第3話 未来はあるのか

 大学四年生を迎える前。

 晴香は多くの企業が集結する新卒向けの合同就職フェアにいた。教育学部に在籍していたが、小学校の先生という夢は頓挫に追い込まれた。周囲から聞こえてくるネガティブな雑音に始まり、実習で訪れた生徒たちは元気で良い子たちばかりだったが、長く続ける自信は湧いてこなかった。それ以降は特にやりたいことはなく、「色々な企業を見るといい」という先輩の助言に従って、大勢の学生の中に紛れ込んだ。大手企業の名が目に入る。

 その一つである真田ライフ生命という保険会社が顔を出した。ブースの前に一人の女性が立っていた。晴香と目を合わせると穏やかな笑顔を見せたが、声は元気でハキハキしていた。どこにいたとしても居場所が分かりそうだった。かつてはバリバリの営業マンでいくつもの契約を取りまとめてきた余裕なのか、晴香は背筋を正した。

「そんな緊張しないでください。気軽にお話をしましょう。弊社のことでも何でも大丈夫ですよ。私、採用担当の長内と言います。名前は、おさない、と言うので子供みたいですけど、子供なら子供らしく元気に頑張ってますよ!」

 自身の名を使って蔑みながら晴香を笑顔にさせた。

 さらに長内はさりげなく専攻や休日の過ごし方を聞いて、晴香との心理的な距離を縮めた。

 晴香はただの世間話で終わることに抵抗感があり、会社のことに触れた。個人や企業問わず、主に生命保険、医療保険を取り扱う会社で、長内は今年の春に新卒採用担当になり、去年までは首都圏の営業部長を任されていた。

「大変なお仕事ですよね」

「そうね。たいていは、ほとんどの人がすぐに離職してしまうからね」

 これから就職する晴香を前に現実を置いた。素直に打ち明けてくれたことに、驚きを隠せなかった。

「驚かれました?」

 長内は笑った。

「いえ……」

「いいのよ。包み隠さず学生の方にはお伝えしたいと思っていて。全てお見せした上で決めて頂ければ、私もみなさんも後悔しないと思うから」

「……その中で、長内さんは長く続けられてるんですね」

 長内は頷いて、「大変だけど、お客様のことを親身になって考えることができれば、それほど難しい仕事ではない」

 顧客を思う気持ちが柔らかく人を包み、確かなコミュニケーション力で相手は長内の話を聞こうとしてくれる。そんな姿が思い浮かんだ。

 自然に収入の話になる。「信頼を勝ち取って、多くのお客様から契約を頂ければ、かなりの高収入になる」と断言した。基本給の薄い仕事ではあるが、仕事を頑張った分だけ実績給が得られる。中には月に百万以上稼ぐ人もいる。それを実現してきた女性だった。「もしもやりたいことがないなら、保険に限らず、営業の仕事で腕を磨くのも一つかな。絶対に無駄にはならない」と付け加えた。

 晴香は決してお金に目がくらんだわけじゃなかった。機械のように幾重となく同じことを繰り返すよりはいい。人と関わる方がよかったから営業もいいかもしれないと感じた。

「どうしたら、長内さんのようになれるんですか?」

「いつでも私がここにいるって、知ってもらうことかな」

 すぐに意味が入ってこなかったが、晴香は分かったようにこくりと頷く。

「もしも合わなかったら、転職したらいいんじゃない。すぐに辞めてしまうのは考えものだけど、無理に嫌な会社で働くのはいいことじゃない。もちろん人事部としては、長く頑張ってほしい気持ちの方が強いですけど」

 逃げ道も与えられた晴香は保険会社で働く姿をイメージし始めた。

 照りつける太陽の下。雨でも足元を濡らしながら外回りをすることもある。その辺は覚悟がいる。自分でスケジュールを組むことができるが、顧客のスケジュールに合わせなければならないこともある。メリットとデメリットがきれいに列を変えて並べられている。さらに信頼感は増していき、有力な選択肢となった。

 長内は晴香から距離を置いて別の学生に挨拶し始めた。あくまで晴香に判断させるためだとすぐに察しがついた。ブースの中に入って別の採用担当者に耳を傾けた。

その後も他の企業も見て回った。しかしやけにどこも色合いがなく見えたのは、やはり短い時間であっても長内を信頼することができたからだろう。もしも何かあれば、相談できる人がいるということが断続的に背中を押し続けた。エントリーシートを送り、いくつかの面接を経て、無事に就職することができた。

 入社してすぐに始まった一か月半に及ぶ研修。毎年多くの新入社員を採用していて、大きな研修室に、延べ二百人がおろしたてのスーツを着て座っていた。本社近くの宿舎に泊まり、新入社員は終日閉じ込められて営業マンとしてのマインドセット、商品知識、お客様への営業の切り口から保険金支払いまでの流れを学び、顔を合わせて間もない新入社員同士で練習に入った。

 研修には長内の姿もあった。研修指導も兼務していて、晴香と言葉を交わしたことを思い出してそばに張り付いた。決して変なプレッシャーを与えないように、視線が合うと笑みを見せる。時折視線を外して知らん顔していた。いざ練習が始まると晴香たちに真に迫るような真剣な眼差しを送った。

 晴香は手探りながらも教え通り実戦練習するが、視線に釘打ちされてうまく言葉が続かなかった。顧客役である中野千絵にも緊張が走る。いずれこの役が回ってくるから作られた笑みを携えて「うん、うん」と頷いて物分かりの良い、話を聞いてくれる顧客を演じた。

 練習後に長内は、「こんなに話をちゃんと聞いてくれることはないわね」と、苦い経験則を語った。「まずはお話を聞いていただけるように、まずは信頼していただけるようになりましょう!」とポジティブに言い換えた。

 研修の合間の休憩時間。練習のペアになった千絵に晴香は声をかけた。

「すごく練習しやすかったです。ありがとうございました」

 言葉が丁寧になる。

「全然。水越さん、上手でしたよ。緊張してましたか?」

「緊張しかなかった。途中から、もう何を言ったか分からなくなって……」

「全然そんな風に見えなかった」

 無理に褒めてくれているのは分かっている。お返しをしないといけない気分になって「中野さん、落ち着いてる感じだから、うまくできそう」と褒め返した。

「それはないです。もう数をこなすしかないですね」

 千絵がそう言うと、大きく頷く晴香。うまくできなくても、同じ境遇で言葉を交わせる同期ができたことに笑みがこぼれた。

 会社の宿舎に帰ると、疲労が土砂崩れのようにどっと押し寄せてきてベッドに倒れ込んだ。言葉を逐一審査されるようで、マニュアル通りでも疑心暗鬼になってしまった。

 無事に保険屋としてやっていけるのか。

 化粧もコンタクトも外さずに寝落ちしてしまった。


 朝が来て取れなかった疲れと向き合う。

 慣れだと分かっていても、できない自分が悔しくて俯く。先が思いやられる。反射的にスマホを手にする。亮に話を聞いてほしかった自分がいた。ラインを開くと亮から激励のメッセージが着ていた。

 やる気を取り戻した晴香はバッグから商品の概要を書き殴ったルーズリーフに目を通した。まとまりがなくて復習しづらい。ゆっくり振り返っている暇はない。だから大事な所だけでも蛍光ペンを引く。水玉模様のように点在する要点を見ていたら少しずつ研修内容を思い起こすことができた。

 長内に言われた改善点。練習の途中、不安が浮き上がってくると長内に助けを求めてしまい練習が中断した。「お客様と話すとき私はいないから。なるべく自分でやり切ることを目標にやってみよう。知識と経験がついてこれば大丈夫だと思うから。まずは知識をしっかり入れて!」と。

 晴香の知識は、まとまりのないルーズリーフと同様だった。いびつに仕上がったパズルを崩してはめ直すように、真新しいルーズリーフを数枚取り出して、時間をかけてでもまとめ直そうと思い直した。

 まずは真田ライフ生命の主要商品である「フォーエバー・エクストラ」という生命保険についてまとめた。被保険者が死亡した時に手厚い保険金が支払わるのはもちろんだが、寝たきりになってしまった場合や、ガンなど病気が発見された場合にも保険金が支払われる。

 ルーズリーフの中段。

 『お客様は自分のものを覚えていない』、という一文。

 長内が「お客様は、私たちの話した内容をほとんど覚えていないんですね。不思議ですよね? 一緒に作ってきて保険のプランなのに。人は一時間後には聞いた内容の約半分を忘れてしまう。一か月後はもうほとんど覚えていないんです。特にお客様は保険の知識がないわけですから。できるだけ早めに決断ができるように後押ししてあげてください」と、話した時の一部を書き取ったものだった。

『新規ばかりではなく、見直し』のメモ書き。

 人生の状況はどんどん変わっていく。だから今加入しているお客様には、保険を見直すという形でアプローチすることも可能で、新規のお客様ばかりを相手にするわけじゃない。だから保険に入っているからと言って、諦めず、まずはお話を聞いて差し上げる。相手に興味を持って聞いてみてほしい、ということだ。

 集中していたら時間は、意図的に動かされたかのように過ぎていた。

 時間の切迫を感じて慌てて準備をして本社に向かった。

 集合時間の三十分前。閑散としている研修室に、千絵が何かを熱心に書いている姿があった。昨日の復習だろうか。晴香たち新入社員に今できることは正しい知識を叩きこむことしかない。話しかけることさえ躊躇ってしまいそうな集中力。彼女の真面目さを目の当たりにする。束ねた艶のある黒髪が少し揺れている。

 千絵は人の気配を感じて横を向いた。

「昨日のだよね? すごい」

 挨拶も忘れて晴香はそう話しかけた。

「そうそう。もうダメダメだったからやらないとって思って」

 筆記用具の下敷きになっているノートに昨日の内容がまとめられていた。商品の概要が箇条書きで書かれ、色付いた吹き出しがポイントを述べていて見やすくて分かりやすい。

「なんかちゃんと可愛らしさも忘れてないところがいいね」

「本当? ありがとう」

「私も今朝やったんだけど、書き忘れとかあるかな……」

 限られた時間で作ったものをお互いに見比べてみる。

「ここの数値って、四十パーセントじゃなかった?」

「確かそうだったような……」

「じゃあ、私が間違ってる……」

 消しゴムを手にしようとする晴香。

「私も自信なくなってきた。長内さんに聞いてみよう」

「うん」

 同期と協力し合うことで、晴香の仕事への意欲は増した。一人じゃないということが、これだけ励みになるとは思わなかった。


 試行錯誤しながら終えた研修。千絵たち同期と切磋琢磨しながら義務付けられていた一般課程試験も合格し、見た目をよくするために、ファイナンシャルプランナーの勉強にも取り組んだ。三級は簡単で二級以上ないと意味がないらしい。とりあえず三級は自己採点で合格ラインに達していたから大丈夫だ。今までで一番勉強をしたという自負がある。手がうまく動かなくなるぐらい書き詰め込んだノートと乱暴にページをめくったせいでできたシワ。勉強中にこぼしてしまった紅茶がノートに染みこみ、固くなった端くれが年季を演出している。

 配属先は神奈川県にある支店の一つ、菊名支店だった。直属の上司になる清松営業部長から挨拶があった。ピンと張った背筋ときれいに着こなされたスーツがまぶしく映る。ワックスで固めたオールバック。目鼻立ちがはっきりしていてあご髭に目がいく。焦げた味噌顔が妙に威圧感を出している。堂々としているから仕事ができそうだった。その反面、口調はそこまで厳しくない。管理職になったことで柔らかさも演出するようになったのかもしれない。晴香はどこか苦手なタイプだった。

 清松は晴香たち新入社員に、すぐに家族、親戚、友人、かつてのクラスメイトなどの顧客リストを作成するように伝えた。親友の美佳、彼氏の亮、家族親戚など書きやすい名前を書き連ねた。それでも虚しく残る空白に手を動かされて、大学、高校、中学のクラスメイトの名も加えた。SNSに残っていた人々も加えたら百人には満たないが、上司に見せることができるレベルになり安堵した。長内や長年のキャリアを誇る営業マンは千人を超える数のリストを持っているらしい。それを聞かされた時はとてつもなく気が遠くなってしまった。

 次は先輩社員の後をついて実際の営業の仕事を見て回った。殻を破ったばかりのヒヨコのような新入社員と話している時の上から目線のトーンを隠して、生き生きとした営業マンに変身して世間話から入る。いかにも「仕事できます」と暗に言っているようで、示さずとも歴然としている差を強調するようだった。晴香は先輩と顧客の機嫌を損ねないように神経を尖らせ、愛敬を振りまく。とにかく急造の笑顔で営業の流れを追いかけた。聞いていたつもりだったが、ほとんど何を聞いたか覚えていなかった。それは先輩にも見抜かれていて、「話、聞いていた?」と、痛いところを突かれた。

 プライドの塊のような先輩の後を追いかけて数週間。改めて作成した顧客リストを見ていると気が重くなった。仲が良い友達であっても営業の仮面を被って話を進めて行かないといけない。今までのように気軽に言葉を交わせばいいというわけではない。まともにできそうなのは、美佳ぐらいかもしれない。それでも薄い基本給が背中をじわりじわりと煽ってくる。契約件数に応じて支払われる実績給が収入の生命線だ。何よりも慣れない仕事と向き合っている美佳をはじめとした友達もいる。次に会った時に四苦八苦しながらも奮闘していることを伝えたい。採用してくれた長内の期待にも応えたい。やるしかないと思って外回りに出た。

 記念すべき一人目は、両親の知り合いが話を聞いてくれた。入っていた医療保険を見直すという形だった。両親も「良かったね」と、保険屋としての船出を喜んでくれた。いつも自分の味方でいてくれる二人に涙を滲ませて、次の顧客を求めに行った。

 世間話をしながら名刺を配り歩いて種を蒔く日々。警戒されて早々と立ち去らざる終えない時や、世間話だけで終わった人もいた。研修中にもあったが、顧客自身が選んで入ったはずの保険内容をまったく覚えていなかったことには驚愕だった。

 次の顧客は高校時代に親交があったクラスメイトと連絡が取れた。思い出話に花を咲かせた後、本題に入るとどこか気まずい雰囲気に囲まれたまま笑顔は少なくなっていく。それでも会社のデスクで油を売って居心地が悪い上に、「今日、アポはないの?」と、清松に小言を言われるよりマシだ。「フォーエバー・エクストラ」の契約がないと特に拍車がかかってネチネチと言われてしまう。友達はお情けと応援の気持ちで契約を見直すことになった。どこの誰かも分からないところで入っているよりはマシという判断だろう。それは友達のしぐさを見ていて感じた。もっと言うと、美佳ほど仲がいいわけではない。感謝するしかなかった。


 入社して四か月ほど。

 晴香は千絵や他の支店に配属になった同期との飲み会を開いた。恵比寿にある個室の居酒屋で会社の愚痴や苦労話が限りなく出てきた。みんな同じように新規顧客の獲得には苦労させられていて、その中で前向きにこれからの対策を考えている同期や、営業マンとしての未来が見えない同期、すでに「転職を考えている」と堂々と話す同期もいた。

 長内と初めて言葉を交わした時のことを思い出す。「すぐにみんな辞めていく」と。この短い期間で現実を見せつけられた。長内や清松、今でも勤務し続けている先輩たちの偉大さを生々しく感じた。結局、うまくいかないとすぐ辞めてしまう。要するに我慢や継続した努力ができない。長内が言っていたことをそう裏返すことができた。

