冬 雪の帰路

 御作高校では、期末試験休みのあと、二日間の応用問題演習日があり、その翌日に終業式となる。今日は応用問題演習の二日目で、教室にはもうすぐ冬休みという浮足立った空気とそろそろ受験と向き合わなければいう憂鬱な空気が一緒くたになって暖房と共に籠っている。

 数学の演習中、後藤の「わあ、雪!」という声が聞こえたので俊も思わず顔を上げた。皆いっせいにガラス窓の向こうを見やり、ちらちらと煌めく今年の初雪を観測する。この地域では、深く降り積もりはしないもののほぼ毎年降ってはいるのに、それでも雪には非日常を感じて、俊も「帰りにまっさらな新雪を踏めるだろうか」とそわりとする。ホワイトクリスマスになるんじゃない、雪合戦しようぜとにわかに色めき立つ生徒たちを、数学教師は「静かにー」と諫めつつも、「雪を喜べるのは子どもと青春ど真ん中に生きる者の特権だ」としみじみとしている。すかさず池田が「先生も去年、田中先生と雪だるま作ってたじゃないすか」と突っ込むと数学教師は「なぜそれを!」と言っており皆で笑った。

 問題を一足早く解き終わった俊は、席替えをして廊下寄りになった席から、皆の頭越しに雪を眺めた。空は真っ白で、異世界じみている。

 シャーペンを握ったまま考える。

 僕の高校生活はこの半年でずいぶん変わった。好きなものを分かち合えるようになったし、会話できる人が増えたし、学校行事も去年より楽しめたし、人に気持ちを伝えようと一歩踏み出す日もあったし、人の温もりや匂いまで知るときもあった。どれもこれも、橋近くんと仲良くなれたから経験できたことだ。彼にとっては不名誉だっただろうけれど、保健室での邂逅がなければ、僕の高校生活は特に思い返すこともない、薄い記憶に留まっていたかもしれない。そして、同性に恋愛感情を抱く人の苦しみや傷つきに鈍感なままだったかもしれない。暖房に体を包まれ、外に出れば冷気に晒される冬になっても、橋近くんと共に過ごし始めた夏の空気を覚えている。橋近くんは僕を唯一の人だと言ってくれるけれど、橋近くんこそが僕の人生を変えてくれた最初の人なんだ。だから、明日、言おう。冬休みから先はもう一緒に過ごせないかもしれないけれど、僕も、橋近くんに誠実でありたい。


 放課後になっても、雪は降り続けていた。中庭の木々も白く覆われており、椿の花には上品な白化粧が施されている。校門までの小道は用務員が雪かきをしてくれたようだが、校門の先に見える歩道は踏めばさくさくと音がしそうである。天気予報を見逃していたため傘を持っていなかった俊は、ブラウンのウィンタージャケットのフードを被り、足早に昇降口を出ようとする。帰宅したら「明日の終業式のあと、時間ある?」と橋近にメッセージを送るつもりだった。

 しかし、前を見ると景色がどこかおかしい。木々も小道も校門も輪郭がぼやけている。直後、透明のシートが視界と景色を隔てているのだと気付く。隣を見やると、首を傾げてビニール傘を差し出してくれている橋近がいた。体の線に沿うシルエットをしたグレーのダッフルコートがよく似合っている。

「入る?」

 昔、一冊だけ読んだ少女漫画にこんな場面があった。主人公の女の子は男の子の傘に入り、肩が触れるか触れないかの距離感に胸を高鳴らせるのだった。だが俊は「天気予報を見てなかった僕が悪いんだから、いいよいいよ」と首と手を横に振った。

「謙虚すぎ。奪っていくくらいでいい」

「本当に大丈夫だよ。橋近くん、どうぞ」

「じゃあ俺もささなーい」

 傘をたたみ、橋近は校舎の軒下から飛び出していった。たちまち彼の頭に雪がふわふわと舞い落ちる。これが黒であれば白が目立っただろうが、金色では雪が髪に溶けていっているのか髪が雪に溶け込んでいっているのかわからない。

「ほらっ、帰ろ」

 橋近はごく自然に、互いに気を遣わないで済む空気感を作る。こういう些細なことから、人間は人間の優しさを知る。その振る舞いに甘えて、俊はフードを脱いで彼の隣を歩き始めた。橋近は池田たちか軽音部員と学校を出る日が多いため、二人で岐路に着くのは約二ヶ月ぶりである。

