第5話


 靴の裏でタバコを消して携帯灰皿に吸殻を押し込むと私は受付に戻った。


 その日の勤務は深夜2時までに救急隊からの電話が3回。


 その内2つを受けて搬送されてきた患者のうちの1人が入院、1人は軽症なので点滴を受けた後で自力で家に帰った。


 患者からの直接の電話は5件で4人が深夜に病院に来たが全員軽症で喘息の吸引や点滴などの処置を受けて家に帰った。


 明け方の3時半過ぎにはすべての患者がいなくなり、病院一階は静まり返った。


 深夜零時と午前2時の巡回の時には何も異常が無く、例の犬も姿を見せなかった。


 私は痛み止めと炎症止め、化膿止めを飲んだので朝5時に病院を空ける準備をするまで仮眠をとることにした。


 仮眠と言っても救急隊や患者からの外線電話が出たら直ぐに出なければならない。


 山吹はすでにもそもそとテーブルに敷いた布団にもぐりこんで軽い寝息を立てていた。


 私は無粋な電話が掛かってこない事を祈りながら事務テーブルを二つ並べた上に敷布団と掛布団両用の情けないほど薄い布団を敷いてネクタイを緩めて横になった。


 緊急時に備えて靴を履いたまま電話の子機を枕元において仰向けに寝転がると目の前の天井の蛍光灯が目を討った。


 毎度の事ながら、まるで手術台の上に寝ているような錯覚を覚える。


 年代物のエアコンはグルグルと不機嫌な音を立てて、まるで土砂降りの古家の雨漏りのようにボタボタと室内機から水を滴らせ下に置いたバケツに水をためていた。


 一晩にバケツ一杯ほども水を垂れ流す耳障りな水音もすっかり慣れてしまった。


 数年前などはその不愉快な音でせっかくの仮眠が台無しにされたこともあったが、今は大抵の騒音でもぐっすり眠れるようになった。


 そのかわり電話の呼び出し音とインターホンの音だけには敏感に反応して飛び起きるようになったが。


 やれやれと思いながら1時間半も仮眠を取れる幸運に感謝しながら私は目をつぶった。


 目をつぶり、深呼吸をして眠りに入ったと思った途端に携帯電話のアラームが鳴り、私は目を擦りながら体を起こした。


 ほんの一瞬うとうとしただけだと思ったが、携帯電話の時間表示を見たら午前5時だった。


 しっかりと仮眠を取っていたようだ。


 私は疲れが取れなく重い体を起こして立ち上がった。


 まだまだ重いまぶたを非常な努力をしながら開けて、その場で簡単なストレッチをした。


 首を回し、手首と足首を回し、アキレス腱を伸ばしながら腰や肩を伸ばし、体をほぐした。


 固いテーブルの上に寝ていたので体のあちこちがガキガキゴキゴキと鳴った。


 病院正面玄関横の職員通用口の暗証番号を押してドアを開け、黒い犬がいるかどうかチェックしてから、外に出て正面玄関に届いた新聞を脇に抱えて、病院建物の隅に行きタバコに火をつけた。


 お盆過ぎの朝の空気はどんよりと蒸し暑く、まだまだ夏の軍勢は頑強に居座り、秋の先陣はここまでたどり着いていないようだ。


 じわじわと汗が染み出て私は額を手のひらで拭いた。


 人気が無い病院前の通りはしんと静まり返っていた。


 私はもう一度辺りを注意深く見回したが、黒い犬はいなかった。


 その代わり、道路の反対側のガードレールの上に2羽のカラスが止まってこちらをじっと見ていた。


 それは、私にとって馴染みがあるカラスだった。


 私はポケットをまさぐり、医局からくすねたビスケットの子袋をひとつ取り出すと袋を破いて取り出し2つに割ってカラスの前の道路に投げた。


 カラスは翼を広げて道路に降り立つとビスケットを咥えてどこかに飛び去った。


 私は、しばらくカラスが飛び去った空を眺め、朝焼けに赤く染まった雲を見つめた。


 太陽は今日も容赦なく地球を焼き焦がし、今日も暑くなるだろう。


 私はうんざりしながら、そして大きく伸びをして病院内に戻った。


 病院を空けるこまごまとした準備、待合室と病棟の新聞を交換する、ごみを出す、夜の間閉めておいた戸締りを確認し解錠する、正面玄関を開ける、待合席の案内の看板を出す、今日の診察医師の確認、受付端末の電源を入れるなどなどをしているうちに病院の職員がちらほらと出社し始め、8時半の受付開始とともににうんざりするほど言葉と道理が通じない、中には襟首をつかんでビュンビュン揺さぶりながら思い切り罵倒を浴びせたいような外来患者達の応対をしている間に午前9時になり、当直室に入り、ネクタイを緩めてタイムカードを押して病院を出た。


