夏-2 打ち解け

 俊と橋近は保健室での邂逅を経て、口先だけでなく本当に仲良くなった。

 しばらくは近くを通れば挨拶をする程度で、さらに声を掛けようか逡巡しつつも橋近は常に誰かといたし、彼の興味がありそうな話題が見つからないまま終業式を迎えてしまった。「結局一度もゆっくり話せなかった」と思いつつ教室を出ようとスクールバッグを肩に掛けた俊に、橋近が「佐伯、バクホン好きなの?」と声を掛けてきた。バッグに付けていたラバーキーホルダーから好きなロックバンドが同じだと判明し、帰路を共にすることとなった。昼の十二時台、校門を出ると一足早く夏休みに入っていた小学生たちが、プール帰りの濡れた髪のまま走って二人を追い越していった。俊は早々に「僕と趣味が一緒でも嬉しくないでしょ?」と口走った。橋近の素質やセンスといえば、すらりとしたスタイル、程良く着崩した制服、派手な髪色に耐えうる、寧ろ引き立てる顔立ち、背負った姿が様になるギターケースにピアス痕など、俊と正反対である。そんな人はこんなちんちくりんと同じ趣味であるのを恥じるのではないかと卑屈になったのだ。しかし橋近は屈託なかった。

「なーに言ってんだよ。誰がどんな音楽を好きだっていいし、俺は佐伯と音楽の話が出来るってわかって嬉しいよ」

 その場しのぎの慰めだと疑う余地もなく、佐伯は感謝と情けなさでもじもじしながら「ありがとう」と言った。すると橋近が身を寄せてきて、照れくさそうに「実は」と耳打ちしてきた。

「あの日……保健室の日のあとすぐ、佐伯のキーホルダーには気付いてた。周りにバクホン好きな人いないから、すげー嬉しくて。なぜか軽音にもいないんだよ。でもいつ声掛けようか図ってるうちに終業式になっちゃったんだ」

 橋近は常に人に囲まれているが、恋愛対象となる人間の性別を口に出したことがないという孤独を抱えている。それは俊が共感するには大きすぎて遠すぎて、かろうじて慮ることしか出来なかったのだが、一方で同じバンドを好きな人間が周囲にいないという小さな孤独はぴったりと共感できるものだった。センスが良く人気者の橋近もそんな些細な無理解を経験しているのに驚き、そして声を掛ける機会を窺っていたのは自分だけじゃなかったのだと知って嬉しくなった。俊は、今度はきちんと感謝を乗せて「ありがとう。僕も嬉しい」と言った。

「好きな音楽があるってサイコーだよなーっ」

 青空に両手を突き上げるようにして橋近は伸びをした。

「サイコーだね」

 俊も同じポーズをとってみた。肩の筋肉がじんわりと解れ、体がリラックスするのを感じた。

 

 そのあと、夏休み中は共にCDショップに行ったり、女子に人気のふわふわパンケーキや大きなマカロンのようなものを食べに行ったりと数回に渡って遊んだ。カラオケのフリータイムと貸出スクリーンをフル活用し、朝から晩まで好きなバンドやおすすめの曲のMV鑑賞会をした日もあった。



 二学期に入って一週間ほどが経つ。二人は売店でお菓子を奢り合ったり、昼休みに橋近が俊の席に寄ってきたりするようになった。俊と仲の良い横谷と大輔は急に近づいてきた「陽キャ」に戸惑っていたので申し訳ない気分になったが、橋近が適度に二人にも話題を振ってくれるので気まずさはない。俊の方は橋近のグループに近づくことは出来ていないが。

 全長二十キロのローカル線の駅から、住宅街の合間を縫ってぐねぐねと続く道が、多くの生徒にとっての御作高校への通学路である。住宅街を抜けるとコンビニや中小企業が並ぶそこそこ車通りのある道に出て、すぐに高校の校庭を囲むフェンスが見える。朝、俊がフェンス沿いに伸びる歩道を歩いていると、「さーえきっ、おはよ」と後ろから橋近がやってきた。ミントの匂いがするシャンプーでも使っているのか、夏の勢い衰えずといった九月中旬に爽やかな風を連れてくる。

