるから」

 この世界が現実となったいま、ヒロインである自分の裁量次第でフローティアが破滅することになる。イリーはそれをよく理解している。それはつまり、自分の選択でフローティアを救うことができる、ということだ。ゲームの中では運命が決められているが、ヒロインが代わったいま、きっとフローティアを違う道へ導くことができるはずだ。イリーはそう思っている。


 この王立魔導学園のアプローチで行われた一連の出来事の目撃者によって「イリー・マッケンローはドM」という噂が密かに流れたが、それはイリーにとって極めて不本意だった。イリーは決してドMなのではない、と自負している。ただフローティアを心から敬愛しているだけである。


   *  *  *


 国中から貴族の子息子女が集まっているため、新入生でもすでに「仲良しグループ」が形成されている。高い地位を誇る貴族の家に取り入ろうと、その子息子女を虎視眈々と狙っている生徒も存在するだろう。リッツも狙われる家系の内のひとりだ。トロジー家は昔から宰相として王家に仕えて来た。地位も名誉も財力も国内最高峰で、リッツへの見合いの申し込みは子どもの頃から後を絶たない。この学園でもそうなると予想されたが、その防波堤となっているのがイリーだった。入学式が始まる前から、リッツに集まる視線は獲物を見つけた獣のようだとイリーは思っていた。だが、リッツに声をかける者はいなかった。それは、平民出身であるイリーがそばにいたためだ。リッツに話しかけるにはイリーが邪魔になる。だが、イリーをぞんざいに扱うことをリッツは許さない。人間の機微に敏い貴族の子息子女たちはそれを感じ取り、リッツのご機嫌伺いをすることができなかったのである。

 式を終えて教室に入ると、リッツへは熱く、イリーには冷たい視線が注がれた。これはイリーもリッツも気に留めることではなかった。中にはひそひそ話をする生徒もいるが、ふたりは何も聞こえないふりをして席へ向かう。

 そのとき、こほん、と誰かの咳払いが聞こえた。その途端、教室中が波を打ったように静かになる。それが誰の咳払いであるかは、イリーにもリッツにも明白であった。

 イリーは冷たくなりつつあった心を溶かされた気持ちで、リッツにウインクして見せる。リッツは困ったように笑って、肩をすくめて見せた。




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