第3話
私はドアを開けて家に入った。
家といっても不景気の世の中で最近はやり始めたゲストハウスと言う、個室はあるがキッチン、トイレ、バスルームなどは共通の寮か昔の下宿屋のようなところに私は住んでいる。
バブルのころに作られた豪勢で広い間取りのメゾネット式マンションを改造したゲストハウス。
私は広い玄関に入り、後ろ手にドアを閉めてため息をついた。
「とみきさん、おかえり…どうしたの?顔真っ青だよ?」
共有リビングでパソコンをいじっていたゲストハウスの住人の女の子が私の顔を見て心配そうに尋ねた。
「いや、なんでもないよ.
暑い中歩いたから少し体調悪いかも…」
私はそそくさと自分の個室に入りタオルを出してバスルームに向かった。
2階にある男子用のバスルームに入りシャワーを出して汗を流した。
シャンプーで頭を洗っている最中に不意に耳元で犬の忙しない息使いが聞こえた感じがしてぎょっとなった。
そしてあわててシャンプーを洗い流し、背後の気配に注意しながら体を洗った。
バスの防水カーテン越しに黒い犬が蹲っているシルエットが見えたような錯覚に陥り私はぎゅっと目をつぶった。
(実体を持った犬がシャワールームに入り込むはずが無いじゃないか…)
椎名町のスナックから立て続けに気味の悪い出来事に遭遇し、神経過敏になっているようだ。
風呂から上がるともう、午前2時を廻っていた。
私は携帯電話の目覚ましを8時にセットして布団にもぐりこんだ。
その晩、なんともいえない嫌な夢を見た。
どこか北の国の森林地帯の小屋で私は大きな木の桶の中に入れてある切り離された人体のさまざまな部分を吟味して今夜の鍋物の具にする部分を切り分けていた。
すぐそばに黒い犬がいて、私の口に合わないと判断した手や足の骨の多い部分や痛みが進行して異臭を発する内臓などを黒い犬に投げ与えていた。
黒い犬は期待のまなざしで私を見つめていて、投げ与えられた人体の部分をぺろりと平らげ、また私を見た。
木の桶の中から拾い上げた女の首が私の最愛の妻のものだった。
これは食べられないし、犬に与えるのも嫌だ、どうしようかと逡巡していると犬が私に体当たりをして転がった妻の首をくわえて森の中に走りこんだ。
私は慌てて死体を切り分けるのに使っていた大きな、鉈の様な包丁を片手に犬を追った。
犬は森一番の大きな木の根元に穴を掘りその中に妻の頭を埋めた。
私は穴を掘り返して妻の頭を探したが、妻の頭以外に今は亡き娘の頭や2番目の妻の頭、当の昔に死んでしまった親友の頭や今付き合っている女性の頭などがごろごろ出てきた。
その頭たちの、腐りかけた形が崩れ、異臭を放つ頭たちの目が開いて、私を口々に罵った。
そして生首たちの罵り声に合わせて黒い犬が遠吠えを始め、いつの間にか森の中は目を赤く光らせた黒い犬の群れで充満していた。
私はそれらの声を圧するように怒鳴り、叫びながら包丁を振るい、犬達の首を刎ねていった。
黒い犬達は首を刎ねられても吼えることをやめなかった。
私は目が覚めた。
びっしょりと汗をかいていた。
窓の外から弱々しい朝の光が差し込んでいた。
私は息を殺して黒い犬が入り込んでいないか目だけを動かして部屋の中を見回した。
殺風景な狭い部屋の中に異常は無かった。
枕もとの携帯電話を見ると、まだ午前5時まで十数分あった。
私はタバコとライターを持って部屋を出るとキッチン奥の喫煙場所に行き、ため息をつきながら椅子に座ってタバコに火を点けた。
肩と首が異様に重かった。
タバコを持つ手までが重くて顔までタバコを持ち上げるのに苦労したほどだった。
気を取り直し手に力をこめてタバコをすぱすぱと吸い、部屋に戻ってまた寝転んだが、肩と首の重さは取れなかった。
私はすっかりと明るくなるまで布団の中でまんじりともせずに時を過ごし、またシャワーを浴びに行った。
湯船にお湯をためてしばらく浸かっていたが、それでも首と肩の重さが取れなかった。
風呂を上がり、私は数年前から時折思い出したように依頼が入る単発の妖しいアルバイト関係の医療担当者である桜田と言う医師に電話をした。
「もしもし、朝からすみません、とみきです」
電話の向こうから快活そうな中年女の声が聞こえてきた。
「あら~!とみきちゃん?
久しぶりだね~!栃木以来だっけ?」
「桜田さん、久しぶりです。
ご無沙汰しています。
山口さんの様子はどうですか?」
私は研究所の現地調査指揮官の山口について尋ねた。
彼女は最近栃木市のある不可思議な現象の予備調査に言った時に重傷を負ったのだ。
「うん、栃木のあと東京の病院に移ってから色々精密検査してるけど、大した事は無いみたいよ。
来月には退院出来るかな?
なに?飲み会のお誘い?