 このままでは自分のいずれ会社に背をむけて去っていくような気がして、先輩社員に教えを乞うた。しかし快く教えてくれる先輩は皆無で素っ気ない態度だった。「人それぞれ違うから」と、もっともらしい答えがないと暗に伝えながら、顧客を取られてしまうかもしれないという警戒心から口を紡いでいた。会社内にも敵味方がいると感じ、作成したリストや浅く手に入れた人脈を用いて地面を踏み続けるしかなかった。

 特に何も収穫がなかった日々。疲れだけが残る体を癒してくれたのは亮だった。何人か知り合いに保険のことで声をかけてくれていた。何も言わずとも手を差し伸べてくれる亮に涙を流した。応援してくれている人がいる。「何かあったら相談してね」と、声をかけてくれた長内だっている。涙に絡まった瞳で、夕暮れで朱色に染まる空と建物が黒く塗られた街を眺めた。まさにこれからの不安な気持ちと温かい周囲の人々を表わしているようだった。

 次の日。晴香は亮の職場の同僚とアポが取れた。先月に二人目の子供ができて生命保険の見直しをした方がいいと思ったそうだ。「今契約している方との話が先だけど、すぐに決めずに話を聞いてくれる」と連絡が来た。条件付きだが話を聞いてくれるだけで希望の光を見たような気がして仕事へ駆け出す。自社の数ある生命保険の内容を見返していくと、商品知識が社会の荒波で洗い流されたかのように忘れてしまっていた。これで亮の知り合いと落ち合う予定だった自分を想像した。寒気だった。会合は明後日だ。いくら時間があっても足りない気がしたが、とにかく準備に取り掛かった。その時に助言をしてくれたのは上司の清松だった。

 事情を話すと、

「まず提案までにはいかないんじゃないか。まずは先方の保険内容の把握と、それで何か新しく提案されたことはあるか聞いてみたら。今どこの保険に入っているか聞いてある?」

「……聞いてない……です」

「基本だから聞いておいた方がいい。持っている情報が多ければ多いほどいい」

 威勢のいい言葉で返事をした。今やるべきことが見えたことが、晴香を突き動かして席についた。もうすぐ定時の時間だ。顧客と約束がなければ帰っても構わないが、不安を解消したくて時間を忘れてパソコンに向かった。

「約束は明後日だった?」

 ほどよく漂う香水が、そばに清松がいることを伝えた。

「はい」

「それならもう今日は帰ったらどうだ」

「……でも、まだやらないといけないことがあって」

「無理するとよくないから、明日やればいい」

 晴香の表情が晴れやかになる。長内と同様、自分のことを考えての発言だとすぐに受け取ることができたからだ。実績給を奪い合う敵がいる社内の中でも、手を差し伸べてくれる人がいることに、晴香は心から感謝した。

「夜はいくら頑張ってもなかなか進まないからな」

 清松は晴香のジャケットを手渡してパソコンを閉じるように言った。

「ありがとうございます」

 さっと立ち上がって一礼した。清松よりも先に出て行くのが忍びなくて、晴香は清松と共にオフィスを後にした。

 アポの当日。前日までに亮を通じて加入している生命保険を聞き出し、ホームページを眺めてある程度の保険内容を確認した。自社の一押し商品を始めとして、知識を再度詰め込み直した。清松の言っていた通り、話を聞いてもらうための世間話と状況の把握に時間を取られて、自社の提案まではいかなかった。清松に言われていた「再度アポ」を必ず取るということも忘れなかった。提案したのは自社が太鼓判を押している「フォーエバー・エクストラ」だ。


 二年目になると、同期がドミノ倒しのように辞めていった。一人目はある日の飲み会で転職を考えていた同期で、早々と見切りをつけて清々しい表情。給与面で冒険することなくつまらなくても安定した事務職に身を投じていた方がいいという結論に至った。

 「いい経験になった」と、自らの短い社歴を振り返って会社を去る同僚。しばらくは疲れを癒して仕事を探すらしい。何をやりたいのか、時間をかけて次の舞台を模索するらしい。

 驚いたのは、研修時に切磋琢磨した千絵も辞める決断をしたことだった。同じ神奈川県内の田無支店で勤務し、研修終了以来、連絡を取ることが少なくなったが、たまたま外回りの途中で遭遇した時にそう告白された。激務だったせいで頬がこけ落ちてしまい顔の肉が削ぎ落されていた。このままだと心の病に襲われてしまう。だからできるだけ早いうちに手を打ったのだろう。周囲に頼る人間がいなかったのかもしれないと、晴香は直感的に思った。望まぬとも社内で孤立するようになり、契約も思ったように取れなかったのかもしれない。それに疲れて退職を決めたのだろう。色褪せた心と体に彩りを取り戻すためだ。だから研修時にように、「一緒に頑張ろう」と声をかけることもできなかった。一つ間違えれば、同期たちと同じようになっていたかもしれない。晴香が置かれている境遇は良いと言えるのだろうと、心底思った。

「もしよかったら連絡してみて」

 去り際に千絵が作成した顧客リストを渡した。力ない声で頬だけを動かして小さく笑う姿が、気の毒でならなかった。

「ありがとう……」

 リストを受け取った瞬間に見えた晴香の腕時計。亮の伝手を使って取れた顧客との会合の時間が迫る。人のことを心配していても仕方がない。

「じゃあ、行くね」

 カタカタとヒールの音を鳴らす千絵に全く覇気が感じられない。着慣れたはずのスーツが寂しく見える。もう辞めることが決まって、それだけでも楽になれるはずだが、今まで契約をしてくれた顧客に担当が変わることをお伝えしなければならない。だから最終勤務が終わるまでは、真面目な千絵には気が重たいだろう。

 顧客との会合の数日後に、顧客から亮を伝って連絡が入った。

「今回の契約はいいです」という断りの連絡だった。

 理由を尋ねたが、ネットで検索したかのような安っぽい答え。それは「別の保険会社と契約が決まった」というものだった。その後に続きがある。亮は口を紡いで頬を少しだけ膨らませていた。破裂させればボロボロと出てくるかもしれない。結局は怖くなって本音を聞けず、「分かった。ありがとう」と伝えるのみで終わってしまった。晴香に直接伝えてこなかったことが解せなかった。何か失礼なことを言ってしまったかと思ったが、晴香なりに言葉遣いは気を付けていたつもりだった。清松に相談しようと思ったが、顧客に聞かなければ分からないことだ。時間を割いてくれたことへの感謝の念を伝えるということを口実に電話をしてみたが、呼び出し音が執拗に鳴り響くだけで応答はなかった。話をする機会が得られたとしても、本心を言うことはないだろう。だから二度目の呼び出し音は響かすことはなかった。モヤモヤを抱えたままで、仕事への集中力を削がれていく。

「水越君」

 晴香は反射的に「はい」と答えた。まるで親や先生に隠れてやましいことをしていた中学生のようだった。声の主は清松だった。

「体調でも悪いの?」

「いえ……」

「前の人は、どうなったの?」

 急所を突かれて目が泳ぐ晴香。事情を説明した。

「来週研修あるでしょ。その時に僕も見に行こうと思ってたから、何かあればアドバイスするよ」

「よろしくお願いします」


 研修当日。清松は晴香に張りついた。実戦練習でこう言われた。

「前のめりになっていて、お客さんが引いているんじゃないか」

 何重にも包まれたオブラート。裏返せば清松はこう言いたいのだろう。「金に必死になってしまっている」と。自覚はなかった。しかし晴香を映し出すものがあれば、金に目の色を変えて話す晴香がいたのだろう。今まで取れた契約は口コミや知り合いの紹介。もしくはお情けだ。亮たちの伝手がなければ何もできない。顧客を金ずるとしてしか考えていない。そんな自分を恥ずかしく思った。悔し涙が目元すれすれまで押し寄せてくる。歯を食いしばってせき止めた。

「水越君」

「はい」

 背筋を正した瞬間に少しだけ目元から塩気の混じった水滴が飛んだ。

「水越君は、ここまで続けているから分かったことだから。たいていの人たちはそれが分かる前に辞めていく。別に恥ずかしいことじゃないから」

 受け取った言葉が体中に染みていくと、一粒の涙が落ちる前に指先で拾った。絶対に仕事で涙は見せたくない。

「決して売ろうとしないこと。お客様のことをもう少し考えてみて」

 清松はそう付け加えた。


 研修でのアドバイスが脳裏にこびりついている。

 『金に必死になっている』

 実際はどうだったのだろうか。

 晴香は気になって亮に聞いてみると、言葉を選別しながらしばらく黙っていた。晴香が精神的に強くないことを知っているから、傷をつけないように最大限配慮しているんだ。以前と同様、聞くのが怖くなってくる。しかし気になって仕方ない。もう受け入れるしかない。

 すると亮は目を合わせることなく、正直に答えた。

「保険に関して知識がないように思えた。契約が欲しいだけなんじゃないかって思った」

 清松の指摘は概ね当たっていた。

 要は契約締結が目的で、自分のことを真剣に考えている様子が見られなかった。目の奥底にはお金の匂いしかしなかったいうことだ。通帳に刻まれる目も当てられない給与。それは晴香の実力と実績を晒すものだ。それに全てを操られていたんだ。

 恥ずかしく思った。それと同時に仕事の関係者でもないのに、亮に嫌なことを伝えさせてしまったことを申し訳なく思った。

 今後顧客にまともに相手にしてもらえるか不安に襲われる。このまま、数えきれないほどの案件を処理できるのか。

 そんな中、メーカーで勤務している友達から連絡が入った。フィリピン出身で、二児の子供を持つ三十四歳の同僚男性が、加入できる生命保険を探しているらしい。外国人というだけでいくつかの保険契約を断れてしまい、途方に暮れていた。それで晴香の存在を教えたらしい。「手が空いたら連絡してあげてほしい」ということだった。

 まず、言葉が通じるのかという点で不安に襲われる。しかし弱音を吐いている暇はなかった。翻訳アプリでなんとか乗り切ろうと思った。持ち歩いているルーズリーフを確認した。外国人の受け入れは事例が少なったため、研修でも詳しくは取り上げられなかった。

 清松に相談すると、保険契約に関する内容が誤解なく理解できる日本力があるということと、母国に帰ることになったとしても保険料の支払いができれば受け入れ可能だという。

 ここが晴香の分岐点になるような気がした。

 実績給を一番に考える保険屋ではなく、真剣に未来を考えて寄り添うことができる保険屋として実績を上げる機会だ。

 本当にできるか。また金に目がくらんだ姿を無意識のうちに晒してしまいそうだった。今月も特に契約を取ったわけじゃない。薄給に腕を無理やり引っ張られていくだろう。

 悔しかった。接着剤の塗られた椅子に座ったように動けない姿。一歩踏み出す勇気さえない。顧客と向き合えないならもう潮時かもしれない。傷が深くなる前に会社を去っていくのも一つだと思った。転職が当たり前だと思ったらだんだん気は楽になっていった。

 しかし、今までに関わった顧客の顔が思い浮かんだ。日々の記憶で塗り替えられていく中でも、一人一人のことを思い出すことができた。成立させた契約件数は決して多くないのもある。こんな頼りない保険屋の話を聞いて契約を結んでくれた人がいた。消耗品を捨てるように辞めていくのが申し訳なかった。ゆっくりと頭から被った蜘蛛の巣を払いのけるように不安を少しずつ外へ押し出した。

 連絡を入れると難なくアポが取れて、三日後に会う約束をした。名前はジョセフという。仕事を求めてフィリピンから移住して十年が経過していて、二十八歳。幼稚園に通う女の子と、生まれたばかりの男の子がいる。日本語は申し分なく、今は永住するつもりでいるという。異国人という弊害がなくなった今、とにかく新しい晴香をお披露目する時だった。


 アポの当日。まずは人間関係を構築することを念頭に置いた。

 ジョセフはフィリピンの訛りはなく、想像以上に流暢な日本語で子供の話をした。嬉しそうに話す姿に、晴香も笑顔で聞き役に徹することができた。ジョセフの独演会で終わった会合だったが、情報を多く仕入れることができた。再アポを取って保険内容を詰めていった。子供の話をしていた時とは天と地ほど差がある真剣な表情。晴香は後退りしてしまいそうだったが、ジョセフにとっては大事な内容だ。だから真正面から受け止めた。ジョセフは逐一内容を自分の言葉で言い換えていく。同時に晴香も知識が整理されていくようで真剣に耳を傾けた。しかし説明したことを何度も確認される。思わず、「さっき説明しましたよ」と、口走ってしまいそうになったが、グッと飲み込んだ。

 吊り橋を共に渡るように作り上げた生命保険。それは死亡した際、余命を宣告された場合に毎月二十万円振り込まれる定期生命保険で、子供が独立するまでの期間として二十年間とした。掛け捨ての保険になるため、支払期間以降に不幸が襲った場合は支払われることはない。それにガン、急性心筋梗塞、脳卒中、身体障害者福祉法に定めた三級以上の病気、要介護状態になった場合に、二千万円が一気に振り込まれる医療系の生命保険も組み合わせた。無事に印鑑をもらった。

「みずこしさん、本当にありがとうございます。私を受け入れてくれさって」

 恐らく、「下さって」と、言いたかったのだろう。流暢な日本語に、時折ほころびが出る。それが妙に可愛くて、晴香は営業の笑顔を取り外して、美佳を相手にしている時の笑顔を見せた。感謝されて取れた契約は初めてだ。今までの心的苦労が全て解きほぐされた瞬間だった。

「何度も同じことを聞いてしまったから、お疲れじゃないですか」

 その気遣いの言葉でさらに疲れも吹き飛んだ。

「全然疲れてないです。日本語がお上手だなって、すごいなって思って聞いてました」

 ジョセフも目元を大きく崩して笑顔を見せた。

「もしも不安なことがあったら……」

 ここで格好つけて「いつでも相談してくださいね」と伝えたかった。締めくくりとしては最高の言葉ではあるが、まだ自信のなさが見え隠れする。何かできるのか。この未熟な保険屋に。自問自答した。ふと目を合わせると、一抹の不安が払しょくされて笑顔を見せるジョセフがいた。いざという時に家族を守れる。一家の大黒柱として頑張る決意を胸に深く刻んでいる。ジョセフを前に弱気ではダメだ。

「不安なことがあったら、いつでも連絡してくださいね」

 目が座っていて少し怖かったかもしれない。それでもその姿勢は崩すべきじゃないと思ってそう言い切った。頼りになる保険屋としてそばにいることを伝えたい。

「はい。よろしくお願いします」

 ジョセフは深々と頭を下げた。

 オフィスに帰って清松に報告すると、自分のことのように喜んでくれた。

「おお、結果出せたな。これからも頑張って」

 晴香は数少ない成功例を掲げて仕事への意欲が増していった。

 しかし意欲はあるが当てがない焦燥感に心を揺さぶられていると、たまたま長内と本社で会う機会があった。

「水越さん」

「お疲れ様です!」

「頑張っておられるの?」

「……はい」

 長内の目に映る顔全体になじませた焦燥感。

「何かお役に立てることあるかしら?」

 事情を聞くと長内はこう続けた。

「うちの会社が協賛している会社がプロ野球の球団経営をしていて……」

 長内が球団名を出すと、晴香は「「知ってます」

「今度の日曜日に試合があるんだけど、そこで会社のブースを出すのね。そこで新規のお客さんの当てを作ってもいいかもね」

 応援に来た野球ファンの中から新規顧客を開拓するというものだ。飛び込みで開拓できる人もいるが、成功打率は低いからこういうイベントを通して人脈を広くする。各支店から最低一名の参加を促しているが、土日開催に行われることが多く、給与が支払われるわけはないので、成績を出したい意欲的な社員が休日返上で参加することが多い。

