第2話 遠回り

 保護観察官の吉野が宗一郎の頭皮を見つめている。昨夜起こった警察沙汰について聴取するために、保護観察所に呼び出した。保護観察期間中に罰金刑以上の罪を犯せば、仮釈放は取り消されて刑務所に逆戻りになる。

 今朝、明石から詳しい事情は聞いたが、腑に落ちない点があり、本人からもつぶさに詳細を聞いて内容を擦り合わせた上で、今後の処遇の判断をしなければならない。

 宗一郎は刑務所への逆行を言い渡されると思っているのか、この部屋に入って以降、終始俯いている。

 寮付近の夜のコンビニに向かった。しかし向かった先は駅付近のコンビニだった。どう考えても再犯の衝動に駆られて夜の街へ繰り出したと考えるのが普通だった。しかし真相は、ビルの屋上まで女性の後を追いかけて自殺を食い止めた。信憑性に欠ける供述。なぜ駅前のコンビニに行ったのか。どのタイミングで女性が自殺すると判断できたのか。わざわざビルの屋上までついていった理由は何なのか。いくつも疑問が湧き出てきた。

 しかし女性が「助けてくれた」と証言した。

防犯カメラの映像を確認したが、再犯に手を染めようと誤解を受ける行為は見受けられるが、必ずしも再犯目的とまでは言えない。感謝の念を述べる女性に救われた形だ。

「女性を救ったこと、素晴らしかったですね……」

 『救った』、という言葉に宗一郎は身体を硬直させた。

「素晴らしいんですけど、夜に外出してたんですよね?」

「……はい」

 とてつもなくかぼそい声。

「夜はむやみに外出しない。そういう話だったと思うんだけど、当然覚えてるよね?」

 視線は落ちたままだ。隠し事をする小学生のような振る舞いだ。

「まだ保護観察期間が始まってからまだ間もないから、ビックリして、大丈夫かなって思って。しっかり遵守事項は守って下さい。伏屋さんの刑務所での態度とか、更生の意欲も評価されて仮釈放になってるんですよ。それが取り消されたら残念だよね?」

「はい……」

 そう返事はしたものの、刑務所にいた方がいい、と内心思った。

「夜の外出は基本的になしにしましょう。夕食とか買わないといけないものがあれば、なるべく明るいうちに買っておくというのは、どうですか?」

「はい……」

「どうしても外出が必要な時は、私や明石さんに連絡を入れて、どこでどのような用事があって、何時に帰宅するなどを教えてください。連絡先は最初にお会いした時に渡していますよね?」

「はい……」

「念のために聞くんですが、再犯しようとしたんじゃないですよね?」

 アイスピックが心臓を貫いたかと思った。

「何か事情があるなら、話してもらえませんか」

 徐々に根幹に近づいてくる。

「すいません……」

 かぼそい声が力なく落ちた。

「どうして謝ってるんですか? それは再犯に手を染めようとした、ということですか?」

 少し間を置いてから宗一郎は頷いた。

 吉野は面食らった。十中八九、そうだと思っていたが、素直に認めた。

「……どうして、途中で思いとどまることができたんですかね」

「……」

「何か感じたことはありますか?」

「……」

「それが今後、伏屋さんの更生に役立てられると思うんですね」

 ここは責めても仕方ないと思った。宗一郎も言葉にするのは難しいのだろう。だから吉野は時間をかけてもいいと思った。宗一郎から視線を外してセメントでできた灰色の壁を見つめた。

「それは……」

「うん」

 視線を宗一郎に移して、テーブルに身を乗り出した。

「頭の中ではダメだって分かっていました。でもストレスに全てを支配されて体が勝手に動いてました」

「葛藤してたんだね」

「はい……それと、僕にも、同じような経験があって……」

「それは、自死しようとした、ということですか」

 宗一郎は小さく頷いた。

「その時は、どうして死にたくなったんですか?」

「もう何もかもに疲れてしまって、刑務作業も億劫で……でも刑務所で仮病なんてすぐにバレるし、休みたくても休めない。心身が疲弊していても、変わらず明日はやってくる。僕の犯した罪をバカにされたこともあって、反論もできなかった。黙って受け流すしかなかった。ゴミ以下なんです……僕は」

 吉野が表情を崩すことなく聞き入っている。

「だから、もう死んだ方がいいかもしれないって……身も心も休まるって……」

「その時は、実際に行動に移したんですか?」

 宗一郎は頭を横に揺らして否定し、「就寝中に首に手をかけたんですが、力が入らなかった……死を考えているのに死ねなかった……そんな自分にも嫌気が差しました。女性が屋上に繋がる階段に足を踏み入れた時に、暗がりでも横顔が見えたんです。その表情が、自殺を考えていた時の自分に似ていて……実際に鏡越しで見たことはありませんが、きっとあんな表情をしていたんだと、本当に一瞬ですが、思ったんです」

「それで、自殺なんじゃないかと思ったんだね」

 宗一郎は大きく頷いた。言葉に出したことで、しっかり整理されたように感じた。

「とにかく助けないとって、そう思ったんだね……」

「僕には前科がついてます。でも女性は普通の世界にいて、罪を犯すことなく過ごしてきているのに、自殺するなんて、もったいない……すいませんでした」

 また謝罪の言葉が出た。

「……仕事はどうかな?」

「……」

「まだ慣れていないだろうから、疲れるし、ストレスも溜まるよね」

「……」

「ストレスを軽減するために、趣味を見つけよう、という話があったと思いますが、何かいいアイデアは思い浮かんだ?」

「いえ……」

 仕事で覚えることも多く、帰ったら疲れてそのまま寝てしまう生活だ。そんな暇があるわけがない。

「そうか……もしよかったら、運動とかどう? 短時間でもストレスが軽減されるし運動不足も解消できますよ」

 とりわけ運動が得意だったわけではないから、宗一郎はどう返事していいか分からなかった。

「明石さん、ウォーキングシューズを買ったらしいから、一緒にやってみてもいいかもしれないですね」

 趣味が見つかるだけで再犯が防げるのか懐疑的だったが、宗一郎は小さく頷いた。



 警察署の駐車場で、美佳は晴香が出てくるのを待っていた。

 不安定だった体調が回復し、晴香が自ら帰りたいと言った。

 親切にしてくれた女性警察官に付き添われて、晴香が出てきた。髪の毛が寝起きの状態で、数日間寝込んでいたのが分かった。

 女性警察官と美佳が、遠くから目を合わせた。感謝の意を込めて美佳が頭を下げると、同じく頭を下げ返した。それを見た晴香は後ろを振り返る。美佳は手を振って応えた。

 再度お礼を言って晴香は、駆け足で美佳のもとへ急いだ。まる母を見つけた子供のようだった。

「おかえり」

 晴香は黙って頷いて、「あの……ごめん」

「いいよ」

 車の助手席のドアを開けて、晴香の背中に優しく触れて乗り込ませた。

「本当にごめん」

 美佳が届けてくれた着替えや日用品が入ったカバンを見つめている。

「いいよって言ってるでしょ」

 普通なら『大丈夫?』と問いかけるかもしれない。でも美佳は晴香のことをよく知っているつもりだ。そんなことを聞いても無意味だ。

「『今日は外食しよう』って、達司さんが言ってたけど、行くよね?」

「ああ、うん」

 晴香が警察で療養していた期間に達司は外食に頼っていたから家に何もない。

「何食べようか? 達司さん奢ってくれるよね?」

「何でも……」

 仕事をしていない晴香は奢ってもらうことに抵抗がある。だから美佳のようなテンションで言うことはできなかった。

「晴香」

 シートベルトのカチャという音を聞き届けてから美佳の話に耳を傾けた。

「もしも、一人で抱えきれないようなら、ちゃんと教えて」

 晴香は俯いてそのままだった。

「勝手に死のうとするなんて、ビックリするし、怖くて頭がこうやって引っ掻き回されるから!」

 美佳は晴香の頭を振り動かした。

「やめてよ!」

 それでも止めない美佳。警察から連絡があった時のことを回想して、実演するかのように大袈裟に振り回している。

「頭の中がぐちゃぐちゃになるでしょ? 分かる、この気持ち?」

 真剣な表情に限りなく低い声。

「はい……」

 晴香自身もやりたくやっているわけではない。でも体がいうことを聞かなかった。

 美佳はもとから乱れていた晴香の髪の毛をできる限り直した。

「本当に死なれたら困るから。それだけは分かって」

「はい……」

「よろしい」

 これ以上話を蒸し返しても仕方ない。美佳はすぐに笑顔を取り戻して車を出した。


 晴香と美佳が駅前に立っている。

 達司から「もうすぐ着く」と連絡が入ったから、人混みの中から達司の姿を探している。

 飲酒することを想定して、美佳は車を置いて電車でここまでやってきた。晴香は飲まないだろうが、運転を任せるのは気が引けた。

 晴香を呼ぶ達司の声が聞こえた。晴香はぎこちない反応ですぐに目を逸らした。美佳は大きく手を振って笑顔を見せた。

「晴香、おかえり。お腹減ってる?」

「ああ、うん……」

 達司と目が合わせられない晴香の隣で美佳が、「何食べようか?」

「二人は何が良いの?」

 達司が質問を質問で返してきた。

「……何でも」

 晴香が答えた。

 決められない兄と妹。

「じゃあ、達司さんが改札横の海鮮居酒屋で、晴香がそこの焼き鳥屋で、私が裏にある沖縄料理」

 美佳がスマホに入っているルーレットアプリを起動させた。

「それ、困った時に便利だね」

 晴香の声に頷いて、ストップボタンに触れる。ルーレットの針は達司の名で止まり、海鮮居酒屋に決まった。

「じゃあ行こう!」

 お店に入ると予約なしでもすぐにテーブル席に案内された。

飲み食いして二時間ぐらい経つと、だんだん話すこともなくなってきて、達司はスマホをいじり始めた。肘をついて酔いに浸る美佳は晴香の手に触れている。

「あのさ……」

 晴香が美佳の耳元で小さく囁いた。

「ん?」

「私を助けてくれた人って……」

 達司の顔が自然と引き上げられた。

 美佳は声を張って「その人がどうしたの?」

「……何でもない」

「どうした?」

 達司がスマホを置いて身を乗り出した。時間が経って思い出したことでもあるのだろうかと、変な妄想に駆られた。

「連絡取りたいの?」

 晴香は唇を紡いで小さく頷いた。

「お礼なら、俺たちが言っておいたけど……」

「晴香からもお礼が言いたいの?」

 晴香がチラッと達司を見てすぐに俯いた。

 美佳は達司と目を合わせた。

 あの不愛想な男に、達司が違和感を覚えていたことは美佳もそばにいて伝わってきた。でも晴香の気持ちを尊重したくて、「じゃあ、警察の人に聞いてみようか」

「美佳ちゃん……」

 達司の問いかけを無視して美佳は「ちゃんとお礼言いたいよね。もしよかったら、私もついていくよ」

 美佳は申し訳なさそうに達司に視線を送った。


 美佳を駅まで送っていき、達司と晴香が夜道を行く。何も言わない晴香を気遣いながら達司は歩幅を合わせた。

 晴香を助けてくれた男。素直に感謝しているが、またお礼を言うという名目で会うのは反対だった。

 達司のアパートが顔を出すと、一人の女性が入り口の前に立っていた。付き合って二年になる達司の彼女で遠藤絹香という。友達の紹介で知り合って以来、周囲の助けも借りながら交際に発展させた。結婚も視野に入れている。

「お兄ちゃん」

 晴香が絹香の存在に気付いた。後ろめたくて顔を伏せた。最初は、達司が将来を考えている女性だったから、仲良くなりたい気持ちがあった。しかし達司のアパートに転がり込んでから気まずくて仕方なかった。

 アパートの鍵は二つあるが、一つは晴香が持っているから絹香には渡していない。達司がスマホを確認すると連絡も来ていた。海鮮居酒屋で会話がなくなってスマホをいじっていたのに気付かなかった。

 人気に気付いた絹香は、ゆっくりと達司たちの方向を向いた。

「ああ」

 晴香を一瞥してから達司に視線が移った。浮気現場に鉢合わせしたかのように、強張った表情と固定された視線が突き刺さる。

「出かけてたの?」

「ああ、飲みに行ってた」

 晴香は鍵を握りしめて「失礼します」と言って、その場を離れた。一度足元を取られてしまったら、二度と抜け出せなくなりそうな空気が嫌だった。

逃げるように去っていく晴香を絹香は目で追う。視線が言葉を放つ。決して聞こえないが吐き捨てるようにこう言っている。『なんで達司と一緒に住んでるんだ』と。

「……連絡、気付かなくてごめん」

 絹香は無言を貫く。明らかに何か言いたいことがありそうだ。

 晴香が自殺未遂をしたことを伝えていない達司は、しばらく絹香からの連絡をまともに返せていなかった。余計な心配をかけたくないという、達司なりの気遣いだった。

「……アパート、来る?」

「妹さんいるんでしょ」

 絹香の視線が及ばないアパートの入り口の手前で、「妹」という言葉に晴香が体をピクリとさせた。この緊張感が何より苦手で口元を抑えている。声を絶対に出せないプレッシャーが襲い掛かり、咳き込む騒音が漂う。たまらず鍵を開けて中に入った。

「それなら外で……」

 だんだん声が小さくなる。晴香を一人にしたくない達司は言葉が続かなかった。

「あのさ……妹さん、いつまでいるの?」

 絹香が腕組みをして口先を尖らせている。

「それは分からない」

 達司は首をかしげるしかなかった。

「妹さん、何かあるの?」

「いや、そういうわけじゃない……今は、一緒にいたくて」

「今はって、だいぶ長いよね? なんでかも分からないし……」

 絹香の目つきがさらに鋭くなる。交際相手にも言えない事実とは何なのか。

「……ごめん」

 どう転んでも教えてくれない達司に、絹香は愛想つかせて、無言で駅の方へ歩いて行った。怒りに体を震わせて強風に煽られるように早歩きだった。

「送っていくよ」

「いい」

 達司の言葉を突き放す。それでもこの夜道で絹香を一人にするわけにはいかなくて後を追った。


 達司が晴香にラインを入れた。終始無言だった絹香を送り、アパートの前に戻ってきた。ドアを少しだけ開けて晴香は達司の存在を確認する。

「ただいま」

「どこか行かなかったの?」

 答えは分かっていたが確認でそう聞いた。

「帰るって言ったからさ……シャワー浴びてこいよ」

「うん……」

 寝室に入って上着をベッドに放り投げる達司。寝室の引き戸のレールを見つめながら晴香が立ち尽くしている。

「どうした?」

 達司は先手を打った。何か聞いてほしいのだ。この静けさが晴香の求めていることを教えてくれる。

 助け船を出されても、晴香は黙ったままだ。

「何だよ」

「……彼女、怒ってたよね?」

「そんなことないよ……」

「お兄ちゃん、私、出てくよ、ここ……」

「なんで?」

 そう聞いた達司だったが、この話に早く蓋をしたくてバスタオルを晴香の手に握らせた。

 晴香も「出て行く」と言ったところで、無職で借りられるアパートがないのも分かっている。でも絹香の態度を見ているとそうはいかなかった。

「やっぱり、迷惑かけちゃうからさ……」

「何言ってんだよ。彼女のことは気にしなくていいよ。今はここにいろ。前にも言ったけど、晴香がいてくれた方が生活は楽だからさ、あはは」

 変に響く笑い声が晴香の気持ちをさらに窮屈にさせる。達司はいつも晴香を肯定してくれる。優しさにつけこんでいるようで嫌悪感を覚えている。

「お前がいない間、生活、乱れまくってたから」

 達司が風船のように膨れ上がったゴミ袋を指した。

 晴香が目を向けると、達司が「ほらな。洗濯もできてなくてさ」と言った。

「でも……」

 だんだん晴香の涙腺が緩んでくる。今までなら達司の気遣いをそのまま受け取っていたが、絹香の言葉が生々しく響く。あの素っ気ない、誰が見ても明らかな感情的な態度。達司との関係を阻む材料になっていることが嫌でたまらない。逆の立場ならおそらく同じような態度を取っただろう。

