老人と夫婦

@satella361

Art is the lie that enables us to realize the truth. -Pablo Picasso-


 老人はくる日もくる日も変わり映えなく過ごしていた。まだうすら寒い朝に起きてコーヒーを淹れ、ベランダから見える人の往来に目を向ける。豆粒ほどのちっぽけな人間ひとりひとりに、大作家が生涯かけても紡げない物語が内包されている。そんな風に思う老人は自分の物語が終章にさしかかっていることを自然の成り行きとして悟っている。だがなにも悲観しているわけではない。人々と自身の物語を照らし合わせ、その節々から思い出される余韻が老人に静かな安らぎを与えた。それはまるで、記憶という広大で暖かな海を漂う中で、そのおぼろげな断片に再会しては別れをくり返しているようだった。そしてもっぱら思い出されるのは、愛した妻のことである。

 最近、身辺整理をしているなかで掘り出した油絵を老人は気に入っている。何の折に描いてもらったかは覚えていないが、若かりし頃の二人を描いた肖像画だ。やや固い顔をしたタキシード姿の自分と対照的に、妻は花柄のドレスを身にまとい、はつらつとした笑顔をしている。ドレスは時の流れを感じさせる色褪せ具合をしており、描かれた当初は鮮やかな色彩だったのだろうと老人は想像した。その一方で年季の入った今の色味も、そこに往年の夫婦の歩みが織り込まれているように思えて絵の厚みをいっそう増している。老人は錆びた額縁を交換し、玄関の壁に飾ることにした。

 ある日の朝、老人は隣の部屋が騒がしく何やら物を運び入れていることに気づいた。訪ねてみるとどうも新しい隣人が引っ越してきたようだ。越してきたのは若い夫婦で、老人に気づいた彼らは礼儀正しい挨拶をした。男からはおだやかで物静かな印象を受け、対して女は明るく活発な風貌であった。挨拶を終えた老人は、以前の———油絵に描かれた——— 自分たちを見ているように感じた。彼らと接していくうちに幾日か経って、手持ち無沙汰な老人は手記を書き始めようと思い立つ。それは誰に見せるでもなく、彼らがあれこれをしていたという老人の見聞きを空想のおもむくままに補完し、日記形式で書き連ねていくというものだ。なぜそのようなことをしようと考えたのか老人自身も定かではなかったが、後から思えば若夫婦に自分と亡き妻を投影し、終わりつつある物語のスピンオフを見出そうとしていたのかもしれない。そうして老人の奇妙な執筆活動が始まったのだった。

 数日のち、ベランダから街並みを眺めていた老人は例の婦人を発見した。黄色と橙の鮮やかな対比をなす服はどうやら新調したもののようで、機嫌良く小刻みなステップを踏んでいる。婦人が視界の外に消えると、老人はコーヒーを飲み干して早速件の執筆にとりかかった。 ———新しい服に身を包んだ妻を初めて目にした夫は素晴らしい、実に似合っていると褒めたたえ、妻の格好にふさわしい最高の場所を知っている、今日はそこで過ごさないか、と提案する。そして夫は車を走らせ、空気の澄んだ高原へやってきた。高原には膝丈ほどの花々が咲きほこり、二人を華々しく出迎えた。不意に突風が吹き草花が舞い上がるとたちまち視界は閉ざされ、高原は彼らのためだけの空間を作り上げた。———

 また別のある日、街中を歩いていた老人は地域の行事に関する貼り紙を見かけた。近寄ってよく読むと、先日開かれたマラソン大会の入賞者が書かれてあり、そのなかに隣家の男の名前があった。———パーテーションから身を乗り出して妻は不安げに道の向こうを見つめている。ようやく走者の集団が見えはじめた。その中に夫の姿をみつけ、周囲の歓声に負けないよう力の限り叫んだ。気づいて近寄ってきた夫にボトルを渡すと、応援のかけ声とともに彼を見送った。すると心なしか、彼の全身に力が宿りペースが早くなったように見えた。ともかく無事に走りきってほしい、そう願いながら今夜は彼の大好物を振る舞おうと、小さくなる彼の背中を見つめながら思うのだった———

 そうして老人は事あるごとに架空の日記を書き留めた。心のうちに秘めたる愛情の念を物語の役者である若夫婦へお裾分けしているようで、老人は満たされた気分になった。しかし執筆を始めて2ヶ月ほどたった日の夜、それは起きた。

