第4話

 出勤時間になったので私は喫茶店を出た。


 周囲を警戒して町を歩き、幸いなことに黒い犬に出くわさず、病院に辿り着いた。


 タイムカードを押して受付裏にある当直室に入る時、いつもの習慣で外来の待合室を見た。


 さほど混雑していないのでほっとしながらも、待合室の隅のベンチで上体を小さく揺すりながら座っている50代後半の男に目が行った。


 月に一度心療内科に通っている、少し精神が不安定なその男。


 男は時々理不尽な内容のクレームをつけたり意味不明な暴言を吐いて壁を殴ったりする、いわば『MK』である。


 MKとは問題患者の略で医事課職員やナース達の間で影でそう呼んでいる何人かの問題患者の事である。


 ブラックと呼ばれる出入り禁止診察拒否とまで行かないが、色々と取り扱いに困る歪な感情の持ち主の患者達。


 私は先月、診察までの待ち時間が長いと口汚く罵りながら壁を蹴っているその男に対する対応で嫌な思いをしたのを思い出して、心の中で舌打ちをした。


 当直室は診察時間帯は医事課職員の休憩室も兼ねている。


 2人の医事課職員の女性がお菓子を食べながらテレビを見ていた。


「お疲れ様です」


 私は部屋に入り、ナップザックを下ろし当直員用の名札を胸ポケットに留め、医師体制表の紙、ボールペン、ポケットベルをポケットに入れた。


「とみきさん、お疲れ様~!