「晴香。大丈夫だって」

 強めに名前を呼んだ達司は晴香の髪の毛を撫で始めた。達司の優しさを直に受けながら頭が下がっていく。バスタオルも手からすり抜けた。

「大丈夫だから気にするなって。俺は晴香といたいから一緒にいるんだよ。余計なこと考えるな」

 達司の足に晴香の涙が落ちた。また一つ落ちる。そしてまた一つ落ちる。

「早く浴びてこいよ」

 達司はバスタオルを拾い上げて晴香の顔にかぶせた。それでも固まったままの晴香を反転させて背中を押した。泣いている顔は、何よりも達司の気持ちを刺激して涙を誘う。それでも晴香の前では泣けない。だからベッドに寝転んだ。


「お礼を言いたいって、女性の方が言っているんだけど、どう?」

 明石が電話越しの宗一郎に言ったが、案の定、無言だった。

 美佳がさっそく晴香の気持ちを形にしようと、警察に連絡を入れた。

 電話に出て、明石が『警察署』という言葉を耳にした時、再犯の文字が横切って心臓が皮膚を突き破って出てくるかと思った。しかし冷静になって聞いていくと、早鐘を打っていた心臓は落ち着きを取り戻した。

「すごい感謝してくださってるようで」

「……」

「すぐに返事は求めないから、少し考えてみてよ」

「……」

 会話が一方通行になる。

 宗一郎にとっても、先日の出来事は衝撃的だった。温度計が急激に赤い線を上るように湧き上がった再犯への衝動。ある日突然、何の前触れもなくやってきて女性を物色して後を追った。いつどうなるか分からないこの衝動と付き合っていくんだ。不治の病にかかったかのような感覚だ。

「難しそう?」

「……僕は」

「うん」

「誰にも会わない方がいい……」

「先日のことが気になっているのは、よく分かるよ。私以上に伏屋さんは驚いたと思う。

 しかしね、人ひとりの命を救ったんですよ。これは紛れもない事実です。私は立派だと思います。だから、会ってみたら? もちろん、「一人で行け」とは言わないですよ。もし必要なら私も参加することもできるし、彼女も一人で来るわけじゃないと思うから」

 事前に吉野にも意見を求めて、「昼間にやって一緒に立ち会えばいいのではないか」という返事が返ってきた。だから明石も強く言うことができた。

「……」

 説得しているような暑苦しさがないか、明石は心配になった。

「……それなら」

 いつもの底辺をかするような声で言った。

「じゃあ、女性のお友達に連絡入れますけど、いいですか?」

「……はい」

 承諾してくれた宗一郎に、明石は安堵の表情を浮かべた。

 人との関わりなしに更生はできない。明石はそう思っている。


 すぐに明石が宗一郎の返答を伝えると、何も知らない美佳は手放しで喜んだ。

「晴香に伝えますね」

「女性の方は、晴香さんというんですね。もう落ち着かれましたか?」

「大丈夫です。もし何かあっても私たちがいるので。ありがとうございます」

「お礼も急ぐことはないと思いますので、お互いに折り合いがつくところで」

「ありがとうございます」

「私、自宅でバーベキューができるんだけど、もしよかったら、その時にお二人が会えればいいんじゃないかなって。堅苦しくなるよりも、気軽に来てもらえたら」

「いいですね。もしよければなんですが、私や、晴香のお兄さんも参加しても大丈夫ですか? もちろん、食費とかもお支払いします」

「ぜひ来てください。お金のことは気にしなくていいですよ。晴香さんたちが楽しんでいたいただければそれでいいですから」

 そういう会話で終始した。

 自分から提案しておいて、明石は変なプレッシャーを感じ始めた。自宅の庭で宗一郎をはじめとして、自殺未遂の晴香も来る。でもこういうことがあるのは先刻承知だ。それよりどうしたらみんなに楽しんでもらえるかを考える。とりあえず、吉野や妻に相談しようと思った。


 広々とした庭に人が点在している。

 まだまだ人を呼ぶことができるが、気まずさも形なく存在していて窮屈な空気が漂う。

 参加メンバーは明石と宗一郎。美佳と達司。お礼が言いたいと言い出した晴香の五人だ。

 警察署で顔を合わせて以来で、お互いの顔をしっかり覚えていたわけではないから、初対面のバーベキューだと言っていい。

 まずは息が詰まるような空気を切り裂こうと、謂れのない使命感を背負った美佳が、会合を開いてくれた明石にお礼を述べた。仕事柄、沈黙に話題を差し込むのは慣れているから苦にならなかった。何よりも晴香のためだ。

 明石はお見合いの仲人をするような感覚で当日まで常に胸の鼓動と共に生活をしていた。自ら背負った重荷を、明るさで少しずつ降ろしてくれた美佳に感謝した。中学教師だった頃に、何度も出会ったことのある周囲を見て動ける優等生と重なった。

 宗一郎の様子を窺う達司は、晴香の保護者のような役割だった。もとはこの会合に参加することに物憂げだった。しかし晴香が自ら「お礼が言いたい」と、美佳に囁きながらも強い意志を示したことが、達司の気持ちを変化させた。自殺未遂を起こしながらも、半歩であったとしても目の前の壁を叩いて道を作ろうとしている姿に見えた。「晴香の好きなようにさせてあげてほしい」という、親代わりのような美佳の説得もあった。

 ある出来事をきっかけに、達司は甘いに蜜に群がるように晴香に近寄ってくる男たちの食指を振り払ってきた。一方で晴香の将来を阻害しているように感じていたのもあった。もしもまた晴香に何かがあった時、晴香を助けられる人が一人でも多くいれば安心だ。達司の体は一つしかない。そんな理由も後押ししてここにいる。

 晴香は自分がどう振る舞ったらいいか分からずにいた。お礼を言いたいと言ったものの、自分から話しかけに行けず、緊張と共存していた。

 美佳が晴香の手に触れた。真冬の寒さに耐え忍ぶようにプルプルとする晴香の手に、安らぎを与えたかった。それでも治まることを知らない震え。美佳にも振動が伝わって一緒に揺れている。

 それを横目で見つめる達司。この状態でまともにお礼が言えるのか。

 宗一郎はいつの日か見た姿を再現するように俯いて立っていた。警察署で刑事の追及に身を小さくするしかなかったあの姿だった。再犯の相手として選ばれた女性と、その知り合い二人もいる。事の真相を知れば、いったいどんな目つきで、どんな空気に包まれるのか。想像するだけで胃液が逆流して口の中いっぱいに、とてつもない苦みが広がっていくだろう。憎悪をはらんだ視線が宗一郎の急所を狙って突き刺さる。それは過去に起こした犯罪も憎んでいる。もう二度と顔を上げることはできないくらい頭を押さえつけられて身動きが取れない。まるで前職で感じたあの屈辱を再度味わうようで吐き気を催す。宗一郎はギュッと目を閉じて平静を装う。真っ暗の世界は、少しだけ冷静にさせてくれた。ここには来るべきではなかったと、堰を切るように後悔の念に苛(さいな)まれた。

「伏屋さん」

 明石の声がした。聞こえていたが宗一郎は顔を上げられなかった。同時にこの場にいるすべての人間の視線が集まる。頑強な釘をいたるところに植え付けられるようだ。

「伏屋さん」

 それでも何も反応しない宗一郎。

「みんな、何を飲みますか? 一応、コーヒー、オレンジジュース、お茶とか色々買ってきたから自由に飲んでね」

 無反応の宗一郎に愛想つかせて明石がそう言った。

「ありがとうございます!」

 美佳が明石に乗っかって、ペットボトルのキャップを外した。

「ドリンクは何が良いですか?」

 美佳が宗一郎に声をかけた。しかし自分に話しかけられているのか半信半疑で無言だった。

「伏屋さんは、お茶でいいよね?」

 明石が変な雰囲気が蔓延する前にそう言った。美佳の機嫌だけは損ねたくなかった。もはやこの子がいなければ、この場を乗り越えることができないと思った。

 美佳と目を合わさずに、「……はい」と答えた。

 初対面の人との会話が苦手なのだろうと思って、美佳は気にせずお茶を注いだ。感じは悪くても、晴香を助けてくれたのは事実だ。場の空気も悪くしたくない。

「あの、この間はありがとうございました」

 美佳が言った。この流れで晴香もお礼が伝えられればいい。

 明石はぎこちない笑顔を張り付かせている。宗一郎が否定的なことを言わないかどうか心配だった。それでも変な視線を浴びせて圧力をかけたくなかったから、宗一郎を信じて目の前で温まってくるグリルを見つめていた。

「ああ……いえ……」

 素っ気ない反応だったが、ひとまず明石は胸を撫で下ろした。

 美佳が晴香の背中を押した。どういう意味か分かっているだろう。しかし足元は素直に動かなかった。

 達司もここに来たからには早く目的を達成してほしかったから、晴香の肩に触れた。

「あの……」

 晴香のかぼそい声が落ちた。

 美佳も達司も同時に変な胸の鼓動を聞いている。普段使わない筋肉が揺れ動いていて痛みさえも感じてしまいそうだった。

 宗一郎は固まったままで顔が上げられない。一体、どんな表情をしているんだ。目や鼻や口はどうなっているんだ。再犯相手に選ばれた女性が、危害を加えようとした男への表情はどんなものなのか。

 晴香は宗一郎の頭皮を見つめながら、今ふさわしい言葉を選んでいる。目を合わせていないからか、緊張感が緩んできている。

「……ありがとうございました」

 宗一郎と競うかのような小さな声と共に、晴香は頭を下げた。

 晴香の垂れ下がる髪の毛の真横で、目的を達成した晴香に安堵しながら達司も同様にお礼を言った。

宗一郎が一瞥すると、いまだに低頭する晴香や達司がいた。

「いえ……お礼なんて……」

 重りとなっていたものが晴香から消えた。達司も同様だった。

 その一方で、明石は焦りを感じていた。続かぬ言葉の先はもう要らない。余計な発言は避けてほしい。早く自己紹介にステージを移したい。

「伏屋さん、お肉を焼いてもらってもいいかな?」

 辛抱ならなかった明石は、宗一郎にトングを手渡した。手作りの笑顔が光っている。

「……はい」

 ずっしりとお尻を埋めていた椅子から、宗一郎は立ち上がった。

「私も何か手伝いますね!」

 美佳が声高に言った。無事にお礼を言えた嬉しさだった。

「伏屋さんは、勇気のある方なんですね!」

 明石も同意して言葉をかけたかったが、真実を知る自分が言っても薄っぺらいと思ったからただ頷くだけだった。この話題にいい加減に終止符を打ちたい。このままだと心臓が急速に傷めつけられて倒れてしまう。

「実はね、私、以前中学校の教師をしてたんですよ」

「あ、そうなんですね。だからすごく丁寧な感じなんですね」

 美佳がすぐに反応した。明石と電話で話した時のことを思い出した。

「ありがとう。そんなこと言ってくれたのは、杉浦さんが初めてですよ。あはは」

「じゃあ、伏屋さんは教え子なんですか?」

 明石は宗一郎をチラッと見た。

 教え子と言えば教え子かもしれない。もちろん、本当の関係を三人は知らない。キッチンでその会話を聞いている明石の妻も、どう答えるのかと耳をピンと張りめぐらせている。

「そうそう! 卒業生とこういう形でまた会えたことは、教師としてはすごく嬉しいよ。あはは」

 ひとつひとつ精査するように聞いていた宗一郎は固まったままだった。

「そうなんですね。伏屋さんはおいくつなんですか?」

 美佳が質問を投げかける。コミュニケーション力が際立つ。

「……二十八歳です」

「じゃあ、私や晴香より年上ですね。私たち、高校が一緒で」

「ああ……」

 明石はしばらく美佳と宗一郎の会話に傾聴しようと思った。その間にもう一つのトングでお肉や野菜を網の上で加熱する。

「お仕事は何をされてるんですか?」

「……ガラスを作っています」

 美佳の質問攻めが続く。

「職場はこの辺なんですか?」

 美佳一人に任せているのも申し訳なくなった達司が後ろから質問を投げた。

「……そうですね」

 達司と目を合わせることなく宗一郎は答えた。

「そうなんですね。僕もこの辺で働いてるんで、見かけたことあったかもしれないですね……」

 まだ働き始めて一か月も経たない。どう返事したらいいか分からず、宗一郎は黙り込んだ。

「彼ね、まだ再就職したばかりなんだ」

 すかさず明石がフォローを入れた。

「ああ、そうなんですね……」

 達司は作り笑顔をしながらも、反応の悪さに話す気力を失った。


 五人分の焼きそばが用意された。晴香の手作りだ。美佳に「何でも手伝うから」、とせがまれて晴香が調理器具を握った。終始トングを握っていた明石の負担を軽くする意図や、お礼だけで終わるには寂しさを感じたのもあった。