 新たな顧客リスト。飛び込みで営業かけるだけの根性。晴香はいずれも持ち合わせていない。

「私も参加できますか?」

「もちろんよ。でもさっきもお伝えしたけど、給与も何も出ないから。そこは承知しておいてね。そのメール送ってあるんだけど、見てない?」

 忘れている支店長や、どうせ集まらないと思って周知さえもしていない支店長もいるらしい。

「またリマインドのメール送っておくわ」

 長内は少し棘を残しながらも丁寧に言った。


 週末の日曜日。試合開催地である野球場。多くの家族連れがやってくる中、『無料観戦チケットが当たる』と銘を打って、拡声器を通して協力を募り、名前、住所、生年月日をアンケート用紙に記入してもらう。そのデータをもとに、現在真田ライフ生命の保険に入っているかの白黒を見る。黒は現在、誰かが提案した保険に加入していることを意味し、白は現在保険に未加入だ。他社の保険に加入している可能性もあるが、白に該当する人々に片っ端から営業をかける狙いだ。

 それが功を奏して人脈がさらに枝分かれして、実戦練習の場数の重ねることができた。徐々に実績にも反映されるようになり、毎月ある程度の実績給もついてくるようになった。時には百万を超える時もあった。どこか仕事を認めてもらえたような気がして嬉しくなった。

 それを美佳に報告すると、二人で『やりたいこと』リストを作成して長時間話し合った。楽しかった。最終的には旅行に出かけることになった。ディズニーランドと角島大橋に魅せられた山口県だ。先が見えないほど伸びた橋が常夏の海を分断するように伸びている。青、水色をほどよくグラデーションした美しい海。潜り抜けるように通過するそよ風に当たりながらドライブしたいと考えた。そのことを亮に話すと、「俺が数に入ってないやろ。俺も協力してるぞ」と可愛く抗議された。

 清松も稼ぎ頭として成長を見せている晴香を気にかけて惜しみなく助言を送った。

そんな中、退職した先輩社員の顧客を引き継いでほしいと依頼された。晴香は抱えきれるかどうか心配だったが、清松はこう説明した。

「経験を積むという点と、お客様の家族構成が変化する可能性があるから、追加契約も見込めるかもしれない。だから悪い話じゃないよ。もちろん、信頼がおける社員じゃないとこういうお願いはしない」

 データとして渡された顧客リスト。晴香は保険屋としての成長を目に見える形で手にしたような気がした。かつては福沢諭吉の顔を露骨に思い浮かべるように、お金に目を眩ませていた晴香を後任として選んでもらえたことが嬉しくて、リストに加えて、その奥に隠れている新たな顧客を求めて引き受けた。

 早速、引き継いだ顧客の一人に連絡を入れて挨拶をと思ったが、多忙だったせいか繋がらなかった。六十代で名は立花健三という。子供ができたタイミングで加入した終身生命保険で四十年以上払い続けている息の長い顧客だった。死亡した際や余命宣告された時点で一千万円支払われる。住所を見ると、明日の待ち合わせて使う喫茶店の近くに立花の自宅があることが分かった。

「明日行けるかも」

 そう呟いて、スケジュールを組み込んだ。

 さらに契約内容見ると、立花は加入時にエピローグを記していた。晴香が担当した顧客にはつけた顧客がいなかったため、存在すら忘れていた。

 エピローグとは、生命保険に加入した被保険者が遺族に宛に書く手紙のようなもので、亡くなった際に保険受取人が画像データとして閲覧ができる。立花の場合は配偶者の立花妙子が受取人で生前最後のラブレターになる。


 翌日の会合後。

 少し長引いてしまい喫茶店を出たのが十二時ごろだった。今から訪ねて行くのは昼食の時間帯で迷惑かもしれない。今でも勤めていれば、休憩時間を狙い目にすることがほとんどだが、もう定年退職している。

 さりげなく立花家の近くを通りかかる。名が刻まれた表札を通り越して庭に目がいった。花壇がきれいに手入れにしてあり、動物の置物があった。まるでオシャレなカフェの入り口のようで写真を撮りたくなった。壁面にはプラスチックの容器に植えられたオレンジの花が、存在感を示すように顔を出している。配偶者の妙子が几帳面な性格なのかもしれない。

「何か、御用かしら」

 玄関先に立つ女性がそう言った。おそらく妙子だ。

「こんにちは。立花様のご自宅でよろしかったですか?」

 すぐに笑顔を作って身元を明かして端的に事情を説明した。慣れてきて、すぐに表情を切り替えるのが上手くなってきたように感じる。

「森田さん退職されたのね」

 連絡を入れなかったことを謝罪して挨拶に訪れたことを伝えると、奥から立花健三が顔を出した。

「どちら様だったかな」

 すぐに笑顔を作って晴香を見つめた。瘦せ型で小柄な立花は、以前は新聞記者として全国を飛び回っていたそうだ。

「新聞記者をされていた方、私、初めてお会いしました。すごい」

「すごくないわよ。召使みたいに使われて趣味の一つも満足にできなかったのよ」

 妙子が話しに入って蔑んだ。

「そうなんですね。ご趣味は何ですか?」

「ガーデニングが好きでね」

 手入れされた庭は立花が自ら施したものだった。男性でガーデニングが好きとは意外でリアクションに困ったが、「すごい!」と言った。

「今まで単身赴任が多かったから、ぼろいアパートばっかり住んでたから、きれいな家に住みたいって思ってたんだよ。家内も喜ぶと思ってね」

「素敵ですね。実はあまりにきれいだったから、まじまじと見てしまいました。それで奥様にお声がけ頂いて……」

 手塩をかけて施した庭を褒められて、立花は気分を高揚させてどんどん自身のことを語った。他にもゴルフが趣味でゴルフクラブが玄関先にあった。

「いいですね。奥様と一緒にされるんですか?」

「私は全然」

 妙子が顔の前で手を横に動かす。

「やろうって誘ったんだけど、高いとか難しいとか言ってやらないんだよ。だから家内とは庭園やお寺巡りばっかりでね」

「いいですね。例えばどちらに行かれるんですか?」

「京都によく行くね。それと岩手県の毛越寺は決して忘れないよ。今後は遠出がなかなか難しくなるから、体が元気なうちに家内と色々と出かけたいね。一つでも多くの場所に」

 仕事が相当忙しかったようだ。ほとんど時間を共にすることなく若き日々から今日に至るまでを過ごしてきたのだろう。庭をきれいに見せたいというのも、妙子への罪滅ぼしの一つなのかもしれないと、晴香は思った。

 ふと亮の顔が思い浮かんだ。毎日残業で休日にも仕事のメールが来る亮と、頻繁に会えているわけじゃない。晴香も今は仕事が大部分を占めている。ラインで気軽に連絡は取れるが、会える時間を大事にしないといけないと思った。最後に会ったのは、帰りの時間帯が一緒になってドライブした時だ。もう二週間が経過していた。

「水越さんも、若いこの時を大事に過ごした方がいいですよ」

「言われなくてもしてるわよね。水越さん、おきれいだから。男が放っておかないわよ」

「それもそうだな」

 立花の体格からは想像できない高らかな笑い声が響いて、晴香も無垢な笑顔に包まれた。

 自宅前で話すこと一時間ほど。足元が疲れてきて去り際を見計らっていると、妙子が席を外した。

「水越さん」

 立花が小声で名を呼ぶ。

「はい」

「あの、名刺を一つ頂けないだろうか?」

「もちろんです」

「ありがとう。立ち話で申し訳なかったね」

「いえ、こちらこそ、お昼の時間帯に申し訳ありませんでした」

 晴香が立花家を後して駅に辿り着くと、ベンチに腰を下ろして足の痛みをほぐした。すると立花から連絡が入った。

「もしもし、水越です」

「立花です……先ほどはご丁寧にありがとうございました」

「いえ、今後ともよろしくお願いします……」

 直接会った後にかかってきた電話。この意味は何だろう。意味深で電話上で顔が強張ってしまった。解約したいのか。今まで払い続けてきた保険をここで解約するだろうか。

「……何か気になる点など、ございましたか?」

「私が加入時に書いた、手紙のようなものありましたよね」

 エピローグのことだ。

「はい」

「もうずいぶん前の話で、書いた内容は忘れてしまったんだけど、書き直すことは可能だったかな?」

「もちろんです……」

 しばらくお互いに無言になった。今になって中身を修正したい。

「閲覧方法とかが分かる書面みたいなものがあれば、メールで送ってもらうことは可能だろうか?」

「かしこまりました……」

 その先を聞いていいのか分からなかった。

「ガンが悪いところに転移してしまってね……」

「……」

「こればっかりは、いつどうなるか分からないから、早いうちにね」

 近いうちに、『保険金支払』という場面を目撃することになる。顧客との会合の際に、簡単に口にしていた事務処理。重たくのしかかってきた。

「加入時は先のことだと思っていたから、うまく書くことはできなかったけど、今なら伝えたいことがたくさんある。新聞記者だったから、簡潔に書くということは得意なんでね」

 妙子をはじめ、息子には言えない本音がどんどん滑り落ちた。晴香は親身になって聞くことしかできなかった。先輩から引き継いで挨拶をしただけの立花に死が迫っている。タイミングが悪い。関係性が深くない相手にどう接したらいいのか。無言だと、さらに気を遣わせてしまう。頼りがいのある晴香を見せる時だった。付き合いの期間はどうであれ、最終的な保険屋としての仕事だ。

「もしも万が一のことがあれば、私たちがしっかりお手続等、やっていきますのでご安心くださいね」

 意外にもスラスラと言葉が並んだ。研修時に繰り返したフレーズだった。

「ありがとう。申し訳ないね。引き継いですぐにこうなってしまって」

「そんな謝らないでください」

「最近病院で言われたことでね。まだ家内には言っていないんだ。近々、旅行に出かける予定だから、それが終わるまでは。せっかくの楽しい気分を台無しにしたくないもので」

「そうですよね」

「だから、家内には内密でお願いします。私もタイミングを見て……昔から隠し事は得意ではないから、気付いているかもしれないけど」

「承知しました。さ……」

 『最後』と口走ってしまいそうになって、必死に『さ』の字を飲み込んだ。

「……ご旅行、楽しんできてください。書類は会社に戻りましたら、すぐにメール致します」

「よろしくお願いします」

 電話を切った。

 これからこういう機会は長くやればやるほどついて回ってくる。人間の死とも向き合わないといけない仕事なのだ。どこか、この仕事を軽く見ていて晴香がいたかもしれない。

 オフィスに戻り、清松にその出来事を話すと、「何度もあるよ、それは」ともう免疫が体に染みついているのか、驚くこともなく冷淡に言った。

「そうですよね……」

「でもそういう風に相手の痛みを自分事のように考えられることはいいことだよ」

「はい……」

「今日は予定あるの?」

「えっ?」

「飲みにでも行くか?」

「ああ、はい」

 晴香は清松に夜の居酒屋に連れ出された。しょんぼりした晴香への気遣いだった。

「自分で契約をまとめて、お客様の死を目の当たりにする方が、もっと精神的なダメージ大きいと思うよ。ずっと追いかけてきたってことを思うと」

「そうですよね。私は、どうしたらいいでしょうか」

「家族で過ごせる時間を大切にしてもらえばいい。何かあれば、相手から連絡してくるだろうからな」

「はい……」

 頭が下がっていく晴香を見つめる清松の目線が少しずつ下へ落ちていく。しばらくの沈黙。晴香の体の一部がチクチクする。痛みはないが一点に視線が注がれていることによって起こる違和感だった。それが窮屈に感じた晴香は頭を上げると、清松はすぐに目線を外してこう言った。

「ずっと、追いかけてきたことを思うとね……」

 さっき長々と言ったことの最後の部分を切り取って話の辻褄を取り繕うように言った。

「あ、はい……」

 今の沈黙は何だったのか。

「水越君、最近、業績いいよね。何か変えたこととかあるの?」

「そんなことないですよ。部長のアドバイスに従ってやってきたんですけど、しっかりお客様のお話を聞くことを意識してます」

「おお、素晴らしい」

 そこは少しずつでもできるようになってきたという自負があり、晴香は笑顔だった。顧客に嫌われて、落ち込んで会社の門を渡っていたことが遠い昔のようで、懐かしむ自分がいた。保険屋としての筋肉が膨れ上がることで、沈黙のことは一時的に忘れ去られた。


 立花がエピローグの修正を申し出てから二か月後、妙子から連絡が入った。

「もしもし、水越です」

「水越さん」

「何かございましたか」

「先週、主人が亡くなって。すぐにこういう話も変なんだけど、保険金の支払いの手続きをお願いできるかしら」

「ああ……」

 がん細胞は目に入らぬ勢いで立花の身体を蝕んでいった。妙子は心の整理をつけてから連絡したようだ。だから配偶者の死に動揺した様子はなかった。

「すぐに手続きに入りますね。そのために、書類を準備していただく必要がございまして」

 適切な言葉が見つからない中、どこか事務作業のような口調になる。初めての手続き申請に少し手が震える。もっと経験があれば、何か気の利いたことを伝えることもできたのかもしれない。業績はよくなっても常に経験の無さと向き合う瞬間が続く。

「あの、奥様もお辛いと思いますので、ご無理なさらないでくださいね。何か不明点などあれば、いつでもお聞きください」

「ありがとう」

 すぐに事務センターに連絡を入れた。四十年以上払った保険金の集大成。金額は一千万。契約時に立花自身で決めた金額だ。これは高いのか、安いのか。身を凝らして召使のごとく働いた毎月の給与から立花が払っていた保険料の見返りだ。多いも少ないも関係ない。金額に難癖をつけてはいけないと思った。

 配偶者が亡くなった時、気持ちの整理をするのにどのくらいの時間が必要なのか。

亮が亡くなってしまった時、どうなるのか。何か月もかかるかもしれない。いや、もっとかもしれない。晴香の苦労話を聞き、顧客の紹介もしてくれた。協力する謂れのない亮を巻き込んで仕事をしていたことが、はっきりと形となって浮き彫りになった。薄給に気を取られて顧みていなかった。それでもふくやかに笑って、時に言いにくいことも晴香の心が痛まないように、柔らかい場所を探して伝えてくれていた。感謝と申し訳なさがじわじわと染みこんできて模様を作っていくと、目頭が熱くなった。

 しばらく時間を置いて、晴香は妙子に連絡を入れた。すると、「午前中が空いている」という回答が返ってきた。たまたま午後に予定が集中していたため、晴香は朝の会議が終わるとすぐにオフィスを飛び出した。スケジュール管理が自分でできる点は、この仕事の強みだ。


 立花の自宅近く付近。最初に訪れた時に目に付いた庭の美しさはそっちのけで、ヒールの音を静めた。どういう表情で会ったらいいのか分からなかった。

 プロフェショナルで相手に変な気を遣わせない表情か。

 捨て猫に寄り添うような優しくも同情たっぷりの笑顔か。

 長年保険金を収めてくれた感謝の表情か。

 それか、水越晴香としてのそのままの笑顔か。

 どれがいいのか。

 候補が多すぎて上下左右に揺蕩っていた。埒が明かず、とりあえず声をかける言葉を考える。マニュアルに従って声をかけた方が早いが、それだと素気無い。台詞を棒読みする役者のようで、妙子に負の感情を抱かれそうで嫌だった。

