秋-4 カーディガン
十一月に入り、夏にはシャツの白で統一されていた教室が、カーディガンの紺や黒、ベージュといった様々な色合いに変わった。あと一ヶ月もすればその上からブレザーを着込み、教室の色は再び揃うだろうが、どんな景色であれ二年B組はそこそこ仲良く平穏なクラスとなっていた。その空気感が醸成された大きなきっかけは文化祭だったが、橋近と俊をはじめとして、グループの垣根を越えて会話をする雰囲気が出来たのも理由の一つである。当の本人たちは意識していない。
カーディガンについて「ピンクは春じゃない?」とからかわれた村山が、「着たかったんだからいいじゃーん」と返しているのが聞こえてきて、大輔が「ギャルって自分を貫くんだなやっぱり……」と呟いていた。
俊はというと、誰とも色が被っていないブルーグレーのカーディガンを着ていた。母親が買ってくる服を頓着なく着ているとこういうことが起きる。クラスで浮いている気がして落ち着かず、「誰も僕の服装なんて見ていないはず」と自分に言い聞かせていたら、三時限後の休み時間に「カーディガン、良い色だね」と言われてドキッとした。橋近のグループで一際背が高く、ファッションが趣味だという田辺が、俊の机に長い影をゆらりと落としてきていた。彼はブラウンとベージュの間の色をしたカーディガンに、薄くチェックの入ったズボンを履いている。脚の長さは俊の一.五倍はあるようにすら見えた。橋近を通じて軽く会話をしたことはあったが、こうして向き合ったのは初めてだったし、まさか褒められるとは思っていなかったので「ありがとう⁉」と素っ頓狂に返事をしてしまう。
「どこのブランド?」
急いでカーディガンを抜いでタグを見ていると、向こうから橋近と池田が「田辺、佐伯いじめんじゃねえぞ」とやってきた。田辺は「いじめてねえよ」と笑っている。
「BETONってブランドみたい」
「BETONからそんなの出てるのか!」
自分の知らないブランドをさらりと認識できる知識量に感心しているうちに、「ちょっと貸してくれる?」と訊かれたのでこれまた急いで渡してしまう。田辺はカーディガンをじっと見たり撫でたりしてから、にこりとした。
「珍しくて深い色と生地だ。佐伯、センス良いね」
そこで俊は彼を騙している気分になり、言わなくてもいいのに口走る。
「母さんが買ってきてくれたのを着てるだけなんだ。普通は高校生にもなって母親が買ってくる服、着ないよね。はは……」
馬鹿にされるだろうかと手に汗が滲んだ。田辺は表情を変えず口を開いたが、その前に差し込まれた言葉があった。
「佐伯がお母さんのセンスを信頼してるなら、買ってくれたものを着ない手はないでしょ。俺だって母さんと出かけたときに服が似合うか見てもらうことあるし」
橋近のそれは、まるで曇ったガラスをきゅっと拭いたときのようにクリアに響いた。「俺もそう言おうとしてたんだけど!」と田辺に叩かれ、「横取りしちゃったぜ」とわざとらしくにやりとしている。俊は手の汗がみるみるうちに乾いていくのを感じた。些細な場面ではあるが、自分が肯定される安堵が喜びに繋がり、体の内側がちかちかと瞬いた。
「俺にも見せて」
俊のカーディガンは田辺から橋近の手に渡る。
「あったかい」
「佐伯の脱ぎたてほやほやだから」
「あ、なんか……」
そのとき、橋近はおもむろにカーディガンを顔に近づけ、す、と鼻で息を吸った。人に残り香を嗅がれる経験など初めてだったので恥ずかしかったが、橋近たちにとっては日常の戯れなのだろうかと思った矢先、池田と田辺がわっと笑った。
「匂い嗅いだ? ホモかよ!」
池田がけらけらとして、田辺も「今のは確かに、そうっぽい」と同意した。
消えていた汗が、今度は背中にじわっと浮かんだ。いつか体育の授業中に横谷と大輔がホモという単語を出していたが、あのときは橋近が近くにいなかった。だが今はすぐ傍にいる。同性愛者を差別的に扱うために使われてきた単語を、自分を揶揄するために使われて、どうしようもなく傷ついてしまうんじゃないか。橋近から目を逸らしたい衝動に駆られたが、視界に留まっているうちに、橋近は大口を開けて笑った。
「ホモじゃねえし! 良い匂いだったんだもーん」
俊の体から血の気が引いた。傍から見て、俊こそが当事者なのではないかと深読みされても仕方ないほどに硬直した。橋近が教室でよく見せる屈託のない笑顔の裏に、これほどまでに悲しい葛藤と決意が込められていることがあるのだと、保健室での邂逅がなければ生涯気づかないままだった。