「おお、いいね」

 そう達司が唸った。今日初めてと思うくらいの笑みを見せる。

 紙皿から放たれる湯気が宗一郎の食欲を刺激する。機械が作った既製品ばかりを食べてきたから、確かな違いを感じている。

 美佳が配膳すると、達司がすぐさま割り箸を手にした。

 骨休めをしていた明石も興味津々だった。妻とどちらが美味しいか、食べ比べができる楽しみも兼ね揃えていた。

 一口食べると、歩調を合わせるように言葉は飛び交った。

「ああ、美味しいね」

「さすが晴香」

「このぐらい晴香には普通だよね」

 宗一郎を除く面子が惜しみなく晴香の腕を褒め称えた。

「普通の焼きそばだよ」

 晴香が嬉しさと小恥ずかしさが混じった笑みを見せた。

 言葉を発しない宗一郎は、数日間、何も食していない子供のように夢中で食べ続けていた。

 その姿に明石たちはハッとしながらも、どこか微笑ましく眺めていた。

「伏屋さん、どうですか?」

 美佳が笑顔で聞いた。

 咀嚼して旨みを噛みしめながら、全てが食道を通った後で、

「本当に美味しかったです」

 お世辞ではないことは、ソースの形跡だけを残す紙皿が伝えている。

「ですよね!」

「何がこんなに違うんですか」

 宗一郎の初めての問いかけだった。

「麺と具材を別々で焼いたり、生姜を入れたり。出来上がった後に蒸し焼きにしたぐらいですよ」

「すごいですね」

 目を丸くして言う宗一郎に、真実味があって晴香は笑みを見せた。

「晴香、高校の時から料理がうまくて。私なんて、美味しすぎて晴香のお弁当全部食べてしまったこともあるんですよ!」

「あったね、そんなこと」

「それで先生に車出してもらって、近くのコンビニにお昼買い行ったんだよね!」

「分かる気がします」

 宗一郎がポツンと言った。微笑ましくて明石は笑みを浮かべている。

「私のも食べますか?」

「えっ」

 露骨に焼そばを凝視していた宗一郎は、拍子抜けした声を出してしまった。

「いや、大丈夫です」

「いいですよ。食べてください」

 晴香が押し出して焼そばを宗一郎に近づけた。

「残ってももったいないし、もし食べられるなら、食べたらどうですか」

 明石も背中を押す。

「私、もうお腹いっぱいだから」

 懇願するような晴香の上目遣いが、宗一郎の眼球に収まっている。

 美佳も達司も同意している。

「……ありがとうございます」

 受け取るしかなくなった宗一郎だったが、また夢中で食べ始めた。少なく盛っていた晴香の焼きそばはすぐに平らげられた。

「美味しそうに食べる伏屋さん、なんかいいですね」

 美佳がそう言って達司と目を合わせた。

「飲食関係の、お仕事ですか?」

 宗一郎がそう聞いた。

「あ、いえ……休職中で」

 晴香が自らそう言った。

 前職のことを語るとは思わなくて、達司と美佳は驚きを隠せなかった。

 宗一郎が「ああ……お店とか開いたら、人気になりそうですね」と言うと、美佳が「売れるよ! 私の職場近くでやってくれたら毎日買いに行くよ!」と言った。

「無理だよ。みんなに食べてもらうだけでいいよ」

「そのぐらい美味しかったです」

 宗一郎の称賛に、晴香は頭を下げてお礼を言った。

「あの……連絡先って聞いてもいいですか?」

 晴香が照れながらそう言った。

 明石は宗一郎がどう出るのか、微笑みながらも注視している。

「ああ……」

 予想外の展開についていけていない宗一郎がいた。

「無理には、いいですよ……」

 朗らかな雰囲気が徐々に一変していく様が、達司にそう言わしめた。

 すると誰かが達司に服に触れた。すぐに横を向くと下を向く美佳がいた。

「……はい」

 承諾した宗一郎に、晴香は笑みを見せてラインのアカウントを交換した。


 朝の七時。騒がしい街から解放された公園に、ウォーキングシューズを身に着けた明石がいた。購入したばかりだが、時間が経っていたから埃を取り払った。

 今日は宗一郎と運動に励む。運動不足とストレスを解消して、自身をコントロールできれば再犯を防ぐ一手になる。なるべく人目がない方が集中しやすいだろうと思った。現に「秘密が守られる空間で面談を行うべきである」と保護司のマニュアルにも記述があった。素直な気持ちを表現して欲しい。秘密を守るということであれば、個室という手もあるが、外の空気も共にしたかったから自然と選択肢からは除外された。もしも合わなければ別の方法を考えればいい。

 小鳥のさえずりを聞きながら、明石は準備運動で膝を折り曲げた。しかし運動不足は明らかで、ポキポキと骨を削る音がした。宗一郎との面談と言うよりは、明石の運動不足を解消するための一助のような気がしてきた。そうなれば一石二鳥だ。宗一郎と仲を深めて、運動不足を解消する。それに今日は快晴。汗を流すにはもってこいの状況だ。

 ただ宗一郎がここに姿を見せてくれることを願って、固い体を少しずつほぐしていくと、足音が聞こえてきた。

「伏屋さん」

 五十肩を抱える中、笑顔で明石は腕を引っ張り上げた。

 古びた黒のジャージに身にまとった宗一郎が歩いてきた。

 ここに来てくれたことに感謝したい。

「おはよう」

「おはようございます……」

「ありがとうね。こんな朝早くから」

「いえ……大丈夫です。刑務所にいた時は毎日早起きしていたので」

 以前に比べて表情が少しだけ緩んだような気がした。再びシャバの生活に慣れてきたのか。

「普段、運動はしなかったよね」

「はい……まだ運動するまで余裕がないです」

「なら私と同じだね。あはは。歩こうか」

 明石の足元に真新しい靴が輝く。それを見て宗一郎は、「はい」と答えた。

「あれから、連絡は取っているの? 晴香ちゃんと」

「たまに……」

「まずはいいお友達になれればいいね」

「はい……」

 表情の緩みは、晴香のこともあるかもしれない、と勝手に思った。

面と向かって話すことなく文字を打つ。変な衝動に駆られることなく、ありのままの気持ちを表現する。宗一郎にとって言葉が交わしやすいのかもしれない。

 中学の教壇に立っていた頃、生徒全員に裏紙を配って、今の素直な気持ちを書かせたことがあった。会社経営者が出した書籍に、紙に書き出すことによってストレスが緩和できるという文面を見つけて実行してみた。

「マジで親がうざい!」

「宿題、だる」

「加藤が好き」

「明石より若い先生がよかった」

「二年連続で明石はない」

 意外にもたくさん書き出してくれて、個性あふれる生徒たちのつぶやきに明石は大声をあげて笑った。それを見た生徒たちは立ち上がって、明石の周りを囲うように集まり覗き込んだ。

「誰だよ、加藤が好きなの」

「宿題減らしてよ、先生」

「きれいな女の先生がいい」

 教師として年数を重ねると同時に、昔のやり方が今の生徒たちに合っていないことに気が付いて取り入れたことだった。

「あの……」

「うん」

 明石は威勢よく返事をした。宗一郎の問いかけが嬉しかった。

「どうして、保護司になったんですか?」

 明石の経歴に興味を持っている。その意図なんだろうかと考えてしまったが、気にせずありのまま話そうと思った。

「教師としての経験を活かせると思ったからかな」

「それが保護司だったんですか?」

「そうだね。そのまま非常勤で教師を続けることも考えたけど、学校のルールに縛られてやっていくのが窮屈になってしまってね」

「……」

「学校だと、人数が多すぎて生徒ひとりひとりをしっかり見てあげられない。だからもっともっとしっかりサポートがしたいなって思ったことかな。よく事情とか理解してあげて」

「……」

 燃え盛る教師としての熱情を感じた。

「今は気をつけているけど、言い方ももっと厳しくて、『バカタレ』と怒鳴ったり、相手の話なんて全然聞いてなかったから。時の流れと同時に変わらないといけないって、そう思ってもプライドの塊になってたから変われなかったから」

「明石さんでも、そういう時期があったんですね……」

「あるある。それなら思い切って環境を変えようと思った。その選択肢として保護司があった。私が担当した方たちと、しっかり向き合って一緒に成長できたらなって思って」

 宗一郎は頷いた。

「実を言うとね、定年前に教師を辞めようと思ってたんだ。でも家内に大反対されてね」

 苦笑いする明石。

「どうしてですか?」

「……教師としての『情熱』がもうなくなってしまった、というのが一番だね。そうなってしまった自分もショックだったから……なりたての頃は、もう毎日でも学校に行って生徒たちと触れ合いたいって思ってたのに。この状態で生徒たちに接するのはなんとしても避けないといけない。伏屋さん、考えてみて。真剣に向き合ってくれない先生が担任の先生だったら、嫌でしょ? 生徒たちにとってこんな不幸なことはない」

 宗一郎は腑に落ちてただ頷いている。

 確かに、服役していた時の刑務官も、真剣に向き合ってくれた。厳しかったが、宗一郎が更生できるように手助けしてくれた。稲葉も三崎もそうだった。

「でも生活のことを考えて、続けるしかなかったけど、生徒たちには申し訳ない気持ちでいっぱいで……今なら、何のしがらみもない。保護観察官の方から助言も頂きながら、伏屋さんに向き合うことができる。だから毎日楽しくやってますよ」

「楽しいんですか……」

 宗一郎が歩幅を緩めた。

「うん。毎日発見があって、学ぶことも多くてこれから頑張ろうって。以前よりも圧倒的にいきいきしてますよ」

「明石さん、すごいです……」

「何が」

「いや、僕といて楽しいなんて……二度と、刑務所に戻らないように頑張ります」

「頑張ろう!」

「はい」

 宗一郎が返事をした。刑務官のオヤジにするような威勢の良さ。どこか懐かしかった。

「話しているうちに結構歩いたね」

 会話ができた喜びで明石の気持ちは明るくなる。それでも歩いただけで足が悲鳴をあげそうだった。


 駅前で宗一郎が体を右往左往させていた。

 今日は晴香、美佳と三人で駅に直結するモール内で食事をする予定が入っている。

晴香からの提案だったが、誘われた時は困惑した。女性と二人で会ってどんな衝動に襲われるか分からない。むやみに外出して、以前のようなことは起こしたくない。

 すぐ明石に意見を求めた。「明るい時間帯で会ってみたら」という返答だった。さらに「楽しんでおいでよ。もし何か不安があれば、いつでも連絡していいから。長く会わなくても、三十分でも一時間だけでもいいから。どんなお話をしたのか、次のウォーキングの時に聞かせてよ」と続けた。

 バーベキューに来ていた美佳も同行するということで不安は緩和されていった。背中を押された宗一郎は前向きに捉えて今に至っている。

 人で溢れかえる中、宗一郎は額に汗を滲ます。約束の時間が近づいてくるにつれて激しくなる体の震えを抑えながら息を吸って吐く。たまらず明石に連絡を入れた。状況を聞くと、

「コンビニで何か買って飲んだら。コーヒーでも何でもいいから。別に飲み物じゃなくても、軽いスナックとかでもいい」

 レジのそばに置いてあった温かいほうじ茶を手にして素早く支払いを済ませた。その場でキャップを外して競うように飲んだ。レジを待つ次の客にはじき出される形でコンビニを出ると、勢いよく飲んだせいで食道に痛みが走る。涙目のせいで人の海がぼやけて見えた。宗一郎を見ているかどうか定かでなければ不安はなくなる。

「勢いよく飲んだね」

 切らずに残しておいた電話から明石の声がした。

「とりあえず、落ち着いて」

 息苦しく「はい」と言って電話を切った。

 涙目が少しずつ渇いていくと、再び人々の視線が威嚇するように目に飛び込んできた。いい大人が涙を浮かべているから、瞬く間に視線を集めた。人々は決して笑わない。何か疑うように表情を無にして歩いている。恐怖を感じた。まるで罪を憎み、軽蔑するかのようだった。刑務所にいる時も、犯した罪を何度もバカにされた。変態扱いでも何も言えなかった。反抗してトラブルになれば懲罰の対象になる。それに変えようのない事実だ。

 たちまち宗一郎は頭皮をさらすように視線を落とした。

 仮釈放になっても前科は消えない。決して許されることではない。被害者がいる。

噴き出た汗は行き場を失い、流れ落ちて衣服に染みこむ。胸に痛みが走る。手に支えられていたペットボトルはすり抜けて地面を洗うようにこぼれた。靴にもほうじ茶が及んだ。前の様子など分からないが誰かが見ている。見ているように見える。最大限に弾みをつけた矢が凄絶な勢いで向かってくるようだった。

 だから、刑務所にいた方がよかった。自由はないが税金で暮らしは保証される。再犯の可能性にゼロを刻める。ただ毎日同じことを賢い機械のように繰り返せばいい。手慣れたもので他の受刑者よりも役に立てる自信はある。

「伏屋さん」

 誰かの声が微かに聞こえる。しかし応じる余裕はなかった。

「伏屋さん」

 少しずつ頭が上がり始めた。まぶしい太陽を垣間見るように、半開きの目が美佳の姿を捉えた。

「大丈夫ですか? すごい汗」

 美佳の言葉に自ら拭ってみると、池を作るように汗が掌に集まってきた。

 驚きの表情を見せる美佳の隣で、晴香はタオルを宗一郎に差し出した。

「これ、使っていいですよ」

「あっ……いや……」

「どうぞ」

 晴香は宗一郎がタオルに触れるまで動かさずにいる。

「伏屋さん、どうぞ」

 美佳も宗一郎の背中を押す。ゆっくりと晴香の優しさを受け取った。

 額の汗をタオルに吸わせる。晴香の服装に目がいった。宗一郎が女性を物色していた時に着ていた白のワンピースに黄色のカーディガンだった。イチゴを軽く潰すように肩身が狭くなった。

「伏屋さん、本当に大丈夫ですか? 体調悪い感じですよね?」

 晴香は宗一郎を近くのベンチに座らせた。

 美佳の脚が包まれたスキニーパンツに宗一郎の手の甲が当たっている。その隣で健気に汗を吸ってくれる晴香がいる。

 もうこれ以上は刺激しないでほしい。

晴香はどこか自分を見ているようで、宗一郎の背中をさすり始めた。

「しばらく、ここで休んでましょうか」

 晴香がそう言った。

「いや……」

 そんな優しい言葉を振り払って宗一郎は、立ち上がって当てもなくどこかに突進した。


 しばらくして、宗一郎は心と体を直して出てきた。ここまで来て「帰る」と言い出せなかった。

「大丈夫ですか?」

 晴香の優しい声が響く。

「はい……」

「じゃあ、行きましょうか! お腹空いちゃいました!」

 そう言って美佳が先頭を行く。

「あの……」

 宗一郎が呼び止めた。

「待っていてくれて、ありがとうございました」

 二人は目を見合わせた後、「全然いいですよ」と笑った。

 美佳は行き慣れたモール内のレストランを選んだ。場慣れしたところの方が、晴香が話しやすいだろうと思った。

 レストランに入って、宗一郎も今までにない落ち着いた表情で会話を続けた。前科を知らないという安心感から表情に張りがなかった。二人の気遣いにも心を撫でられるように温かさを感じた。対面を前に、噴き出していた大量の汗が嘘のようだった。