 すると立花家の玄関が開いた。ピクリと体を揺らした。まるで地面が跳ね返るように晴香の身体は押し出された。視線がしっかりと合致してもう逃げられない。焦りとぎこちない笑顔だった。

「水越さん」

 あくまでも気丈に振る舞うように声のトーンが高かった。それに晴香は救われた。この場に及んで妙子に助けられている。頼りない保険屋だ。

「妙子さん、こんにちは……その後、いかがお過ごしですか」

「ああ、思ったよりも大丈夫だったわ」

 晴香向けに出てきた言葉だろう。

「お元気そうでよかったです」

「覚悟もしてたからかしらね」

 恐らく旅行に出かける以前から、妙子は気付いていたのだろう。一緒に生活を共にしていたら、行動や言動で分かるだろう。立花も嘘が下手だと言っていた。

「はい……まだ立花様が亡くなられて、間もないのに申し訳ないんですが、お伝えしたいことがございまして」

「いいのよ。誰かと話してた方が気も紛れるしね。上がってちょうだい」

 居間に案内されて妙子と対峙する。まずは出かけた旅行について聞いた。張り詰めた空気にどっぷり浸かりながら話を進めたくない。

「結構歩いたからくたびれちゃったけど、楽しい旅行だったわ。京都の南禅寺に行ってきたのよ。行ったことなかったから良かったわ。特に行きたいって思うところがない人だから、主人が決めた場所に行くばっかりで」

「そうなんですね。私もそんなタイプです」

 亮に連れられて訪れる先々を思い出した。亮は申し訳なくなって、いつも「次は晴香の行きたい場所」と言っていた。それでもすぐに目ぼしい場所が思いつかなくて、「亮の行きたい場所」に行き着いていた。

「そうなの。なんか気が合いそうね」

「そうですね。嬉しいです」

 つい最近、家族の一人を失くしたとは思えない飾らぬ笑みに、妙子の心の強さを見たような気がした。

「近くにあるお豆腐のお店が良かったわ」

 慣れない手つきでスマホに触れ、写真を見せてくれた。

「ああ、美味しそう! お腹空いちゃいます」

 湯豆腐が楽しめるお店で小皿に盛られた京野菜を使った前菜、メイン、デザートでお盆に埋め尽くされている。妙子には多いんじゃないかと思った。

「美味しくて夢中で食べちゃったわよ」

「そうなんですね。旦那様が見つけてきたお店なんですか?」

「みたいね。色々と調べてたから」

「素敵。行ってみたい!」

「彼氏とぜひ行ってみて!」

 彼氏の有無を知らずに言う妙子に、晴香は笑顔で応えた。もうこのまま旅行の話で終始したい気持ちに駆られる。下手に保険金やエピローグの話を持ち出して悲しみに足元を取られたくない。「意外に大丈夫」なんて言葉は、裏返せば違う言葉が書いてあるだろう。

 しかし事務手続きは早急に終わらせて、立花の死と向き合わたい。エピローグも自分の呼吸を確かめるようにゆっくりと読ませてあげたい。

「妙子さん、こちらがお支払いの金額が記されている書類です」

 唐突だったかな、と思ってしまいぎこちなくなる。でももう口に出してしまったから貫き通すしかない。もう勢いだった。

「ありがとう」

 目を通す妙子をじっと観察してしまう。金額に目が留まって少し沈黙になった。長年払ってきた金額の割には少ないと感じているだろう。金額に文句をつけるような人ではないと思うが、立花が稼いだお金を削り取って払ってきたものだ。見返りが少ない気がして、晴香は窮屈になってきた。

「ありがとね。あの人からの最後のプレゼントだから……」

 晴香は黙って頷いた。

「お金なんて別に要らなかったのよ……」

「……」

「一緒に過ごせればそれでよかったのに……」

「……」

 言葉を十二分に噛みしめて頷くしかできなかった。

「結婚してから、あの人は仕事しかしてなかったからお出かけもできなくて。結婚前の方が一緒に居たんじゃないかって思うぐらいだったから」

 晴香はただ頷いた。

「お金なんていいから、もっとどこか行きたかったわ……一緒に居る時間が少なかったから、ここまで一緒に居られたんだろうけどね」

 妙子は冗談めかして笑った時に、落涙した。それは頬にも触れずにただ衣服に落ちていった。山々から流れてきた一粒の雫のように美しかった。

「今になって思えば、ゴルフも一緒にやっておけばよかったわね。せっかく誘ってくれたのにね……」

「実は、今日お伺いしたのは、エピローグのことをお伝えしたくて」

「何だったかしら」

「立花様が生命保険に加入していただいた時に、書いた手紙があるんです。亡くなった際に保険金の受け取りの方にお渡しするもので」

「ああ、そう。そんなの書いてたのね」

「はい。実は、この間、挨拶にお伺いした後、立花様がこっそりお電話で申し出てくださって、『書き足したいことがある』と。その時から、もう長くないと、悟っていたようですね。妙子さんへの思いがギュッと詰まっている手紙ですから、お時間があるときに読んでみてください」

「どうしたら見れるのかしら?」

 立花が持っている被保険者用の専門サイトから、画像データとして閲覧できる。晴香はその詳細が書かれた書類を目の前に出して説明した。

「今、閲覧できるかしら? お時間は大丈夫?」

 妙子は使い慣れていないパソコンで、手順が記載された書類があったとしても心配だった。

「もちろんです」

 パソコンを立ち上げてもらった。スマホからでも見ることはできるが、妙子にとっては字が小さくて読みづらい。

 晴香は閲覧の仕方を予習してきたが、初めてなのでしっかりと書類に書かれた通りに開いた。立花からの最後のラブレターを前に、頼りなくそそくさとしたくなかった。

 画面に『画像を開きますか』と表示された。許可を得て開いた。

 エピローグという形で、立花と妙子のプライベート空間が画面上に広がっている。晴香の仕事はここまでだ。すぐに背を向けて日差しを受けた庭に目を据えた。ふと考えた。

 溢れかえる記憶や気持ちを綴っていた時、立花はどんな気持ちだったのだろうか。

いつ迎えるか分からない最期の時。明日歩くことができなくなるかもしれない。書きたくても書く意欲が湧いてこないかもしれない。時を刻む度に迫り来る死と闘いながら最後まで書き上げたんだ。

 妙子が真剣に黙読しているのだろうか、静まり返った居間。近くに置いてあるティシュペーパーを一つ引き抜く音が聞こえた。涙を拭うためだろうか。そんなことをされたら晴香も泣いてしまう。ごまかしきれない。妙子の邪魔をしてお暇しようと思ったができなかった。それなら画像データを閲覧する前が一番望ましかった。ここでもミスが出てしまった。

 後悔していると笑い声が聞こえた。晴香は先の尖った棒で心臓を突かれたかと思うくらいにビクリとしてしまった。それは面白いから笑っているのではなくて、どこか呆れたような意味が含まれているように感じた。振り向きたくてもできなくてただ硬直してしまった。

「水越さん!」

 威勢よく「はい」と言った。上ずった声が居間に響いて赤面した。

「ちょっと見てちょうだいよ!」

「あっ」

 唖然としながら手招きをする妙子のそばにゆっくりと近づく。なるべくエピローグを見ないように配慮した。パソコンのそばにあるペン立てを見つめた。

「あの人、箇条書きでなんか色々書いてるのよ」

 晴香は笑顔を作った。ペン立てを見つめながら、何かも分からず笑っている自分を客観視したら変で仕方ない。

 妙子が一部を読み上げた。

『自分にはもったいないぐらいきれいな人だ。こんなきれいな人を、一生かけて幸せにする自信がなかった。しかしこれも縁だ。なんとか頑張ろう』

 妙子は大きな声をあげて笑うと、「何を言ってるのよ!」と言った。

「私、普通の顔だったのよ。大袈裟なのよ! この時から目が悪かったのかしら」

 晴香は口を抑えて笑いを堪えた。

 次は、結婚してから初めて入居したアパート。

『毎日を過ごす場所が質素ではだめだ。だから身の丈に合わないアパートを借りてしまった。少し後悔。しかし、嫁が喜んでくれていたらそれでいいんだ』

 読み上げる妙子の口調が映画の主人公のようで、立花の声がそのまま再生されているようだった。妙子に幸せを吹き込むために立花は若き日々を過ごしてきた様子が感じ取れて涙が落ちた。

 妙子はタオルを手渡した。

「なんであなたが泣いてるのよ!」

「すいません……立花様のお気持ちが沁み込んで……」

 タオルを借りることなく、持っていたハンドタオルを出した。使わないのも申し訳なく思ったが、お客様にいくつもの雫で濡らしたタオルをそのままにできない。洗濯して返すのも気が引ける。

「第一子の誕生。抱き上げた時の感動は忘れない。相談した結果、自分のことも、相手のことも考えて行動できる息子になってほしいという意味で、考太郎と名付けた。我ながら良い名前だと思った」

『多忙な日々。家族と時間を過ごしたい。考太郎の世話も任せてばかりだ。でも仕方ない。取材先で買った手土産で、罪滅ぼしだ。すまない』

『久しぶりの家族との時間。車で東北へ。思いっきり羽を伸ばした。このまま時間が止まってくれたらと思うぐらい充実した時間だった』

 妙子はさらに少しずつスクロールしていく。エピローグレターは手書きで五枚にも及んだ。達筆で硬筆の先生をやっても遜色のないレベルだった。読みやすいように行間が一段空いているのを見ても妙子への配慮が見えた。それはきれいに施された花壇の手入れにも活かされたのだろう。

「お金なんていいのに……もっともっと一緒に居られればよかった……」

 妙子の手が目元へ行く。涙を拭き取って平静を装うためだ。それでも隠しきれずにパソコンの前から離れた。

 晴香はその時、立花が記したエピローグを目にした。ダメだと分かっていたが、スクロールしてしまった。最後には、

『私と人生を共にしてくれた妙子、考太郎。ごめん。ありがとう』

 

 立花の一件を終えると、晴香はまた清松に誘われて居酒屋へ出かけた。その日は個室だった。仕事のことは抜きにして、普段話題に上がることはなかったプライベートな話になった。立花のことを話すと、また涙してしまいそうだったからだ。真面目に耳を傾けてくれる清松に、晴香は何の違和感もなく私生活や亮のことが話題に上がった。恋愛ネタになると、ドミノ倒しのように次々に質問が飛んだ。当たり障りのない話題よりも話を広げやすい。それは晴香も分かっていたから違和感も覚えずに話し続けた。顧客との営業で自分をさらけ出すことに抵抗が薄れていたことや、誰かに聞いてもらうことで、亮への気持ちが整理されているとさえ思った。

 時間が経ち、水滴という汗をかいたグラス。底には水が溜まっていた。晴香はそれを拭き取ろうとグラスを持つと、酔いもあってかグラスが指先から滑り落ちた。幸い、量を残していなかったから手元にあるおしぼりですべてを片付けることができた。グラスも割れることはなかった。床に落ちた小石のように小さくなった氷を拾い上げていると体験したことのある沈黙がやってきた。

 晴香は身動きができなくなった。視線が深く釘打ちされるように突き刺さる。耐えられなくなって顔を上げると以前と同様すぐに逸れていった。

 清松は普段通りを強調するかのように立ち上がった。

「大丈夫だった?」

「はい……」

 拭く場所はもうなかったが、清松はおしぼりを手にして晴香に近づいてきた。細かい小芝居をしながらも、また視線はどこか一点にあった。頭上からライトで照らされたベージュのストッキングに包まれたふとももだった。それに気づいた晴香は店員を呼んで距離を取った。清松も晴香ら女性社員に男性の顧客を相手にする際は気を付けるようにと散々言ってきているから、清松も嫌な気持ちはしていないだろう。


 そしてあの日。

 誰かを待っているのか、会社に残っていた清松は晴香をいつものように飲みに誘った。特に予定もなく家にもご飯がなかったから断る理由が見つからずに「行きます」と返事をした。

 亮には清松と二人で飲んでいることは伝えていない。これが最後にしようと思った。ちょうど出張でインドネシアにいる亮が、国内にいないことをいいことに清松と飲みに行くことに、だんだん申し訳なく思えてきた。

 どうしてだろうか。

 立花とのことを経験して、亮への気持ちが強くなってきたのか。さりげなく財布を出して中身を確認する。「お金がない」と言えば、清松も引き下がるだろうか。支払いは当然のように清松がしている。今まで、「俺のメンツもあるから奢られてくれよ」と、晴香がお金を出しても取り合ってくれなかった。金銭の理由で断るなら頓挫するだけだ。それなら、わざとらしく急に予定が入ったことにした方がいい。亮の名を出せば引き下がってくれるだろうか。

「すいません、思い出したんですけど……」

「彼氏と予定あった?」

「ああ……はい」

「インドネシアに行ってるんじゃなかった?」

 晴香は言葉を失った。亮のスケジュールを覚えていた。清松の記憶力。それは営業には必要な能力のひとつだ。それでも国名まで出てきたのが驚きで仕方なかった。

 逃げ場を失った。嘘をついてまで断るのも気が引ける。今までずっと助けてくれた上司だ。

 清松の視線を感じて晴香は仕方なく笑みを作ると、こう言われた。

「もう買ってきてあるから、ここで飲もうか」

 清松はどこかを指さした。とにかく食事と酒はあるということを教えられ、空気を掴むように持ったままになっていた財布をしまうように言われた。仕方ないと思い、どこか居心地が悪そうに清松の後ろについて社の廊下を行く。この空気は清松にも伝わっているだろう。辿り着いたのは応接室だった。課長や部長クラスの人間しか出入りしないような場所。本棚には社長が執筆した書籍が並べられていて、社長室を思わせるような雰囲気だ。少なくとも晴香には仕事終わりにゆっくり時間を過ごせる場所では到底なかった。

 晴香は二つ並ぶアームチェアーの一つに座って荷物を隣に置くと、清松は向かい側にある長めのソファに座るように言った。「女性には良いソファを」と配慮してくれているのだろうが、何か奥手があるような気がしてならない。まるで新規顧客の裏に隠れる他の顧客を探るようだった。もしかしたら、思わぬ形で契約が舞い込んでくるかもしれない。そう思って晴香自身もしてきたことだ。ビジネスだから言葉の裏に何かが隠れていたっておかしくない。そう教えられてきたし、保険という名の敷物の上にいれば、自信を持って顧客を万一あった時に救うことができる。その考えが浸透している。だから悪意などない。

 晴香は遠慮してアームチェアーに居座るつもりだったが、何度か促されてやむなく移動した。いつもよりお酒の量が多い清松と時間を潰していく。食費が浮いたことをプラスに考えて捉えるしかない。何事もプラスに捉えて前に進む。それが清松や長内に助言されたことであり、同期や同僚と共有しただ。

 清松の視線が座っている。晴香の隣でスペースを持て余すソファ。清松が急に立ち上がった。晴香は呆気に取られた。すぐに隣を見ると清松があっという間にソファに大きな穴を作るようにどっしりと座った。その時に気付いた。清松がお酒臭くない。

 それがどうしてなのか、すぐに理解できた。

 またやってきたあの沈黙が応接室内全体を包囲している。

 清松の視線が少しずつ移動していく様を見てゾッとした。立ち上がろうとした瞬間だった。

「水越君はいいよ。いつも私の話を聞いてくれるから……」

 耳元で囁かれた。生温かい吐息が電撃を与えた。

「いえ……いつも、あの、ご指導いただいてありがとうございます……」

 警戒心の水かさが一気に増して溢れかえった。

「そんな固いことを言わないで……楽にしてよ」

 清松は晴香の肩を抱いた。ブラウスのツルツル感を確認するかのように動かす手に凍り付いてしまった。危機回避能力が働いて優しく手をどけて晴香は立ち上がると、次は晴香の手を掴んだ。一気に力が入って、引っ張り合うような姿勢になり、清松は立ち上がって晴香をソファに座らせた。

