また会いたい、必ず。
仁矢田美弥
また会いたい、必ず。
一
私の記憶はときどきとぶようなのだ。
もちろん、一人ではそのことになかなか気がつかない。
大学の授業を終えて夕方から通っているアルバイト先の画廊で、管理人のオリヴィアから指摘され、はじめて奇妙に思ったのだった。
大学で現代美術史を専攻している私は、自分の興味に近い画廊のお仕事を見つけた。オリヴィアは小さい店ながらも経営者なので、とてもしっかりとした性格で、物事をあいまいにしない人だ。
「昨日頼んだ次の展示の顧客リスト、もう出来てるわよね」
私は自分でも間が抜けていると思うくらいに口をあけてしまった。
恥ずかしいけれど、問い返した。
「それは何のお話ですか」
すでに私は仕事を始めて半年以上経過している。だからオリヴィアは私がそんなにいい加減な性格ではなく、責任感もそれなりにあると知っていた。なので少し戸惑いつつも言い足してくれた。
「だって、言ったでしょ。ほら、お年を召した紫のバラのワンピースとクリーム色のスカーフを巻いた女性……」
「テイラーさん」
「そう。テイラーさんから彼女がパトロンをしている若いデザイナーの展示を頼まれて、顧客リストを」
思い出せない。
テイラーさんが来店したことも、紫のバラのワンピースもクリーム色のスカーフも鮮やかに思い出せるのに、オリヴィアの言う若いデザイナーや顧客リストの話だけは思い出せなかった。
「あの、すみません。確かに私はその話を聞いていましたか」
オリヴィアでなかったら激怒したかもしれない質問を恐る恐るする。幸いオリヴィアは無駄な問答は嫌いだ。
「聞いていたわ。私と一緒に」
簡潔に答えてくれた。私はキツネにつままれたような心地になり、ともかくも平謝りして、もう一度その用事の内容を事細かに聞いてメモを取った。オリヴィアは不思議そうな顔をしていたが、おそらく私が何か体調が悪かったりとか悩んでいたりとかしていたと思い込んだのだろう。深くは訊かずに親切にもう一度用件を教えてくれた。
そのときは自分でも、何か考えに捉われていただけかもしれないと自分を納得させた。けれど、同じような例はその後も続いた。講義のレポートの発表日をすっかり忘れてその講義を台無しにしてしまったり。本当に冷や汗ものだった。
おかしいのは、あとで言われてはっと気がつくというのではなく、言われてもまったく思い出せないこと。そこだけがすっぽりと記憶から抜け落ちている。そうなると、だんだん自分が信じられなくて怖くなってくる。私は小さな手帳を持ち歩いて、特に重要なことはメモをしておくようになった。
それで失敗をかなり未然に防止できるようになったが、やはり体がひんやりするような感覚になるのは、メモを読み返しても何のことだか思い出せないことがあるからだ。その時点で、いついつ、どういう場で、何があるのか、自分は何をすればいいのかをそっと誰かに尋ねる。未然防止とはそういうことだ。
そういうことが続く中、私はようやく自分の住んでいるフラットに帰宅して、溜息をつきながら階段を上がった。部屋は二階だ。自分の部屋の鍵穴に鍵を差し込み、まわしつつ、またひやりとする。鍵は閉まってしまった。つまり、開いていたということだ。
怖くなって反射的にドアから離れると、驚くべきことにもう一度中から鍵が開く音がして、誰かが外をのぞいた。また心臓が冷える。
この人は、誰なのか。
瞬間、部屋を間違えたのかと思ったが、さっき自分の鍵を差し入れて一回閉めてしまっている。鍵は合っているということだ。
「おかえりなさい」
ごく普通に語りかける若い男の声。はいそうですか、と部屋に入るわけにはいかない。
「なぜ私の家にいるの。あなた、誰?」
虚勢に近いほど眉を吊り上げて尋ねるが、彼は小首を傾げるだけだ。
「忘れたの、約束。僕を覚えてない? 精神科医のノア・エバンズだよ。同時に君の友人の」
「どうやってこの部屋に入ったの」
「君が頼んだんじゃないか。合鍵を渡すから来てほしい、って」
