秋-1 ギター

 九月末になり、文化祭の準備が佳境に入った。二年B組はパフェ屋を催す予定で、調理は市販のアイスやお菓子を盛り付けるだけなので簡単なのだが、ファンシーな装飾や衣装を作るのに手間取っていた。接客係をしたくない俊は小道具係となり、放課後はプラスチックのカップやスプーンを調達したりメニュー表を作ったりとそれなりにクラスの一員として準備に勤しんでいた。

 

 夕焼けの橙が濃くなってきた頃に作業が終わり、衣装係も手伝ってもらうことはないと言っていたので帰路につく。廊下を歩いていると、空き教室であるはずの場所からシャンシャンとギターの音が聞えてきた。アンプに繋がっていないエレキギターの、ひそやかな音だ。もしかしてと思ってそっとドアを開けて覗くと、やはり橋近がいた。教室前方、窓際の壁にもたれ掛かり、夕陽をバックにあぐらをかいている。

「それ、こっそり見てるつもり?」

 橋近に笑われ、俊は観念して足を踏み入れる。後ろ手にドアを閉め、彼の向かいにしゃがんだ。クーラーはついておらず窓が開いており、文化祭の準備に走り回る生徒たちの声と、練習中の野球部の声が聞こえる。野球部員は「こっちも手伝ってよね!」などと言われているのだろうか。

 橋近は片耳に有線のイヤホンをしており、俊に気を遣うことなくギターの練習を続行した。骨ばってはいるが細い左手の指が、それぞれ意思を持っているかのように位置を変えながら弦を押さえ、右手は俊であれば数分で腱鞘炎になりそうな動きをリズミカルにしていく。しばらく眺めていると一曲が終わったらしく、「何の曲かわかった?」と訊かれた。

「……ギターだけだと難しいけど、『罠』?」

「当たり! 軽音で訊いたら、バクホン詳しくなくてもこの曲知ってる人は結構いたからこれにした。弾いてみるとエイジュンさんの上手さが身に染みるわ」

 橋近がイヤホンを外したので、俊は「邪魔したよね。もう行くよ」と両手を振った。

「休憩したかったしもうちょっといてよ。てか準備任せきりでごめん」

「橋近くんは買い出しと調理係だから出番は当日でしょ。寧ろライブもあるのに午前調理って大変じゃない?」

「ヒマでも落ち着かないからちょうどいいよ」

 俊は、橋近の脚にぺろんと置かれたイヤホンを指して何気なく言う。

「曲を聞きながら練習するんだね」

「これはボーカルとギターだけ抜いたやつ」

「そんなのがあるんだ! 僕からしたらレアな音源だ」

「聴いてみる?」

「いいの?」

 ん、とカナル式イヤホンの片耳側が掲げられる。俊は橋近の隣に並び、左耳にそれを装着した。頭を震わせるドラムの音と胸をうねらせるベースの音が流れ込んでくる。バンドファンでもほとんどの人は聴いたことのないだろう音源だ。俊の体温は、音への高揚と残暑により上昇していく。右耳にはうっすらと窓の外の生徒たちの声が入ってくるが、もはや聞こえてはいない。

教室に広がる夕陽に、俊と橋近の、一つになりそうでならない影が浮かび上がっている。曲が終わった。

「僕、音楽の知識は全然ないけど、ドラムとベースだけでも十分に格好良いのはわかる。世界にこの音楽を生んでありがとうってメンバーに感謝したくなるね」

 イヤホンを返し感嘆混じりに言うと、橋近も「超わかる。ここにあのボーカルとギターが乗るんだから最強だよ」と同意した。

「文化祭で聴けるの楽しみにしてるね。ボーカルは誰がやるの?」

 訊くと、橋近はエメラルドグリーンと赤の二色が施されたエレキギターを抱えながら「あー、俺」と答えた。

「ギターボーカルだったの⁉ すごい! ギターを弾けるだけでも歌えるだけでも僕には信じられないスキルなのに。しかも元々ボーカルとギターが分かれてる曲をギタボって、すごすぎ!」