 美佳は、適度に距離を置きながら宗一郎と晴香の姿を見つめた。時折、小さくとも安堵の笑みを見せる晴香に頬を緩めた。

 二時間ほど話したあと、宗一郎が日割りでもらった給与から支払いを済ませた。晴香も払うつもりでいたが、無言で晴香を押しのけた。

 モール内を出て、当てなき道を行く宗一郎に、美佳がこう言った。

「あの、これから予定があって、この辺で失礼します」

「あ、はい……」

 特に予定はなかったが、長く行動を共にするのは気が引けた。この後はゆっくり晴香と半日を振り返りたい。

「今日は、来てくれてありがとうございます」

 晴香が頭を下げた。

「いえ……」

「じゃあ、さよなら」

 美佳は晴香の腕をしっかり掴むと、雑踏の中にそそくさと消えて行った。

 宗一郎はどこかせわしなく去って行った二人を不思議に思った。もしかしたら、見覚えがあって、自分に前があると気付かれたのかと勝手に妄想した。ニュースで見た顔と一致する。もうずいぶん前の出来事でも、帰宅途中の女性を襲った敵だ。楽しく過ごせた時間がじわりじわりと不安で塗り替えられた。

 とにかく今は家に帰ろう。そう思って会社の寮を目指した。


 宗一郎との食事の帰り道。

 晴香は特に何も話すことなく今日の出来事を回想していた。男性と外で会話をした。それがしっかりはまらないパズルのひとピースのように違和感がある。人を遠ざけていた期間はこんなにも普通の日常を風変りにしてしまう。

 その姿を横目で見ていた美佳も、晴香に合わせて沈黙を保っていた。スマホをいじりながらどうでもいい芸能ネタに触れる。『あなたも簡単に稼げる』という謳い文句を背景に出てきた広告。すぐさま消してスクロールした。晴香との仲だから、沈黙が怖いわけじゃないから自然体でいればいい。美佳に落ち着きがないと晴香が不安に襲われる。

「私……」

 宗一郎と別れてから発した晴香の最初のつぶやき。

「私……今日さ」

 美佳は頷いて耳を傾けた。

「……普通だった?」

 普通の意味を細かく説明しなくてもいいから晴香は楽だった。

「うん。全然普通に話してたね」

 晴香が求めている返答が何かは別として、美佳の感想を述べた。

「そっか……」

「気になる? 伏屋さんのこと?」

「えっ」

 晴香は顔を急に赤くさせた。

「だから、そう聞いてきたんじゃないの?」

 普段は明るい美佳が、心理カウンセラーのようにやわらかい綿に触れるような美声を響かせた。

「そういうわけじゃないんだけど……」

 美佳は少しだけ微笑んでその先の言葉を待った。

「話しやすい人……だなって、思って」

「そっか……ならまた会ってもいいかもね」

 晴香の心底にある本心はこれのような気がした。沈み込んでしまった気持ちを晴香一人では引き上げられないから、美佳の力が必要だった。誰かが気持ちを言い換えてくれれば、自信を持つことができるから。

「伏屋さんも楽しそうだったし」

 そう言って晴香の背中に触れた。ビクッと体が揺れたのを見て、美佳はすぐに背中から手を放した。

「なら、また会ってもいいよね?」

「いいと思う。奢られたままでも悪いしね。もしよかったら、また私もついていくよ」

「……」

 乗り気じゃないのか、求めていた答えじゃなかったのか、何も言わなかった。

「どうした」

「二人でも、会ってみたいな……」

 前向きな言葉。

 凍った心が柔らかくなる様が目の前にあった。以前はピンと張った糸のような心。少しの緩みも許されないような強情さが見えた。バランス感覚さえあれば歩くことさえ可能だと思っていたが、今はそんな姿はなかった。

「そっか……」

 美佳は晴香の手を握った。

「なに?」

「え、なんか、伏屋さんに晴香をとられそうで嫌だなって。どうせ連絡もしてこなくなるんだろうなって……」

「そんなんじゃないよ」

 慌てて晴香が美佳の手を包んだ。

「いいよ、私はお邪魔だから隅のほうにいるから」

 美佳が拗ねた。

「そんなんじゃないって」

「冗談だよ! 晴香がそういう気持ちになったこと、すごく嬉しいの。伏屋さんに嫉妬しちゃっただけ」

「ああ……」

 納得して晴香はそれ以上言わなくなった。

「一緒にいたら伏屋さんをいじめてしまいそうだから。二人で行っておいで!」

 少し殻を破れたことに、晴香は笑みを滲ませる。

 それは新しい晴香なのか。それとも元の晴香なのか。


 達司のアパートの最寄り駅。

 美佳は晴香を送り届けて改札口前で待機していた。達司は晴香がシャワーに入ったことを確認してこっそり外に出てきた。今日の出来事の報告と称して、電話越しで言葉を交わしている。

「なんか、今日は普通に話してました。前は何を話したらいいかも分からなかったかもしれないですね」

 意外な晴香の様子に、達司は目まぐるしく変わる万華鏡を見るような気分だった。伝えられた内容には美佳のバイアスが入っているような感じがして、そのまま言葉を受け止めきれなかったというのも本音だった。

「また、会いたいみたいですよ……」

「そっか……」

「達司さんは、もう会ってほしくない感じですか?」

「……」

「晴香は前向きになりつつあります……少しずつですけど……正直に言うと、私は嬉しかったです。晴香が『また会いたい』って……『今度は二人で』って」

 『二人』という言葉が達司を大きく揺さぶっていないことを願う。

「晴香がそう言ったの?」

「はい……私は、真面目に話していたように感じたので……毎回、説得されるようで嫌かもしれないんですけど、もう一度、見守ってあげてほしいなって……」

 美佳のように、もう一歩下がって俯瞰することができれば、達司ももっと楽だった。しかし簡単に言えない。それが親族と友人の違いなのかもしれない。

「私、晴香の変化に気が付いてあげられなかった自分が悔しいんです……」

 最大限に下げた美佳の声色。

「晴香が一人で抱え込むことができなくなるまで、気が付かなかった……確かに、あの頃は忙しかったけど、こんなに近くにいたのに、会おうと思えばすぐに会えたのに……」

 電話越しで涙ぐむ美佳。

 達司もその一人だった。晴香の近くに住んでいた。両親もそのことを安心していた。何かあったら達司がいるからと、そう思っていたに違いない。だから美佳と同じ気持ちでいる。

「私、晴香の記憶を消したい……私のことは忘れてもいいから、今までに積み上げた思い出もすべて消してもいいから……」

 美佳は、他人のように接する晴香を想像した。美佳の存在に気付くことなくただすれ違っていく。寂しくてたまらない。でも消したい記憶を隠すことができるならば、なんとか受け入れられる。確実に以前のような笑顔が戻ってくる。立ちはだかるいくつもの壁を乗り越えなくてもよくなる。

「私がガンガン話しかけて、料理のことを褒めてあげて、いつもくっついていれば、晴香、また心を開いてくれますよね?」

「……ありがとう」

 美佳は何も言わなくなった。気持ちが十二分に伝わったんだと解釈した。

「じゃあ、また二人のこと教えて。俺が聞くと、うまく自分の気持ちを伝えられないような気がするから」

「はい」

 美佳が家族のように晴香のことを考えてくれていたことに感謝した。

 灯りがついたアパート。晴香がいるからだ。


 駅の改札口から多くの人々が出てきた。自動改札機が故障してしまうんではないかと思うぐらい、いくつもの定期を認識して切符を吸い込む。

 宗一郎と二人で会う。

 美佳を含めた三人で会ってから一週間も経っていない。もう少し気持ちを整理する時間があればと思ったが、間を置くことはしなかった。また怖くなって先延ばしにするのが嫌ったからだ。二人で会ってみたいという気持ちが強いうちに、会っておきたい。

 待ち合わせ場所は以前と同じ駅前。そこに晴香は約束の時間よりも三十分以上前に到着した。

 駅には無言を引き連れて目的地を目指す人々。特にスーツを身にまとった管理職の男性を見ると、鼓動が水しぶきをあげて揺れ動く。

 反射的に晴香は顔を伏せた。視界に入ったのは母親世代の女性だった。近眼の眼鏡をかけていて穏やか空気を醸し出している。もしかしたら、前職でお世話になった顧客かもしれない。半信半疑ながら女性が通り過ぎるのを待った。たかが十数秒の話だったが、距離が近づいてくるたびに鼓動が揺さぶられる。この緊張感が苦手だ。女性は何事もなかったかのように通り過ぎて行った。人違いだった。

 次にスーツの男性三人が談笑しながら横並びで歩いてくる。おそらく中央にいる男性は上の立場で、残りは社会人になりたてなのかスーツが真新しい。あのビジネス上で見せる笑顔が嫌いだ。口元は緩んでいても目は笑っていない。化けの皮を剥がせば、どんな表情をしているか。晴香も幾度となく見せた笑顔で気持ちは分かるがとてつもなく嫌いだ。

 パンツスーツに女性が目に入った。ダークブラウンの長い髪の毛を、真正面から向かってくるそよ風に対抗しながらカタカタとヒールの音を響かせている。かかってきた電話に出て、聞こえやすい場所に避難して内容を聞き取っている。急な予定変更なのか、手帳を開いている。

 仕事で結果を出すために邁進していた時のことを思い出す。

 晴香はできる全ての努力はしてきた。

 電話中の女性もきっとそうなんだろう。

 もうお昼ご飯は食べたのだろうか。

 自然と涙がこぼれてきた。色々な感情が混ざり合い、何の涙か分からない。

 人には話せない。どうせ理解されない。

 体験した人とそうでない人の違い。

 晴香にだけ見えるはっきりとした境界線を目の当たりにしてただ自己嫌悪で終始する。

 意識が遠くなってきて大学生ぐらいの男にぶつかって舌打ちをされた。

 かばんをギュッと握って力を入れたけど、呼吸が荒くなる。

 改札内にあるトイレへ駆け込んで、その場にしゃがみ込んで胸を抑える。時計を見るとまだまだ時間はある。しかしどれだけ時間があっても足らないような気がした。この痛みがいつ引くのか分からない。隣にいるはずのない誰かの腕を触れようとするも、トイレットペーパーに手をぶつけた。たいてい達司か美佳がいるが、今はひとりだった。思わずラインを確認すると、美佳から激励のメッセージ。思わず通話ボタンに指先が伸びた。でも「二人で会いたい」と言ったのは、他の誰でもない晴香だった。それを考えたら、手先が折れ曲がっていく。暑くないのに汗が落ちる。タオルで拭き取る。しばらく休んでからトイレを出た。すぐに隅の方へと避難する。大雨のせいで泥水を交えた川が勢いよく流れるような人の流れについていけない。隣に達司や美佳がいればそれほど気にならなかったかもしれない。

 その中で、宗一郎の姿が見えた。晴香と同様、汗を拭っている。藁にも縋る思いで駆け出していきたい。スマホのホームボタンに触れて時刻が見えた。もう約束の時間は過ぎていた。

「あの」

 晴香はもうすごい勢いで目線をあげた。目の前には、宗一郎が距離を保ちながら立っていた。

「だ、大丈夫ですか? 手が震えてます……」

 目を見開いて凝視する宗一郎がいる。しかし晴香は窮屈には感じなかった。

「どこかで座りますか?」

 晴香が頷くと、宗一郎に連れられてモールの共用スペースに向かった。

 エスコートする自分がおかしくて手が震える。晴香はどこか安心感に包まれていった。鏡に反射した自分の姿を見るように、足並みを揃えてくれているようだった。

晴香の先頭を行く宗一郎は、ロボットのようなぎこちない動きを見せている。内側から心臓を殴るような音が聞こえる。

「あの……」

 すぐに足を止めて振り返った。沈黙が破られて安堵した。

「ここで、座りませんか?」

 ローソファが連なって配置されたスペースがあった。

「ああ、はい……」

 通り過ぎそうになった宗一郎に、晴香はクスッとしてしまった。

 二人は座った。

「ありがとうございます」

「えっ?」

「あの、見つけてくれて……」

「ああ、いえ……」

「伏屋さんは、甘いもの、好きなんですか?」

「ああ……はい……」

 話が続かない宗一郎は焦りを感じる。

「私も大好きで、自分でもたまに作るんです。ケーキとかクッキーとか」

「すごい」

 晴香は笑った。しかし徐々に消えていった。すぐ後ろにスーツを着た中年男性が座った。電話をしながらパソコンを開いて、会話を進めながらキーボードを打っている。手慣れていて動きが速い。緊急を要しているが丁寧な口調は変わらず、仕事ができる様が伝わってくる。

 晴香の背中に電撃が走るように背筋が伸びて、背後を小刻みに確認してソワソワし始めた。宗一郎も同じく後ろを振り返った。

 周囲の雑音で電話越しの声が聞こえないのか、男性は声を張り上げた。漂ってくるワックスの匂い。それほど強い匂いでもないが、晴香の嗅覚を刺激した。

 あの時の記憶が蘇る。時間をかけなくてもはっきりと鮮明に思い出すことができる。今でも手当てされていない記憶。目元に数えきれないほどのシワを作って目を閉じた。

「あの……」

 顔を顰めた宗一郎はたまらず声をかけた。しかし何の反応もない。

 一体どうしたんだ。何が起こったんだ。

 もしかしたら、何かを思い出したのか。前科か。女性を性のはけ口にしたおぞましい過去。

 男性の体勢に無理が出てきた。事なき得たのか、電話を切ってパソコンを閉じた。体をほぐそうと腕を前後ろに伸ばした。

 晴香の背骨に直撃した。

「すいません」

 男性は謝った。

 晴香は謝罪の言葉を踏みつぶして、買い物客を押しのけてその場を離れた。

 一人取り残された宗一郎は、突然の出来事に呆然としている。

 周囲の目が集まる。ひそひそと漂う話し声。

 何もしていない。何もしていない。


 にしや百貨店の三階。

 勤務中に何度もスマホが揺れていたことは、美佳も知っていた。接客を終えてから誰にも目につかない場所で連絡主を確認すると、相手は言うまでもなかった。

「いまみなみかんまえ」

 ひらがなの羅列で漢字変換されることなく送られたライン。不気味だった。

お店の制服である黒のパンツスーツのままで下に降りていくと、ライン通り、南館の前で晴香がしゃがみこんでスマホを握りしめていた。すぐに駆け寄って名を呼んだ。

 きれいに塗装された壁に身を任せていた晴香は、少しずつ顔を正面に向けた。化粧品の匂いがして美佳だということを認識した。

「どうしたの? デートは?」

 晴香は首を横に振って今日の自分を評価した。

 美佳は言葉を聞かなくても分かった。だから優しく晴香の背中をさすった。

「そっか……」

 事情を聞くと、宗一郎が晴香に何かをしたわけではないということが分かって安堵した。しかし『一人で会いに行くこと』を後押ししたことは軽率だった。

「晴香、あと二時間ぐらいで仕事が終わるから一緒に帰ろう。待てる?」

 晴香は黙って頷く。母親の言うことを従順に聞く幼い子供のようだった。

「じゃあ、西館三階のカフェで待ってて」

 その場所に辿り着けるかどうか心配だったから、美佳は晴香の手を取った。何度も行ったことがある、「はるみか」トークの場所だった。


 美佳の仕事が終わって駆け足で店内を走る。

 達司にもあらかじめ連絡しておいた。達司の心配が的中してしまった形になり、一言、ラインの文面に「ごめんなさい」と付け足しておいた。

 晴香は店内にいて壁面に飾ってある二つの絵画を見つめている。

 一つ目は夜のストリートにバーがあり、店内の灯りだけが、ストリートを照らしている。今にも皆の騒ぎ声が聞こえてきそうな楽しさが伝わる。晴香も何の柵もなくその輪に入っていきたいのか。

