秋-3 ライブのあと
橋近のバンドは三人とも二年生だったようで、文化祭ライブのトリだった。つまり三年生は引退していて、来年の橋近はここには立たないのだと知ると、今日行けて本当に良かったと思った。体育館を出ると変わらず快晴で、裏庭に並ぶ木々がちょうど吹いた風でいっせいに揺れたところだった。校内に向かう渡り廊下を歩いていると、後ろから「さえきちー」と呼ばれた。立ち止まって振り返ると村山、後藤、森本が並んでいる。
「さえきちも観に来てたんだね。一人ー?」
橋近のグループと俊、横谷、大輔との距離が少し縮まったことで、「さえきち」呼びが彼女たちにも移っている。
「う、うん。橋近くんを観に。他のバンドも良かった」
今度こそ「一人で来て寂しいやつだ」という印象を抱かれないかと思ったが、三人に気にする様子はなく、後藤が「はっしー、ちょー良かったよね」と言った。俊は「うんうん」と幾度も首を縦に振る。
「やっぱずっと頑張ってんのすごいよね」
村山が言ったあと、俊には文脈が読み切れないと察したのか、「あたし中学からはっしーと一緒なんだけど、中学でもバスケやりながら文化祭に有志のバンドで出たりミニライブ企画したりしてたんだよね。軽音部がなかったのもあってさ」と付け加えてくれた。俊が驚いていると、森本が「うちらもしばらく知らなかったもん。努力を隠したいタイプなんだよ、あいつは」と笑ってフォローした。
「あたしも邦ロック聴くんだけど、あ、はっしーと好きなバンドは微妙に被らないからたぶんさえきちとも被らないんだけど、贔屓目なしにかっこいい演奏するんだよね」
村山は髪を巻いて、シャツにリボンを付けるかわりに第二ボタンまで開けている。もっとも制服は多少着崩してもいい規定になっているし、校則違反であるピアスはしていないところが進学校の生徒らしさである。
「この前さ、フェスの一般公募枠とか出てみたらって言ったんだ。足立ちゃんも細谷もレベル高いし、いけるよって。でも濁されちゃった。出てみたらいいのにね」
村山がこちらを見た。視線は身長百六十五センチの俊とほぼ同じだ。マスカラってここまで睫毛を伸ばせるんだという余計な思考が過ぎる中、彼女は「さえきちが言ったら出ようと思うかも」と言った。音楽の趣味が合っていて、自分がきっかけでライブに来てくれる人から言ってもらったら嬉しいんじゃないかという意味が込められているのを感じた。仲が良いからこそ言えないのだとは口に出せず、「どうだろう」と濁した。橋近もこのようにして濁したのだろうか。
「もしフェスに出たら、うちらのはっしーがますますモテちゃうわー」
校舎に入り、後藤が天井越しに天を仰いだ。
「モテといえばさえきち知ってる⁉ あいつこの前、麻美フッたんだよ!」
「えっ、知らないや。D組の?」
「そう!」
「それ、僕が聞いて良いことだった?」
「良いっしょ、みんな知ってるし」
学年の噂が回って来ない立場を嘆きかけたが、最近は橋近から「佐藤の兄貴はA大だから、志望校にするなら話を聞かせてもらえるかも」とか「やーちゃんは実は帰国子女だよ」とか聞いていて、御作高校二年生の面々の解像度がずいぶん上がってきているところだった。「よこやんと大輔にも教えていい?」と訊くと彼はフフと笑って「許可とらなくていいよ」と言ってくれた。そんな彼が、誰かの恋愛事については話さないのに、薄々気づいてはいた。
「麻美なんて男子だったら誰でも付き合いたい子だと思ってたから超びっくりした」
「もはや笑っちゃったよね」
「『好きではなかったから』ってフるの偉い。はっしーああ見えて真面目なんだよね」
彼女たちは悪ではない。告白を断ったのを糾弾したり、断った理由は恋愛対象が男性だからじゃないかと揶揄したりはしていない。異性愛者だと疑わずに人を見てしまうのは、今なお婚姻関係が異性同士にしか許されていない社会で十数年しか生きていなければ仕方がないと言えるかもしれず、もう少し広い世界に出たり知見に触れたりして数年以内に価値観をアップデートすれば、致命的な傷をばらまかずに済むだろう。ただ残念ながらその十数年のうちに人を傷つけている可能性はあるし、価値観が変わらない人は傷つけ続けてしまう。その期間を出来るだけ短くする、出来れば失くすために、周囲の人間が変わる必要があり、そのために社会が変わる必要がある。だが彼女たちと同じく十数年しか生きていない俊は「彼女たちは悪い人ではないが、無意識に人を傷つけている可能性はある」というところまでしか考えが至らず、橋近が生きるコミュニティの現状をまざまざと見せつけられ面食らってしまった。そんな世界から唯一抜け出させてあげられるのが自分なのだと思うと、身分不相応な気持ちが拭いきれず、やはり胸が痛んだ。それを吐露するわけにもいかないため、「誠実だよね、橋近くんは」とだけ言うと、三人はうんうんと頷いていた。
