夏-4 体育
横谷の「六限に体育を組み込んだ教師は想像力が足りてないだろ」という言葉には賛同せざるを得ない。俊は準備運動のジョギングだけで横腹を痛め、バスケの五分間のミニゲームでへとへとになっている。
チームAの俊はコート外にちんまりと座り、チームCとDの試合を眺めていた。ダムダム、キュキュキュと、ボールと靴が立てる音が体育館に飛び交う。最近のバスケットシューズはフローリングとの摩擦音が軽減されるよう出来ているものもあるそうで、確かに激しく動いているバスケ部員の方が静かである。
「いえい、勝ったぜー」
見上げると、タオルを首に掛けた橋近がピースを寄越してきている。彼はBチームで、先程の対戦相手だった。
「負けちゃいました。橋近くん大活躍だったね」
「へっへへ、かっこよかっただろ」
「かっこよかったよ、シュート三本も決めてたじゃない」
「これが元バスケ部の底力よ」
「さすが。僕はとりあえず必死に走ってみたけど、ボール一回しか回ってこなかったよ。まあ来られても困るからいいんだ」
「人には得意不得意があるから」
「だいたい何でも出来る橋近くんに言われたくないなあ」
「尊敬した?」
「ソンケイシタ」
「棒読みー」
笑いながら橋近は隣に腰を下ろし、俊にもたれかかった。「お、池田、良いドリブルしてる」と、試合を観ながらの自然な動きだった。人と密着する機会がほぼない俊の筋肉が、少々強張る。橋近からはやはりミントの匂いがした。清涼感がありながらも鼻孔を刺さない、どこか甘みもある匂い。見事に傷みのない金髪も、頬に触れそうなほど近くにある。
「池田ナイッシューッ」
俊が喋ったことのない池田へのエールが、ゼロ距離の人間から発されるのは不思議な感覚だった。二人の腕はシャツとタオルを隔てて接しており、地肌は触れ合っていないが、繊維を通り抜けて橋近の汗ばんだ熱が伝わってきている。きっと俊のそれも、同じくあちらに流れているのだろう。
俊の頭に、やにわに浮かぶ考えがあった。こういう熱が体内の深くまで達し、心臓を包んだとき、人は恋に落ちるのかもしれないと。緊張以外の高揚が生まれてもおかしくない場面なのだと。
そんな思考を断ち切るかのようにタイマーがビーという音を出し、試合終了を告げた。橋近は「もう俺らか」と熱をこちらに残す素振りもなくコートに戻って行った。体温が下がった気がしたが、体育館の熱気はむしろ増していて蒸し暑い。
チームB対Dが始まり、Cだった横谷と大輔が戻ってくる。
「疲れた、さえきち連続で休みなのずるー」
「俺とよこやんが同じチームになった時点でCは終わってる。みんなそう思ってる」
「卑屈になるなって。真理ではあるが」
「二人ともお疲れ様。良いパスしてたの見たよ。腰は引けてたけど」
さっきまで橋近がいた場所に座った横谷が、「てか今さ」と神妙な面持ちをこちらに向けた。
「さえきちと橋近、めっちゃくっついてたよね。最近こっちよく来るけど、裏でパシられたり金取られたりしてないよね?」
見ると大輔も真面目な顔つきである。どうやら俊がいないところで真剣に話し合ったことがありそうだ。俊は物騒なイメージと現実の乖離に笑う。
「そんなわけないでしょ。大丈夫だよ」
「ならいいけど。俺たちとも話してくれるし、良いやつだと思ってはいるけど、陽のオーラに慣れないんだよ俺は。話しかけられるたびに目が潰れそう」
「わかる。業務連絡しか話さずに卒業するかと思ってたからビビってる。ま、さえきち、なんかあったら言ってよ。俺たちの必殺パンチをお見舞いするから」
「数秒後にぶっ倒れてる未来が見えるが」
「言うなよ情けない、残念ながら見えるが」
念押しする二人に「本当に大丈夫だから」とまた笑う。確かに、あの保健室の日を経ず急に橋近が話しかけてきたら、裏があるのかと勘ぐったかもしれない。例えば「陰キャ」をからかって優越感に浸りたいのかとか、ゆくゆくはパシリにされるんじゃないかとか。でも実際は、彼が自分にも人にも嘘をつかない人間だとわかっているので、大丈夫だと心から言える。
「でもさっきのさえきちと橋近、ホモっぽくてちょいウケた」
急に飛んできた単語に俊の心臓がびくっと跳ねる。
「そうそう、ガチと言われても納得の距離感だった」
「ホモ」はゲイを差別的に指す単語であり、まれに当事者が自称することもあるが、ほとんどの当事者にとってはあまり気持ちの良いワードではない――それはネットで調べずとも、昨今の風潮から俊も感じ取っていた。だが当事者がいない「とされる」場で冗談めかして使う人は残る。同性を好きになるという事象をファンタジーととらえ、だからこそ当事者が真面目に受け取らず聞き流すような単語を敢えて使う。時折、当事者を明確に傷つけるために発する差別主義者もいるが、横谷と大輔が人を傷つける意図を持って言っているわけではないのはわかっている。それゆえの残酷さもある。
七月以前では、ホモと聞いても「あまり良くない言葉なはずだよね」くらいしか考えず、翌日には忘れてしまっていたかもしれない。だが今は明確に聞きたくない単語だった。友人を傷つけるだろう単語だから。橋近が近くにいなくて良かった。
「違うよー」
俊は否定すればいいだけだが、橋近は嘘をつかねばならない。彼が息苦しさに耐えている姿を想像するだけで、喉が詰まる思いがした。
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