 そしてもう一つの絵画に目を移す。

 西洋の女性が黒のスカートから伸びる脚を組んで、マグカップを口元にあてている。どこか堂々していてうらやましいのか、晴香は少しだけ目を輝かせていた。一人でも強く生きる女性がここにいる。その場所へ駆け抜けていきたいのか。

 店内に入ると美佳は何事もなかったかように晴香に声をかけた。

 一時間ほどカフェで雑談した。宗一郎とのデートに関しては一切触れなかった。その後に達司が車で迎えに来てくれた。責任感から晴香を送り届けたかった美佳は、アパートまで同行した。

「少しだけ寄ってく?」

 アパート前で達司がそう言った。ここまでついてきてくれた美佳を何もなしで帰すのが忍びなかった。

「ああ……」

 さすがに気まずかった美佳は断ろうと思ったが、まっすぐに伸びる晴香の視線にピン止めにされてしまった。

「じゃあ、少しだけ……」

 凄まじい吸引力があって、そう言うしかなかった。

 晴香は中に入ってきれいに片付いたダイニングテーブルを見つめた。本来なら今も宗一郎と会っていただろうから、できる一通りの掃除をしてから出てきたからだ。

「何か食べる? 今日いな……」

 達司が言いかけた言葉の続きは、「いないと思っていたから」だった。晴香を無駄に刺激してしまうと思って言葉を遮った。キッチンにはプラスチックの袋に入ったコンビニのソース焼きそばがあった。達司の夕食だろう。

「いらない……」

 小声で言う晴香に、達司は美佳と目を合わせた。今日のダメージの大きさを物語っている。

「じゃあ、シャワー浴びてきたら?」

 何の反応もない。

 だんだん晴香の体がチクチクしてくる。かわいそうな人を見つめる視線がそうさせる。前から達司。そして玄関先で立ち尽くす美佳が後ろから。目が潤んできた。寒さに凍えるように小さくなって震える。

「そんな目で見ないでよ」

 とてつもなく低い声だった。

 達司も美佳も無言だった。

「そんな目で見ないでよ!」

 晴香は達司を前に涙を流した。悔しさと情けない自分を蔑む涙だった。

「かわいそうって、思ってるでしょ?」

 達司が首を振って否定する。

「晴香やめなよ」

 美佳の言葉を無視して、「そう思ってるんでしょ? 私のことバカにしてるでしょ?」

「今日のことは忘れよう」

「どうやって? どうやって忘れればいい? ねぇ? お兄ちゃん教えてよ! 忘れるなんてできない!」

 晴香は小さな拳を振り上げて背のある達司の胸倉を叩き始めた。

 美佳は慌てて晴香を制止しようとしたが振り払われた。

「どうしたら普通に戻れる? ねぇ答えてよ!」

「……」

 何度殴られても達司が全く動じないことにも苛立ちを覚えた。状況は変えられないと、暗に言われているような気がした。

「私だってこんなふうになりたくてなったわけじゃない!」

「お願いやめて!」

 美佳が抱き着くように羽交い絞めにして、激しく叩き続ける晴香を止めた。頼りなかった背中は想像以上に力を宿していた。

 晴香が発狂するように声をあげた。服で見えずとも、叩き続けて赤くなった達司の胸元が透けて見えた。それを見ていられなくて晴香は自室に閉じこもった。ベッドにあった枕をデスクに投げつけて、デスクの私物を払い除けた。

 記憶に深く刻まれたら、簡単に消去なんてできない。

 今日の出来事も。そしてあの出来事も。


 真夜中のシャワー室。

 達司は寝ているから、晴香は静かに水を出した。ちょうどいい湯加減に変わるまでの間で脱衣して、触れられた背骨のあたりを鏡越しで見つめた。なんともなっていない。それでも執拗に洗い流したかった。

 ろくに眠ることができなかった晴香は、達司の部屋の戸が開くのが聞こえた。気付かれないようにキッチンの様子を確認したつもりだったが、達司は振り返った。

「おはよう」

 達司はあくまで平静を装った。

「おはよう……今日、起きるの早くない?」

「ああ、なんか目が覚めちゃってさ」

 達司はバナナにかぶりついた。晴香が作る朝ごはんが食べられないと思っていたから、早めに起床したのだ。

「お兄ちゃん……」

 晴香は俯いて達司の前に立った。

「なんだよ……どうした?」

 達司の優しい声が響く。

「ごめんね……昨日、いっぱい叩いて……痛かったよね?」

「大丈夫だよ。気にすんな」

「思いっきり叩いたし……」

 晴香は少し目線を上げて胸元を見た。

「絹香の方が強いからな。どうってことないよ」

「……」

 無言の晴香に、「また落ち着いたら宗一郎に会えばいい」と言いたかったが、もう軽々しく言えない。今まで晴香に近づいてくる男たちを払い除けてきたことは、決して間違いではなかった。しかし、晴香は前に進めぬまま同じ場所で苦しむだけだった。もう本当にどうしたらいいか分からなかった。何かいい方法があるなら、信憑性のないネット情報でもしがみつきたい気分だ。

「とにかく、昨日のことはいいから」

 晴香は甘い蜜を味わうように頷いた。

「じゃあ、行ってくるよ」

「もう行くの?」

「ああ……」

 特に早く出る理由がない達司はそういう反応になった。

「朝ごはん作るよ」

 晴香は腕まくりをして手を洗った。手を振って水滴をとばす。銀色の流し台にぼんやりと晴香の顔が反射している。

「いつもそうなんだよね……」

 背中越しで聞こえる晴香の声。

「私が怒りをぶつけられる人って、お兄ちゃんしかいない……いつも優しくしてくれるのにね」

 晴香の怒りの正体だった。

「そんな自分が嫌で……当事者に怒りをぶつければいいのに、怖くてできない……」

 言葉をかけようにも、達司は何も言えなかった。

どこまでも過去に支配される晴香に、未来はあるのだろうか。


 静けさの中の公園。

 明石は口元を緩ませながら話す宗一郎に耳を傾けた。晴香や美佳を交えた三人での会合に始まり、二人で会うことになった時の出来事。誰にも話してなかったからどこまでも口調は滑らかだった。

 明石は宗一郎をある男子生徒と重ねていた。中学二年から二年間担任を持ち、苗字が「百瀬」だったから、クラスメイトから「モモ」と呼ばれていた。いつも真面目に教師の話を聞き、成績は優秀だった。クラスの行事があれば、周りの空気を読むかのように挙手をし、クラスのまとめ役を引き受けていた。部活動はハンドボール部で毎日練習に励み、顧問の先生もそんな彼に目をかけて厳しく指導していた。その姿をよく職員室の窓越しから見ていた。

 そんなモモに明石は褒めの言葉を送った。

「いつも頑張っているね。継続すれば、すごいものが見えてくる。それは努力をした人にしか分からないことだよ」

 教師として伝えたかった言葉は、これだった。辛抱して努力を続けて何かを成し遂げる。その言葉を伝える機会をくれたモモには、感謝している。

 モモが中学を卒業してから七年後。

 大麻を所持していた疑いで逮捕されたと、昔の同僚教師から聞いた。

夜の街に足を踏み入れ、クラブで初めて点在する光を前にして新しい自分に出会った。周囲の厳しい目を伺うこともない。グランドから遠く離れた場所に、こんなにも自由で自分を表現できる場所があることを知った。入れ替わり立ち替わり、夜の街に慣れた男女と絡む。勉強と部活しかやってこなかった自分がとてつもなく変わった存在に映った。数人の友達もできて、テキーラの味も煙草の苦みにも慣れた。部活で厳しい顧問に叱咤されるよりは苦味はない。

 クラブに通い始めてしばらくして、友達が外国人から大麻を購入した。仲間意識でモモも同じく手にしてしまった。

 数週間後、防犯警戒でパトロールをしていた警察官に遭遇すると、友達が逃げるような素振りを見せた。不審に思った警察官が職務質問された。

「これ何?」

「知らないっす」

 トイレを我慢しているように、友達が身を震わしている。

「知らないって、自分で持ってたんでしょ?」

「知らないっす」

「もう分かってんだよ。何年やってると思ってんだよ」

 大麻の匂いを嗅ぎ取られて友達は現行犯逮捕され、同じく身体検査を受けたモモの私物からも大麻が発見された。

 一途に努力ができる生徒だった。しかし息抜きの仕方を知らずに成長してしまった。明石が残した言葉も影響している。そう思った。いくら真面目な学生時代を過ごしていたとしても、道を踏み外すことだってある。人生は何が起こるか分からない。初めて宗一郎のプロフィールを見た時、どこか面影があって懐かしかった。モモと接するような気持ちで言葉を交わしている。責任を感じている。立ち直らせてあげたい。

 明石がそんな昔話に気を取られていると、名を呼ばれた。

「あっ? ごめん。何だった?」

「前に、晴香さんが突然、逃げるように立ち去ってしまって……もしかしたら、僕の過去のことが関係してるんじゃないかって……」

「なるほどね……でもそれは考えすぎじゃない」  

「……」

「何もしてないでしょ?」

「はい」

「それなら、気にしなくていいんじゃないか」

「はい……もしも次があるならなんですけど、あの子にどうやって話しかけたらいいか……」

 宗一郎の真剣な眼差しに、明石の心がほっこり温かくなる。

「本を読んでみたらどうですか?」

「お金ないです……」

「図書館で探してみたら?」

「ああ……」


 ウォーキングのついでに図書館の開館時間を待って扉を開いた。貸切状態で宗一郎も人目を気にせず本に触れ合うことができる。

 年季が入っていて古本の独特な匂いを吸い込みながら宗一郎を先頭に歩いていく。時に立ち止まり、本の表裏を眺めて晴香を勇気づける本を探す。

 明石はいくつかの本を手に取った。かつて教え子に薦めた戦争に関する書籍。そして有名な小説家の恋愛関係のもつれを赤裸々に描いた小説。授業で取り扱った内容だったから、話は知っているが台詞を読んだ。おそらく、宗一郎も学生の時に読んだことがあるだろうと思って聞いてみたかったが、邪魔になると思って本を元に戻した。

 ひとつずつ見ていたら、いくら時間があっても足らない。そんな気がして宗一郎は気持ちが重たくなってきた。足が止まり途方に暮れていると、明石が本を一冊持ってきた。

「伏屋さん、こういうのはどう?」

 有名人が残した言葉を集めた名言集のようなもので、分野別に紹介されている。『人生』、『仕事』、『恋愛』、『スポーツ』、『芸術』などの項目があり、もしかしたら宗一郎の求めているものが含まれているかもしれない。表紙を見てみると、HGS教科書体で『次はあなたに伝えたい』と横文字で目に入ってきた。開いてページをめくる。右側に伝えたい言葉。左側には簡単な解説がついていて読むには時間を要しない。一時間もあれば読み終えてしまいそうな文量だった。

 『仕事』の項目には、『成功するかしないかは、自分を信じて実行できるかどうかだ』という言葉が太字で書いてあった。

『人生』には、『人目を気にしては何もできない。自分らしく生きると、きっと楽になれる』

「向こうにテーブルがあるからゆっくり読んでみたらどう? 晴香ちゃんにかけてあげられる言葉がありそうじゃないですか?」

「……そうですね」

 宗一郎がチラッと明石の腕時計を見た。文量はなくとも、時間がかかりそうで申し訳なくて言葉が続かなくなった。

「何か、気になることある?」

「ああ、いえ……」

「もし、私のことを気にしているなら、それは大丈夫だよ。私は本が好きだから、図書館や書店は宝物で溢れてる。何なら閉館までいてもいい」

 教師の面影を残して言う明石に、宗一郎の心配は取り除かれた。

「ありがとうございます……」

 明石は宗一郎に本を渡した。

 両手に抱えるように持って、宗一郎はテーブル席に腰を下ろした。

 その姿を見届けてから、明石はまた本の海へ駆け出した。候補はあの本だけじゃない。宗一郎からの言葉なき宿題を出されているようで、生徒になったつもりで本を探し続けようと思った。


 宗一郎は本を眺めながら、あの時の晴香を思い出していた。

 人の流れが速すぎてうまく入って行けない。クラスに馴染めずにいる中学生のようにタイミングを見計らっては逃し、その場に佇むしかなかった。絶え間なく噴いて湧き出る汗。まるで降りしきる雨にワイパーが追い付かない。そしてバッグをしっかり握りしめる手。執拗に何かにしがみつく。開かない目。今ある現実から視線を逸らすかのように体を震わせた。

 宗一郎も晴香と二人っきりで会うという事実に翻弄されて流れる汗を拭っていた。たまたま晴香の姿を捉えたからよかったものの、もし気付かなければ会うことさえできなかったかもしれない。晴香がいると分かり、そばに行くまでの時間は数十秒。まるで鏡に映る自分を見るようで、自分の傷を手当てするように晴香に声をかけた。

 対人関係で過去に何かがあったのかと、宗一郎は想像してみる。年齢を重ねてもなお、目を背けていたかった事実が飛び込んでくる。それに立ち向かい、乗り越えようとしていたのかもしれない。

 もし宗一郎が晴香なら、どう声をかけられたら嬉しいか考えてみた。似た者同士のように見えるから、想像力を最大限に活用しなくても、言葉は見つかるような気がしてきた。やっとページをめくり始めた。しかしまた止まった。

 似た者同士じゃない。前科がある。女性を乱暴して逮捕された。かけられる言葉なんてなかった。上から目線になっていたことに気付いて自己嫌悪になった。

「伏屋さん」

 俯く視線を動かすと、明石のジャケットが見えた。本の海をひと泳ぎしてきて、満足感の表情を浮かべている。

「何かいい言葉あった?」

「……」

「たくさん言葉があるから選ぶの難しいよね。よく分かるよ」

「あの……今さらですけど……」

「うん」

 明石が向かい側の席に座って、宗一郎の言葉を迎え入れる態勢に入った。

「ないです……」

「ない?」

「かける言葉なんて……ありません」

「……あの子を少しでも楽にしてあげられる言葉を探しているんだし、深く気にすることはないと思いますよ」

 宗一郎はじっと明石を見つめている。何かを求めるようだった。もう一押しあれば、立ちはだかる壁は少しずつヒビを作って壊れ始めるのか。ここは間をおいてはいけないと思った明石は、