 来てるよ~石崎」


 丸顔のほうの女性職員が顔を顰めて言い、隣に座った女性職員も同意を表し、目を細めて頷いた。


「まぁ、奴は汚い言葉を言って壁を蹴るだけだから…大丈夫ですよ」


 私はそう答えながら警備日報に日付などを記入した。


 午後5時からの勤務開始は夜間外来の受付業務から始まる。


 午後7時30分に夜間診療が終わるまで、再来機と呼ばれる受付の診察機械の横に立ち、やってくる患者の応対をする。


 やはり連日の暑さが影響しているのか、今日は比較的空いていた。


 石崎が診察券を機械に入れて受付を済ますとじろりと私を見た後、待合室の隅のほうに歩いていった。


 石崎は隅の椅子に座り、たまたま前を通りかかった杖をついた年老いた女性をいきなり突き飛ばし暴言を吐き始めた。


 女性が腰を抑えて苦しげに唸り、そばにいた3歳くらいの子供が火のついたように泣き喚いた。


 待合室は騒然となった。


 私は走っていって、罵声を上げて子供の胸倉を摑もうとした石崎に掴み掛かった。


 石崎が振り向きざまに手に隠し持っていた何か鋭く尖った物を私に突き出した。


 下手に間合いを取って子供を人質にとられたりしたらかなわないので私はにそのまま手を伸ばして石崎の襟を摑んで取り押さえようとした。


 石崎が突き出した尖った物が私の右手首辺りに刺さった。


 刺された時特有の激痛と言うよりも熱い感触が、何か硬いものが私の腕の筋肉を掻き分けながらずぶずぶと入ってきた感触が走った。


 私は尖った物を持つ石崎の手ごと左手で握り締めてそのまま捻り上げ、体重を掛けて押し倒した。


 私の下で石崎が何か意味不明なことを叫びながら暴れたが、どうにか取り押さえることが出来た。


 騒ぎに気づいたもう一人の当直と医事課の男性職員が駆けつけて、3人がかりで石崎の手足を押さえつけた。


 石崎から身を離した私は手首に刺さった物を見た。


 それは千枚通しだった。


 私の手首から肘に掛けて千枚通しが斜めに根元まで深々と刺さっていて、傷口からだらだらと血が流れていた。


「抜かないほうが良いよ!」


 看護師が私の手を見て顔をしかめながら言った。


「うん、そうだね。

 これは先生に抜いてもらおう」


 言われるまでもない。


 こういうものを下手に抜いて血管を傷つけて大出血とか神経を傷つけて麻痺が残るなんてまっぴらごめんだ。


 どくどくと脈打つような出血も無く、指先や掌や手首もきちんと動いているのを確認して私はほっとした。


 どうやら太い血管や神経は傷ついてなさそうだ。


 私は騒然となった待合室の中、看護師に支えられて中央処置室に歩きながら、他の職員達に取り押さえられながら暴言を吐き続ける石崎を見た。


 奴はまるで昨日の黒い犬のような目で私を見つめて叫び続けた。


 奴の目は赤く光り、犬、黒い犬の目をしていた。


 少なくとも私にはそう見えた。


 私と看護師が中央処置室に入ると、30代後半の男性医師がニヤニヤしながら奥の椅子に座るように言った。


「見てたよ、ヒーロー。

 どれどれ名誉の負傷を見せてごらん」


「ヒーローなんかになりたくないですよ…ったく」


 私が差し出した腕をまじまじと見た医師は看護師に命じて消毒液を染ませたガーゼを用意させて、腕に刺さった千枚通しを摑み、まっ直ぐに抜いた。


 多少の出血。


 刺さったばかりなのでさほど痛みは感じなかった。


 医師はガーゼをピンセットでつまみ私の腕の穴に突っ込んだ。


「イテテテ!先生、刺された時より痛いですよ!」


「我慢我慢!傷はたいした事無いけど消毒だけはしっかりしとかないとね、プッ…ヒーロー」


 医師は傷口に消毒液を注ぎ込み丸めたガーゼをぐりぐりと押し込んで回転させた。


 そして、血にまみれた千枚通しをちらりと見てため息をついた。


「やれやれ、毒とか塗ってないよな」


「怖い事言わないでください」


 医師は私の腕をめくるとアルコールで消毒して注射を打った。


「傷は縫う必要は無いね。

 一応抗生物質打っといたから…指とかちゃんと動くでしょ?」


「はい」


「じゃあ心配ないと思うよ。

 CTかレントゲンを撮ろうかと思ったけど…まぁ、その必要は無いかな?

 消炎剤と化膿止め出しとくから飲んでね…プッ、お疲れヒーロー」


 看護師が腕の傷にガーゼを貼り、テープで止めた。


 処置室を出るとおっとり刀で掛け付けた所轄の警官が石崎を連行して行くところだった。


「あんた被害者?」


 別の警官が私に声を掛け、その後当直室で事情聴取を受け、証拠物件の千枚通しを持って警官が引き上げた。


 会社に電話をして事情を話すと代わりに出れる者がいないから続けて勤務して欲しいと言われた。


 やれやれ。


 私は腕に残る鈍痛にイラつきながらも当直勤務を続けた。


 外来の診察も終わり、受付や待合室に人気が無くなる頃、警察署から電話が来て石崎は大学病院の閉鎖病棟に措置入院となったことを報告してきた。


 職員も次々と帰宅して静かになった病院で私はテレビを見ながら石崎の目のことを考えていた。


 あの時、私を刺したあのときの石崎の目は確かに赤く光って見え、あの晩の黒い犬の目にそっくりだった。


 (考えすぎかな?しかしタイミングが良すぎる…)


 もう一人の当直の山吹が声を掛けてきた。


「どうですか?腕の様子」


「痛みもないし、たいした事無いよ」


「それは良かったですね。

 いやぁ、びっくりしましたよ」


「山吹君、あの時あそこにいたよね?」


「はい」


「石崎の目なんだけど…赤くなってなかった?」


 山吹はきょとんとした顔をした後で虚空を見て考え込んだ後、首をかしげた。


「いや、キチガイ見たいな目つきをしていたけど、充血とかはしていなかったですね~!

 どうかしたんですか?」


「いや、別に…」


 私は壁の時計を見た。


 午後9時10分前だった。


「そろそろ巡回に行ってくるよ」


「はい、気をつけて…でも、とみきさんなら大丈夫ですね」


「なんだよ~!俺だって生身の人間ですよ~」


 私はキーボックスから鍵を取り、マスターキーのホルダーにはめ込んで病院内の巡回に出かけた。


 人気が無くなった病院を1人で巡回するのも慣れたが、今日は昨晩の黒い犬のこともあり、先ほどの石崎のこともあって、常に背中を誰かがじっと見つめているような嫌な感触がついてまわった。