「部活はお休み?」

「今日と明日は。冬休みは週二で練習」

「えらいねえ」

 学校の最寄りであるローカル線の駅まで歩いて十二分。多くの生徒はJRとの接続駅行き、それぞれの路線で自宅に向かう。橋近の家は珍しくローカル線沿い、しかもJRの駅の反対方向にあるので、一緒に帰れるのは最寄り駅までだ。

歩道にはまっさらな雪が残っている部分もところどころにあり、俊はこっそりとそこを狙って歩いた。だいたいの部活は今日も活動があり、三年生は補講があるため、辺りに御作高校の制服姿の人は歩いていない。フェンス越しに校庭を見やると、幾人かの生徒が走り回っていたり、雪の球を投げ合ったりしていた。脚を出して寒いだろうに、せっせと雪だるまを作っている女子もいる。その中に見覚えのある影があった。

「池田くんたちじゃない?」

「お、そうそう。遊ぶって言ってたわ」

「橋近くんは良かったの、遊ばなくて」

「うん。今日は……そろそろ決めたいことがあったから」

 そのあと、橋近は口を噤んだ。きんと冷たい冬の空気に、肌を僅かにひりつかせる緊張が漂う。俊は橋近が話題に困って黙っているわけではなく、考えを巡らせている、もしくは言葉を発するために助走をつけているのを察する。理由はわからないものの緊張をほぐすために、冬休みの予定や進路について話を始めるのも悪くはないだろう。だが俊は、橋近の逡巡を邪魔するべきではないと判断して、雪を踏みしめる音を聞いていた。住宅街に入り、二人は、友人になって初めての雪景色を眺めながらしばらく無言で歩く。小道には、ほとんど誰の足跡もついていなかった。そしてひっそりと建つ動物病院の看板が見えてきた頃、空気を吸う音が聞こえた。

「佐伯はまじで俺を気持ち悪がらないでいてくれるよな」

 こちらを見てはいない、横顔。コートの襟に埋められていた顔が、今は白い空に向けられている。

「もちろんだよ。気持ち悪くないから」

 それぞれの家に停まっている車の色が、どれも白に塗り替えられていく。

 橋近が吐いた息は冬によって可視化され、舞い上がったあと、空に消えて行った。

「友だちはみんなすげー好きなんだけどさ、やっぱりあいつらの当たり前は俺の当たり前ではないんだ。俺みたいな人間は、やばくて、ウケるんだよ」

 声色はやや固いが、嘆きや憂いは感じなかった。ただ淡々と事実を述べているといった喋り方が、彼にとって「当たり前ではない」世界こそ現実なのだと象徴していて、胸が詰まる。

「だから佐伯がいてくれて本当にありがたかった。あの日は一生で一番の恥かいたけど、恥よりずっと大きなものが手に入ったよ。ありがとう」

 視線を感じたので横を向くと、寒さのせいかほんのり頬を赤くした橋近がはにかんでいた。彼の肌が透き通るように白くて染まりやすいのも、黒目がブロンド色なのも、もう知っている。お礼なんていらないよと言おうとすると、合った目が瞬時にパッと逸らされた。今度は俯き、橋近は新雪を踏みゆく底の厚いスニーカーを見やりながら、言う。

「でもさ……でもさ」

 橋近が言い淀むのは初めてであり、しかも逆接が続いたので俊の胸はざわつく。ふと、もしかして明日言おうとしていたことを先んじて察されたのではいう考えが過ぎる。自分から言っても裏切り者だと思われる可能性があるのに、指摘させるのはさらなる不義理だろう。続く言葉を待つ間、心臓がドッドッとうねっていく。遠慮や謙遜をすれば失礼になるほど確かな友情が生まれていたのに、僕が壊させてしまうのかもしれない。

