唯一の人

青葉える

夏-1 邂逅

 保健室の真っ白なカーテンとベッドに、橋近の金髪はぽつんと浮いていた。その金色は、教室では活気と人気の象徴として輝いているのだが、今は蛍光灯の光にも負けそうに細く見え、生まれたての小鳥のように震えている。


「お願い、誰にも言わないで、お願いします」


 橋近の顔色は保健室に同化しそうなほど白い。俊は、教室の中央で笑うあの人と、ズボンを上げるのもそこそこに泣きそうな顔で正座をしているこの人が同一人物であると信じられず、頭がくらっとして一歩あとずさった。

「待って、行かないで!」

 橋近は追いすがるように手を伸ばしてきた。俊はハッとして、気が利く態度を作れる器用さはないものの、咄嗟にベッドを囲うカーテンを閉め内側に入る。このまま去りはしないという意思が伝わったのか、橋近はだらりと手を下ろし、俯いた。七月になって起動を許されたクーラーの稼働音が、二人の間を気まずそうに流れる。



 俊が理科の授業中に腹痛を覚えて保健室に入ったのはたった数十秒前。ドアに「職員室にいます」の看板が掛けられており養護教諭の不在を知ったが、鍵は開いていたので勝手に休ませてもらうことにした。五つ並ぶベッドのうち手前のものをちらりと覗くと、無人だった。腹痛により判断能力が鈍っていたのだろう、俊は壁際のベッドも無人と考え、「落ち着く端っこで休みたい」とそこのカーテンを開けた。そして目撃したのが、動画が流れっぱなしのスマホを握り、片耳にイヤホンを付けて眠っている橋近だった。今日の理科の授業は理科室での実験で、それぞれの班での作業に集中していたため、橋近が出て行ったのには気付いてなかった――と思った矢先、スマホの画面に映る動画が目に飛び込んできた。それは紛れもなく、男性同士の性行為を映した動画だった。あれっ……これは僕が見ていい光景だったのだろうか。ぼんやりと事態を認識し始めた頃、人の気配に気づいたらしい橋近が目覚めてバネ仕掛けの人形のごとく飛び起きた。はだけた掛布団の下には肌色の太腿があった。ボクサーパンツの様子から、のんびりした性格の俊ですら、橋近が動画を見ながら自慰行為をしようとしているうちに眠ってしまったのだとわかってしまった。見て良いはずがなかった光景に、腹痛と蒸し暑さで汗ばんでいた肌がさっと冷え、脚が竦んでいるうちに、状況を理解した橋近に懇願され今に至る。腹痛はいつの間にか吹っ飛んでいた。



「保健室でしようとしてたってのは言いふらしてもいい。ダセえよあいつ、って。だけどお願いします、これを見てたってのは誰にも言わないでください」

 橋近の拳は太腿の上でぶるぶると震え、元々は俊の二倍はありそうな双眸が窮屈そうに伏せられている。ズボンが脱げかけているのに今しがた気づいたのか、腰を浮かして引き上げていたが、ベルトはシーツに垂れ下がったままだ。俊が「クラスどころか学年の人気者にとって、誰にも見られたくなかったであろう姿を見てしまった」ことに混乱し言葉を発せずにいると、橋近は遂に額をシーツに付けた。

「頼む。お願いします」

「や、止めて。顔を上げて」

 慌てて、フィクションですら陳腐な台詞を言う。カーテンは窓も覆っているので校庭の様子はわからないが、青空を飛ぶ鳥の声と飛行機のごうごうという音しか聞こえないので、体育の授業は行われていないのだろう。不在の養護教諭、無人の保健室、窓から覗かれない奥の閉め切ったベッド、様々な条件が橋近に「今なら」という心の隙を与え、それを運悪く突破してしまったのが俊なのだった。

 橋近は顔を引き攣らせている。左頬なんかはもはや笑っているように見えた。

「驚いただろ。男が好きな男は気持ち悪いだろ。わかるよ。俺は気持ち悪い人間なんだ。これからいくらでもそう思っていい、罵ってくれていい、だけど、他の人には言わないでください、勝手でごめんなさい」

本来人間が発するに相応しくない、自虐的な懇願だった。橋近は現代日本社会で生きていくのに不自由しなさそうな外見や話し方を持っており、その素養は俊を女性のスーパーモデルを見ているような気分にさせて、羨む意味も見出さず、「橋近くんは僕と関係のない人」と判断し過ごすには十分なものだった。そんな彼が目の前で、縮こまって懇願している。例えば何かしらの被害者が加害者のこの姿を目撃したのであれば、被害者の方はこの状況を今後の牽制、もしくは復讐の材料として使ったかもしれない。だが俊にとって橋近は四月に同じ二年B組になってから一度も話したことのない男子というだけで無害であったし、クラスのおとなしい女子が花瓶を割ってしまったとき率先して片づけを手伝っていたのを見たこともあったので、こんな状況を望むわけもない。