彼は手を掲げて目の前に私と同じ形をした鍵をぶら下げる。キーホルダーを見て息をのむ。私の手づくりのビーズ細工。一体どういうことなのか。
「カウンセリングのために自分の家で待っててほしいと言って、この鍵をくれたのは君だよ」
彼、ノア・エバンズが少しも驚いた様子がないのは、きっと私の”異常”を知っているからではないかと私は思い当たった。私の物忘れを知っているから、私が聞きただしても動揺しないのではないか。
少し心に余裕ができた。もしかしたら彼の言う通りかもしれない。
彼は慣れた感じでローテーブルの椅子に腰かけた。私ももう一つの椅子にかける。気まずい思いで上目遣いに彼を見る。同時に観察してみる。
緩めのウェーブを真ん中で分けた焦げ茶の髪。色は白くて、ほっそりしている。学者肌といったほうがいいようなたたずまい。さっきカウンセリングと言っていたけれど、それは本当かもしれない。そうか、資格証を見せてもらおう。
私がそれを言いかけるのを察知したように、彼はカード入れから一枚差し出した。そこには彼の言った通り「applied psychologist」の文字とノア・エバンズという名前の表記がある。捏造でないなら本当だ。
でも、もう一つ、彼は私の友人だと言った。私にはこんな友人はいない。
「私はあなたのことを知りません。それに、わざわざ家にまでカウンセラーをよこして欲しいと頼んだ覚えもないわ」
毅然とした態度で彼を凝視する。彼はほとんど気がつかないくらいのわずかの口の動きで「またか」とつぶやいた。
「ジェシカ・クラーク。君は今回も友人の僕に、カウンセリングを頼んだという事実を忘れているんだね」
「私は、確かに物忘れが多いわ。でも、その分メモをしっかり取っている。その中にノア・エバンズと会う予定はなかった」
私が憮然と答えても、彼は動じた様子もない。スマホをタップ・スクロールして、ある画面を私に見せた。私は息をのむ。
『ノア。金曜の仕事の後ならOK。場所はうちでいいかしら。いつもお邪魔するのも悪いし。美味しいものも用意しておくわね』
確かにアイコンが私の顔写真だ。全く記憶にない。しかも、これまでは私が彼のところに行っていたということか。
「やれやれ。この分じゃ、美味しいものは今日はおあずけだな」
彼はいたずらっぽく微笑んだ。
釈然とはしないままであったが、彼の話に偽りはなさそうだ。確かに私の方から呼んでいる。家に呼んでいるということは、よほど信頼している友人ということなのか。合鍵まで渡しているのだから。
これまで、出来事をすっかり忘れてしまうということはあったが、人そのものを忘れたというのは初めてだ。私の病気は進行しているのか(そう、その頃にはもう、自分は病気ではないかと疑いとても不安に駆られていた。一度CTも撮ってもらったくらいだ。しかし、脳に異常はないとのことで、ほっとすると同時に、原因も対処療法も分からないのでやはり落ち着かなかった)。
「そうすると、私はあなたにご馳走をするという約束を反故にしたことになるのね」
「そうなるね」
ノアはまた微笑む。温かみのある笑みになぜか心臓が高鳴る。
「どうしよう。何か食べに行く?」
「いや、いいよ、あるもので。まさか冷蔵庫が空ということもないだろう」
私はキッチンに行って冷蔵庫をのぞく。サンドイッチくらいならできるかな。卵もレタスも、ハムもある。調味料も残っている。生で食べられる野菜がちらほら。実をいうと何があるか分からずに買いすぎてしまうところがあるのだ。
いつの間にか後ろで一緒にのぞき込んでいた彼は、明るい声で「十分十分」とささやいた。
「僕も手伝うから、すぐ作れるよ」
キッチンテーブルを挟んで彼と向かい合った。彼は器用そうに生野菜を切っていく。私はベーコンを細かく刻んだ。横のレンジでは卵がゆだっている。
バターもマスタードもケチャップもある。マスタードの瓶に手を伸ばしたとき、温かいものに触れた。すぐにノアの手だと察知して慌ててひっこめる。