 もう、横顔を見つめて待つしかなかった。橋近の固く結ばれた唇がゆっくりと開き、ふわりと息が浮いた。


「実際に男から好きになられたら、嫌だよな」


 えっ。


「まだ大丈夫なんだ。まだ友だちだ。でも、もしかするとこれからのどこかで、俺は佐伯を……それは……嫌だよな」


 ああ。

 僕はバカだ。早く言っておくべきだった。胸の痛みを見て見ぬふりしてはいけなかった。友情を壊させるのと同じくらい僕は残酷なことをしたのかもしれない。それすらもわからないのが、僕だ。


 俊の頭がぐるぐる回る。頭蓋骨の中で脳みそだけが回転しているような眩みを覚える。雪が降っているのか上ってきているのかがわからなくなりそうだ。地面に膝をついて、雪に同化して、溶けて流れていってしまいたくなった。

「佐伯?」

 気が付けば、並んで歩いていたはずの橋近が前方にいる。足が竦んで動けなくなっているうちに、橋近が「ごめん、俺が変なこと言ったからか」と駆け寄ってきてくれた。

「違うんだ……変なことじゃない……」

 CDショップに行った。ダブルのアイスを食べた。カラオケで好きなバンドのMVを見てメンバーの名前を叫んだ。イヤホンを分け合って音楽を聴いた。ステージに拳を突き出した。カーディガンを交換した。パンケーキ屋さんにも行ったし、トゥンカロンというお菓子を食べた。同じ好きな物事に同じ気持ちを向けること、新しい物事に触れること。全部、橋近と初めて一緒にやったことだった。

 橋近はいつだって、教室での立ち位置を越え、俊と目を合わせて眩しく笑っていた。保健室の邂逅がなくても、同じバンドが好きだと気付いていたら笑い合う仲になっていた可能性もある。だがここまでの友情はなかったかもしれない。自らの恋愛感情の行く先を曝け出せる人間は、彼にとって本当に大切にしたい存在だったのだ。そう、友情が、大切にしたいという想いを経て恋愛感情になる事象は、きっとこの世で「当たり前」のことの一つなのだ。

 俊は橋近の笑顔が好きだ。橋近という友人が好きだ。橋近という人間が好きだ。

 好きになれたらと思うくらいに、好きだ。

「嫌じゃないし、僕は橋近くんを拒絶しない。けど、ごめん、ごめん」

 俯いた拍子に、頬に針で刺されたような痛みが走る。つうと流れた涙が、外気に当てられるやいなや鋭く冷えていくからだった。涙はたちまちぼろぼろと溢れ、鼻水も出てきた。


「黙っていてごめん。本当は僕には、橋近くんを理解する資格も、共感する資格もない」


 視界が滲んで雪の立体感がなくなる。真っ白な世界に一人放り込まれたようだ。鼻水は啜っても啜っても出てきて、およそ人体から出ているものとは思えないほど冷たい。膝が崩れ落ちないよう体勢を保つのに必死で、橋近の表情がわからないのが怖い。

 だが背中に優しい感触があった。橋近が一軒家のブロック塀と俊の間に入るようにして立ち、ジャケット越しに背を摩ってくれている。中学生の頃、高熱で呼吸が苦しかった日に母親がやってくれたのと同じように。

「どうした。落ち着いて」

 まばたきを幾度かして涙の膜を外す。思い切って顔を上げると、心配そうな眼差しに覗き込まれていた。本気で心配してくれているのだと伝わってくる分だけ罪悪感が湧き、視界がまた揺れる。肩を震わせ俯く。


「僕にとっても、この世界は『当たり前』じゃないんだ」


 涙は再び、次から次へと流れだす。ぐしゃぐしゃの泣き顔を晒して、俊は告白した。


「僕は……人を好きになったことがない。人に対して、恋愛感情も、性欲も、持ったことがないんだ」


 橋近が僅かに体を強張らせたのが、止まった手から伝わってきた。終わりだなあ、と頭の後ろ側でぼんやり思いながら、俊は告げる。

「人の恋の話や、恋愛がテーマの物語に、共感できないんだ。良い話だとは思うけど、僕もしたいとかこうなりたいとか思えない。まだそう思うタイミングじゃないのかも、まだ好きになる人と出会っていないだけかもと言い聞かせてみたけど、恋愛感情はまだしも、さすがにこの年齢の男で性欲がないのは『まだ』で済まされはしないって、人の話を聞いていればわかってしまう」