「ただ晴香ちゃんのことを考えて、言葉を選べばいいと思うんだけど……今は、過去のことは気にせずにさ」

 何も言わず明石の言葉を受け取った。消化するには時間を要するみたいだ。本の海を泳がせてくれた宗一郎に、感謝の意味も込めてここはじっと待とうと思った。

「伏屋さんにしかかけられない言葉があるかもしれない」

「僕にしか……」

 腑に落ちたのか、言葉を一部、繰り返した。

明石は深く何も言わずに頷いた。

 心にひっかかっていたものが解けて落ちたのか、宗一郎の表情に晴れ間が見え始めた。無言のまま視線を本に移した。

 明石は再び立ち上がって宗一郎から距離を置いた。閉館まで時間は十分にある。だからまた本と戯れることができる。


 宗一郎と二人で会ってから、約二週間が経過した。

 突然、逃げ出すように帰ってしまったことを気にしていたが、晴香から連絡することができずにいた。どう説明したらいいか分からない。適当に理由をつけるにも、誠実さに欠けるような気がした。

 晴香のスマホが揺れる。ラインの通知だった。反射的に食い入るように見た。

 『もう少し、話ができませんか』

 すぐさま美佳に連絡を入れると、すぐに返事が来た。

「……晴香は会いたいの?」

「……会いたいけど、また前みたいなことになったら嫌だなって……」

「そっか……」

 晴香との間に変な沈黙はおきたくなかったが、美佳は口を紡いだ。しばらくして「晴香の好きにしてみたら」と付け加えた。過度に背中を押すことはせず、無難なところで留めておいた。

「……」

 美佳の物言いが冷たく感じて言葉を失った。

「とりあえず、深く考えないで、会いたいなって思ったら会えばいいんじゃない」

「うん……」

 その後、晴香の返事を待たずに、宗一郎から連絡が来た。

 『オンラインで話しませんか』、という提案だった。それならアパートに居ながらできる。心理的な負担が大幅に減った晴香はすぐに承諾した。異性と二人で外出するということに固執していた自分がいたことに気付いた。美佳と当たり前のようにやっていたオンラインは片隅に追いやられていた。


 晴香は身なりを整えて、パソコンの前に座った。外出する時のように全身ではなく、今回はブラウスとジャケットだけ着こんでいた。それだけでも、精神的な負担は軽減されて心はあるべき場所にあった。お茶をパソコンのそばに置いて足を崩す。刻々と近づいてくる時間に少し胸の鼓動を叩きながらも画面越しの対面を心待ちにした。

 宗一郎はどこか身が引き締まる思いで、数少ない服から選りすぐった。周囲の目がないから精神的負担は少ない。性犯罪者のレッテルを気にすることもない。帰宅時のことも気にしなくていい。ネット上に溢れる不必要な情報だけシャットダウンした状態でいれば、特に問題はないだろう。

 晴香を元気づける言葉は、結局見つかることはなかった。あれから明石が数冊持って来てくれたが、拾い上げることはできなかった。

 目的を達成することができなかった宗一郎に明石はこう言った。

「晴香ちゃんの様子を見て、その時に必要な言葉をかけてあげればいいと思うよ。私も用意しても使う機会がなかったこと、よくあったから」

「えっ」

 宗一郎が不満気な表情を見せた。無駄足だと思っていると思った明石はこう続けた。

「伏屋さんの、晴香ちゃんのことを真剣に考える姿が素晴らしくてね」

 『真剣』という言葉を強調して言った。

「だから、余計な邪魔をしたくなかったんだ。言葉を探す前にないって決めつけるのも、よくないって思ってね。申し訳ない」

 だから、パソコンのそばには書籍はない。

 約束の時間になった。あらかじめ宗一郎が招待状のリンクを送っておいた。そこに晴香が入ってくれば話す態勢は整う。数秒で待機室に入ってきて即座にクリックした。

 あの時とは違う柔らかい笑顔の晴香がいた。それにつられるかのように宗一郎も頭を下げて挨拶し、少しだけ笑顔を見せた。

「あの……体調……大丈夫ですか?」

 晴香の表情を見た上で、選んだ言葉だった。考えなくても、体調を気遣ってあげればよかった。考えすぎていた。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 晴香の言葉に嘘は見当たらない。

「あの、時間を作ってくれて、ありがとうございます」

「こちらこそ……あの、前は、突然帰ってごめんなさい」

「あ、いえ……」

 晴香からその話題を出してくると思わなくて、宗一郎は面食らった。

「あ、いえ……僕もよくあります。あの、ああいうことが……」

「突然、帰っちゃうことですか」

「……はい」

 決して晴香に合わせて言っているつもりはなかった。

 美佳を含めた三人で会った時に、滝のように流れる汗を拭って、目の前のことで精一杯だったことを話した。真剣に耳を傾ける晴香の視線が時折怖かったが、気にせず話し続けた。

「みんな同じです。だから気にすることなんてないです」

 本に載っていた台詞。宗一郎は迷わず借用したが、棒読みで演技が下手な舞台役者のような気分だった。

「伏屋さん、優しいですね」

 晴香の光る視線が宗一郎を照らす。『優しい』という言葉がかけ離れすぎていて、どういう反応をしたらいいか分からなかった。しかし素直に嬉しかった。否定するのも気が引けた宗一郎はただ頭を下げておいた。

「オンラインだから、気持ちも楽で」

 晴香の素直な気持ちが溢れ出る。

「実は、僕も……」

「それなら同じですね……」

「はい……みんな同じです」

 お互いの気持ちを理解し合うだけで、その後の言葉が続かなかった。

 静けさを嫌うように、画面から少しだけ物音がした。

「誰かいるんですか……」

 監視されているかもしれない。そう思った瞬間に肩身が狭くなった。

「お兄ちゃんです……あの、バーベキューに出かけた時に会った男の人、覚えてますか?」

「はい……」

「一緒に住んでるんです。言わなかったですか?」

 前科を知られた時の妄想が邪魔して聞いていなかった。落ち着いて話すことができたのは、焼きそばを食べたころぐらいからだ。

「……ああ、すいません……僕も緊張していて」

「いいですよ……休職中だから、居候してるんです」

「ああ、そうなんですね」

「でも気にしないで下さい。別に私たちの会話を聞いているわけではないので」

「はい」

 事情が分かって、宗一郎はホッと息をついた。

 晴香は達司との同居を皮切りに、美佳が一番の友達であること、褒めてくれた料理は今でも磨きをかけていること。どんどん言葉を滑り落とした。精神的な負担がなければここまでできるんだと、ほんの少しだけ自信をのぞかせた。

 口数がいつもに増して多くなったから、冷蔵庫に駆け寄ってグラスにお茶を注ぐ。その時に夢中で喋りすぎてしまったことに気が付いた。

「明石さんは宗一郎さんの、先生だったんですよね?」

「はい……」

 口裏を合わせるように「教え子」という立場を貫いた。

「あの、料理の腕はどう上げたんですか?」

 宗一郎が明石の話題を押しのけてそう聞いた。

「母が料理好きなので、よく一緒に作っていたんです……」

 両親にはしばらく連絡していない。もしも言葉を交わせば、声を震わせしまいそうでできなかった。代わりに達司から連絡してもらっている。

「じゃあ、数をこなして腕が磨かれたんですね」

「……」

「あの、聞こえますか?」

「……」

「あの」

「あ、はい」

 前職で後押しをしてくれた両親の激励と笑顔を思い出していた。

「僕の言ったことで……合ってますか?」

「あ、そう、そんな感じです……」

 故意に時計の針を動かすように、あっという間に時間は過ぎていき、通話時間は二時間を超えていた。

「もうそろそろ、終わりにしましょうか」

 晴香がそう言った。長時間話したことでどっと疲れが出てきた。

「あ、はい」

「今日はありがとうございました……楽しかったです」

 晴香に疲れが見て取れるが、宗一郎に疲労感はなかった。幸福感だった。甘い蜜を吸い続けるように浸っていたかったが、ひとつの感情が顔を出した。

 このままでいいのか。

 仮釈放中の身で幸福感と戯れること。

 晴香を助けたとはいえ、再犯に手を染めようとしたことは事実だった。お礼と称してバーベキューでは勇気ある人間として扱われ、負担の少ない晴香とのオンライントーク。

「あの」

「……」

「伏屋さん」

 我に返った宗一郎は目を丸くしながら晴香を見た。

「どうかしましたか?」

「いえ。楽しかったです」

「また、こうやってお話しできますか?」

 勢いそのままに晴香がそう提案した。

「しばらく……忙しいですか?」

 終始無言だった宗一郎が怖くて晴香が先回りした。

「いや……僕でよければ」

 この幸福がまたやってくる。思わず手を伸ばして掴んだ。

「いつ空いてますか? 私はいつでも空いてます」

 無職であることを自虐することなく、晴香は笑顔だった。

「いつでも」

 この笑顔が見られるなら、いつでも大丈夫だった。明日でも、明後日でも、明々後日でも。

 

 通話画面を閉じると、晴香はベッドに倒れ込んだ。

 眠るときのいつもの景色が、今だけは変わった景色に見えた。

 スマホが揺れても動かない。送信者は誰か分かっている。美佳だろう。

 向き合って異性と二人で会話を交わすことができた。画面越しではあったが、長く時間を過ごせたことは収穫にしたい。

 どうしてできたか考えてみた。真っ黒のパソコン画面からは手が伸びてくることはない。相手は何もできないのだ。それが安心感に繋がっていたんだ。

 やっぱり、幸せになりたい。

 もう晴香から近づいていけないと思っていた感情だった。他の人とは違うから。

 宗一郎との会話はそれを払拭するために一役買ってくれていた。この気持ちを抱くことができたが、それを受け止めてくれる人はどのくらいいるだろうか。本当の意味で幸福を手にするには、越えなければならない壁がある。困難でも晴香はわがままを貫き通したかった。

 それを叶えてくれるのは、宗一郎なのだろうか。いや、まだ分からない。まだ知り合ったばかりだ。


 次の会合までに時間など要らない。

 宗一郎と晴香は先週の再現をするかのように、またオンライン上で向かい合った。

 置いた期間は一週間。だから特に話すことなんてなかったが、晴香はそれでも良かった。前向きな気持ちを保ち続けることができるのならば。

「私、ひとつやってみたいことがあって……」

 長年温めてきたものを取り出すように、晴香は恥ずかしそうに言った。

「何ですか?」

 宗一郎は後れを取ることなくすぐに返した。

「飲食関係なんですけど……」

「そうなんですね……例えば……」

「お店をやりたいなって……」

 晴香から話題を出した割には小声で躊躇いがあった。

「すごい。できるんじゃないですか。料理上手だし」

「いえ……お金もないし、小さい世界でみんなが美味しいって言ってくれるだけなんで……」

「きっとできると思います」

 バーベキューの焼きそばを思い出して断言した。

「そうですかね……」

「やりたいっていう意欲があれば、大丈夫ですよ」

「はい」

 儚い夢でも受け入れてくれたことが嬉しかった。

「そうやって、本に書いてありました……だから大丈夫だと思います」

 それに気をよくした晴香は、口籠っていたのが嘘のように話し始めた。

「考えてるのは、店舗とかではなくて移動ができるキッチンカーが理想なんです。メニューは短時間でさっと食べることができて、たんぱく質や野菜がたくさん摂れる料理で」

「どうしてキッチンカーなんですか?」

「それは……」

「言える範囲でいいですけど……」

「ひとつの場所に居座るより、色々な場所に出向いてたくさんの人に食べてほしいなって」

 前職で保険の営業をしていた時、無理な予定を立ててお昼を取れないことがよくあった。それがこの小さな夢の入り口だった。

「特に、仕事を頑張っている女性をサポートできたらなって……もちろん、男性でもいいですし、午後の授業を頑張りたい学生でも、毎日献立を考えるのが面倒になっている主婦の人でも」

「キッチンカーの居場所は、どう伝えるんですか?」

「インスタとかでやれるかなって」

 宗一郎は目の前に置いていたメモに晴香の構想を想像しやすいようにペンを走らせた。大まかな概要で具体的なメニューの構想やお金の部分は空白で、まだまだはめるピースはたくさんある。手助けができるか考えてみたが、何もなかった。

「実現したら教えてください。絶対行きますから」

「真っ先に教えますね」

 晴香の屈託のない笑顔が光る。それが宗一郎を優しい気持ちにさせた。

「伏屋さんは、何か夢とかありますか?」

「ああ……特には……」

 まずは再犯を防ぐことが最優先事項だった。被害者への賠償もこれからだ。夢を語る余裕なんてない。

「また何かできたら、こっそり教えてくださいね」

 正直、そんなものは要らない。ただ普通に人として生きていければ。普通ということが何よりかけがえのないものか、宗一郎はよく知っている。


 明石が次のページをめくった。

 行きつけの喫茶店でひと休みしながら、図書館で見つけた本に目を通す。落ち着いた雰囲気で本と戯れる。誰にも邪魔されたくない時間だった。目の前では妻が週刊誌の下世話ネタに釘付けになっている。

 今朝、宗一郎から連絡が来た。晴香とオンラインではなく直接会うらしい。行先は鎌倉だった。必ず暗くなる前に帰宅することを約束して、再犯の防止への意欲も示してくれた。徐々に晴香と仲を深めていく宗一郎に戸惑いを感じながらも、今は見守るつもりでいる。

 明石は晴香に心強さを感じている。自ら命を絶とうとしたからには、過去に大きな傷を背負ったのだろう。それを乗り越えようと必死に生きる姿は涙を誘う。そういう子が宗一郎の近くにいることはプラスだ。晴香との交流の中で、いくつも気付きがあることを信じたい。

 外の様子を眺めた。明石の視界に見慣れた服装の男性が近づいてくる。宗一郎だった。その隣には晴香がいた。緊張感はまだまだ二人の間に跨って残っているが、前向きな感じが見て取れる。緊張の糸をお互いに緩めながら支え合って歩いているような感じだ。お互いの弱いところを知って、それを補う。「助け合う」とはこのことだ。

 明石は再び本に視線を向けた。時折二人の姿を目で追っていくと、駅の構内へと消えていった。今は晴香という集中すべき女性がいるから、再犯は心配ないだろう。しかしそう油断した時が一番怖い。それで痛い目に遭ってきた教師生活を思い出して、突然立ち上がった。

「トイレ?」

 噂話の虜になっていた妻も、明石の行動に気を散らした。

「ああ」

 そう言い残して駅のホームに向かった。

 宗一郎の言う通り、二人は鎌倉方面行きのホームへ降りて行った。


 金運をまとった体で歩く帰り道。

 鎌倉に到着すると、銭洗弁財天と呼ばれる神社へ向かった。晴香が軽い冗談でお金を呼び込んでくれる神社を検索したら、ここが出てきた。宗一郎も乗り気で早速行く運びとなった。

