第2章【3】

 奉書紙に紋様を描き込むイリーのとなりで、リッツは魔石の魔力を解析している。どんな魔力が込められているかを知り、その魔石をどんな魔道具に活かすかということに役立てるのだ。リッツの研究は様々な場面で活躍するだろう。リッツは常に大局を見ている。その広い視野が、暴走しがちなイリーを軌道修正してくれるのだ。

 終業のチャイムが鳴るのと同時に護符は完成した。細かい紋様ひとつひとつに魔力を注いだため、体力を消耗してしまった。

「はー……できたー……。リッツ、鑑定してもらっていい?」

「ええ、いいわよ」

 リッツは護符を受け取ると、静かに目を閉じ護符に意識を集中させる。リッツから魔力の波紋が感じられ、リッツの魔力は心地が良い、とイリーはそんなことを考えていた。ややあって、リッツは顔を上げる。

「ちゃんと魔除けの護符になってるよ」

「ありがとう!」

 イリーは善は急げと立ち上がり、机の上を丁寧に片付けるフローティアに駆け寄った。

「フローティア様!」

 イリーの声を聞きつけると、フローティアはしかめた顔で振り向く。取り巻きの女の子たちも、イリーが何を言うのかと構えているように見えた。

「フローティア様のために護符を作りました! 私の愛を詰め込んであります。お受け取りお願いします!」

「わたくしには必要ありませんわ。その愛は、もっと他に向ける方がいらっしゃるのではありません?」

「私の愛はフローティア様だけのものです!」

 拳を握り締めるイリーに、フローティアは呆れたように溜め息を落とす。それから、少し自虐的に――イリーにはそう見えた――薄く笑い、横目でイリーを見遣った。

「あなたは可愛らしいわね」

「えっ⁉ ほんとですか⁉」

 まさかフローティアに褒められるとは思っておらず、イリーは声が上擦った。フローティアはくすりと笑い、どこか遠くを見つめるようにイリーから視線を外す。

「わたくしにももっと可愛げがあれば……」

 それは羨望にも似た声色だった。そう願っても手に入らないと諦めているようだ、とイリーはそんなことを思った。だから、イリーの返答はただひとつ。

「何を仰ってるんですか! フローティア様は可愛らしいですよ!」

「はっ⁉」

 フローティアは顔を真っ赤にして声を高くする。そんな表情も賞賛にしか値しない、と思いつつ、イリーは左手を握り締め身を乗り出した。

「普段はこんなにツンツンしてるのに、親しいご令嬢とご一緒されてるときは恋のお話をしているそうじゃないですか!」

「なぜそれを知っているんですの⁉」

「それに、フローティア様には誰にも負けない美貌をお持ちじゃないですか!」

「人の話をお聞きなさい!」

 周りの生徒たちがざわめき始めるので、フローティアは声を押し殺しつつ怒鳴るが、イリーは自分の世界に入り込んでうっとりと目を瞑る。

「その美しさを前に花は降参して蕾に戻り、絵画の貴婦人も嫉妬する……。そのアメジストの瞳は永遠に見つめていられる……そうして心臓が止まるのです……」

「おやめなさい!」

 フローティアは堪らずに、イリーの口をハンカチで塞いだ。イリーは目を丸くしたあと、あはは、と笑う。

 顔を真っ赤にしたフローティアが、深く重い溜め息を落とす。それでも目を輝かせているイリーに、フローティアはうんざりした様子で肩をすくめた。

「わたくしは、あなたが思っているような人間ではありませんわ」

「フローティア様は完璧なご令嬢です。なにもかも。そ――」

 イリーがまた賞賛の言葉を出す前に、その口は再びハンカチによって塞がれた。また大きく溜め息を落としたフローティアが、そっぽを向きながら右手を差し出す。

「いただいておいて差し上げますわ」

「へ……」

 ぽかんと目と口を丸くするイリーに、フローティアはむっと顔をしかめる。

「護符をいただいておいて差し上げると言っているのです。何を祓うかはわかりませんけど、身を守るものは多いに越したことはありませんもの」

 イリーは自分の耳を疑った。その言葉は本当に自分にかけられたものなのか、周囲を見回してしまったほどだ。そんなイリーに、フローティアは怪訝に彼女を見遣る。イリーは慌てて、気が変わる前に、と護符を差し出した。