「おさきにどうぞ」
彼は涼しい顔をしている。私はマスタードを先に使った。
何となく気まずくて、テーブルを離れコーヒーメーカーの方に移動する。砕いた粉を盛ってスイッチを入れる。じゅうっと蒸気が立って、香ばしいコクのある香りが辺りに満ちた。
ふと、自分のふだん飲んでいる銘柄でないことに気づく。
「あ、用意してくれてたんだね、僕の好きなコーヒー」
うれしそうにノアが言う。私は口を閉ざすしかなかった。
いつのまにこのコーヒーを買い込んでいたのだろう。
香り豊かなコーヒーを飲みながら、私は思い切ってノアに質問した。
「あなたは精神科医だと言いました。そして私は何度もあなたにお会いしている。先ほどのメールのやりとりだと、私があなたの家へ行くことが多かったようですね。カウンセリングを受けているというのは、その……」
ノアはコーヒーの香りを時間をかけて味わった後に応えた。
「そうです。君の記憶の欠落や混濁について」
「混濁、ですか」
私はきき咎める。
「確かに私はふだんから記憶の欠落に悩んではいます。でも、混濁とはあまり」
「思ってはいないんだよね」
もう十分に了解済みだというように彼は答えた。
「何か、病気なのでしょうか。私は不安で実はCTも受けたのですが、異常はないとの話で」
「そうですね。君がCTを受けたというのは僕も知っています。君はそれ以前にも検査は受けていて、異常なしと診断されている。とりあえず、ほっとしたものです」
私は微かな苛立ちを覚えた。
「そういうほのめかしのような話はやめてください。ずばりと言ってください。私は一体どうなっているの」
彼の眼が私を見た。奥まで覗き込むように。私は息をのみ、たじろいだ。
「そのことは、ずっと僕は君に言われ続けている。でも、君は次にはもう覚えていない」
つい黙り込むと、ノアはまた表情を和らげた。
「気にしないで。責めているわけではない。やむを得ないことだから」
「何が、あったの」
彼はつと立って、傍らのチェストの方に足を運んだ。チェストの上に、これまではなかった写真立てが二つ置いてあった。私は駆け寄った。これまでは確かにこの家にはなかったはずのものだ。いや、その記憶さえあいまいだが。でも、考えられる理由としては、先に合鍵でこの部屋に入ったノアが置いたものだろうということだった。
やや大きめの写真立てには私とノアが写っている。後ろは、見覚えのあるこの街の近郊のガーデンのものだ。背景の白亜の女神像でそれと分かる。季節は春か秋か。バラの花が背景にある。
笑っている私。何の屈託もなく。私はこのように笑う人間だったのだろうか、とふと思った。
そして、並んで置かれたもう一つの写真立てには、三人の人間が写っていた。私が真ん中で、私を挟んでノアと、もう一人の若い男性。金色の髪を短く刈っている。黒っぽいTシャツにジーンズ。そのTシャツの柄に何か覚えがあるような気がした。
顔を上げてノアの横顔を見た。
教えて欲しい。この男性は誰なのか。あなたは知っていて、今夜この二枚の写真をここに持ってきたんでしょう。
オリヴィアの店の仕事は、今日はとても忙しかった。近々開かれる若い男性デザイナーの個展のためだ。私は時折メモを見て確かめながら、自分の仕事をした。必要なインテリアのレンタルやその搬入。花束の予約の連絡。その他こまごましたこと。
途中で、テイラーさんが来た。テイラーさんが来ることはメモしてあったし、私も覚えていた。彼女は目をかけているデザイナーのために、万事抜けがないかをオリヴィアと一緒になってチェックした。さんざん細かい注文をしたうえで、満足して帰っていった。今日は白いワンピースで、薔薇のレースが施されていた。
オリヴィアはきびきびと業者にも指示を出し、忙しい中にも心地よい緊張感があった。おかげで朝からしていた仕事は昼過ぎには終わってしまった。