「一緒に来てくれてありがとうございました」

 晴香が幸福を噛みしめるように言った。

「いえ。晴香さんが言わなかったら、来ることはなかったので……」

「ここまで来て、こんなこと言うのも……どうかと思うんですけど……」

「……何ですか?」

 宗一郎の表情が硬くなる。その先の言葉は何だ。ただ不安に駆られた。

「別に……叶わなくていいんです」

 寂しそうにつぶやく晴香がいた。

 宗一郎の不安は瞬時に消え去った。行く前の高ぶる気持ちは金運と引き換えにしてしまったみたいだった。

「ど、どうして……ですか?」

「普通に生きられればいい。もう欲がだんだんなくなっていったのか、多くは望まないから、普通に毎日を過ごせればいいなって……」

「普通って……どういう意味ですか?」

「……」

 晴香は考え込んだ。

「それは……よく分からないです……」

 宗一郎は答えが得られず落胆した。そうは言っても、答えを急かされる筋合いなんてない。だから何も言わず消極的な晴香を見つめた。

 ここでかけてあげられる言葉はあるだろうか。宗一郎は思考を巡らせる。

 かばんに入っている本のページを脳裏でめくっていく。手を差し出せば手に取ることができるが、目の前で露骨に開きたくなかった。

「疲れてるんじゃないですか?」

 明石になったつもりで声をかけてみた。立場の違いが宗一郎を窮屈にさせた。

 晴香は何も言わずに固まっている。宗一郎の意図を掴もうとしていた。

「今は頑張りすぎていて、なんていうか、今は考えられないだけで。晴香さんの夢、叶えてほしいです……僕には……」

 夢を叶える土俵にない。でも晴香には腕があって、一歩踏み出せばそのステージに乗ることができる。こう続けたかった。

「もう少し休んでから考えたらいいと思います。だから、そんなこと言わないでください」

「じゃあ、諦めないでおきます」

「はい……」

「ありがとうございます」


 鎌倉駅付近に戻ってくると、昼食の場所を求めて歩く。

 昨夜、晴香は前に使用していたスマホを取り出してスクロールしていくと、果てしなく縦に続く写真が高層ビルのように続いた。その中に以前鎌倉を訪れた時に撮影したものがあった。お店の外観写真。しらす丼の写真。店内から撮影した海が広がる風景。海面に太陽の光が注がれていて目を細めてしまう。本当はもっと写真があった。それを頬張る元カレの写真たちだった。二人で訪れた老舗の小さなレストラン。今でも変わらず存在しているかを確かめたくて、近いようで遠い記憶を頼りに足を動かした。インターネットには閉店の情報はなかった。

 元カレの名は葉山亮。晴香の二歳年上で口数は多くないが、いざという時に頼りになる存在だった。仕事は大学院を出て就職した機械メーカーのエンジニア。海外出張で東南アジア諸国に出向くこともあり、英語を勉強しながら多忙な日々を過ごしていた。

 晴香が大学二年生の時に、当時大学四年生だった亮と教育学部のクラスメイトを通じて知り合った。数人が集まる飲み会で晴香と顔を合わせていた亮は、いつしか好意を抱くようになり、晴香の就職活動、亮の大学院の試験前に気持ちを打ち明けた。特に好きという感情はなかった晴香だったが、亮の熱意に押し切られる形で交際を承諾した。慣れてきて冗談が言えるようになり、ラインで亮の名前にかけて「亮君、りょ」と送るのが好きでやっていた。

 その一方で、嫉妬深かった亮は晴香に異性との関係を断ち切るように迫った。特に二人で会う異性の友達はいなかったから、文句を言うこともなく従っていた。晴香の就職が決まった時も異性の顧客と接触することを気にしていた。「仕事になったらお客さんと恋愛なんて考えられないよ」と言ったが、どこか納得していない様子だった。

 亮も束縛するからには晴香の希望を叶えて日々を色付けしようと頑張っていた。目元を崩して喜びを表現する晴香を見て、この上ない幸せを感じていた。

「晴香の笑顔はまさに元気の源」

 この言葉は今でも晴香の鍵のかかった心の引き出しにしまってある。でもどんなことがあっても鍵は開けない。開けることができない。

 晴香が仕事で結果が出るようになり、しばらくしてから白くて淡いテープが見えるようになった。それは晴香にしか見えないある日付を境に引かれた鮮明なテープだった。

 あの出来事との前後。

 後の晴香が前の晴香を見つめる。後の晴香には目もくれず、確かに笑っていた。何か嬉しいことがあったんだ。幸せだったんだ。亮のおかげだった。そんな日常に不満を漏らすこともあった。わがままだった。幸せを幸せで塗り替えようとして困らせたこともあった。それでも晴香についてきてくれる亮がいた。このままじゃいけないと思って感謝の気持ちを伝えた。亮は「自分がやりたくてやってるんだ」と、そう言って笑っていた。嫉妬心の塊でも、目と目を合わせて言ってくれなくても、可愛げのある亮をずっと見つめていたかった。

 あのテープが引かれなければどうなっていたか。

 おそらく、晴香の隣には亮がいて、愛情に浸り、毎日を過ごしていたんだろう。嫉妬深さに辟易としたとしても、亮しかいないと思ったに違いない。

 亮がいた過去から今に視線を向けると、宗一郎は遅れを取ることなくついてきていた。

 しばらくして、当時の記憶をなぞるように見たことのある景色。

 ここだ。変わらず存在していた。晴香の目でしっかりと確かめた。ゆっくりと入り口から店内を覗き込む。確か座ったのは奥のつきあたりにあるテーブル席だった。今日も多くの観光客が列を作ってお腹の虫を鳴らしている。

「ここ、ですか?」

「ああ……いえ……」

「並びますか?」

「結構待ちますね……ほか、行きましょう。お腹空きました」

 ここで食事をしては、寂しさが盛り返すだけだ。

 忘れるために消去した亮の写真。

 一体、自分は何がしたいのか、晴香は分からなかった。

 何も言わずスタスタと次の場所を求めて、晴香は歩き出した。


 昼食を食べた後。

 新しく見つけたレストランも混雑していて待ちくたびれた。そんな疲れを癒そうと晴香は宗一郎を引き連れて、海と隣り合わせにある海辺に座った。

 晴香はふくらはぎや足首の痛みをほぐした。しばらくして体育座りをして膝小僧を枕に寝息を立てている。ちょっとした遠出でも容易に疲れてしまう。

 距離を置いて座る宗一郎は晴香を見つめた。そのままにしてあげたかったが、だんだん焦りを感じ始めていた。

 もうそろそろこの地を離れたい。

 どのくらいここで眠るのか分からない。

 そっと晴香に触れて「そろそろ行きましょう」と伝えればいいだけだ。しかしそれができなかった。晴香が油断していることをいいことに、手を出してしまうかもしれない。その見えない数時間後の未来に踊らされて、心地よいそよ風の音色も砂浜に打ち上げるさざなみも楽しむことができなかった。

 ここから帰るには一時間もあれば着くだろうが、なぜか時間はいくらあっても足りない気がしてくる。額に汗が滲んできた。どうしたらいいか分からなくて立ち上がった。

 癒しを与えてくれる場所の片隅で、騒然とした空気を感じたのか、晴香はスッと目を開けた。ガタガタと足を震わせる宗一郎を捉えた。

「どうかしましたか」

 不安と焦りに首根っこを掴まれた状態では、問いかけられても聞こえていない。

「宗一郎さん」

 名を呼んでも反応がなくて晴香も不安になってくる。胸の鼓動を打ちつけながら立ち上がって、宗一郎の左腕に手を回した。

 時が止まったかのように、宗一郎の振動は鎮圧された。

「ど、どうしたんですか」

「ああ……」

「汗がすごいです……」

 この涼しげな場所で大量の汗。衣服にも到達してきていた。まるでさざなみに襲われたみたいだ。

「もうそろそろ行きますか?」

 晴香がそう言った。

 求めていたことはそれだった。もう帰りたい。暗がりになる前に。


 夕方の四時ごろ。

 晴香のアパート近くまで来ていたから、宗一郎の不安は徐々に取り除かれていた。それでもオレンジ色に染まる夕空は雲に邪魔されていて夜は着々と足音が聞こえる場所にはきていた。

 アパートの灯りがついている。達司が中にいる。確認するために晴香は連絡を入れた。すぐに既読になって、おかえりというスタンプが返ってきた。胸を撫で下ろした。

「今日は、付き合ってくれてありがとうございました」

 宗一郎は安堵の表情で微笑んだ。

「ちょっと、待っててください」

 晴香はそう言ってアパートの階段を駆け上がる。部屋の人間が達司だと分かった今、足取りは軽い。カタカタと響く音に招かれるように達司がドアを開けた。ただいまを言う暇もなく晴香は冷蔵庫に手をかけた。昨夜作った鶏肉の甘辛炒めが入ったタッパを抱えて再び出て行った。

「これ、どうぞ」

 宗一郎の指先に重みがかかる。香ばしい匂いが食欲を駆り立てる。

「よかったら食べてください」

「ありがとう……」

「苦手なもの……入ってましたか?」

「いや、あの、嬉しくて。いただきます」

「じゃあ、失礼します」

「はい」

 晴香は足早にアパートへと消えていった。

 それを確認した達司は、静かに外に出てドアを閉めた。スエットに身にまとってゆとりがあるが表情は真剣だった。下に降りていくと、宗一郎は幸せを噛みしめるようにタッパに入った鶏肉の甘辛炒めを目に焼き付けていた。

「あの……」

 宗一郎がタッパから視線を外すと、目を皿にして達司を見た。

 特にやましいことはしていない、と宗一郎は自分を振り返った。晴香が何か言ったのかと思って目を泳がせた。まさかネットニュースで伏屋宗一郎の記事を見つけたのか。過去を突き止めた達司が近づいてくるようで後退りした。

「鎌倉に連れてってくれたんですよね?」

「えっ」

 素っ頓狂な声だけが響いた。揺れ動いた目を正して達司を見ると、鋭利な視線ではなかった。

「……はい」

「ありがとうございました。楽しかったみたいで」

 次は姿勢を正す。今は目も座っているから正常な宗一郎だ。

「いえ……これで失礼します」

 逃げ出すつもりはなかった。でも再犯のことを盾にしてその場を去ろうとした。

「あの」

 達司が呼び止めた。

 背後の様子は分からないが、さっきよりも近くにいることは分かった。この距離感が恐ろしくて体を震わせる。お礼を言っていたがどこまで信頼できるものか。過去のネットニュースに目を奪われ衝撃を受ける達司を想像した。一人の人間として犯罪を憎む。妹がいて彼女がいる達司はその気持ちを増幅させる。

 振り返ることは決してできない。

 他に何の用があるんだ。

 暗くなる前にアパートに帰らせてほしい。ただその一心だった。

「晴香のこと、どう思ってますか?」

 宗一郎の背中にぶつけた達司の問い。

 それはどういう意味なのか。「異性として意識しているかどうか」という意味か。まだ会って間もない。今日初めて晴香と二人で出かけたばかりだ。そんなことを問われても分からない。とにかく早く帰らせてほしい。それでも何も答えず去ることはできなかった。

「あの、仲良く……あの、させて、頂いています……」

 口もとを震わせながらも、無事に言葉にできた。これを言うだけでレモンを力いっぱい絞られるかのように身は小さくなった。

「……交際とか、考えているんですか?」

 そんなこと聞かれても分からない。しかし、晴香が宗一郎の人生に彩りを与えてくれているのは事実だった。

「こんなことを言うのは、失礼ですけど……」

 宗一郎の表情に陰りが始めた。もしそう思うなら言わないでほしい。

 時に途方もない不安に邪魔されながらも、楽しかった鎌倉の余韻をすべて破壊されてしまう。そして警察官から追及されるように浴びせられる問いかけ。それがいくつもの火柱をあげて鼓動を打ちつける。内外からたたき上げられる。嘔吐してしまいそうだ。

「晴香とこれからを考えているなら、一筋縄ではいかない……もしも一時的な関係なのであれば、手を引いてもらった方がいいと思って……」

 宗一郎のことを配慮しての発言だと思ったが、その言葉の意図に何か気になる。それはどういう意味で言っているのか。敢えて考えさせるなんて手段は止めて欲しい。全てを疑ってかかる宗一郎に、どんな言い方をしても悪い方にしか靡かない。

「苦労をかけるかもしれない……」

「苦労……ですか」

「はい……」

「ど、どういう意味ですか?」

 今になって冷静になれた宗一郎は達司を直視した。

「覚悟がいる……ということです」

「……」

「……遊びではありません」

 深々と達司は頭を下げた。どこか宗一郎に凛々しさを感じた。

「し、しつれいします」

 宗一郎は走った。夜が足元を染め始めている。

 

 宗一郎の作業服。しばらく洗濯していなかったから臭っている。それを洗濯機に放り込んでシャワーを浴びる。

 また晴香と出かける。インスタで見つけた海鮮居酒屋に行ってみたいと提案されたが、行くとなると夜になってしまう。断るという方向でラインを送った。

 しかし晴香から、「一時間だけでもいいから会いませんか。夜が難しいなら、開店と同時に行って、すぐに帰ってくるのはどうですか?」という返信だった。

 行かないと決めた宗一郎の心を揺さぶる。

 晴香がターゲットに選ばれた夜以降、宗一郎は再犯への衝動に駆られることなく何とか過ごしてきている。しかしそれは運が良かっただけなのかもしれない。いつどの拍子で再犯へ動き出すか分からない。ストレスにまみれて断続的に背中を爪で押し出される感覚は今も覚えている。

 頼りなく、「絶対に行けない」と呟いた。

 ラインで「オンラインで話すのはどうか」と送った。

 すぐに既読になると、しばらく音沙汰がなくなった。

 宗一郎の指先が凍えるように左右に揺れている。この返事を待つ時間が嫌だった。早く断って楽になりたい。

「できれば……直接、会って話したいんですけど……」

 食い下がる晴香に宗一郎は困惑して途方に暮れた。

 どうしても会わないといけない理由。それは何なのか。

 もしかして、過去の情報を得たのか。

 もしそうなら、直接会いたいとせがむことはないだろう。梨(なし)の礫(つぶて)になるはずだ。

 手に負えず、宗一郎はやむなく明石に連絡を入れた。

 案の定、「夜の外出は控えた方がいい」という答えだった。宗一郎の置かれている境遇を考えれば、みんな口を揃えてそう言うだろう。再犯を犯そうとしたことを知っている明石ならなおさらだ。

「今日はダメなんです。すいません」

 捨て台詞を吐くように送信を押してスマホの電源を落とした。


 闇に染まった街を作り上げた夜は去り、カーテン越しに光が見え始めた。宗一郎は現実から背を向けるように必死に目を閉じて眠っていた。寝ぼけまなこで時刻を見ると午前五時過ぎ。今日は出勤日ではないため早起きをすることはない。