「ただし」と、フローティア。「愛は受け取りません。もっと他に向けるべきお方がいらっしゃるはずですもの」

「はい……ありがとうございます!」

 目を輝かせるイリーに肩をすくめ、フローティアはついとそっぽを向いてきびすを返す。う、と胸を押さえるイリーに、クラスメイトたちは呆れたような視線を注いでいた。

 席に戻って行くと、すでにリッツがイリーの荷物をまとめ終えたところだった。

「おかえり」リッツが微笑む。「よかったね、受け取ってもらえて」

「動悸が治まらないよ……。今日が私の命日だ……」

「大袈裟」

 イリーはひとつ深呼吸をして、行こうか、と荷物を持つ。次の授業はいつもの教室だ。

「これで少しでも守れるはずだよ」

「そう。でも、勘違いされないかな」リッツは肩をすくめる。「愛が恋慕だって」

「それはないよ」

 笑って断言するイリーに、リッツは不思議そうに首を傾げる。

「だって、私はフローティア様が好きだなんて一言も言ってないからね。あ、もちろん好きだよ? だけど、恋慕だって思われないように好きだって言うのは我慢してるんだ。それに、フローティア様がアルヴァルド殿下を心からお慕いしてらっしゃることは周知の事実だしね」

「そうかな? アルヴァルド殿下に対しても厳しい気がするけど」

「それが愛情の裏返しだって気付けないうちは子どもだよ」

「あなたにだけは言われたくない」

 リッツがムッと顔をしかめるので、イリーは明るく笑った。

 中にはリッツの言うように恋慕だと勘違いする者もいるだろう、とイリーは考える。しかしそんな噂が流れたとしても、いずれフローティアとアルヴァルドが互いに想い合う関係になれば誰も気に留めなくなるはずだ。イリーはフローティアを守るためならそういった噂が流れても困ることはないが、フローティアを困らせてしまうかもしれないと思うと、慎重に事を勧めなければならない。フローティアにあらぬ疑いをかけるわけにはいかないのだ。


   *  *  *


 夕食はいつも通り食堂の端の席で取る。食堂の中心の賑やかさから離れて、イリーとリッツは授業のことや課題のこと、フローティアへの愛を――これはイリーだけが――話した。

 そうしてのんびりと食事を取っていると、ふたりのもとへ歩み寄る者があった。

「ご一緒してもいいかな」

「マルク兄様。どうぞ」

 イリーが正面の席を手のひらで指すと、マルクは優しく微笑んだ。

「珍しいですね。兄様が食堂で夕食を取るなんて」

 寮暮らしのイリーとは違い、マッケンロー伯爵家の別邸で暮らしているマルクは、学園の食堂で夕食を取る必要はない。屋敷に帰れば夕食が用意されているからだ。

「屋敷に帰るとひとりだからね」マルクは言う。「イリーがいなくなって寂しいんだよ」

「妹離れしてください」

 きっぱりと言うイリーに、マルクは不満げな表情になる。

「僕らは二年前に兄妹になったばかりじゃないか」

「そうですね。兄妹に、なりましたね」

 マルクにはイリーに対する好感度を上げられては困る。嫌われたいというわけではない。イリーはあくまで、兄妹としての良好な関係を望んでいるのだ。

「兄様は将来、伯爵家を継ぐお方です。人ひとりいなくなったくらいで寂しがっていては駄目ですよ」

 イリーがマッケンロー伯爵家に引き取られたとき、マルクは心から喜んでくれた。戸惑うイリーに親切にしてくれ、礼儀作法はほとんどマルクに習った。一ヶ月前、前世の記憶を取り戻したイリーは急遽、寮に入居できるよう義父に頼み込んだ。そのときマルクはとても驚いたものだった。なぜ急に、と問うマルクに、自助自立を身に付け見聞を広めたいからだとイリーは説明した。よもや、好感度を上げないためになどとは言えるはずもなく。

 マルクは寂しさを湛えたまま、そうだね、と微笑んだ。

「僕ももっとしっかりしないといけないね」

 イリーは誰とも結ばれるつもりがないため、無事に学園を卒業したら伯爵家に戻り、爵位を継いだマルクの補佐をしようと思っている。もしくは、義父の選んだ貴族と結婚する。伯爵家への感謝の気持ちはいまでも変わらず、伯爵家のために尽くそうと思っている。

