4.華氏451度 レイ・ブラッドベリ ―盲目の幸福か、自由への試練か
現代社会で、小説は、小説を読むこと必要なのか?
「最近の若者は本を読まない」「活字に親しめ」2024年現在、高校生である投稿主も昔からよく聞いてきた言葉だ。幼い頃から本を呼んでいた投稿主自身特にこの言葉に対する因縁はないが、やはりこういうことに対して渋い顔をするクラスメイトもそれなりにいる。確かにスキマ時間にも勉強仕事をと忙しい現代において本を読めるほどまとまった静かな時間はあまりない。本は大分と「時代遅れ」なコンテンツになった。
19世紀ドイツの詩人ハイネはこんな警句を遺している。
―書物を焼くものは、早晩、人を焼くようになる。
本を捨て去ることは人を捨て去ることに等しい、そういうことのように思える。では、すべての人が本を捨てる社会が、国が存在したら?
それが「華氏451度」だ。この国では本そのものが禁止され、本は発見次第燃やされる。紙は華氏451度、摂氏だと233度で発火する。この国に住む主人公モンターグは不法所持された本を見つけ、その場で焼却処分する「昇火士(ファイアマン)」を仕事にしていることを誇りに思い日々過ごしている。良き同僚と仕事をし、自分の家を持ち、家に帰れば妻が待っている。 そんな順風満帆の人生を送るモンターグのもとに新しい隣人の少女が現れたことを境に、モンターグは自分の人生に疑問を持ち始める。
ファイアマンの仕事をこなす中で、モンターグは本を愛する人々に出会い、本に心を惹かれていく。本を焼き、人をも焼いた先でモンターグは本に何を見出したのか?
たぶん、文頭の問いに対する答えがこの本の中には詰まっている。未読の方でもおそらく予想はつくだろう。そう、「小説は必要」である。
少し脱線するが、小説の反対に「大説」という概念があったことをご存知だろうか。
それぞれを簡潔に説明すると、「四書五経」など(ソフトに例えれば「論語」のようなジャンル)のように、人として、君子としてどうあるべきか、を解いたもの、いわば真人間マニュアルのような書を「大説」といい、そうでない、大衆向けに人の思想や空想などを物語的に解いた、小編の言説が小説と言われていた。
この2つの対比は「小説」の存在意義を解いていると言えないだろうか。投稿主である私はもちろん、多くの人はいきなり「このように生きて君子になれ」と説かれてもピンとこないのではないか。数学の苦手な投稿主の経験で例えるが、解説を聞いても使われた公式の意味がわからず理解できないあの現象のように、我々は言葉一つで君子になれるほど、つまり君子一歩手前に至るまでの人生経験を積んでいないからだろう。大説は一般人には向いていない。
そこで我々はもうひとりの自分に様々な経験をさせる。それが「小説」だ。命懸けの冒険、逆転人生、世界を変える大決戦…などなど、安全なところから壮絶な体験をして、知識としてではなく経験として教訓を得られる。
小説に限らず、何らかのメッセージを含むストーリーを読むことはそうしない人の何倍もの経験を積むことができる。大きく脱線したが、「華氏451度」の作者、ブラッドべリはそういいたかったのではないか。
ここからさきは結末のネタバレを含む。ぜひ本を読んで結末で衝撃を受けてからこちらを読んでほしいが、皆さんの自由意志に任せよう。
物語の終盤で、戦争が勃発する。敵からの宣戦布告とともにモンターグの元いた街はミサイルで粉々に吹き飛び、それをもって戦争は終わる。今のところこれより早く終わった戦争描写は見つけていない。本に人生を託し街から逃げて生き延びたモンターグと、本を否定し続けすべてを失った都市。この結末はブラッドベリが相当本を愛していたことを表すものではないだろうか。
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