 俊は一歩踏み出し、肩を丸めてベッドの脇に立つ。

「僕こそ、人がいるのを確認せずにカーテンを開けてごめんなさい。気持ち悪いなんて思わないよ」

 上ずった言い方だが、本心だった。十七年の人生で同性同士の恋愛について真剣に考える機会がなかったため、恋愛には性別は関係ないという確固たる意思は構築できていなかったが、異性同士でされるべきだという意思もなかった。俊は息を吸い、衝撃と混乱の理由を話す。


「驚いたのは、確かにそう。僕は勝手に、橋近くんみたいに明るくて目立つ人は『女の子にもてる』のが当たり前で、『彼女』がいるんだろうって思ってたから。だからその考えが……偏見だったのに驚いたんだ」


 橋近は眉をひそめて俊を窺っている。「それにね」と、魂胆はないとわかってもらえるよう、両腕を広げ無防備な姿を見せた。腕のリーチが橋近よりだいぶ短いのを知るが、そんなことを考えている場合ではない。

「動画は好奇心で見てただけだって言い訳して、動画の方を気持ち悪いって言う手もあった。でも橋近くんはしなかった」

 橋近は「あ」と漏らしたのち苦々しく笑い、「はは、そうすれば良かったか」と自嘲した。

「ううん。しない方が良かったに決まってる。橋近くんは誠実な人なんだよ。自分にも僕にも、男の人を好きだっていう気持ちにも」

 誰もいないとはいえはっきりと言い過ぎたかと慌てたが、橋近は気にしていないふうに力なく笑みを浮かべたままシーツに視線を落とした。「だから大丈夫、ね」と俊は両手をバタバタと動かし彼を励まそうとする。本当なら「口外しない」とだけ言ってすぐ立ち去ってもいい関係性なのに、どうにか橋近に傷を負わせまいと必死になっていた。怪我をした鳥を見捨てられないような使命感と、生来のものにしても後天的なものにしても彼が持ちうる誠実さに対しうっすらと湧いた尊敬の念が、俊を保健室に留まらせている。

 だがうつろな視線のまま、橋近は呟く。

「でも、やっぱり気持ち悪いだろ」

「言ったでしょう、気持ち悪くない」

 引っ込み思案な俊が、人の言葉に食い込む形で声を発するのは、少なくとも高校に入学してから初めてのことだった。俊の話し方に馴染みのない橋近でもそれを察したのか、目を見開き、俊を見上げた。彼の眼球を覆う膜が潤み、蛍光灯の光を取り込んでゆらゆらと揺れる。見つめられてどぎまぎしていると、不意に、彼の大きな瞳からぼろっと涙が零れ落ちた。唇が小刻みに震えている。

「本当に、気持ち悪くないのか」

「うん。本当に」

 か細くも言い切ると、橋近は「うう」と呻いてしゃくりあげ始めた。血の気が引いて白かった顔が、見る間に紅潮していく。涙は次々と彼の頬を伝い、ついにはシーツに染みを作るほどになった。

「俺っ、バレたら、絶対に拒絶されるっ、思ってた。まさかそんな、言ってもらえるなんてっ……ありが、とう」

 子どものように泣きじゃくる橋近にかけるべき言葉が見つからず、迷ったあげく俊はおそるおそるベッドに腰掛け、その背をさすった。白いシャツとインナー越しに、焦燥と恐怖と安堵で火照った体温が伝わってくる。確か軽音部で、運動部には所属していないはずなのに、背中には筋肉がしっかりと付いていた。自分の薄い体と比べないようにする。


 どれぐらいそうしていただろう。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、ドアの向こうが騒がしくなった。

「佐伯」

 鼻を赤くして俯いた橋近が呼ぶ。彼に名前を呼ばれたのは初めてだった。

「男が好きな男でも、仲良くしてくれるか」

 ニキビ一つない頬は乾いた涙に覆われており、触れるとぱきりと音を立てそうだった。俊は頷きそうになって、気が付く。

「そもそも仲良くなかった人間でも、『うん』って言っていいの?」

 顔を上げた橋近は、きょとんとしてから噴き出した。

「大胆なのか謙虚なのかわかんない返し方だ」

「気を悪くしたのならごめん」

「ううん。じゃあさ」

 釣り気味の目を垂れさせて、泣きたての赤い頬で橋近は言う。

「これから仲良くしてくれるか。佐伯は、女子を好きになるのが前提の世界から抜け出させてくれる、唯一の人だから。仲良くしたいんだ」

 同じクラスではあるが、友情はもちろん、羨みも妬みも抱かないほど遠い位置にいると思っていた。だがこうして近づいてみてやっと、「高校生活真っ只中に、クラスメイトと縁がない」という事象は寂しいものなのではないかと気づく。本来なら自分から近づく努力をしても良かったところ、偶然の重なりにより向こうから伸ばしてくれたこの手を、取らない理由はない。


 だから俊は「もちろん」と言った。橋近がはにかむ。胸がちくりと痛む。


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