「この辺で失礼します」

「待てよ。もう少しいいだろ?」

 清松の口調がいつもより強くなり、右手を腰に移動させて左手で晴香の手に触れた。

 頭が真っ白になり、「ちょっと……」と、声がひび割れた。

「ちょっと何?」

 スカートを直さずに座ったせいで露出した太ももがあった。スカートを直すふりをして清松の手が太ももを愛撫している。手を瞬時に振り払って逃げようとしたが、清松は晴香を押し倒して耳元でこうささやいた。

「一度ぐらいいいだろ」

 二度も吹きかけられた吐息に目をギュッと閉じて耐えた。

「お、落ちついて……」

「私は落ち着いているよ。落ち着きがないのは水越君でしょ」

 清松の手が晴香の胸元を通過した。

「誰のおかげでここまで成長できたんだ? 金が入っただろ? 誰のおかげ?」

 今までに聞くことのなかったトーンで晴香の弱みを握りしめた。確かにここまで成長できたのは清松を初めとした周囲の人々のおかげだった。業績も伸ばしてお金が舞い込んできた。でもできる努力もしてきたつもりだった。右も左も分からない保険屋。周囲の人々の伝手を頼って寄せ集めた顧客たちがいた。できることは時間が許す範囲でやってきた。手塩をかけて作り上げたものを根底から崩して上から踏み倒すような言い方だった。

「ひとりでは、難しかったろ」

 今まで積み上げてきた努力があっても、清松を前に豪語できなかった。悔しくてたまらなかった。

「俺の言うことを聞いていれば、金は入る。優遇だってできるんだよ」

 そう一方的に言い放った。今まで晴香に与えてきた励ましの言葉や褒めは、すべてこの状況を作り出すためのものだった。涙が流れた。抵抗する気力が削がれていく。ブラウスのボタンを外されてもただ涙を流すだけだった。そんな晴香の姿を見て、清松は行動をエスカレートさせた。最中にまた吐息が漏れる。全身に鳥肌が立つほど気持ち悪くて震えた。

 事が終わったあと、清松はテーブルに残ったごみを片付けていた。晴香は露出した肌を隠す。窓越しに映る清松の姿。それは、痕跡を一つ残らず拭き取って今日の出来事を闇に葬り去る必死な姿だった。この場を乗り切ればまた普通の日常が待っている。

 片付けが一段落すると、晴香に部屋をすぐに出るように命令した。すぐに施錠しなければならないという理由だった。父親が娘を育てるように見ていた目はどこかに遠ざかり、投げやりな態度から『用済み』という言葉が見えた。離職率が高く、晴香の同期もほとんど消えていった。晴香も時間の問題と思われているんだ。実績を残したとしても助言がなければ何もできない。毎月高い実績給が保証されていない。生活の不安に背筋を煽られた時、辞める選択をするだろう。辞めても会社は困ることはない。新人を採用して家族、親戚、友人などを通して新規の顧客を集める方が手っ取り早い。その態度が露骨に出ている。この空間に一緒にいると胃液が逆流するぐらい嫌だ。無我夢中で応接室を出て行った。


 あの日以降、出社することはなかった。突然辞めてしまう社員は今までにもたくさんいた。だから不思議に思われることなく、「ついにあの子も」という程度で片付けられていた。「せめて引継ぎぐらいしてから辞めろ」と吐き捨てる先輩社員もいた。

 今も残る清松の吐息を取り出そうと耳をまさぐる。まくしたてられた侮辱の言葉たちが脳裏で繰り返す。生活の不安に付きまとわれながらも、できる努力はすべてしてきたつもりだった。それを認めてくれていた人。信じていた人。上司として尊敬していた人に裏切られてしまった。自尊心は破壊され、性のおもちゃにされても何もできない無力感に包まれて流れるのは涙だけだった。あとは遊び飽きたおもちゃはゴミ箱にすげ捨てられた。

 顧客を紹介してくれた両親。近くに住んでいた達司。美佳をはじめとした友達。そして交際中の亮。誰にも清松のことは漏らすことはできなかった。一生封印したまま生きなければならないという固定概念が居座っている。食欲もない。仕事で関わった私物は清松との出来事を思い出す材料になった。カビが生えて小さな黒斑があちこちに点在しているようでゴミ袋に押し込んだ。

 現実逃避をするように目を閉じた。動画など撮影されていないか不安に襲われる。それがインターネット上で出回ったらと、確証のない負の妄想が膨らむ。動画じゃなくても、録音されているかもしれない。貯水タンクが破裂したかのように涙が噴き出した。

 死にたい。

 晴香と周囲の人々の間に強固な壁となって立ちはだかるもの。それは晴香にしか見えない境界線のテープ。もう普通の人間ではない。もう涙しか出ない。全ての水分を涙に変えて脱水状態になって死を迎える……そんな気がしてきた。それならそれでいい。

 あの出来事の後、最初に言葉を交わしたのは亮だった。

 仕事で忙しかった晴香から仕事を取ったら、家にいるかしかない。亮が疑問を抱かないわけがなかった。しかし理由は話せない。

「ちょっと、疲れちゃって……」

 ネットで拾い上げたような安易な理由。多くを語らない晴香に亮は解せなかった。

 亮に紹介してもらった顧客もいる。その人からも心配の声が上がっていた。顧客のことを持ち出されると申し訳なくて涙が出る。自己嫌悪で顔が泥にまみれた。未熟で頼りない晴香の話を聞いてくれた人たちだからだ。

 だんだん衰弱していく晴香を心配して、亮は時間が許す限りそばにいた。晴香は嬉しかった半面、いつまた同じことを聞かれるか不安がまとわりついて落ち着かなかった。どんなことがあっても、どう聞かれても口を割ることはできない。それから逃れるように、晴香は亮によそよそしい態度を取ってしまう。抱きしめられても距離がある。気付かれているかもしれない。亮と晴香の間には「境界線」があると。

 亮に真相に触れられぬストレスがのしかかる。交際している相手に言えない出来事とは何なのか。ショックだった。とうとう耐えきれなくなって、「絶対に受け止めるから」と食い下がった。それでも決して口を割らない晴香。どこか計り知れない溝を感じて、将来はおろか、交際を続けることにも暗雲がたちこめていった。それを何もせずに見ていることしかできなかった。気が付いたら、亮の姿はなかった。

 最初にあの日の出来事を打ち明けたのは、美佳だった。性被害に遭って一か月ほど経過していた。

 散らかりつくした部屋。ごみもしばらく出していないようで異臭がする。夜にごみを出しに行くのが怖かった。冷蔵庫にも消費期限が過ぎた食べ物が並ぶ。誰が見ても分かる衰弱した様子。眠れないのか目元が青ざめていて、無駄な脂肪が全て削ぎ落されたような頬。呼びかけてもなかなか返事も返ってこない。ただごとではない。

「晴香、何か食べたら?」

 頭痛で何の反応もできなかった。

「体に悪いよ」

 そう言って美佳は体に触れると、中枢神経にヒビが入ったかのようにビクッとした。すぐに手を放して美佳は顔を背ける晴香を見た。

「晴香……何か……あった?」

 無言を貫いて固まる。

「言ってよ、楽になれるなら」

 その言葉が辛い。優しくされても話せない。寄り添ってくれる美佳に対して無言で素っ気ない態度を取らないといけない。

「圧をかけてるわけじゃなくて……」

 埒が明かない。涙を落とす晴香のそばに寄り添って美佳は懇願した。

「教えてよ! このまま帰れないよ!」

 亮にも同じことを言われた。頑なに真相を話さない晴香に愛想つかせて去って行ってしまった。美佳はどうなんだろうか。いずれ離れていくんだろうか。そう考えたら尚更真実は打ち明けられない。

 もう人には会えない……。

 晴香は変わってしまったんだ。みんなは諦めて、毎日に忙殺されて、晴香の存在さえを忘れていく。とてつもない恐怖と孤独だった。本当に一人になるんだ……でも美佳だけは失いたくない。

「死にたい……」

 ようやく一歩を踏み出した。しかし話していくにつれて後悔した。

 美佳が声を出さずに泣いていた。巻き込んでしまった。一生、胸中で留めておくべきことだった。 

「絶対許さない……」

 いつもの明るい美佳が、限りなくトーンを下げて言った言葉だった。

 それに晴香は怯えた。周囲に知られてしまう。自分自身の身体を蝕んで防いできたことが知れ渡ってしまう。動画が拡散されるようなスピード感で次々に広まっていく。また一人。また一人。汚された体を引きずる晴香を、興味本位で噂する人々もいるかもしれない。同情されるかもしれない。心無い言葉を吐き捨てる人もいる。もう恐怖でしかなかった。

「警察突き出してやるそんな奴」

 美佳にしがみついた。

「立派な犯罪だよ」

「お願い、お願い」

「せめて達司さんには知っておいてほしい」

 躊躇った……でもやむを得なかった。清松に助言を受けて稼いだ金が底をつく。全て燃やして跡形もなく消し去りたいが生活できない……死にたい。

 美佳に連れられて、達司に真相を話すことになった。

 達司は目を充血させ、体内に流れる全ての血液を沸騰させるように怒りを表した。優しい達司が怒ると想像以上に怖い。拳を作る達司の胴体に、晴香は体当たりして制止させた。

「やめて、絶対やめて」

体温が変化するかと思うぐらい晴香の体は冷たかった。

「分かった……晴香、ここに来いよ。一緒に暮らそう」

 達司は晴香を抱きしめた。晴香はコクリと頷いた。

「もう一人じゃないから。どんなことがあっても晴香の味方だから。何かあったらいつでも教えて。すぐに行くから」

 美佳は背中をさすりながら言った。

 一人じゃない。だから、早く立ち直って二人を安心させたかった。しかし無理だった。この記憶を消し去ることは、生涯の時間を費やしたとしてもできることではない。一生付きまとわれて苦し紛れに生きなければならないとてつもない重圧感。

 今でも性被害について両親は知らない。自殺未遂を図ったのは、汚れた自分から逃れるための手段だった。宗一郎に過去を語り、涙する意味はそこにすべて凝縮されていた。目に見えぬ重力を背負って生きる晴香の姿があった。


 保護観察所内にある一室。中には吉野と宗一郎がいる。

 明石が中の様子を窺うが、静寂だけが聞こえてくる。

 吉野が宗一郎に一つの冊子を手渡した。表紙には「あの時。犯罪被害者の声」とあった。これは性犯罪者処遇プログラムのDセッションにあたる「被害者の実情を理解する」で使用される教材だ。被害者が受ける影響について、被害者の立場に立って考えさせるDセッションの「被害者の実情を理解する」である。

 傷害事件から宗一郎の起こした性犯罪の事例や、殺人事件、未成年の集団暴行事件の被害者遺族の声も含まれている。

 それを宗一郎に読んでもらい感想文を書いてもらう。

「二十九ページを開いてください」

 目次によれば、性犯罪の被害者の手記。

 宗一郎は無反応だった。ただ、「あの時」という文字を見つめるだけだった。三度名を呼んだがいっこうに変化がない。吉野は気長に待とうと思った。強制的に読ませても仕方ない。一時的に視線をそらして時間を刻む。

 雨粒が落ちるような音がした。吉野は雨音かと思ったが、防音設備があり雑音など響くわけがない。もう一つ落ちた雨粒の正体は宗一郎の涙だった。ゆっくり本に手を動かして指先で該当ページをめくると、文字の上を歩き始めた。

『私の目の前に線が見えるんです。みんなには見えないかもしれないけど、はっきりと黒でまっすぐに伸びる線です。前に行けば行くほど、以前の自分を懐かしく思い、笑顔を見せる自分がいました』

 宗一郎は冊子を閉じた。目を開ければ刃物が落ちてくるとでも思っているのか、必死で目を閉じている。大きく鼻をすすった。むせび泣いている。

「読め……」

 唾を喉に詰まらせた宗一郎は咳き込んだ。

「読めないですか?」

 宗一郎は頷いた。

「これも更生プログラムの一つです。今、順調に来ています。向き合いましょう。時間がかかっても構いませんから」

 吉野の真面目なトーンが宗一郎の耳に入ってきた。逃げられないと思って、再度ページを開いた。

『あの時、耳元で床を傷めつける音が聞こえました。すぐに刃物だと分かりました。それがだんだん近づいてくるんです。少しでも動けば耳を覆う皮膚に触れる。下手に抵抗すれば本当に殺されるかもしれない。目の前を直視することはできませんでした。獣になって息を荒げる見知らぬ男。この状態に持っていくまでにかかった労力。それを回収するように息を吸って吐く。壊れかけの扇風機が動いたり止まったりを繰り返すようでした。それがとてつもなく気持ち悪くて、今でも気絶してしまいます。だから、エアコン、換気扇、心地よいそよ風でさえ嫌いになってしまいました』

 事件当時、宗一郎は近くにあった枝を凶器に変えて被害女性を脅した。抵抗する意思が薄れていったことを覚えている。きっと、もう殺されてしまうかもしれないと思ったんだ。

 レモンを力いっぱい絞るように目を閉じて涙を押し出した。

 宗一郎の脳裏に一人の男が鮮明に蘇ってきた。前職の上司であった増本だ。犯行に及んでいた時の宗一郎は、増本だった。力では及ばない女性を押さえつけて虚勢を張り、優位に立っていただけだった。反吐が出るほど嫌いだった人間と同じだったんだ。

 被害女性の人生をめちゃくちゃにしてしまった。手紙を書き続けても届かない。当然だった。今、女性はどう生きているのか。

 宗一郎は椅子を勢いよく倒して立ち上がった。手記を握りしめて頭を掻きむしっている。間を置かず保護観察官は立ち上がって駆け寄った。

「伏屋さん!」

 近くの簡易椅子に座っていた明石は、体をひねって部屋の様子を伺った。

宗一郎がかすれた声で「ああああああ」を叫ぶ声が漏れてきて思わずドアをノックした。ただ事ではない様子が伝わってきた。

「どうかしましたか?」

 保護観察所の職員が近寄ってきた。

「鍵、お願いします」

「はい」

 中に入ると、普段は大人しかった宗一郎とは打って変わって獰猛な宗一郎がいた。床を容赦なく叩き続けて室内に轟音を鳴らしている。

「伏屋さん!」

 明石は宗一郎の手を掴もうとするも、手の動きが見えないくらい速い。三人がかりで太刀打ちしようとしたが振り払われた。

 宗一郎は壁面に頭を打ちつける。吉野が宗一郎の背後に回って羽交い絞めにして止めるも効果はなかった。

「伏屋さん、今日はもういい! もういいから!」

 明石がそう言っても、聞く耳を持たないごねる子供のように叫び続ける。

「何があった!」

「もう殺してくれ!」

「どうして!」

「殺してくれ!」

「落ち着いて!」

「早く殺せよ!」

「今頑張ってるじゃないか!」

「うるせえ!」

「私は殺さない!」

「あんたに何が分かるんだよ!」

 宗一郎が明石の胸倉を掴んだ。

「分かるよ! 出てきてからずっと伏屋君を見てきた。晴香ちゃんに励まそうと、図書館行ったじゃない。すごく大切に想っているんだって」

 宗一郎は呼吸をかき集めながら黙っている。

「だから、自分を傷つけることは止めてほしい。もうね、これだけは私と約束してほしい」

「死ねば、もう同じことを繰り返すこともない」

「だからって死なすわけにはいかない」

「死んで被害者に詫びるしかない……」

「手記の言葉を思い出そう。思い出すんです。手記の言葉を」

 行き場を失くした冊子が床に転がっている。

「伏屋さんの気持ちは分かったから。被害者のことを真剣に考えることができた」

「明石さん……」

 宗一郎の問いかけに明石は頷く。

「読みます……最後まで、読みます」

 宗一郎は明石と吉野に支えられながらしゃがみこんで、形が歪んでしまった手記を直した。


 日差しが晴香の部屋を照らす。

 宗一郎に過去を告白してからの時間を数えていた。もう数日が経っている。

 真相を伝えた日。宗一郎はただ話を聞いていた。その後、ただ晴香の手を引いてアパートまで送ってくれた。受け止めてくれていたような気がした。もう言葉なんて要らない。もともと言葉数が少ない人だ。だから何も言わなかったのだと、そう思った。いや、そう思いたかったんだ。