 俊は興奮を抑えなかった。

「はは、大げさ。スリーピースだし、今まではギタボの曲ばっかやってたんだよ。バクホンがイレギュラーなんだ。そもそもマサシさんはギターもピアノもドラムも出来るスーパーマンなのにソロボやってるのが格好良いんだけど」

「もしかしてオリジナル曲も橋近くんがギターボーカル?」

「おう」

「すごいー。プロになれるんじゃ……」

 そう言ってすぐ、演奏を聴いたこともないのに言うものじゃなかったと気付き、俊は「ごめん、軽々しかった」と謝った。橋近は一拍置いて「素直なやつ」と穏やかに笑ったあと、言う。

「誰にも言ったことないけど、実はちょっと、一週間くらいだけ、音楽の道に進めるか考えたことがある。ほら、一学期の終わりに『文化祭が終わったら進路調査が始まるし、夏休み中に考えたり調べたりしておいて』って言われたとき」

 記憶に新しい担任教師の言葉だ。俊には今のところ特にやりたい夢も職もないので、とりあえず中堅以上の私立大学を目指そうとしている。学費の心配はしなくていいと言ってくれた両親には感謝を伝えた。

「大学で軽音続けて、ライブハウスでバイトしたりコンクール出たりして下地作って、デビュー目指せないかって。でも俺、実際は安定した環境と精神が好きだし、やっぱ月収があるサラリーマンが向いてそうで……それにさ」

 失笑した橋近を見やる。横顔が妙に寂しそうで、俊の胸はざわついた。一瞬あと、これが人の孤独に触れる前の嫌な感覚なのだと気が付く。孤独を見せられること自体が嫌なわけではない。孤独を突き付けてくる世界と、孤独を抱える人の境界に生まれる僅かな振動が嫌なのだ。


「俺は人前に立って表現するパフォーマーにはなれないよ。世の中の大半が共感できることに共感できないから。俺はほぼ百パーセント、女が好きな男として見られるはずだ。それを受け入れたままであれば観客に嘘をついていることになるし、隠さず言えば俺の歌は多くの人からは共感してもらえないものになるし、一生『あの人、そう、なんだって』って言われることになる」


 俊のざわつきは瞬く間に腕や腿の裏に広がった。やるせなさと一緒になって肌が粟だつ。嘘なんかじゃないよ。何を言われても無視すればいいじゃないか、悪いことはしていないんだから。カミングアウトした芸能人もいるから大丈夫――喉まで出かかった言葉は全て、自分が言っても説得力がないだろうと思い飲み込む。眉間に皺を寄せしばらく考えた俊は、胸と胃に痛みを感じながら「性別がどうであれ人を好きになる気持ちがある時点で、橋近くんは多くの人と共感し合えているはずだよ」と言った。橋近は静かに笑んで、「そうかな。そうかも」と呟いた。

 少しの静寂のあと、橋近は俊に聞かせるでもなく言う。

「佐伯が観に来てくれるの嬉しい……」

 俊は、男女で恋愛をする人間だという前提も、嘘をつく必要も、「そう」なんだという偏見も全てなしにして橋近自身の歌をストレートに聴ける人間は自分しかいないのかと、改めて思う。橋近は知らぬ間に発していたらしい言葉に気付いたのか恥ずかしそうにして、「これでド下手だったらちゃんと笑ってよ」と取り繕った。

「どんな演奏でも楽しみだよ」

 俊は笑わずに答える。橋近はギターを抱え直した。

「いつかさ、一緒にバクホンのライブ行こうな」

 いつになるかはわからない。高校生のうちに小遣いで行けるのかもしれないし、大学生になってからアルバイト代で行くのかもしれない。社会人になって給料で行く可能性もある。未来はわからないが、どうであれ橋近が二人の間に「いつか」を提示してくれたのが俊は嬉しかった。

「うん。行こう」

 大事な友達だと思ってくれているのだろう。

 普段はこんなふうに考えると自意識過剰だと反省するのだが、今日は自然と心に湧き、染み入った。そして、「いつか」までには本当のことを言わなければいけないとも思って、制服のズボンをきゅっと握った。

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