土曜日だったら行けるわよ~!」
仕事以外だと酒を飲んで騒ぐ事にしか興味を示さない彼女らしい応答に苦笑しながら、私は昨日の夜から身の回りに起きた異変について話した。
彼女は黙って私の説明を聞いていた。
事の次第を説明する間、じっと電話の向こうで話を聞いていた桜田がため息をつき、ライターの着火音が聞こえタバコの煙を吹き出す音が聞こえた。
「とみきちゃんも仕事以外でそんなところに行かなきゃ良いのに~!」
「好きで行った訳じゃ…う~ん…どうなんだろう?」
「うふふふ、心霊スナックって珍しいわね…うちの研究所で何らかの…ラップ音とかで自己主張するアンノウンが存在する箇所は日本だけでも数十箇所確認してるわよ」
「そんなに?」
「そう、テレビに出したら問い合わせ殺到、大スクープ間違い無しの物がごろごろ確認されてるわよ…最もそんなのテレビで流したら大変な騒ぎになるからおままごとのような心霊スポットルポを流してるけどね~!
だけど、黒い犬のおまけがつくなんて面白いわね~!
あなた、犬とは仲良しでしょう~!」
「ぜんぜん面白くないですよ。
それにあいつはアラン達とは大違いなんですよ…なんていうか…邪悪なオーラがビシビシ出ていましたもんね」
私は広島山中の調査に行った時に同行した護衛の犬アラン、ジョン、フーバーと言う名のシェパードの事を引き合いに出した。
「傍から見たら面白いわよ~!
しかし…変死したママが幽霊になってそのスナックに居ついて電気を落としたりカラオケを動かしたら隣の空き家のスナックから壁をどんどん叩く…しかも黒い犬が、それが何なんだか判らないけど、それがついてきてあなたの家を確認して夜の闇に消えた後でも悪夢を見せて肩と首を重くしていると…」
「…冷静に言われると確かに変な話ですね」
「うふふふふ、確かにそうだけど世の中には変な話が満ち溢れているからね~!
私はそういうのを頭ごなしに否定するほどお粗末な脳みそを持っていないわよ。
だからこんな研究所で働いているんじゃない」
「…」
「いつ行こうか?」
「え?」
「なによ~!
誰かについてきて実際に見てもらいたいんでしょ?
出来ればその謎を解明するか、とみきちゃんに憑いているらしいものを追い払ってほしいと…そういう事で私に電話してきたんでしょ?」
桜田はすっかりお見通しとばかりの口調で言った。
その通り、私は家にまでついてきた黒い犬を追い払って欲しいし、肩と首を軽くして欲しいし、ついでにあのスナックの謎を解明して欲しい。
「ちょうど今うちの研究所が暇だから…誰か連れてゆこうかな?
そうだ、大倉山君にちょっと色々測定してもらおうかな?」
桜田は現地調査データ管理の担当をしている男の名前を出した。
「お願いします」
「じゃあ、今度の週末に行こうかな?
あなた、土曜日の夜は空いてるんでしょ?」
「はい、でも今度の土曜日だと懐具合が…」
「ふふふ、大丈夫、研究所の予備調査って事にして経費で落とすわよ。
落ちなければ私が自腹で奢ってあげる
なにせあなたは大事なダイバーだからね。
うちの貴重な持ち駒だから」
「ありがとうございます」
「それじゃ、土曜日。
細かい時間が決まったら電話かメールするわ。
それまで黒い犬に喰われない様に用心してね~!
あ、そこはカラオケ本当に1曲100円なのよね?
もちろんあなたのボトル飲んで良いのよね?
それで、本当に安いのよね?」
「はい、本当です…あの~ただの飲み会じゃ無いですからね」
「そんなの判ってるわよ!
いや~楽しみだわ~!ほほほほほ!」
桜田の笑い声で電話が切れた。
電話が切れ、私は少しほっとした。
色々と怖い思いをしたがあの研究所のバイトをしておいて良かったと思った。
この手の問題に関して一番的確に対応してくれるところなんて私の人脈では他には見当たらない。
今日は火曜日なので土曜日の夜まであと5日間。
病院での勤務が2回。
その間私はせいぜい黒い犬に用心して過す事にしよう。
背後に注意しながらなるべく人が多いところを歩く、すぐに犬が入り込めないようなところをチェックしてその近くを歩く、お風呂に良く浸かって首と肩のマッサージを念入りにする、そして怖い夢を見ないように気をつける…だが、どうやって?
私はゲストハウスの自分の部屋に戻るととりあえずハサミの刃を開いて窓に向けて置いた。
ベイルートで知り合ったロマ族(ジプシー)の占い師のばあさんに教わった魔除けのおまじないだ。
これは下手なお札よりもずっと効果がある。
私は窓に置いたハサミの位置を少し直してから、朝ごはんと病院勤務の夜食用おにぎりのためにご飯を炊いた。
相変わらず肩と首は重かった。
ふと、私があんなアルバイトをしているからこの世ならぬ変なものが擦り寄ってくるのかな?と首を捻って考え込んでしまった。
午後になり、準備を整えて病院に出発した。
ゲストハウスを出る時も左右に注意して用心して外に出た。
背後や角に注意しながら歩き、いつもなら歩いてゆくところをバスに乗り、病院最寄の王子駅に着いた時もすばやく喫茶店に入り、入り口から何かが進入した時に直ぐに判る場所に陣取った。
勤務に入る午後5時までの1時間あまりをいつもこの喫茶店で過ごし、ノートパソコンでSNSに連載するお話を打ち込んだりするのだが、今日はその気分ではなかった。
私は黒い服を着た人間が視界に入っただけでもビクッとし、落ち着かない気持ちでコーヒーを飲んだ。
続く
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