 受け止めることができなかったんだ。

 どこか期待していた。宗一郎なら受け止めてくれるかもしれない。そんなわずかな可能性にしがみついて勇気を振り絞った。

 またはっきりとテープが見える。宗一郎に過去を打ち明ける前と後。性被害のことを忘れさせてくれた宗一郎との日々。前の方が幸せだった。

 スマホは水を打ったように静かだった。晴香から連絡するという手段はなかった。追えば逃げる。宗一郎に変な圧力をかけたくなかった。次第にスマホを見つめることでさえ、億劫に感じて枕でスマホを隠した。その時、改めて晴香と晴香を取り巻く人との間にとてつもなく深くて大きな溝があることを可視化できた。

 宗一郎と言葉を交わすことができないかもしれない。

 目を閉じて現実逃避をするも、目をこじ開けてでも直視しないといけない現実が迫ってくる。視線は下に落ちていく。普通に生きていくことはもう無理なのかもしれない。悪あがきをする子供のように、小さなひとかけらの希望を追いかけた末路だったのか。力を抜き取られた体はパタンと倒れた。


 数台のトラックが出入りする。

 堤が会社の入り口にいる人影を見つけた。男性従業員しかいない中、黒のパンツスーツを身に着けた女性がいたら目立つ。何かの営業だろうか。そこに灰色の作業服を身に着けた長身男性が駆けつけた。堤は事務所を出た。

「あの……何か御用でしょうか?」

 来客応対をするように、堤は柔らかく言った。

「いえ……」

 声の主は美佳だった。隣にいる男性は達司だった。

 宗一郎からの連絡を一途に待ち続ける晴香を見ていられなくて、行動に移した。

とにかく今の状況を聞きたい。なぜ連絡してないのか。

「伏屋さんは……勤務中ですか?」

 達司が言った。

「……今、休んでるんですよ」

「そうなんですね……」

「はるかさん、ですか?」

 堤が美佳と目を合わせて言った。

「いえ、晴香の友達です。杉浦と申します。こちらが晴香のお兄さんです」

 堤は頭を下げて名刺を渡した。

 ひとまず、娘の関係者ではなかったことに胸を撫で下ろした。よく考えてみれば、夏音の近い知り合いなら制服を着ているはずだ。

 どうして友達と晴香の兄が訪ねてきたのか。

「伏屋君と……何かありましたか?」

「……休んでいるのであれば、今日は大丈夫です。体調不良ですか?」

 達司が言った。

「はい……」

 明石が連絡をくれた。宗一郎は被害者の手記を読んだ際に、頭を打ちつけたせいで軽度の脳震盪を起こした。病院で検査を受けて数日間の安静を命じられた。安静期間は過ぎているが大事を取って休んでいる。

 達司たちは堤にお礼を言って去っていく。宗一郎に会うことが叶わぬままで足取りが鈍い。

「あの」

 堤の声で二人は振り返った。

「伏屋君のこと、お急ぎでしたか?」

「いえ……できれば、お話がしたいなっていう感じなので……」

 達司はそう言ったものの、どうしても話がしたい。しかし体調不良の相手に、無理して出て来いとは言えなかった。

「連絡取れそうなんですか?」

 美佳が声のトーンを高くした。

「……わざわざここまで足を運んでくださっているので、そのまま帰って頂くのも申し訳ないですから、連絡だけでも取ってみましょうか?」

 とは言ったものの、堤は宗一郎が出てくるとは思わなかった。それでもこのまま帰らすのは気が引けた。

「お手数でなければ、お願いします」

 言動は遠慮しつつも身を乗り出す達司。美佳は期待を膨らませながら頭を下げた。


 堤は明石に連絡を取った。

 今の宗一郎を一人で相手にするのが不安で、すかさずスマホを手にした。事情を説明するとかけつけてくれた。吉野にも連絡を入れたが、別件で面談中だった。

 明石は久しぶりに会う教え子に接するように、達司や美佳に近況を聞いた。二人は世間話が目的ではなかったため、返事は素っ気なかった。それを直に感じた明石はすぐに本題に入った。

「伏屋君と、連絡を取りたいんだよね」

 二人は頷いた。

 今はそっとしておいてあげてほしい、それが明石の本音だった。本人も連絡されても会わないだろう。

「じゃあ連絡してみるよ」

 少しだけ距離を作って明石はスマホを耳に当てる。適当な相手を選んで電話をするふりをした。

 わざとらしく電話演技は二回目に入った。堤は明石がごまかしていることに気が付いて、動向を見守っている。

「ごめんね。今は出れないみたいだね」

「そうなんですね……」

 落胆する達司と美佳。

 明石は罪悪感に苛まれた。しかしこれが正しい選択だ。

「もしよかったら、私が彼の寮に行ってみようか。それで言伝とかあれば、お伝えすることはできますが……」

 達司は美佳と目を見合わせて無言の会話をした。

「直接のほうがいいですか?」

 達司は即答で「はい」と言った。

「そのこと、私たちにお話はできないですか?」

 埒が明かないと感じて、堤が一歩先に踏み込んだ。

「……」

「もちろん、秘密は守りますよ……」

 堤は密閉された口元を緩ませようとしたが、二人は何も語らない。

「無理には大丈夫ですよ……ごめんね」

 明石がすかさず言った。見ていられなくなった。

「あの……」

 膠着状態を打開するために達司が口を開いた。美佳は隣でソワソワしている。

「晴香が、伏屋さんと連絡が取れてなくなって……」

「それで、晴香が落ち込んでて……どうかされたかなって……」

 美佳が付け足した。

「そういうことですね……」

 顔を向き合わせて目だけで言葉を交わす明石と堤。

 達司は鏡に反射した自分と美佳を見ているようだった。宗一郎に関して、厚手の布で覆い隠している何かを共有している。

 バーベキューの時に、宗一郎を教え子と称した明石。考えてみれば昔の恩師が警察署に駆けつけてきたあの時からおかしかった。なぜ明石が来ていたのか。この場においてなぜ堤は明石に助けを求めたのか。一体何者なのか。

「伏屋さんに関して、何かご存じのこと、あるんじゃないですか?」

 達司は明石や堤の様子を伺うことなく、間髪を入れずに「もしも何かあるなら、教えていただけないでしょうか?」と続けた。

 明石もできるなら教えてあげたい。おそらく、大切な妹のことだからここまで聞いてきている。そう思いつつも何も語らない。

 堤ももどかしそうに明石に視線を送る。

「以前、晴香のことでご迷惑おかけしましたが……また、同じことをするかもしれない……」

 少なくとも明石には、『同じこと』の真意が分かるだろう。

「お願いします」

 達司は頭を下げた。

 つられて美佳も「お願いします」

「……絶対に口外しないと、約束できますか?」

「明石さん」

 いつになく真面目な表情を見せる明石に、堤が呼びかけた。

「できます」

 達司の居座った瞳を見れば、嘘がないのは分かる。

「ちょっと待ってください」

 堤が明石の前に立ちはだかった。ここは冷静になるべきだ。守秘義務がある。

「堤さん、絶対に言いません。お願いします」

 懇願する達司の瞳に、堤も圧倒された。

「応接室、お借りできますか?」


 四人は席についた。

 まず明石は罪名を伏せたまま、宗一郎には前科があると伝えた。六ヶ月の刑期を残して仮釈放となり、保護観察下に置かれ、明石は保護司であることも伝えた。

 達司は唖然としたと同時に、足元にひっかかっていた鎖の正体が理解できた。命を助けられたとはいえ複雑な気持ちでならなかった。

 美佳は罪名を明かさない明石が腑に落ちなかった。同時に宗一郎が起こしたことがなんとなく予測できた。

「今、被害者の気持ちを知って、自分がやってしまったことを後悔している。今、一生懸命自分と向き合っています」

 堤は黙ったままだった。明石の説明を精査するように聞いていた。

「伏屋さん……何をしたんですか?」

 達司がじっと明石を見ている。

 明石は目を逸らして、「形では、もうほぼ罪は償っているんですが……」

 宗一郎を庇おうとする意図が見える。

「女性に乱暴したんです」

 達司は狼狽えた。

 美佳は目を閉じて今ある現実に目を背けた。予測は当たっていた。

「それは、性的にってことですか?」と達司。

「その通りです」

 達司の瞳が真っ赤に充血している。晴香の被害を聞いた時にも感じた。内側から灼熱の炎が燃え上げるように血液がボコボコと泡で溢れかえった。晴香を苦しみのどん底に突き落とした行為だ。

 そんな男と二人で会うことを後押ししていた美佳は、計り知れない恐怖を覚えた。もしかしたら、宗一郎が晴香に手を出していたかもしれない。氷点下の寒さでできた氷柱で突き刺されたような体の張り。あといくつ、晴香は壁を乗り越えればいいのか。

 達司と美佳の反応を見て、明石は話してしまったことを後悔した。

改めて、宗一郎が起こした犯罪を憎む。被害者だけではなく、周囲の人々まで悲しみに暮れてしまう。これからも誰かが真実を知るたびに驚愕し、悲しみ、恐怖を覚えて去っていくんだ。

「もしかしたら、連絡する余裕がなくなってしまったのかもしれないね」

 明石は想像ではあるものの、宗一郎の気持ちを代弁した。

「晴香が、あの男と交際していたのは、知っていますよね?」

 あの男。破裂しそうな怒りがふつふつと伝わってきた。

「はい」

「それを黙認してたってことですか?」

「……」

「女に乱暴したクズだって知りながら、二人の交際を黙認してたんですか? 妹がそんな危険な状況にいることを知りながら」

 明石は黙っている。

「答えろ!」

 椅子を押し下げて立ち上がった。

「達司さん!」

 美佳が達司の腕にしがみついて座らせた。堤も立ち上がって、「水越さん、落ち着いてください」と言った。

「……晴香は、将来のことも考えていたんですよ」

 連絡は途絶えてはいても交際関係は続いている。あのまま結婚して子供ができていたらと考えると、ゾッとして吐き気がした。

「私も、彼から交際について聞いた時は驚きました。でも伏屋さんが、人を大切にして愛することができるようになるということは、彼にとってプラスになると思ったんです」

「性暴力を振るった男が、人を大切にできるんですか? 晴香はあいつを更生させるための道具じゃないんだよ!」

 明石は達司の言葉を十二分に噛みしめて、数回無言で頷いた。

「お気持ちはよく分かります。私も同じ立場なら確実にそう言ったでしょう……ご理解頂きたいのは、伏屋さんも自分の行いを反省して、一人でなんとか歩こうとしています……」

 妹がいる達司と、女性の美佳を前にして、宗一郎を庇う自分がおかしくなってきて言葉が詰まった。理解を得ようとすること自体に無理がある。しかし、保護司として伝えないといけないことがある。

「もう一度立ち直ろうとしています。妹さんのおかげだと思います……今は見守っていただけませんか? ……何も彼だけのことを考えてるんじゃありません。再犯に手を染めずに、今後同じ被害者を増やさないという意味もあります」

 日が暮れて、応接室のモザイクガラスの奥は真っ黒になっていた。宗一郎の過去を知った今、さらに濃い黒に見えた。

「水越さん」

 堤が沈黙を破った。

「私も娘がいるので、正直、伏屋君をここに受け入れるのは抵抗がありましたし、周囲の理解も必要でした。避けられるのなら、避けたかった。ですが、このことをどう受け止めるかは、晴香さん次第です……」

「……」

 達司は言葉を失った。

 明石も堤も、晴香が過去に背負った大きな傷跡を知らない。だから理解されないのは仕方ないことだった。だが晴香の親族として、兄として到底受け入れられることじゃない。両足がそれぞれの地を踏んでいるような思いだった。

「明石さん、すいません……」

「いえ、そう思うのが普通だと思います。気にしないでください」

 美佳が達司をチラッと見た。潮が引いていくように、怒りは吸い込まれ、いつもの優しい達司だった。

 達司が一点をじっと見つめたまま固まっている。

 このこと、どう晴香に伝えればいいか。

 一番辛い仕事が待っている。

 性暴力を受けてなお、元カレの亮は晴香のもとから去っていった。頑張っていた仕事も失い、彼女の絹香との関係がうまくいっていないことに後ろめたさも感じている。晴香のことがなければ、絹香とうまくやれていたかもしれない。そう考えることがある達司も、遠回しに傷つけているんだ。

「もうこれ以上……」

 達司はポツリと呟いた。心中で行き場を失くした言葉がポロっと出た。

 美佳は、達司が何を言いたいか分かっている。

「苦しめないであげてほしい……」

 殻を破って以前の晴香に戻ろうと思ったのは、宗一郎が好きだったからだ。その相手が離れていけば、想像を絶するような衝撃を受けて、もう死へと突き進んでしまうかもしれない。

 また新しい人を探せばいいなんて、簡単に言えない。晴香が心を許して、安心して過ごせる相手なのか。晴香を海のような広い心で受け止めることができるのか。超える壁はたくさんあるんだ。

「私も気になっていたことがあるのですが……」

 明石がそう言った。

「その……こんなこと聞いていいか、とも思うのですが、晴香さんはどうして、自ら命を絶とうとしたんですか?」

「……」

 完全に立場が逆転してしまった。

 次は達司たちが口を開く番だ。そうささやかれているようだった。

 美佳は達司の様子を窺う。

 言えない。言えるわけがない。

「もしよければ、教えていただけませんか。伏屋さんのためではなく、晴香ちゃんのためです。私たちが知っていて、何か助けられることがあるかもしれない」

 親切心で言っているのは分かっている。でも言えない。口を無理やりこじ開けられたとしても。


 明石と堤が応接室で宗一郎と顔を合わせた。達司たちが宗一郎を訪ねて来てから三日後のことだった。

 髭を蓄えて寝ぐせも立ったままで、食事もまともにできていなくて顔色はすんだ紫色だった。寝不足で目元にはひどいクマができている。洗濯できていないから衣服からの臭いが鼻を刺激した。引きこもり生活の余韻を大きく残している。

 堤は無断欠勤について責めることはしなかった。人手不足に慣れているから緊急で人が休んでしまったとしても、なんとかする術を身につけてきた。だから落ち着いて対面できる。