 院内を回り、別棟の外も回って異常が無い事を確かめた私は建物の影でタバコに火を点けた。


 夜になってもまだまだ昼の熱気が残り、力無い夜風が蒸し暑い空気をどんよりとかきまわしていた。


 私は額を流れる汗を手でぬぐい、タバコの煙を吐き出した。


 しばらくタバコを吸い、携帯灰皿に押し込んで消すと病院の正面玄関に歩いていった。


 蒸し暑い空気に乗って犬特有の日向臭い体臭が流れた。


 私は目を疑った。


 振り返った私の眼に、あの犬の姿が映った。


 人気が無い暗い通りの向こう、あの黒い犬が舌をだらりと出して喘ぎながら、じっと私を見ていた。


 自宅とともに勤め先まで突き止められたと思い、私は自然と息が荒くなった。


 犬はじっと私を見ているだけでその場を動かなかった。


 私は犬に背を向けないように後ずさりしながら病院の中に入った。


 正面玄関の自動ドアが閉まった後でも犬の体臭と荒いと息が私にまとわりついているような感覚があった。


 私は当直室に入り、ロッカーの携帯電話を取ると無人になった待合室の隅で桜田に電話を掛けた。


「もしもし、桜田さんですか?」


「はぁ~い、とみきちゃん?」


「ええ、とみきです」


「どうしたの?今日は病院で夜勤でしょ?」


「それが…あの犬が現れたんですよ」


「…見間違いじゃないの?

 だって、椎名町から王子なんてかなり離れてるわよ」


「見間違いなら良いのですが…どうも同じ犬のようです」


 電話口の向こうで桜田はじっと考え込んでいるように沈黙した。


「…それに今日夜間診療中に私の事を刺した男があの犬の目をしていたんですよ…こんな事言うとノイローゼとか言われるかも知れないけど、確かに刺された時にあの男はあの晩の犬の様に目が赤く光ってたんです」


「ちょちょ!刺されたって?

 どこを?あなた大丈夫なの?」


「千枚通しで腕を刺されたんですけど幸いたいしたことはありませんよ。

 まぁ、それで気が動転しているのかもしれないんですけど…確かにあれはあの晩に見た同じ犬です」


「…他の人が言うなら、ノイローゼって言っちゃうかもしれないけど…とみきちゃんは奈良でも広島でも栃木でもあたし達の誰よりも冷静だったからね…その言葉を信じるわ。

 …保安チームの誰かを護衛につけようか?」


「嫌々それほど大げさな事をするのは…それに、武装した人間じゃないとあの大きさの犬には立ち向かえないですよ」


 広島の調査で訓練された犬の力を思い知らされた桜田は同意のうめき声を上げた。


「ふ~ん…それもそうね…でも、あなた1人で大丈夫?」


「今日は襲ってくるそぶりは見せなかったです…あいつも何か癇に障るような事をしなければ…大丈夫なのかな?」


「どうもその犬…犬の真意が分からないわね」


「…」


「ただ単にあなたを脅かそうとしているのか…もしかしたら何らかの危険を警告してくれているのか…」


「何かを私に警告してくれている…だとしたらかなり性格悪くて底意地悪くて意地悪な性格ですね」


「ふふふ、あなたの身の回りにはそういうのが寄って来るじゃないの?」


「人間以外はゴメンですよ。

 …人間が一番恐ろしいかもしれないけど」


「そうね~!人間が一番恐ろしいわよね。

 とにかく土曜日の夜まで用心していてね、ますます椎名町のお店に興味が湧いたわ、ふふふ」


「せいぜい用心しますよ…桜田さん、何か楽しんでいませんか?」


「だってぇ~!

 とみきちゃん、色々面白い話を持ってくるんだもの。

 うちで調べている事案と同じくらい興味深い話よねぇ~」


「桜田さん、笑い事ではありません」


「あら、ごめんなさいね、ほほほほ。

 とにかく何かあったらすぐに連絡ちょうだいね。

 24時間いつでも良いから」


「はい」


 私は電話を切って壁に背をもたれ、ため息をついた。


「そうか…興味深くて楽しいのか…やれやれ、こっちはそれどころじゃないよ」


 無性にタバコを吸いたくなったが、外に出るとあの犬がいる。


 私は地下霊安室の奥、今は使われなくなった駐車場を通り抜けた先の出入り口から出たところの地下階段踊り場に向かった。


 暗闇の中、痛む右手を庇いながらタバコに火をつけて一息吸った。


(本当に俺にはなにやら色々と変なものが擦り寄ってくるな…)


 だが、それはそれでなにやらドキドキわくわくさせるものがある。


 結局そう感じる私の心が世の中の変なものを私の周りに引き寄せるのだろうか…


(俺は結局そういう変なものたちと実は同類なのかもしれない…)


 そんな思いが頭をよぎり、私はぞっとした。








続く


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