春 これから
今日、家に帰ってこのブレザーを脱げば、二度と着ることがないのが信じられなかった。三年前の入学式は手の平まで掛かっていた袖が、気づけばぴったりの丈になっている。残念ながら桜は開花しなかったが、晴天には恵まれた。卒業式と最後のホームルームを無事終えた卒業生たちは清々しい笑顔を浮かべ、中庭で別れを惜しみ合っていた。
俊と横谷と大輔は別れを告げ合う後輩や友人の数が早々に切れたので、揃って帰路に着くことにした。三年生の進級時にはクラス替えがなく二年間同じクラスだった面々にはそれなりに愛着があったため、教室で写真を撮り合ったり、卒業アルバムに寄せ書きをし合ったりしておいた。「3B最高! これからもよろしく」とチョークで大きく書かれた黒板の空いたスペースにも皆で「超楽しかった、ラブ」や「また二年後の同窓会で」といったメッセージを寄せており、俊も「ありがとう! ずっと大事にします」と書いておいた。
中庭を抜けようとすると、一際大きな集団が目に入った。橋近や池田、村山たちが、女子を中心とした後輩に囲まれている。邪魔するつもりはなかったが俊たちの視線に彼らが気付き、「じゃなー」「また!」「またねー」と手を振ってきた。いっせいに振り向いた後輩たちの「私たちの貴重な時間なのですが」という気迫に気圧されつつ、俊たちは「うん、また」「またー」と手を振り返す。
校門をくぐって歩道に出るとさっそく、卒業証書の筒をバッグからはみ出させた横谷が「あれ、いつ帰れるんだろうね。絶対どさくさに紛れて連絡先渡してる子いたでしょ」と感嘆と羨望を漏らした。
「どさくさじゃなくて堂々と渡してる子、見えたよ」
大輔が一昔前の洋画のように、大げさに肩を竦めて言う。
「大学ではあいつらの五分の一くらいはモテたいっ」
「五分の一は高望みしすぎでしょ。あいつら大学行ったらさらにモテると思う」
「まじかー。十分の一を目指して、髪、染めるとこから始めるかー」
「よこやん、オブラートに包んで言ってあげるね。お前は髪を染めても絶対に橋近にはなれない」
「包めてないし、それは諦めてます」
そんな会話の隣で俊は笑う。横谷は池田とのパン屋めぐりが原因で、一年半で六キロ太った。以前が痩せていたのでちょうど良いくらいだが、今後も食べ続けるならさすがに運動しないとまずいと焦っており、大学ではスポーツをするサークルに入ろうとしている。ただ「明るすぎるサークルしかなかったら一人で筋トレする」らしい。大輔は三年生の四月あたりで村山への恋心を自覚してしまい、つい先日、彼氏がいるのを知った上で告白してきちんと玉砕した。だが「付き合って下さいって言わなかったの、かっこいいじゃん。これからも友だちでいてよ」と言われたこともあり「高校生活に悔いはない」とすっきりとした顔をして教室に戻ってきた。翌日は俊と横谷を連れ出してカラオケでシャウトするアニソンばかり歌っていたが、その後さらにすっきりとした顔になっていたので、俊と横谷は「えらい」「えらい」と大輔の肩を叩いたものだった。
フェンスの向こうの校庭で、野球部が練習している。元々関わりはなかったけど本当に関わりがない子たちになっちゃったなと俊が思っていると、大輔がにやりとして「この中で、誰が最初に大学で彼女ができるか賭けよう」と提案した。横谷も「いいよ。絶対に四年間で決着つけてやるぞ。フラグではないぞ」と口角を上げる。
俊は、三人の繋がりがこれからも消えない予感に顔を綻ばせ、その表情のまま「僕は乗らないよー」と言う。
「えー、どんぐりの背比べしようよ」
「大輔、悲しい言い方をするんじゃない。でも、さえきちも彼女作る気なくはないでしょ?」
俊はまた笑う。もう胃は痛くない。
「僕はのんびり、僕なりに過ごすよ。大学でも、これからも。でももちろん、よこやんと大輔の恋は応援してる。恋人ができたら教えてね」
暖かいというにはまだ冷えた、しかし確実に柔らかさのある風が俊を撫でる。その拍子にどこか甘い匂いが鼻をくすぐり、春が来る、と思う。
「恋人って言い方、なんか良いな」
大輔がぼそっと言った。
「確かに、目の前の人を大切にしてる感じがあるね」
横谷も続けた。それに同意するかのように、白球がバットに当たるキンという小気味良い音がした。俊は白球が太陽に重なる瞬間を想像する。金色の光を感じる。
住宅街には、庭に小ぶりの桜の木を植えている家々が多かった。塀から覗く枝にはいくつもの蕾がつき、ふっくらと膨らみ始めている。これからまた、新しい一年が始まる。今日、御作高校を卒業した元生徒たちは、ここではない場所で開花した桜を見上げ、熱と緑の混ざった夏の空気を吸い、葉が色づく移ろいを眺め、新雪にそれぞれの足跡を付け、やがて大人になっていく。変わっていったとしても、変わらなかったとしても、世界に生きる唯一の人として歩んでいく。
たった一人のみんなと、ずっと友だちでいられますように。
五月に一緒に行くライブ、楽しみだね。
〈終〉
唯一の人 青葉える @matanelemon
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