 もちろんその時に辺りに黒い犬がいないかどうかチェックしたが、奴は姿を見せなかった。


 私は周りを細かくチェックしながら王子から中野にあるゲストハウスまでバスで帰った。


 病院からバスの停留所、そしてバスを降りてからゲストハウスまでの道を、うだる暑さの中、私は歩いた。


 昔々に私の職場だった危険極まりない場所を、アンブッシュと呼ばれる待ち伏せ攻撃に備えながら歩く兵士の様に心持ち背をかがめ、通りの角や後ろを気にしながら歩く私の姿は、傍から見たら違和感を感じたかもしれない。


 あるいは大柄なよい年をした男がびくびくと周りを警戒しながら歩く姿は滑稽そのものだろうと思う。


 しかし私は真剣そのもので周りに注意を払い、犬の体臭が臭ってこないか、唸り声やアスファルトを擦る犬の爪が聞こえてこないか、特にバスを降りてから江古田の商店街を抜ける道は私を緊張させた。


 何とかゲストハウスに辿り着き玄関のドアノブに手を掛けた私は顔をしかめた。


 このゲストハウスの玄関ドアはちょっと調子が悪く、不注意なだらしない人間が玄関を出入りするとドアロックが掛からず、押しただけでドアが開いてしまうのだ。


 ドアノブを少し押しただけでドアが開いた。


(やれやれ、馬鹿でだらしない奴のおかげで犬に食い殺されたくないな…)


 私は慎重に玄関ホールに入り、脱ぎ散らかした靴を踏んづけながら耳を澄ませ首を伸ばして廊下を覗いた。


 怪しい気配は無かった。


 私はしんと静まり返ったゲストハウスの中の気配を探った。


 そして、靴を脱ぐかどうか少し悩んだ。


 万が一黒い犬がゲストハウスに侵入して私を待ち構えていたとしたら靴を履いたままのほうが行動しやすい。


 玄関で靴を脱ぐかどうか悩みながら耳を澄まして様子を探っていた私の耳に、誰かが奥の部屋から出てくる足音が聞こえた。


 1階の一番奥の部屋に住んでいる、特別養護老人ホームで働いている高久と言う男があくびをしながら出てきた。


 彼は私にお帰りなさいと会釈して頭をぼりぼり掻きながらキッチンに入っていった。


 私は彼に軽く頭を下げて,キッチンから彼の悲鳴か黒い犬の唸り声が聞こえないかを待った。


 何も異常な物音は聞こえなかった。


 (やれやれ…神経過敏だな俺も…)


 私は苦笑を浮かべ、しかし周囲の警戒を怠らないで靴を脱いだ。


 私の脳裏に、私が生きたままあの黒い犬に散々い食い千切られてばらばらの肉塊になる光景がよぎった。


 靴を脱いだ私は注意して廊下を進み、曲がり角に注意して自分の部屋に辿り着くとドア越しに中の様子を伺った。


 中からは何も聞こえなかった。


 そして慎重に鍵を開け、ドアを薄く開けて室内の中を探った。


 3畳半程の世間の基準からしたら非常に狭い、ゲストハウスになる前は納戸であったであろう私の部屋の中は当然のことながら何事も異常は無かった。


 私はすばやく部屋に入り後ろ手にドアを閉めた。


 ドアにもたれた私は額を流れる汗を手の甲で拭い、ため息をついた。


 そして、今考えると自分の行動がおかしくてくすくすと笑ってしまった。


 しかし、頭のどこかで、頭のどこか深い自分の生存の安全をつかさどる部分が警戒を怠るなと今も警報を鳴らせ続けていた。


(そう、警戒を怠らない事。いつだって俺はそう生きてきたから今も生きている冷静に考えれば神経過敏のつまらない事かも知れないけど、そのつまらない事で命を落とした人間を俺は何人も見ている…一見つまらないと思えることでも警戒を怠るな。魂の奥底から来る声に耳を傾けろ。そうすれば生き残れる)