「体調の方は大丈夫?」

 堤がそう尋ねた。

「大丈夫です……ご迷惑をおかけしました」

 宗一郎は二人と目を合わせることなく、一つの封筒を堤に向けて差し出した。お礼と謝罪が混在する辞表だった。

「お世話になりました」

 宗一郎はとてつもなく低いトーンで声を絞り出した。でもいつもよりも声に張りがあった。

「続けるの、難しい?」

 言葉を失いたくなかった明石は、とにかく話そうと思った。

 宗一郎は頷いた。

「どうして?」

 問いかけても黙ったままだった。これ以上踏み込まれたくない一心で俯いていた。

「せっかく慣れてきたのに、もったいなくないですか?」

 明石がそう続けた。

 変わらず黙っている。

「仕事を辞めて環境を変えるのは、伏屋さんにとってよくないんじゃない」

 口が頑丈な接着剤で固められているのかのように唇はピクリとも動かなかった。

「晴香さんのことだよね?」

 堤がそう聞いた。

 宗一郎に変な力が入った。

「何があったか、教えてもらえないかな? それが原因なんだったら、私も明石さんも知っておいた方がいいと思うし」

 続いて明石が、「私たちにできることがあれば、手を差し伸べることもできます」

 決して言えない。知ったとしても、明石たちにできることはない。

「伏屋君」

 名前を呼ばれても言えない。とにかく辞表を受け取って、ここから逃がしてほしい。そんな気持ちだった。

「晴香ちゃんに背を向けたままでいいの?」

 静寂の中で宗一郎の心音が聞こえる。

 また暴れ出さないか不安で、明石はすぐにでも立ち上がれるように椅子を少しだけ後ろに引いた。

「何かは分からない。晴香さんとの間で。でも、このままではよくない」

 宗一郎も分かっていた。逃げているということは。しかし向き合うにしてはあまりにも辛い現実だった。自分の姿がまた誰かと重なる。増本だった。宗一郎が怒りを爆発させて以来、何も言わなくなり、逃げていく姿にそっくりだった。

 テーブルに涙が落ちた。

「もうこの世を去るしかありません……」

「……」

「……晴香も、被害者の一人なんです」

 堤は背筋が凍り付いて鳥肌が体中を覆った。

「じゃあ、晴香さんも……」

 宗一郎は涙を飛ばして頷いた。

「それは別の事件で?」

 再度頷いて、「だから、一緒にいることはできません」

 達司の怒りや、晴香の過去について頑なに口を割らなかった理由が手に取るように分かった。宗一郎が手記を読んだ際の振る舞いも。被害を受けた晴香の心労を考えると、言葉がなかった。

「それで、晴香さんに連絡ができなくなったんだね」

 明石の言葉に否定も肯定もせずに涙を流した。

「被害女性には、死んで詫びるしかない。それしかないと思ってます……」

 明石は堤と目を見合わせた。宗一郎の考えていることもよく分かる。だからすぐに返す言葉がなかった。死を迎えた方がずっと楽かもしれない。苦しむこともない。新たな被害者を作り出すこともない。

 宗一郎がゆっくりと立ち上がった。深々と頭を下げた。時間にして十秒ほどだった。二人の顔を見ることなく、応接室の引き戸に手をかけた。

「ちょっと待ちなよ」

 堤が言った。自分の子供を諭すような優しい声だった。

「このまま死ぬの? それでいいの? 晴香さんや被害女性はこれからも生きていくんじゃないの? それなのに伏屋君はこのまま逃げるの?」

 宗一郎は黙っている。

「晴香さん、どうして自分の過去を話したんだろうね。よく考えてみなよ。伏屋君なら受け止めてくれると思ったから、そうしたんじゃないの? 辛いのはよく分かるよ。私の想像を絶すると思う。でもこのままではダメだ。もちろん、伏屋君がやったことは許されることじゃないよ。人ひとりの人生を大きく変えてしまったから。被害者は普通の生活は送れないからね。色々あったかもしれないけど、今まで頑張ってきたじゃない? どうしてここまで頑張れた? 晴香さんがいたからじゃないの?」

 明石は黙って宗一郎の前向きな言葉を待っている。

「この前、晴香さんのお兄さんと、友達が来たの、知ってる?」

 宗一郎は目を大きくして振り返った。

「こんなこと言いたくないけど、死を語る前に、ちゃんと晴香さんや被害者に向き合った方が良いんじゃない?」

 宗一郎は何も言わず、そのまま応接室を後にした。

 明石は宗一郎の後を追った。

「伏屋さん、この間、約束したよね? 自分のことを傷つけることはしないって」

「……」

「そんなことしたら、絶対に許さないよ。苦しみながら生きなさい」

 明石の語気を強めた口調。

 宗一郎はゆっくりと振り返った。

「みんな苦しみながら生きてるんだよ。辛いのは伏屋さんだけじゃないんだ」

「……分かっています」

 そう言い残して歩き出した。

 その言葉をどこまで頼りにしていいか。明石もつられて歩き出した。


 寮に戻った宗一郎は便箋とペンを見つめている。玄関先には明石がいた。

 晴香のことを考えている時に聞いた音楽がある。それは中学生の頃に聞いていたCDで、懐かしさに誘われて手に取った。ロックバンドのラブソングだった。愛を歌う曲にしてはしっとり感はなく、スピード感のある曲でサビが終わった後のギターの高音が好きだった。タイトルは「Here is your place」だ。

 それを聞くと、一人だった中学時代と晴香の笑顔が同時に蘇るようになった。明石が開いてくれたバーベキューで、料理のことを褒めた時の笑顔だ。まるでふわふわの綿飴に触れるように優しい気持ちになれた。

 ペンを握る。でも書きたいことが頭の中で飛び交っていてそのまま固まった。矢印が飛んでは落ちる。全てが落ち着いて、居場所を見つけるまで目を閉じる。それを待って書き出そう。嘘を述べることなく、今あるすべての気持ちをここに表現すればいい。目を閉じて数分。ようやく宗一郎はペンを紙の上で滑らせた。


 ぼんやりと晴香が今ある景色を見つめている。

 時間が経てば経つほど、宗一郎への期待は諦めに変わっていった。やっぱり荷が重かったと、自分を納得させるしかない。晴香が宗一郎だったら、あるがままに受け入れる、と言えたか分からない。きっと宗一郎と同じことをしただろう。

「晴香」

 部屋をノックしたのは達司だった。

「お昼、どうする?」

 引き戸越しから聞こえる優しい声。

「……お腹空いてないから」

「いや、俺が空いてるんだよ。何か作ってくれよ」

 表情一つ変えずに同じ場所に居座る晴香に変化を与えたかった。達司の昼食なんてどうでもいいだろうが、少しでも気が紛れればと思った。

 まだ宗一郎の真実も打ち明けていない。頃合いを見計らっている最中だったが、どう伝えたらいいか分からず時間だけが過ぎていた。

「晴香、頼むよ……美佳ちゃんももうすぐ来るって」

「そうなんだ……」

「適当にスーパーで買ってくるって言ってたから」

「仕方ないな……」

 晴香が引き戸を開けると、笑顔の達司がいた。その笑顔が辛くて、晴香は避けるようにキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、数日まともな食事をしていなかったから、肉や野菜が余っている。肉は消費期限が切れていないし、野菜も悪くなっていない。美佳がわざわざスーパーに寄る必要はなかった。

 晴香はスマホを取り出して美佳に連絡を取ろうとしたとき、アパートの呼び鈴が鳴った。

 達司がドアを開けると、慌てた様子の美佳がいた。スーパーには寄らなかったから手ぶらだった。必要最低限のものしか持たずに飛び出してきたという感じだった。

「ちょっと」

 達司は履けてない靴を引きずりながら外に出た。

「これ」

 美佳が差し出したのは、一通の手紙だった。

 達司がマジマジと見つめて裏返すと、宗一郎の名があった。

「どうしたの、これ」

「明石さんが連絡くれて、伏屋さんがこれを晴香に渡してほしいって……」

 そのまま渡してしまっていいものなのか。おそらく真実を語ったものなのだろうが、晴香を納得させて前向きな気持ちさせてくれる内容なのか。

 ドアがゆっくりと開いた。こそこそと話す二人を不審に思った晴香だ。

「晴香……」

 美佳はすぐに目を逸らしてしまった。

「……何かあったの?」

 達司を見つめながら晴香が迫った。

「いや……」

 ここまで晴香に凝視されたのは、いつぶりだろうか。俯いている晴香しかすぐに思い出せなかった。きっと悟っているだろう。これが晴香に宛てられたもので、差出人は宗一郎だということを。

 もう逃げられない。そう覚悟を決めて達司が言った。

「中に入ろうか」

 ダイニングテーブルに座った。

「……実はさ、この間、美佳ちゃんと伏屋さんの職場に行ったんだ……」

 晴香は表情を崩さない。

「それで……どうして連絡が途絶えてるのかが分かって……」

「なに?」

 声が震える。連絡が途絶えてから日が経っていたのに、受け入れる態勢ができていなかった。

「……」

 言葉が見つからずに達司は晴香を直視できなかった。

 晴香が美佳を見ると体を震わしている。ただごとじゃないと察した晴香は、「お兄ちゃん教えて。大丈夫だから」

 達司は涙を流していた。静かに流れ落ちた涙は誰も気が付かなかった。涙が乗り移って美佳の頬も濡らしている。

「……」

 伝えられない。晴香の心情を考えたら伝えられない。

 晴香は封筒を手にした。裏面を見ると、宗一郎の名があった。

 美佳が晴香の腕にしがみつく。晴香の二度目の自殺が思い浮かんで、触れずにはいられなかった。


『晴香さんへ。

 この手紙を受け取るころには、もうすべてを知っているかもしれません。でも自分でちゃんと伝えないといけないと思って、手紙を書こうと思いました。交際しているのに、こういう形で言葉を交わさないといけないこと、申し訳なく思っています。

 僕は二十二の時に、強制性交の疑いで逮捕されました。驚いたと思いますが、これが真実です。起訴されて、懲役五年六ヶ月の実刑判決を受けました。五年の服役を経て、僕は仮釈放となり、半年の刑期を残してみんなが住む世界に戻ってきました。僕が起こした犯罪は再犯率が高く、保護司である明石さん、前科持ちの僕を温かく迎えてくれた堤社長、保護観察官の吉野さんの助けを借りながら、再犯防止更生プログラムを受けています。うまく事が運ぶのか半信半疑のまま、足元がおぼつかないままここまで来ました。いっそのこと、ずっと刑務所にいた方が気楽だったと思います。再犯を恐れることなく、生きていくことができる。そう思っていました。

 晴香が自殺未遂をしたとき、僕は慣れない生活のストレスから、晴香の後を追いかけてしまいました。再犯を起こそうとしたということです。結果的に晴香を助けるという形になりましたが、真実は違いました。晴香のご家族やお友達、誰よりも晴香からお礼の言葉を受け取ることに違和感があって、戸惑うばかりでただ俯いているしかできなかったというのが本心です。仮釈放されたということは、一般的には更生の意欲がある、反省していること、そして再犯の恐れがないと判断された服役者です。しかし保護観察下にありながら、自分を制御できなかったことに驚き、それは絶望へと変わっていきました。

 そんな自分に声をかけてくれた晴香には、とても感謝しています。鎌倉へ出かけ、オンラインで言葉を交わし、いつものカフェでの安らぎのある時間。それは他の誰でもない晴香がいなければ、成立しない時間でした。時が止まってしまえば、晴香と幸せな時間が過ごすことができると、できないことだと分かっていながらも、小さい頃に一途にサンタクロースを信じる無邪気な子供のような気持ちで願ったことを覚えています。

 交際が始まって、このまま幸せになっていいのかすごく悩みました。いずれは壊れてしまうだろうと思いながらもここまで来てしまった。すべては自分の弱さが原因でした。そして晴香が過去の出来事を共有してくれた時、激しい後悔に襲われました。自分の大切な人が同様の被害に遭い、苦しんでいること。もっと恥ずかしいことに、自分の起こした事件の被害者女性のことをちゃんと考えることができたのは、晴香の被害を聞いた時からでした。謝罪の手紙を書いていましたが、今まで自分のことで精いっぱいで、どう人生を立て直していくかしか考えられませんでした。被害者の女性もどこかで生きていると思います。大きな傷をつけてしまった。人生を狂わせてしまった。どんなことをしても償うこともできないと痛切に感じました。だから、晴香に連絡を取ることができなくなりました。

 勝手な言い分にはなってしまうんですが、晴香と出会えて本当に良かったと思っています。少しの間だったけど、夢のような世界へ連れて行ってくれたのは、晴香でした。どんなことがあったとしても、晴香には幸せになってほしい。語ってくれた夢の話のこと、覚えています。必ず叶えて、みんなに晴香の料理を振る舞ってあげてください。自ずと評判になり、お客さんがもう一度のあの味を求めて戻ってくる。晴香の腕がさらに磨かれて、忙しくも心地いい汗をぬぐう姿が思い浮かんでいます。それが実現できるように、僕は影から応援したいと思います。

 そして何よりも、過去の出来事で負った傷を抱えながら、前を向いて強く生きる晴香がいたこと。そんな晴香がたっぷりの光を携えて輝いていました。まぶしくて僕は手をどけることができません。

 僕は愛を語ることはできないです。だから、違う形で残させてください。

 どうか、幸せになってほしいです。

 本当にありがとうございました。ごめんなさい。

                               伏屋宗一郎』


「宗一郎さんへ。

 お手紙、ありがとうございました。最後まで読みました。とても驚いていて、どう自分の気持ちを書いたらいいか正直分かりません。でもちゃんと時間をかけてお手紙を書きたいと思います。

 今、すべての真実が私のもとに集まってきて、今までの宗一郎さんの行動が理解できつつあります。だから腑に落ちて胸の中に溜まっていたものは取り除かれました。

 宗一郎さんが努力して自分と向き合おうとしていること、よく分かりました。それを考えると、これから一緒にいることはお互いのためではないのかもしれません。事件の被害者は今も苦しんでいると思います。私も被害者の一人として、同じ時間をたどるように、手に取るように理解することができると思います。

 消えることのない恐怖を体に埋め込み、当時の出来事を思い出して涙し、長く立ち止まり、たった一歩を踏み出すために散らばった勇気のかけらを拾い集めて、十字架を背負い直して、ゆっくり時間をかけて立ち上がって前に進むんです。歩幅は小さくて、この先にある道のりがとてつもなく遠く感じてしまう。そうやって被害者は生きているんだと思います。

 私がビルの屋上から身を投げようとしたのは、そんな時間に疲れ果ててしまったからです。普通ではない私。汚れた体を引きずりながら生きることができないって思ったからです。もう何も考えなくていい。もう少し歩いて行けば、楽園が待っているような錯覚にとらわれたんです。

 宗一郎さんの起こしたことは決して許すことはできません。

 でも……でも、宗一郎さんは私のことを励まして、料理を褒めてくれたり、お話をしてくれたり、鎌倉に一緒に付き合ってくれたり、夢を応援してくれたり、自分自身のことで精いっぱいだったにも関わらず、私のそばにいてくれました。それは紛れもない事実です。

 宗一郎さんは、私が「前向きに強く生きていた」と書いていましたよね。それはあなたのおかげです。私が男性と交流を持ち、二人で会い、交際が始まり、過去を打ち明けようと思えた。受け入れてくれたどうかも分からない中、実行に移すことができたのは、あなたがそばにいてくれたからです。そのことを決して忘れず、自分を責めることばかりしないでください。正直、男性と普通に関わることは、この先できないと思っていたからです。頑張ってみようと思った自分を振り返ると、不思議で仕方ありません。

 もしもまた再犯への衝動に駆られたら、被害女性のことを一番に考えて冷静になってみてください。私のことも思い出してください。そうすれば、同じことを繰り返すことはできないはずです。