 ごめん、ごめん。

 橋近の表情は見えないが、どんな顔をさせたとしても自分が悪いからだと俊は思う。

「同性も異性も、誰を好きになる感情もわからない。もし生まれつきそれが備わっているのが『普通の人間』なら、僕は普通の人間になるための要素が欠落してる。僕は人を好きになるのが前提の世界から取り残された人間なんだ。僕は橋近くんにとっての唯一の人になってはいけない人間だったんだ」

 橋近の手は背に添えられてはいるが、動きは止まったままだった。手の面積分だけ伝わってくる重みは、もう自分がもらうべきものではなくなった。そう思うと苦しくて、だが本当はもっと早くに離れるべきだったのだとも思って申し訳なくて、俊はとうとう嗚咽を漏らす。それはしんしんと降りしきる雪に吸収されて、住宅街に広まることはない。聞いているのは、黙ったままゼロ距離にいる橋近だけだった。

「橋近くんがっ、僕を信頼してくれて、仲良くしてくれて、嬉しかった。だけど僕は『みんな同じだよ』って言ってあげられない人間なんだ。『大勢と違うってだけで葛藤したり怖がったりする必要なんてない』って言っても説得力のない人間なんだ。少なくとも僕は、葛藤も恐れもない分、誰にも共感できないし、理解されるのを諦めてる。友だちの恋愛や異性の話に愛想笑いで頷くときは胃が痛いし、橋近くんの『同性が好き』って気持ちを理解しているみたいに振る舞ってしまっていたときは胸が痛かった。それをずっと見て見ぬふりしてきた。騙しててごめん。裏切ってごめん。あのとき保健室に入ったのが僕じゃなければ、橋近くんはもっと理解されて、共感されて、一人じゃないと思えたかもしれない」

 頬から落ちた涙は、ジャケットに染みを作るものもあれば、雪に溶けていくものもあった。拳をめいっぱい握って、来たる友情の終わりが寄越す消沈と、それを引き起こした罪悪感に耐えようとする。

「ごめんなさい。半年間、楽しかった……ありがとう」

 両目を手の平で拭う。次に視界が鮮明になり、橋近と顔を合わせたとき、半年間の友情が終わる。


 ごめんなさい。


 そのとき、両方の手首が、血管が締まるほどの力で握られた。ぐいと引っ張られ、上半身が温かさに包まれる。橋近の両腕の中に引き入れられたのだと気付くか気づかないかのうちに、ぎゅうと抱き締められる。子どもの頃ですらここまでされただろうかというくらいの力で。

「俺こそごめん」

 耳元で橋近の声が聞こえる。息が温かい。まだ離れずにいる。離れずにいてくれている。

 何で? 僕は酷い裏切りをしたのに……。

「俺がしてたのって、俺が嫌がってることそのものだった。勝手に佐伯に『普通』を押し付けてた。どこにも普通なんかないのに」

 まるで何かから守るみたいに、橋近は俊の後頭部に手を添え、引き寄せた。頭に積もっていた雪が、橋近の手の平の体温で溶けていく。唇がコートの繊維に押し付けられ、金髪が俊の頬をくすぐった。鮮明になった視界に映るのは白く染まった住宅街ばかりで、橋近の姿は見えないのに、全身に彼の体温を感じているのが不思議だった。それと同時に、体の芯からぶわりと心地良さが噴き出してくる。罪悪感や自惚れが生まれる前に感じてしまった、抗えない心地良さ。

「俺はご飯派だから池田のパンマニアっぷりはわかんねえし、服より音楽が好きだから田辺の金の使い方もわかんねえ。わかんねえけど、それが好きなあいつらは好きだから、友だちでいる。でも同性が好きってのは、なかなかそうはいかない。面白い、キモいって思われるのはやっぱり辛いし、『偏見ないです』って意気揚々と表明をされるのも正直しんどい。だけど佐伯は、佐伯は、ただ俺が好きなものを好きな俺をそのまま見てくれて、友だちでいてくれた。認めるとか受け入れるとか、大勢の立場からの視点じゃなくて、ただ視線を合わせてくれてた」

 橋近は腕の力を緩めない。

「わからないことで、共感が出来ないことで、自分を責めたのかもしれない。俺に嘘をついてる気分になったのかもしれない。でも、いいんだ。わからなくても共感できなくても、橋近亮はそういう人間なんだってただわかってくれて、友だちでいてくれるだけで十分なんだ」

 いいの?