 その夜は音にならない静かな雨が降りしきっていたが老人には知る由もなかった。隣家から激しい口論が壁を突いて鳴り響いていたからである。そして何かが割れる音がしたかと思うと、がさつに玄関の扉を開け放した揺れが老人を狼狽させた。そこで何を思ったか、老人は机の抽斗から取り出した手記を握りしめ、玄関へ向かった。わずかな隙間を作るように扉をそっと押し、隣をのぞき見ると、婦人が扉に背を預けるようにしてうずくまり泣いていた。それをみて老人は、自分が手記を彼女に渡して読ませようとしていることに気づいた。しかし、そんなことをして何になるというのか。ここに書いてあることは彼らと何の関係もない老いぼれの絵空事にすぎない。さらには中途半端に自分たちを題材にされたことに気づかれればきっと気味悪がられるだろう。そう思い老人は扉を閉めようとしたが、そのとき、壁に飾られた油絵が目に入った。まぶしい笑みを投げかける妻に背中を押された気がしたときにはもう、婦人に手記が渡っていた。泣き腫れた顔を上げた婦人は状況がよく分からないといった表情をしながらも受け取ってしまったので、老人には黙って様子をみることしかできなかった。はじめのうちは何のことか見当がついていないという様子だったが、やがて主旨に勘づいたとみえると、手記を固く握りしめわなわなと震えだし、大粒の涙がぽろぽろと手記を濡らした。老人は黙ってそばに近寄ると、やさしく彼女の背中をさすった。

 翌朝、若夫婦が老人のもとを訪ねてきた。昨夜は騒々しくしてしまい申し訳ないと謝罪し、手記を読んでお互いの本当の気持ちに気づくことができた、ありがとうと、繰り返し老人に礼をした。菓子折りとともに手記を老人のもとに返そうとしたので私にはもう必要ない、あなたがたがとっておいてくれ、と答えた。夫婦が帰って一息つくと老人はコーヒーを淹れ、ベランダへ出た。今日も街ゆく人々は各々の物語を綴っている。老人は自身の物語の終章が存外長いかもしれないことに思いを馳せながら一口すすった。道の対岸に新しいコーヒーショップがオープンしたようだ。

 

* * *


 柔らかな日差しに当てられ、川縁に沿って青年は歩いていた。青年の目に映る春空は、これから訪れるであろう数々の出来事に対する期待と不安で七色に彩られていた。隣を歩く女性は純白のドレスを身にまとい、しかし、歩きづらさをものともせずに砂利道を闊歩し、やれ神父の面持ちがおごそかで可笑しかっただの、町の小僧にドレスが似合わないとからかわれたので仕返ししてやるだのと、大変忙しそうにしていた。

 ひとしきり話し終わり満足げな彼女はつないでいた手を放し、横を駆けていったかと思うと、振り返って彼と対面し、

「私たち、この日を何度も思い出すんだろうね」

と屈託のない笑みを見せた。風に吹かれたベールに見え隠れする素顔にドキッとしながらも青年はやや間をおいて、

「そうだね。川を流れる水が巡り巡って戻ってくるように、僕たちはこの日に立ち返るんだ」

と返す。彼が立ち止まったときには互いが目と鼻の先にあった。衆目の中で誓いのキスは緊張したけれど、今は春の水面のようにおだやかだ。はためくベールをめくると、目をつむった彼女に顔を近づけた。世界に自分と彼女しかいないようだった。二人は夫婦として初めての————

 没入する二人のそばをかすめるようにして、馬車が勢いよく走り去った。ありったけの黄土色を塗りたくって。夫婦になって初めてのキスは砂利の味がした。思いがけない災難を前に、しかし状況のおかしさに耐えきれず彼女は笑い出した。どうしたものかと青年は困惑していると、突然彼女は彼の手をとり駆け出した。その方向が帰路と反対なものだったから、

「どうしたんだい。まずは家へ帰って着替えないと」

と呼びかけると、

「真っ白でつまらないと思っていたの!花嫁、なのに花がないなんて!」

砂利を噛みしめながら、はつらつとそう答えるのだった。

彼女に手を引かれてやってきたのは町の外れにある絵描きの店だった。彼女はノックもせずに扉を開けると、突然の訪問に驚く店主に有無を言わせず、

「私たちを描いて!ありったけの絵の具で!」

「こりゃあんたたち何しでかしたんだい。遊び盛りのわんぱく坊主でもこんな身なりにはならないよ」

ごもっともな反応に、青年は事の顛末を店主に説明し、こんな身なりだが晴れ舞台の思い出に絵を描いてほしいと頼んだ。店主の方も話を聞いていればどうも仕事の依頼だと合点がいったようで、その突飛さに困惑しながらも話に応じてくれた。白地のキャンバスを年季の感じさせる木製スタンドに立てかけ、引き寄せた椅子に腰掛けると、

「こんな明るいお嬢さんに土気色のドレスは似合わない。空想の名のもとに私が新調して差し上げよう」

そう言ったのを最後に、筆をとり黙々と描き出したのだった。


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