 せっかくの晴香の誘いを一方的に断ってしまった。

 死んだように動かないスマホに電源を入れた。晴香に詫びを入れたい気持ちが強まる。

 こんな早い時間に連絡を入れてもすぐには返ってこないだろうが、居ても立っても居られず起動したてのラインに文面を打って送信を押した。既読にならないトーク画面を視線に釘を打ちつけたかのように凝視している。

 既読になった。以前に達司の朝ごはんを作っているから早起きしていると、話していたことを思い出した。

 朝ごはんの支度の合間に打った文章が返ってきた。

「おはようございます。気にしないでください。また日を改めて」

 宗一郎もすぐに返信した。

「本当にすいませんでした……」

「夜はお出かけしないんですか?」

 宗一郎はぎくりとした。晴香は会話のやり取りから生まれた素朴な疑問だろう。気にすることはないが、返事の仕方が分からずに指先が固まった。下手に答えて話を広げられても話の辻褄を合わせることで精一杯になる。

「それより、お話があるんですか?」

 無理やり話題を変えた。

 すぐに既読になった。疑問を押しのけられて嫌な気分になっていないか、宗一郎は不安になった。トーク画面を見ていられずスマホをうつ伏せにした。

 またすぐに返ってきた。

「はい。もしも夜が難しいなら、午後の時間帯でもいいので、話しませんか?」

 宗一郎はほっと息をふいた。特に何も質問されずに済んだ。

「はい。いつにしますか?」

「急なんですけど、今日はどうですか?」

「……いいですよ」


 駅の近くのカフェ。

 晴香は代わり映えしない日常を生き生きとした表情で話す。本題である「どうしても話したいこと」は、いったん脇に置いている。

 宗一郎は本題のことは気にせず、ひたすら耳を傾けた。まるで突然そばに近寄ってきて、一心不乱にまとまりなく話す我が子を相手する父親のような気分だ。何でもいいから今ある晴香のことを聞くことができればそれでよかった。

 いつもように宗一郎はしわの入った現金で支払いを済ませた。今更ながら、電子マネーやクレジットカードを使っていないことを不思議には思われていないだろうか。

 午後の時間を過ごしたカフェから出て駅付近を歩いた。

 二人はしばらく黙っていた。話題は『どうしても話したいこと』ことしか残されていない。

 宗一郎から聞くだけの勇気はない。もし万が一、前科に関することだったら取り返しがつかなくなる。もう会うことはできないだろう。体が次第にブルブルと震えてくる。

「伏屋さんは、付き合っている人はいるんですか?」

 晴香が唐突に言った。

「えっ」

 完全に震えは止まった。問いの意味を噛み砕く。晴香と恋愛の話をしてこなかったから顔を赤くした。

「いえ……晴香さんは……」

「いないです……いたら、こうして会ってないですよ」

 晴香の手が宗一郎の腕に触れる。微風に揺らされる体を支えるように優しく触れてきた。

「ど、どうか……しましたか?」

「……何もないですよ」

 宗一郎に何か行動を促しているのか、晴香はそのまま黙っていた。

かすかだが晴香の胸の鼓動が届いている。それに宗一郎の鼓動も重なり、呼吸の合わない音楽を聞かされているようだった。それを解消するように宗一郎は晴香の手を遠ざけて少しだけ距離を置いた。

だんだん晴香の伝えたい何かが見えてくる。もし宗一郎の予測が正しいなら、どう返事したらいいか分からない。つくづく自分に嫌気がさしている。保護観察に身を置いている者が、異性と交際することは禁じられていない。しかし安易に晴香の気持ちを受け止めていいのか。

 晴香は次に宗一郎の手に触れた。そして温めるように宗一郎は握り返した。しばらく沈黙が続く。でもそれは窮屈ではなかった。

「晴香さん……」

「……何ですか?」

「お付き合い……しますか?」

 晴香に根負けした。

「……」

 すぐに返事をしてくれない晴香に宗一郎は焦りを感じた。晴香と交際できる、と淡い期待をした末路だった。

「私……」

 息を飲んでその先の言葉を待った。

「私、面倒ですよ……それでも大丈夫ですか?」

 達司の「一筋縄ではいかない」と、晴香の「面倒ですよ」という言葉はイコールなのか。

「はい……」

「本当ですか? 伏屋さんに、迷惑かけるかもですよ……」

 晴香は自虐的に笑った。

「だ、だいじょうぶです」

 その瞬間、晴香は顔を上げた。不安気だった表情は消えてなくなり、少しの曇りもなく晴れやかだった。

「じゃあ、よろしくお願いします」

「はい」


 宗一郎は仕事に打ち込んでいた。

 晴香と交際が始まって、俄然やる気になっている。もしも将来があるのなら、ある程度のお金は用意しておきたい。性犯罪再犯防止プログラムに取り組み、再犯に手を染めなければ刑務所に戻ることもない。保護観察も終了になる。

 晴香も少しずつ社会復帰に向けて動いていた。ただアパートのという檻の中でじっとしていられなくなった。求人情報に目に通して働く姿を思い描く。以前は保険会社で営業していたから、同業者なら勝手が分かっていてやりやすいが、別の分野に出ていきたい気持ちが強かった。かつて宗一郎に話したお店を開くなら、飲食店で経験積むことも視野に入れてもいい。そこで経営のノウハウを身につけて、実現への扉を開くこともできるかもしれない。

 二人の交際に関して、美佳は晴香に抱き着いて喜びを表現した。あの寡黙な宗一郎が交際を申し込んだことに意外な表情を見せていたが、晴香が今を生きているのなら何でもよかった。

 達司は既成事実を前に何も言うことはなかった。うまくいけばアパートも出ていくだろう。またコンビニや外食に頼った生活が始まる。でも晴香が前を向いて歩けるなら、簡単なものを作れるようになって晴香を安心させた方がいい。そう思って、レシピで埋もれているアプリをダウンロードした。

 明石は体を仰け反って驚きを表していた。「冗談じゃないよね?」と念を押されたが、宗一郎はクスッと笑って、「本当です」と答えた。

「守る人がいると、人はどこまでも強くなれる」

 明石はそう力説した。

 中学生の教え子に伝えても分からない思っていたから、大人の教え子なら腑に落ちてもらえる。だから熱弁をふるった。その熱量を直に感じながら、宗一郎は黙って聞いていた。


 ある日の休日。

 いくつも立ち並ぶストリートにバイクの販売店があった。学生の時は好きだったが、今は魅力を感じない。生きていくだけで精一杯だったからだろうか。自分の現実と照らし合わせて縁がないモノだと思って目にくれている暇はないのだ。

 再び歩き始めた。目の前から近づいてくる人々の顔に視線は向けない。少しでも殻に閉じ籠っていれば再犯は防げる。それは何より晴香のためだった。周囲の人々から信頼が得られれば何とかなる。真面目にやれば堤から仕事も得られる。何より未来を追いかけることができる。晴香と一緒に。

 そんな思いにふけていると、シルバーの指輪が展示されているお店の前で立ち止まった。マシュマロのような真っ白な丘に佇む銀のリング。自ずと引き寄せられた。今までなら、決して縁のなかった代物だ。金額を目にすると、遠い現実のものであることは確かだった。それでもこれを見つめられることの喜びを感じている。

 するとお店の扉が開いた。宗一郎は体をピクリとさせてしまった。パンツスーツで清潔感のある女性店員が近づいてきた。

「何かお探しですか?」

 顧客獲得のための笑顔でも素敵なものだった。しかし宗一郎は顔を確認する暇はなかった。一時的に包まれた女性の香水に動揺し、目を合わせることなくストリートの続きを行った。


 晴香は宗一郎の昼食を作るようになった。コンビニに行くか、お金がなくて食べないことがあることを知って、達司の分と合わせて作って渡している。達司が稼いだお金だから、罪悪感もあるが、働き始めたら返していけばいい。そう思って気にせず作っている。

 ある時、宗一郎がスマホに保存してある昼食の写真を見せてくれた。多方面から撮影されていて、これだけで休憩時間が終わってしまうんではないかと思ったぐらいだ。もったいなくて食べられない時もあるが、「我慢比べに負けてしまう形でお箸を手に取る」と照れくさそうに話していた。勢いよく競うように食べている宗一郎の姿が思い浮かんで、晴香は自然と笑顔になった。

 おもしろいことに、昼食の容器を洗って返してくる。宗一郎が洗い物をしている姿が想像できなかった。最近では千円がお供えのように入っている。予算が分からないから、とりあえず千円を入れているらしい。

 会う場所はいつも一緒だった。何度も訪れたことがあるカフェで休息する。お互いに慣れた場所がいい。この共通認識が二人の関係を後押ししてくれる。

晴香の目の前にホットの紅茶がある。両手をカップで温めることができる。お気に入りのぬいぐるみを両手で優しく支えるように包みこんでいる。宗一郎はそれを眺めるのが好きだ。

 交際が始まって、晴香は思っていたよりも明るい子だということが分かった。動画投稿アプリの動画を見て顔を崩して笑う姿に驚かされると共に、もっとその姿を追いかけたくて宗一郎は類似の動画を目の色を探した。口数も多くなってきて他愛もない話。もともとこういう女性だったのかもしれない。自殺未遂を起こしたという事実が、遠い昔のことのように感じる。

 晴香を変えてしまった過去はいったい何なのだろうか。今もそれが足にひっかかっているのなら、一緒に糸の行方を見極めて、外すことはできないのだろうか。しかし、聞くことはしない。誰にだって自ら話すことのない過去がある。

 宗一郎の過去を知ったら、晴香はどうなるか。

 その懸念と、いつも一緒にいるスマホのように共存している。

 今は考えない方がいい。爪を立てて膨らみ続ける妄想を破裂させた。


 あっという間に過ぎていく時間。

 宗一郎はこんなにも幸せでいていいのか分からず、困惑して明石に連絡を取った。興奮状態で抱えきれぬ思いを早口で捲し立てるようだった。仮釈放になり、慣れない仕事に明け暮れて、ストレスを押しのけるように再犯に手を染めようとした。そのターゲットに選ばれた晴香を自殺から救い出すという形で知り合った。何度か言葉を交わして交際が始まる。日々を過ごす中で幸福感が増していく。このままでいいのか分からなくなっている。再犯も晴香のおかげで防ぐことができているが、それを失った時、どうなってしまうのか。心の空洞を埋めようとした時、果たしてどうなってしまうのか。

 明石は黙って聞いていた。

「確かに、そこを乗り越えないといけないよね。実は、今は伏屋さんが言うほど心配していなくて」

「えっ」

「そう考えられるようになったってことでしょ。前はそこまでできなくて、その……外出してしまったと思うんだよ。そこは確実に成長している」

「……」

 宗一郎では分からなかった側面を示してくれた。そんな肯定的に捉えているとは思わず、言葉が出なかった。

「あとは、相手のことをしっかり考えられるかどうかじゃない」

「はい……」

「今、晴香ちゃんのことを考えて日々行動しているように。彼女のことだけではなく相手のことを考えることができるかどうか」

「そうですね……」

「私も、いつもできているかどうかって言われたら、そうじゃない。自分勝手に考えてしまうことも当然ある。ただ、一歩立ち止まって考えるようにしてる。中学教師だったときは、それがほとんどできてなかった。だから生徒たちに嫌われていた。生徒たちに教えてもらったこと」

「明石さん、だんだん前向きに考えられるようになってきました」

「本当? それならよかった」


 仮釈放になってから初めて映画を観た。

 突然、晴香がラインで送ってきた宣伝用ポスター。特に見たいと思わなかったが、晴香が言うならと思って足を運んだ。明るいラブコメディだった。初対面の印象のせいで、また驚いてしまった。でもそれは本当の姿ではない。正反対のカードを繰り返し見るような気分だった。

 映画館の近くで早めの夕食。五時すぎの開店直後の小さな居酒屋での食事だった。夜に会うことをしない宗一郎に疑問を抱いているだろう。でも晴香は一度も聞いてこなかった。でも関係は深くなれば深くなるほど話すことになるだろう。将来を考え、遠い現実のように思えた指輪を晴香に渡すのであれば。

 言うまでもなく早めに食事を切り上げてお会計をする。夜になると素っ気なくなることを指摘される前に駅に向かった。

「宗一郎さん、急いでますか?」

 晴香が腕を掴んだ。

「ああ、いや」

「ついていけないから、ゆっくり歩いて」

「ごめん」

「いえ。あそこ、座りませんか」

 晴香は視線の先にはベンチがあった。

「うん……」

 乗り気ではなかったが、断ることもできずに晴香に従った。おそらく、何かを伝えたいことがあるんだろう。なんとなく雰囲気で分かる。それが察知できるようになったのはいいが、夜は避けたい。居酒屋に行く前に帰るべきだったと後悔した。

 ベンチに腰を下ろす。

 晴香に告白をした時の時間に戻ったかのように、あの時の空気を吸っている。

「子供……好きですか?」

「えっ」

「私は好きなんですけど、宗一郎さんはどうですか?」

「ああ……好きですよ……」

 歯切れの悪い回答だった。関わったことがほとんどないから、好きも嫌いも答えられなかったというのが本心だ。

「そうなんですね……」

「……どうして、ですか?」

 話の本題は子供の話ではない。その先にある何かだ。

「将来の話……したくて」

「ああ……」

 嬉しくも複雑な気持ちに駆られる。そうなれば、いずれ話すことになる宗一郎の境遇。

「でもね……その前に、知っておいてほしいことがあって……」

 すぐに分かった。おそらく晴香に影を落とした過去のことだろう。宗一郎は姿勢を正して受け入れる態勢を整える。しかし、晴香は水を打ったように静かだった。空気の音でさえ聞こえてきそうだった。一体、何が隠されているのか。

「あのね……」

 宗一郎は時の刻みに焦りを感じながらも、できる限り待とうと思った。気持ちはよく分かる。もしも前科を話すことになったら簡単には言えない。

 雫が落ちた。それは落ちてきた雨のせいだと思っていた。しかし空を見渡しても雨が落ちてこない。晴香のものだった。涙だ。ゆっくり流れていた。息と声を殺して誰にも気付かれることなく、苦しみを噛みしめるように泣いている。

 思わず宗一郎は手を伸ばして晴香の背中に触れた。

「……触るのやめて」

 秒速で手を放した。

「前に、男の人に……暴力……振るわれたことがあって……」

「それって……」

 指にからまる晴香の涙が止まらない。

「その……性的に……」

 晴香は性犯罪の被害者だった。

「今でも、その時のこと、昨日のことのように覚えてて……」

 被害を体験した晴香が語る当時のこと。生々しい響きが耳に残る。そのまま身体は動かなくなった。

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