「リッツ。イリーの学園生活はどう? 相変わらずフローティア嬢を追い駆けているのかな」

「概ねそんな感じです」リッツは笑う。「でも授業は真面目に受けてますよ。たぶん」

「たぶんて」イリーは苦笑する。「ちゃんと真面目に受けてるよ」

「でも時々、フローティア様を見てるじゃない」

「見ずにはいられないんだよ。フローティア様が魅力的すぎるのがいけない」

「人のせいにしないの」

 ぴしゃりと言うリッツにイリーが唇を尖らせると、マルクはおかしそうにクスクスと笑った。



   *  *  *



 夕食を終えてマルクと別れ、ふたりは寮の部屋へ向かう。寮の門限は二十一時となっているが、特に点呼などがあるわけではなく、かと言って積極的に破る生徒はいない。もし門限を超過して不用意に出歩いていれば、不良という不名誉の極まりない汚名を着せられるからだ。それはその家の汚点となり兼ねない。勘当される可能性のある行動を自ら取る学生はいないだろう。

 寮への帰路。夜の学園は静かで穏やかな時間が流れている。イリーはそれが好きだった。

「マルク兄様は」イリーは話し始める。「とても責任感の強い人で、名門伯爵家の後継者として重責を負っているんだ。そんな日々に現れるのがヒロインで、マルク・マッケンローはヒロインに心を癒される。そうやって好感度が上がっていくんだ」

「一番、好感度が上がりやすい人なんだっけ」

「そう。見ての通り、兄様は妹を溺愛してるんだ。そうやって、ふたりは駆け落ちルートに進んで行く。そのあとは遠い町で平民として幸せに暮らすんだ」

 ゲームのエンディングでは、ヒロインとマルク・マッケンローは幸せそうな表情をしていた。互いに愛し合っていれば、爵位を失い平民になったとしても幸せだろう。だが現実では、マルクにその選択をさせるわけにはいかない。

「家の者が探しに来るんじゃないの?」

「もちろん追手はいるよ。伯爵家にはマルク兄様ひとりしか後継者がいないから。マルク兄様がいなければ伯爵位を継ぐのは従弟のジルベールになるけど、そうなった場合、お父様は屋敷に居られなくなって郊外に追いやられることになるんだ」

「事実上の没落、ってことね……」

「うん。だから私はマルク兄様と結ばれるわけにはいかないんだけど、実は兄様の最初のフラグは二年前に立っちゃってるんだよね」

「どういうこと?」

「マルク兄様のルートは、二年前にヒロインが伯爵家に引き取られた時点で最初のフラグが立つんだ。だからゲーム開始時点で、他の攻略対象より好感度が高い状態で始まるの。マルク兄様の好感度が上がりやすいのは、そういうこと」

「なるほどね……」

 リッツがそう呟いたところで、三人の生徒が正面から歩いて来るのに気付いてふたりは話すのをやめる。万が一にも聞かれてはならない話だ。楽しそうにお喋りをする三人が離れて行くのを確認して、イリーはまた口を開いた。

「兄様のルートは、ハッピーエンドでもバッドエンドでも救いがないんだ」

「救いがない?」

「ハッピーエンドでは駆け落ち。バッドエンドではマルク兄様が追手に殺されることになるの」

「……連れ戻しに来たんじゃないの?」

「兄様と追手は戦闘になるんだ。それで、マルク・マッケンローはヒロインを庇って死んでしまうの」

「…………」

 その後、ヒロインは伯爵家に連れ戻されるが、マルク・マッケンローを失ったショックで聖女の力を失ってしまう。ヒロインは消えるようにマッケンロー伯爵のもとを去り、マッケンロー伯爵家は没落する。これが現実であれば、マッケンロー伯爵家は後ろ指を差されることだろう。嫡男が養女と駆け落ちし、嫡男は戦闘の末に命を落とす。伯爵がヒロインを養子に取ったことが破滅の始まりだったと言えるだろう。

「絶対に兄様とは結ばれない」

「だったら、他の恋人候補を見つけたらいいんじゃない?」

 リッツが明るい笑みで言うので、イリーは首を傾げた。

「他の恋人候補か……」

「うちの兄はどう?」

「フェリクス様? 前にも言ったけど、名門宰相家と平民出身の私とでは釣り合わないよ。お父様には失礼だけど、家の地位も伯爵だし」

「マッケンロー伯爵家だって名門じゃない。社交界での地位も財力も充分だと思うわ」

「そうかな。宰相家の後ろ盾になるには力不足じゃない?」

「伯爵家に宰相家の後ろ盾は強いでしょ」

「宰相家にメリットはないよ」

「そんなことないよ。だって……」

 ふと、リッツが言葉を切った。イリーが首を傾げて見遣ると、いつもの穏やかな笑みになって首を振る。

「なんでもない」

「そう?」



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