「おはよう」

 彼の金髪は、青空に広がる陽光に溶けていきそうだ。朝から笑顔が眩しい。まるで光そのもののような橋近とこんな近くで挨拶を交わすようになるとは、二ヶ月前まで思いもしなかった。

 校門に差し掛かると、一年生の学級代表らしい生徒が六人並んでおり、牛乳パックで作った箱を持って「八月に起きた北陸地震への募金活動をしています。募金はそのまま義援金になります。よろしくお願いします」と声をあげていた。一人、面倒そうにしている男子が隣の女子に小突かれている。俊はバッグから、夏休み中に二千円で買ったチャック付きナイロン製財布を取り出し、募金箱に五百円玉を入れた。

「ありがとーございます!」

 一年生ならではの初々しさを全開にして、坊主頭の男子が言った。慌てたように三百円を箱に入れる橋近を待ってから、校門を離れる。橋近の財布はワインレッドの長財布だった。

 昇降口に足を踏み入れ、橋近が切り出す。

「小テストの勉強した? 数学の」

「ちょっとはしたよ」

「げえ、えらい。佐伯、一学期の中間で十位以内に入ってたもんね」

「たまたまだよ。ん、あの頃なんて目も合わせたこともなかったのに、覚えててくれたの?」

「目が合うくらいはあっただろ。いや、なかったかも……とにかく、うちのクラスのやつが入ってるのが嬉しかったんだ」

「優しいね。そう言ってもらえると僕も嬉しい。でもその分、僕は英語と現文が全然ダメなんだ」

「俺は逆。英語は好き」

「英語に興味を持つ秘訣を教えてほしいよ」

「わかれば日本に住めなくなっても生きていけるって思うこと!」

 橋近は踊り場を見上げて言った。まるで本当に外の世界への入り口、もしくはこの世界の出口に向かって階段を上っているかのような姿に俊は思わず笑ってしまう。

「壮大なスケール! 橋近くん、反逆者にでもなるつもりなの」


「まあ、今もそんなもんじゃん」


 手先がさっと冷えた。言っている意味がわかってしまう。ここは、そんな言葉を快活なほど自虐的に言わなければいけない世界なのだ。

 俊は夏休みの間、インターネットを見て、現代日本でも「多様性」や「LGBT」といった単語が浸透し始め、他者を傷つけなければ誰を好きになろうが個人の自由だという考え方が広がりつつあるのを知った。つい先日も芸能人が同性愛者だとカミングアウトしたというニュースがあったが、批判的な意見は見当たらなかった。性的マイノリティ当事者のSNSインフルエンサーいわく、「婚姻関係が異性同士でしか認められていないのは未熟な社会の表れだと思うが、十年前に比べたら恋愛の自由度は増した」らしい。だが他の、フォロワーの少ない当事者のSNSアカウントを見てみたところ、「うちの田舎では『同性愛者は異常者』。払拭される日は当分来ない」や「今日も彼女ほしーって話。彼氏ならほしいって言ったらハブだろな」といった書き込みがあり、ミクロで見ると性的指向が露呈すれば世界から爪弾きにされると恐れている人が多くいるのだとも実感した。

 そんな恐れと日々戦っている人間が、目の前にもいる。

「反逆なんかじゃないよ……絶対に」

 ちっぽけな人間に出来るのはせめて言い切ることぐらいだ、と俊は唾を飲む。発言に自信を持つことなどめったにないが、今は根拠もなく「僕は間違っていない」と思ったし、そう思うことそのものも間違っていないはずだと言い聞かせた。すると、真夏だというのに、橋近は冷え切った手をストーブにかざしたときのような顔をした。それに俊は安心し、同時に胸を痛めるのだった。だが彼の、涙するほどの安堵を無に帰したくなく、今日も痛みを無視する。

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