 2時間後に桜田から待ち合わせの時間を指定する電話が来た。


 私は土曜日の夕方7時に椎名町で桜田達と会うまでの数日間、うだるような熱い日々を滑稽なほど警戒を怠らずに過ごした。


 その間、黒い犬は姿を見せず、身の毛もよだつような悪夢も見なかった。



 土曜日、椎名町の改札口で小柄で小太り元気が満ち溢れた保険のおばちゃんのような桜田とひょろりとして気弱そうな笑みをたたえ、足元の大きな黒いバッグを置いた大倉山、フランス系ユダヤ人ですらりとした青い目の研究所保安要員メンバーのジョアンというイスラエル人女性が待っていた。


 桜田がいたずらっ子のような微笑を浮かべて私に手を振ると駅の北口、狭いロータリーの一角を指差した。


 そこには研究所で使用している黒いランドローバーディフェンダーが停まっていた。


「今日は万が一に備えて心強い味方を連れてきたよ~」


 桜田がそう言いながらランドローバーの後ろに私を連れて行き、後部ドアを開けると、広島の調査で私と同行した3頭の犬のうちアランとジョン、2頭の大柄なシェパードが顔を出した。


「おお!アラン!ジョン!久しぶりだな!」


 私が声を掛けるとアランとジョンも私の事を良く覚えていてくれたようで、千切れんばかりに尻尾を振ってハァハァと息を弾ませながら私の体に鼻先を摺り寄せたり、脇の下に鼻を突っ込んだりしながら歓迎してくれた。


 後部席に陣取った長い髪を無造作に後ろで止めきりりとした印象の女性ハンドラーの陣内が私に手を振り、運転席に座った私服姿の保安チームメンバー、昔のギャング映画に出てくる殺し屋のような風貌の片桐も私に笑顔を向けた。


「こんばんは。

 どうも、とみきさんが犬の事でお困りだと聞いて

  アランとジョンを連れてきました。

 調査の間この子達を連れて近所を見張っています。

 いざとなったらこの子達が駆けつけますから安心してください。

 犬には犬って事ですね」


 陣内が後部席と荷室を分ける金網越しに私に言った。


「どうも…話が大袈裟になってません?

 皆さん暇なんですか?」


 私がアランとジョンの頭を撫でながら言うと桜田達が笑った。


「暇って言ったら今は少し暇ね~!

 震災の影響で宮城の人喰いホテルの調査が延期になったから…でも、とみきちゃんの命に関わるような事があっても大変だからね~!