「ホモ疑惑ついでに着ちゃおう。似合う?」
橋近は俊のカーディガンを羽織ってポーズを決める。池田たちは「似合う」と拍手した。
「ホモといえばさ」とその話題ではしゃいだ流れで池田が切り出す。
「俺の姉貴のチャラい男友だちいたじゃん。あの人、実はホモだって隠すために女遊びしてたんだって」
「まじか。そのパターンあるんだ。やってたの?」
「やる寸前で止まってたから女の方も変だと思ってたらしい」
その会話を聞いて橋近は「へえ」と腕を組んだあと、言い放つ。
「それはキモいな」
橋近は、二人ですら言っていない蔑みを真っ先に口に出した。他者から不意に傷つけられないよう、先回りして自傷し、その痛みで与えられた痛みをごまかすのが習慣になってしまっているのだ。俊は、猛烈に悲しくなる。
「バカ三人、カラオケの時間決めるよ」
村山たちに呼ばれ、池田と田辺は「じゃな、佐伯」と席から離れて行き、橋近だけがカーディガンを脱ごうと机の傍に留まった。俊は「ご、めんね」と絞り出す。ボタンに手を掛けていた橋近は、謝罪の理由はわかっているはずなのに、「謝ることなんもないじゃん」と微笑んだ。こういう状況で俊は曖昧に笑い、相手に合わせて話題を収束させてきたのだが、今は喉から何かが込み上げるような気分になり、それを「口を閉ざしてはいけない」という本能だと受け止めた。橋近に出会ってから、「今」に対して踏み出す瞬間が増えた。
「否定してでも、キモくないって言えばよかった」
見上げつつ、橋近にだけ聞こえるように言った。彼は双眸を柔く細めた。日常で見る機会は滅多にない、慈愛と称してしまえそうな優しさが俊に注がれる。心の広さが垣間見えるようでも、いくつもの傷を覆うために出来てしまった心の層が見えるようでもあった。
「佐伯がそうだと思われちゃうよ。それはダメ。ありがと、優しいね」
俊の眉間に、泣き出す寸前のように皺が寄る。もっとも俊は中学生になって以降、人前で泣いたことはなかった。学校では数少ない友人のコミュニティに留まり、他の生徒からは必要最低限しか話しかけられない環境に「僕が存在していい範囲はこれくらい」と納得していたし、部活もやってこなかったので、蔑ろにされて悲しかったり勝負事に負けて悔しかったりした日はなかったのだ。だが今は、どうして橋近くんが自傷しなければいけないのだという悲しさと、文化祭のライブで抱いたような悔しさがある。
「傷つかなくていいはずなのに」
すると橋近は漫画の書き文字みたいに「あはは」と笑った。それが意外にも大きな声だったので、池田たちに「なに笑ってるん」と訊かれたらどうするのかと勝手に焦る。もしかして僕が思っているより、彼は傷つきもしていないし辛くもないのだろうか。僕が先走っているだけだろうか。
橋近が、ふわりと笑んだ。
「じゃあ、佐伯の優しさに甘えていいか。帰るまで、カーディガン交換しない?」
突然の提案に、俊は間抜けに「えっ」と漏らした。橋近の歯がいたずらっぽく覗いている。
「俺、ちょっとだけ守られたいんだ」
傷つきもせず辛くもない、わけがなかった。俊は立ち上がらんばかりに「僕のなんかでよければ、いつでも、いつまででも」と答えた。
「ありがと。放課後には返すよ。はい、俺の」
橋近のベージュのカーディガンは柔らかく、柔軟剤のフローラルな匂いが鼻をくすぐった。仲良くならなければミントの匂いもこの匂いも知らなかったし、女子に好かれるために香水でも付けているのだろうかなんて的外れな偏見を持っていたかもしれない。
「じゃ、俺あっち行くね」
身を翻しかけた橋近に「あっ」と言えば、すぐに「ん?」と止まってくれた。
「……こんなことしか出来なくてごめん」
絞り出しても、教室の喧騒に紛れて消えそうだった。結局僕は立ち向かう勇気がないままだ、世界にも、橋近くんにも。
だが、しおれる俊に呆れも責めもせず、橋近はスタイリングしたファッションを見せるモデルのようにくるりと回った。
「こっちこそ、うっかり着て帰っちゃったらごめんっ」
俊は、この友人が好きだと思った。だから、年が明ける前には言おうと決めた。
自分は橋近の唯一の人でいてはいけない人間なのだと。
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