午後四時半に文化祭が終了し、五時半からの後夜祭までは各クラスや部活での片付けの時間である。俊は教室の装飾を外しては袋に詰めてゴミ捨て場に持っていく係をしており、五時二十分になってやっと橋近がクラスの片付けに合流していたのに気が付いた。池田や村山と笑い合いながら教室の原状復帰をしている彼を見つつ、いつ声を掛けようか迷う。俊は後夜祭には参加せず、横谷と大輔とファミレスでプチ打ち上げをする予定なので、橋近が後夜祭に行くまでに……と思っていたらあっという間に「じゃあ、お疲れ!」と解散の時間になってしまった。橋近は人に囲まれたまま、教室を出て行く。
数ヶ月前までなら、人の間に割って入るようなことはしなかった。
でも今日は――今、伝えないといけないと思った。
「橋近くんっ」
廊下に飛び出て、グループの後ろ姿に呼びかける。全員が振り向いたので怯んだが、橋近はすぐに口角を上げ、「わり、先に行ってて」と池田たちから離れた。
「おっつかれー」
橋近は大きく足を広げ、俊なら五歩かかりそうなところを二歩でこちらに辿り着いた。廊下の窓から見える空は、日照りの威力は落ちたもののまだ暗いと感じる色ではない。二人はどちらともなく開いている窓のサッシに腕を置いて顔を出す。夏の名残と秋の始まりが混ざった風に髪が揺れる。ステージを見上げていた何人が、このミントの匂いを知っているのだろう。
「演奏、すっごくかっこよかったよ」
「へへ……ありがとう。佐伯が来てくれてるのバッチリわかってたから、どうだったって訊きたかったんだけどタイミングなくて。ありがと、今、声かけてくれて」
「本当にかっこよかったから伝えたくて……最高だった。特にオリジナル曲、とにかくかっこよくて体が動いたし、歌詞も物語らしさとリアルさが良いバランスで。全部がスッと入ってきた」
「すげー嬉しい。ありがとう」
橋近がはにかんだ。D組の、学年で一、二を争うと言われている美少女がどれだけ橋近と仲が良かったのかは知らないが、顔立ちだけで惹かれていてもおかしくないと思える端正さが間近にある。その造形だけで自信に満ちた人生を送ってもいいのに、橋近はそうしない。
「大変かもしれないけど、橋近くんがこれからも音楽続けられたらいいな……」
口からぽろりと零れ落ちていた。しかし取り消すにはあまりにも本音であった。すぐそこにある橋近のはにかみが解け、頬がすっと萎んだ。続きを待つようにじっとこちらに向けられる眼力に押されて、「えっと、つまり、将来的な進路をそうしてほしいってわけじゃなくて」と口ごもる。橋近は無理やり俊の言葉を引き出そうとしているわけではない。なぜなら俊には、まとまってはいないが、確かに言いたいことがあるからだ。それを橋近はわかっている。
初めて遊んだ日に「黒目の色素が薄いから、金髪も違和感なく似合うのだ」と納得したのを思い出しながら、俊の思いは巡る。そもそも「大勢と違う」という概念はなぜ生まれてしまうんだろう。その「大勢」の中にも決して同じ人なんていないのに。人権や法律から外れた考えを発信するなら異端になるだろうけど、同性を恋愛対象にすること自体は誰にも迷惑をかけることではない。音楽だって、一人一人、性格や考え方が違う人がいるからあれだけたくさんの曲が生み出されているんだ。今、ここにいるのは橋近くんでしかない。あの曲を奏でて歌えるのは橋近くんしかいない。
そんな思いをわかりやすく論理的に説明できる気はしなかったので、俊は最後に浮かんだ考えだけを、出来るだけくっきりと発音した。
「橋近くんがそこにいたいなら、あんたはそこにいてはいけないと言う人こそ、一人たりともいてはいけないと思う」
こちらを見つめていた橋近は、ふっと力を抜いて、勢いよく俊の肩に腕を回した。背筋を伸ばすと身長差が際立ち、俊の眼前には橋近の喉仏が来る。ここから出る声は一つしかない。誰のものとも違う。
「ありがとっ」
元気な感謝とともに引き寄せられて、俊は橋近にもたれかかる。
「……ほんとに、ありがと」
橋近は静かに付け加えた。
二人はしばらく、そうしていた。橋近の二度目の感謝は、風に乗って、後夜祭に向かう生徒たちのざわめきに溶けていった。
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