 これくらいの準備はするわよ。

 惟任研究所の底力を見せてあげる!って言ったら少し大袈裟かな。

 ジョアンも犬を撃退する程度の装備を持っているから安心してね」


 桜田がそう言って、またひとしきり笑った。

 ジョアンが薄手のジャケットをちらりとめくるとショルダーホルスターに収まった熊撃退用のスプレーを見せてウィンクをした。


「教授もご存知だから何も心配しなくて良いからね。

 早速その問題の店に連れて行ってよ。

 そこのママと調査の交渉しなきゃいけないからね」


 大倉山が足元の重そうな黒いバッグを肩に背負った。


「さぁさぁ、早く行きましょう。

 これ、重くって」


「それ、何が入ってるんですか?」


 私が尋ねると大倉山がバッグを肩に掛けなおしながら言った。


「簡単な調査キットですよ。

 新しく開発した奴なんですけど…ちょっと軽量化に失敗したようです」


 大倉山が苦笑を浮かべながら頭を振った。


「倉ちゃんは大袈裟なのよ~!持ち運びできるように簡単なセットで良いからってと言ったのに~!」


 桜田が言うと大倉山がいやいやと顔を横に振った。


「いやいや、何が起こるか判りませんからね。

 それに…貴重なデータが取れるかもしれないじゃないですか」


「まぁ、それもそうね。

 じゃ、行きましょうか?」


 私はやれやれと思いながらも、少しだけわくわくしながらRまで桜田達を案内した。


 味方がいると言うことは心強いものだ。


 しかも広島の調査で心強い味方になってくれた屈強な2頭のシェパードまで来てくれた。


 1人じゃない。


 私の被害妄想かもしれない雲をつかむような話に付き合ってくれる仲間がいると言うことだけで、私の心に広がっていた重苦しい雨雲のようなものが晴れてゆく感じがした。


 まだ店を開けたばかりで客が1人もいないRに私達が入ってくるとママが笑顔で出迎えた。


「あら~!とみきさんお友達連れてきてくれたの?」


 私が何か言う前に桜田がママのところに歩み寄り、惟任研究所の名刺を出しながら手短に私がこの店で体験した事を調べさせて欲しいと、その為に今夜この店を貸切にして欲しいと、この調査の結果は世間に公表しないと同時に今日ここで調査を行うことは絶対内緒にして欲しいと用件を言った後で、今夜貸切りにするための費用だと言って呆気に取られているママの手に1万円札を20枚押し込んでウィンクした。


 桜田の説明をぽかんとして聞いていたママは手に押し込められたお金を見ると恵比寿顔になって頷くと、いそいそと領収書を書き、カウンターにノートを出して黒マジックで『今晩貸し切り』とぶっとく書いてノートから破りとると店のドアに貼りに行った。


 桜田が大倉山にあごをしゃくると、大倉山はいそいそとバッグから観測用のキットを取り出して店内の隅に設置し始めた。


「さてと、問題のドンドンとなる壁ってどの辺り?」


 桜田に聞かれ、私は隣の空き家となった店との間の壁を指差した。


「片桐さん、隣の店の中って外から見えるか調べてくれる?」


 駅のロータリーに車を停めて店までついて来た片桐は頷くと店を出て行った。


「ママさん、とりあえず生ビールを人数分頂戴ね」


 桜田がジョアンとカウンター席に座りながらタバコに火を点けて店内に戻ってきたママに言った。


「ちょちょ、桜田さん…」


「良いじゃない、堅い事言わないの~!

 暑くてビールくらい飲まなきゃやってられないわよ。

 それに、普通に営業している状態にしないといけないでしょ?

 とみきちゃんがこの前来た時みたいな状況を再現しないといけないし~」


 片桐が店に入ってきた。


「大丈夫、道路に面した窓から店内を確認できます。

 車を近くまで持ってきて車内から赤外線センサーで監視しますよ」


「そう、ありがとう。

 片桐さんは車だからアルコール駄目よね~」


「いいいえ、気を使わないで楽しんでください」


 片桐はにやりとして店を出て行った。


「カラオケのデンモク貰っても良いですか?」


 ジョアンがお通しのおでんを頬張りながら流暢な日本語で言った。


「はいデンモク、さっきのお金で充分御釣りが来ちゃうから今日は飲み物も食べ物もカラオケも好きに頼んでね」


 恵比寿顔のママがジョアンにデンモクを渡した後で生ビールのジョッキを人数分出し、「私も飲もうかな?」とか言いながら自分の分の生ビールをジョッキに注いでいた。


「ほら。

 じゃあみんなで乾杯しようよ!」


 大倉山もいそいそとカウンターに来てジョッキを手に取った。


 そして、私達と恵比寿顔のママは生ビールジョッキをカチンとぶつけながら乾杯した。


 いよいよ調査開始。


「僕、焼きうどん頼んでも良いですか?」


 生ビールをゴキュゴキュと飲んだ大倉山が言った。


「あたし、もう唄入れても良いかな~?」


 ジョアンがデンモク片手に言った。


「ジョアン、ちょっと待ってね。

 倉ちゃん、ビデオの用意してよママにこれまでの経緯を聞くから…」


「え?撮影するの?」


「ママさん安心してください、秘密厳守でここで撮影した映像は公表しませんから」


 大倉山がビデオカメラを取り出しながら言うと、ママがかぶりを振った。


「いやいやそうじゃないの、ちょっとお化粧するから待ってくれる?

 こんな顔じゃカメラなんて…おほほほほ!」


 桜田とジョアンが判るわぁ~という感じで笑顔で頷くとママが小さなバッグを持っていそいそとトイレの洗面台に入っていった。


 私はこんな感じの調査で大丈夫かなぁ~?と思いながら生ビールをごくごくと飲んだ。


 この季節、まだまだキンキンに冷えた生ビールは非常に旨かった。





続く

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