 俊は白と灰色が混ざった空を見上げる。

 本当にいいの?

 体に広がる心地良さの中に、季節外れの線香花火を思わせる光が弾ける。網膜に映るのは確かに白と灰色なのに、輝く金色を見ているような気分になる。絶望になり得る秘密を隠してきたゆえに抱いたことのなかったものが、俊に生まれた。これが希望か。

「僕、想像しようとしてもわからないんだよ……橋近くんの辛さやしんどさだけじゃなくて、誰かを好きになるっていう大切な感情すら、どうしても……」

 がらがらの声を細く吐く。希望に手を伸ばしたり手繰り寄せたりするのはおこがましい。だが見つめてしまう。想ってしまう。

 すると橋近に頭をがしがしと撫でられた。

「気持ち自体は想像できなくても、『世の中にそういう人がいる』って想像ならしてくれてるだろ。寧ろ、わからないのに見ようとしてくれてありがとう。佐伯が俺に、生きていていいんだって思わせてくれた人なのは変わらない。あの日、カーテンを開けたのが佐伯で良かった」

 橋近は言い切った。探るような素振りはなく、心の底から思っていることを言ってくれているのだとわかる。


「俺、佐伯の言葉遣いが好き。ごく自然に人に優しく出来るところが好き。音楽を楽しそうに語るところが好き。本とか映画もよく知ってて、知らない人をバカにしないのも、俺が知りたいと言えば丁寧に話してくれるのも好き。ちょっとびびりながらも俺の友だちと友だちになってくれたのも好き。穏やかなところ、謙虚なところ、でもちゃんと言うべき場面は逃さないところ……恋愛感情じゃなくても、俺は佐伯が好き。もう、たくさんたくさん、好きだ。人を好きになる理由は、恋愛感情だけじゃなくていいはずだ。人の体に興味はなくても、心を分かろうとすればいいんだ」


 俊の脳裏に蘇る、胃を痛めた日々。テレビやネットで見ない日はない恋愛描写。「恋人がほしい」という誰しもに共通するらしい願望。「恋人はいらない」と言う人に向けられる奇異の目。そんなふうに言っていた人に恋人ができる現象。童貞が馬鹿にされる風潮。「結婚できない人」という区分け。「その歳まで独身なんて」という見下し。優しい父と母が「孫のために」と捨てないでいる、幼少期の俊が着ていた服。たった十七年間でも、世界からの疎外感を抱くには適当な時間だった。

 その日々が、真っ白に、まっさらになっていく。向こうに、金色の光が見える。

 橋近はまだ腕に力を込めている。雪景色に囲まれているのに、今が冬だと忘れそうなほど、俊の芯は温かい。

「絶対に欠落なんかじゃない。いつか埋まるよとかわかるよなんて言わない。今の佐伯でいい。今の佐伯がいい。俺たち、今のまま、これからも一緒にいようよ」

また、涙が溢れ出た。俊の涙に色があったなら、数分前のものとは違う色だっただろう。小刻みに震える手で、橋近の背に手を回し、彼よりずいぶんと弱い力で抱き締め返した。

「ありがとう……」

「全部、佐伯が俺にやってくれたことだよ」

 二人はしばらくそのままでいた。これ以上語り合わなかったが、俊にも橋近にも、疎外感から抜け出せず暗い気持ちで瞼を開いた朝があった。誰とも心を分かち合えないのかもしれない、死ぬまで独りなのかもしれないと泣いた夕方の帰り道があった。このままの自分でいいと誰か言ってくれないかと空に願い、虚しくベッドに入った夜があった。二人は、そんなある日の自分も一緒に抱き締められている気持ちでいた。互いが互いに、そのままで生きていっていいんだよと、全身で伝えていた。


 雪は降り積もり、白が広がる。いっとき全てが同じに見えるが、すぐにまたそれぞれの違いが露わになる。世界はそうやって、違う物事で出来ている。当たり前などない、一つ一つと一人一人が異なる世界で偶然にも同じ温もりを分かち合えたなら、それはただその日が唯一の素晴らしい日だったというだけなのだ。


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