「お昼を食べに行こうか」とのオリヴィアの誘いを受けて、私はメモ用紙を繰った後、メールをチェックした。
『○○街のいつもの店で待つ──ノア・エヴァンズ』
誰だろう。それに「いつもの店」とはどこだろう。
私には分からなかった。
眉根を寄せる私を見てオリヴィアが覗きこんだ。
「あら、デートのお誘いがあったのね。知ってたら、もっと早くにあなただけ帰したのに」
心臓がつかまれたようだ。私はオリヴィアに尋ねた。
「オリヴィア、ノアという人を知っているのね。いつもの店ってどこなの」
案外オリヴィアは驚かなかった。何ともいえず優しい笑みを見せた。
「ジェシカ。ノアはね、以前はよくこの店にも来ていたわよ。あなたに会いに。そして連れ立って一緒に帰っていたわ。私はお邪魔だからいつも遠慮していたけど、ときどき一緒に食事や飲みに誘われた。その店のことね、きっと」
オリヴィアの口調から、ノアという人が不審な人物ではないことが分かって安堵した。しかも、もしかしたら、私の……。
オリヴィアに教えてもらったその店は、夜はパブになるようなオープンテラスのカフェだった。私がきょろきょろしていると、顔を上気させた色白の焦げ茶の髪の若い男性が走り寄ってきた。彼がノアだと私は確信した。
私たちはオープンテラスの丸テーブルに腰かけ、向かい合った。
「ジェシカ。よく来られたね。わざと意地悪して店の名を書かなかったんだ。それでも君は」
「ごめんなさい」
私は俯いていた。
「違うの。オリヴィアという、私の働いている画廊の人が、教えてくれて」
彼もまた目を伏せた。
「いいんだよ。で、僕のことを覚えてはいるの」
「ごめんなさい。覚えてない。でも」
彼は目を上げた。
「家にあなたと撮った写真があったわ。だからすぐに分かった」
周囲はプラタナスの豊かな葉が微かに揺れて、木漏れ日が揺れている。
ノアはコーヒーを注文した。私は今日はティー。
ウェイトレスが運んできたときのコーヒーの香りに覚えがあった。なぜかうちにあるコーヒーと同じ種類。
私たちは静かに向き合っていた。
かつてもこうしてこの店でよく会っていたに違いない。けれど、その記憶はない。彼は安らいだ印象を私に与えるが、私はその先を見るのが怖いと思った。
オリヴィアは自分のスマートフォンが鳴っていることに気がついた。
表示されている名前は「ノア・エヴァンズ」だった。
「はい」
「オリヴィア? 僕です。今日もうまくいきませんでした」
「そう」
「でも、僕は諦めませんよ、絶対に。彼女を、ジェシカをアイザック・クラークから取りもどして見せます」
「応援してるわ」
「彼女が僕を思い出してくれたら、何も言わずにこういうつもりです、『また会えたね』と」
「それがいいわ。彼女の性格からして、もし自分が大切な恋人より兄を愛していたのだと悟ったら、きっと混乱して、また記憶の混濁に陥るかもしれない」
「僕は、彼女を責めるつもりはありません。彼女を今も深く愛しています。彼女の中の兄、アイザックの存在が大きすぎた」
「本当の気持ちは彼女にしか分からないものよ、ノア。ただの脳の記憶装置のいたずらに過ぎないかも」
「いえ、分かるんです。彼女は無意識の中で、兄を愛していた。それも異性として。恋人である僕よりもずっと強く。実の兄であるゆえに彼女は無意識下にその想いを追いやっていたのでしょう」
「ノア」
「でも、僕はほっとしているんです。彼女は僕らの目の前で事故死した兄のことも忘れている。僕のことも、兄のこともともに忘れた」
「ご両親ももうない、二人きりの兄妹だったのよね」
「もし彼女が、兄だけを忘れていたのなら、僕は諦めていたかもしれません」
そしてノアは電話口で一つ息を吐いた。
「彼女がまた会いたいと思うのは、僕かアイザックか、まだ決着はついていないのです」
(了)
また会いたい、必ず。 仁矢田美弥 @niyadamiya
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