 こんな形で別れを告げなければならないことはとても残念です。でもあなたにも今後の人生があります。前向きにしっかり地に足をつけて歩いて行ってください。うまくいかないことも、もちろんあると思います。でももう一度立ち上がって、先に続く未来を歩いてください。あなた以上に苦しんでいる被害者がいること、決して忘れないでください。

 宗一郎さん、本当にありがとうございました。

 どうかお元気で。

                                水越晴香』


 宗一郎が再発防止計画の用紙に筆圧をつける。

 これは性犯罪を起こさないための方法を具体的な行動計画としてまとめるEセッションの「二度と性加害をしないために」だ。

 前回のDセッションで宗一郎が大暴れしたことを教訓に、また同じことがあってもすぐに助けが得られるように、保護観察官の吉野の他に明石が参加することになった。他にも外に一人だけ職員を待機させている。

 行動計画に「これまでの生活態度を維持すること」と書いた。

「おお、いいですね」

 吉野が言った。隣で明石は頷いて笑顔を見せる。宗一郎は小さく頷いて、

「ストレスを溜めないように、働きすぎない、朝のウォーキングなどで普段からストレスを溜めない努力をすること」

 そう記した。

「明石さんとウォーキングをしていますよね。今もされてるんですか?」

「最近はできていないですが、またやりたいと思っています」

「伏屋さん、いつでも言ってください」

 明石がそう言うと、宗一郎が神妙な顔で「はい」と答えた。

「ほかには何かありますか? 緩和方法が一つでも多くあれば、伏屋さんが楽になるんじゃないかって思うんですが、いかがですか?」

「……音楽を聞いたりですかね」

 他にも、読書などが挙げられた。読書と書いた瞬間に明石は笑みを浮かべた。一緒に図書館に出向いて、晴香にかける言葉を探したことを思い出した。

「どんな本を読むんですか?」

 吉野が聞いた。犯罪に繋がるような刺激のある本は避けてほしいと思った。

「そうですね……長くなくて、すぐに読むことができるような……」

「なるほど。読みやすいですしね。よく分かります」

 次にこう書いた。

「どんな時も相手の気持ちを考えて行動すること。そうすれば……」

 宗一郎の書く手が止まった。晴香の言葉を思い出している。

 吉野と明石は目を合わせて宗一郎の動きを注視している。

「時間をかけて頂いていいですからね」

 この静寂を嫌った吉野が言った。

「……また自分の弱さで、人を傷つけることのないようにする」

「いいんじゃないですか。とても大事なことだよね」

 明石が唸った。

「あの……」

 宗一郎が俯いて呟いた。

「はい」

 吉野が返事をした。

「僕が起こした事件の被害者は、今も生きていますか?」

「……」

「今回の事で、自殺を考えていないか……謝罪の手紙は書いていますが返事がないので、どうしているか分からなくて……返事がないのは当然なんですか……」

「それを心配してるんですね。きっと事件のことを乗り越えようと、必死に生きておられると思います」

 晴香の顔を思い浮かべながら、被害者のことを重ねているのだろうと明石は思った。

「強くなる」

 宗一郎は続きに付け加えた。

「伏屋さん」

 明石が名を呼ぶ。

「自分が強くなるだけだと、相手の上にいるってことだけになるから、誰に何を言われてもブレない強い気持ちや余裕を持って、それで人に優しくしてあげるっていうのはどうですか?」

 宗一郎は消しゴムを握って消した。

「強くなるだけでなく、自分に余裕を持ち、相手に優しくすること」

「もうすでに取り組んでいることがあるかと思いますが、続けていることは継続して、新しく付け加えたことは遵守できるようにやっていきましょう。何か困ったことがあれば教えてくださいね」

 吉野がそう言った。

「はい」

 宗一郎は頷いた。


「なんか寂しくなるね。卒業式を迎えた気分だよ」

 明石が目頭を熱くしながら言った。

 保護観察所の一室。吉野から保護観察期間の終了が伝えられ、保護観察期間は終了となり、刑務所に戻ることはない。

「本当にありがとうございました」

 スーツを着た宗一郎が、深々と頭を下げた。

「なんとかこの日を迎えることができて、ほっとしています」

 ホッとした表情で吉野が言った。

「スーツも良く似合ってるよ。これからは、製造だけじゃなくて営業もやるんだよね?」

 明石が言った。おろしたてというよりかは、長年クローゼットで眠っていたスーツではあるが、明石には初々しく見えた。

「はい……」

 事件を起こした時も営業職だった。

「以前もやっていたし、その時のことをよく思い出して、やっているうちにすぐになれるんじゃないかな」

「そうできるように頑張ります。正社員にも登用してもらえたので」

「ストレスを溜めないように、しっかり自分を制御しながら頑張ってください。何かあれば、我慢などせず、堤社長に相談するように。これからは一人でやっていくわけですから、ここからが大事ですからね」

 真剣な表情で言った吉野は、「頑張ってください」と笑みを見せた。

「はい」

 宗一郎の返事に、明石も笑顔になった。卒業生代表で答辞を任された中学生を目にする気分だった。

「……吉野さん」

「はい」

「ひとつお伺いしたいことがあるんですが」

「どうぞ」

「どうして、僕が再犯に手を染めようとしたときに、仮釈放を取り消さなかったんですか?」

「……伏屋さんが、正直に打ち明けてくれたからです」

「……」

「『再犯しようとしてしまった』と話してくれましたよね?」

 宗一郎は頷いた。

「謝罪の言葉も聞けましたし、しっかりサポートすれば、十分更生できると思いました。私の経験上の話にはなりますが、普通は謝罪しないし、そもそも再犯を認めようとはしません。だからもう一度、信じてみようと思いました」

「ああ……」

「……保護観察官としては、失格かもしれないですね」

 苦笑いを浮かべた吉野。

「……」

「ただ、疑う事ばかりしていても、更生はできないとも思っています。その辺は、私の直感です。疑問は晴れましたか?」

「はい」

「新しいアパートはどう?」

 明石が聞いた。

「色々と回って見つけたアパートなので、気に入っています。ウォーキングができる場所も近くにあるので、続けていきたいと思ってます」

「よかったね。伏屋さんと交流がなくなったら、運動不足になりそうだな」

 ウォーキングシューズが玄関のシュークローゼットに追いやられている様子を思い浮かべた。

「伏屋さんにお願いして、一緒にやればいいんじゃないですか?」

「……そうですね」

 そう返事した宗一郎だったが、もうそのつもりはない。一人で同じ過ちを繰り返すことなく、やっていけるのか試してみたい気持ちが強い。

 白く染まる明石の髪。痩せてしまった身体。今までの苦労を物語るようで、宗一郎は申し訳なくなった。性犯罪の前科人と関わることはこれほどまでに苦労をかけてしまう。明石を楽にさせてあげることが、宗一郎ができる恩返しなのだろうと思っている。だから、もう会うことは避けたい。

「明石さん」

「はい」

「握手をして頂けませんか」

 少し震わせた手を宗一郎は差し出した。

 その手を見つめる明石。その震えは、被害女性を力づくに抑えつけた手に、触れてくれるのかという不安からくるものなのかもしれない。

「もちろんです」

 今あるすべての力を注ぎ込むように、明石は宗一郎とがっしりと握手した。不安を覚悟に変えてあげたかった。

 もう別れの時だった。

 薄っすらと浮かぶ宗一郎の涙。それは自分自身の力で拭ってほしい。


 真田ライフ生命の代表取締役社長が会見で涙を拭った。フラッシュの嵐が瞬きのように切られる中、深々と頭を下げた。そこには長内の姿もあった。

 営業部長を務めていた男性社員から、性暴力を受けたと三十代の女性から訴えがあった。明確な日時、加害男性の名がはっきりしていたため、特定するための時間は要しなかった。

 本社から呼び出しを受けた加害男性とされる営業部長は、当初はしらを切っていたが、申し出があった女性が音声を録音していたことで言い逃れができなくなった。他に複数の元女性社員への性暴力を加えていたことも認めた。

 この件に関して、事実が発覚してから公表までに三ヶ月もの時間を要したことで、事実を隠蔽しようとしたのではないか。

 今までに誰一人として性加害について気付かなかったのか。噂も聞かれなかったのか。会社が性加害に対して真摯な姿勢を見せてこなかったのではないか。

 加害男性は「複数の女性」と証言しているが、勤務年数を考えると被害者がもっと出てくる可能性もある「今後さらなる調査を行う予定はあるか、という質問も出た。

 社長はしっかりと事実確認していたためです。加害男性が名指しで書いたあったにも関わらず、公表までに時間を要したことは不自然だと指摘された。

 経営陣に加わった長内はこの事態を深刻に受け止めていた。今後の対応について質問が及ぶと、長内は「私からご説明いたします」と強引にマイクを握った。

「過去に被害に遭った経験のある女性社員がいれば、設置した相談窓口に連絡をしてほしい。被害女性の背負った苦しみを考えると、胸が張り裂ける思いであります。『名乗り出てほしい』とお願いいたしましたが、とても勇気が必要ですし、容易にできることではないと存じます。申し出の期限は設けず、訴えがあった場合は真摯に対応させて頂きたいと思います。対応するカウンセラーも経験のある方々にお願いをしておりますので、ご安心して頂ければ幸いです。連絡先等は、すでにホームページに記載しております」

 時折、声を震わせる長内。今までに営業部長として、新卒採用として関わった多くの社員の顔を思い浮かべた。

「私自身、ありがたいことに、今でも退職した社員と連絡を個人的にとらせて頂いている方もいますので、どうしても相談窓口に連絡することができない場合は、私の社員用携帯に連絡を頂ければ必ず対応させていただきます。長い間、この事態を放っておいてしまったことに関しまして、深くお詫び申し上げたいと思います。申し訳ありませんでした」


 雲一つない太陽の下。

 宗一郎が早朝六時から営業しているカフェで読書をしている。以前に明石が勧めた営業の本だった。業務内容と関連しているから内容もすんなり入ってくる。集中しすぎて時間が経つのを忘れないようにタイマーをかけてある。読書ができるのはあと五分ほどだ。

 会社に出向くと、宗一郎のデスクにA5サイズの紙が裏返しで置いてあった。出社したのは宗一郎だけだったから、昨夜、誰かが置いたのだろう。裏返してみると、話題になっている飲食店の宣伝用のチラシだった。手書きの文字、一番人気メニューとキッチンカーの写真。お店の概要は右端にあるQRコードにアクセスすれば、インスタグラムから閲覧することができる。

 早速見てみると、キッチンカーで主に遅めの朝食、昼食を販売しているらしい。正式な営業時間はなく、十一時ごろとしか記載がなかった。投稿された写真には、各方向から丁寧に撮影されたメニューが並ぶ。どこか懐かしく感じるのは、宗一郎だけだろう。

 そこへ堤が入ってきた。

「おはよう」

「おはようございます」

「ああ、それ見た?」

「はい……」

「流行ってるらしいよ」

「そうなんですね……」

 スマホ画面を見つめながら宗一郎は考えた。このチラシを置いたのは堤だろう。

 どうすることもできない。だから宗一郎は何もなかったかのように始業した。今日の予定をネット上に共有する。午前中に三つの会社を訪問する予定があった。

 午前の予定を全て終えたのは二時ごろだった。二件目の打ち合わせが長引いてしまったためだった。会社の要望をもう少し事前に詳しく聞いておけば、こういうことにはならなかった。以前に営業の仕事をしていたのに、少し恥ずかしくて俯いていると、ビジネスバッグから少しだけ顔を出すキッチンカーのチラシがあった。どこか励ますように話しかけてくれているようだった。

 昼食を食べていない宗一郎と新入社員。自然にお腹を満たす場所を探すことになった。近くに飲食店がいくつもある。それでも宗一郎は何も言わず歩き続けた。

 インスタグラムを確認すると、キッチンカーを止まっている場所はここから十五分ほどの場所にある大きな公園だ。

 自然に歩幅が大きくなって早歩きになる。同じ場所にずっといるかどうか分からない。時刻も二時を過ぎているから、客足が途絶えれば店じまいをするかもしれない。

公園が見えてきた。

 午後の授業を終えた学生やジョギングをする人々とすれ違う。一途にキッチンカーを探した。

 歩幅を緩めた。もう少し距離を縮めれば、もう少しはっきり映るが、宗一郎が詰められる距離はここまでだ。

 心地いいそよ風と程よい太陽の温かみが、白色で小さめのキッチンカーを包み込む。髪の毛を結んだ一人の女性が調理台を熱心に拭いている。見慣れていないポーニーテール。それでも晴香だと分かった。以前語っていた夢を手にしたんだ。立て看板の書いてあるメニューに売り切れの文字が目立つ。

「あの店ですよね?」

 新入社員の声で、固まって見つめていた宗一郎はハッとさせられた。

「さっき見ていたインスタのお店」

「ああ……」

「最近、すごい人気ですよ」

 背中を押されている感じがした。

「もしよかったら、何か買ってきてもらっていい? 奢るよ」

 一気に頬を緩めた新入社員は二つ返事で承諾し、腹を空かせているせいか、足取りがどこまでも軽い。

 宗一郎は背を向けて新入社員の帰りを待った。

 背後から、「いらっしゃいませ」の声がした。そこまで大きくはない。でも自身が作った料理を求めて足を運んでくれたお客様への感謝と喜びが詰まっていた。晴香だと確信のランプが灯っているが、その声を一つ一つ確認している宗一郎がいた。

 新入社員がプラスチックの袋から香ばしい匂いを携えて戻ってきた。

「ありがとう」

「鶏肉の甘辛炒めしかなかったです」

「何でもいいよ。ありがとう」

 晴香を自宅まで送った時にもらったことがある。よく味わって食べた思い出が蘇ってくる。愛おしさ、懐かしさ、空腹感に誘われてプラスチックのふたを開けた。すぐそばにあるベンチに座った。新入社員が一口目を食した。

「すごい美味しいですよ。評判通りですね」

「でしょ?」

 何度も口にしたことがあるかのような口ぶりに、「先輩、前に来たことあるんですね?」

「いや、ないけどね……」

 徐々に小さくなっていた宗一郎の声。新入社員は触れてはいけない領域なのかと思って、そのまま何も言わなくなった。

 宗一郎も食べ始めた。以前より磨きがかかったのか、よりおいしく仕上がったいた。五分もしないうちに食べ終えてしまった。

 なるべくキッチンカーを見ないように努めていた。それでもやってくるお客さんを相手している晴香を見ずにはいられなかった。調理台をきれいにして、メニューの位置を動かして見やすい場所を探す。じっとしていることができないのか、独楽鼠のように動いている。その姿が微笑ましくて宗一郎は見とれてしまった。

 ここに来て一時間ほど。もうそろそろ戻る時間だ。

 宗一郎は静かに立ち上がった。

「晴香!」

 宗一郎の体に振動が走った。間髪入れずに視線をやると、一人の男性がキッチンカーに入ってきた。巾着袋をさげている。

「ありがとう。でもなんとかなったよ」

 お釣りがなくなりそうで、晴香が男性に頼んで銀行に行ってもらっていた。

「ああ、そうか」

 男性は笑っていた。何でも冗談に変えることができそうな人の良さが、表情に滲み出ている。

「ごめんね」

「いいよ! 明日使えばいいから!」

 ハキハキとした声が響き、晴香は笑顔になる。

 きっと、従業員ではないだろう。晴香にとって特別な人だ。晴香のエプロンを外して、休憩に行くように促している。後ろに立って晴香に触れられる相手は、特別な相手以外にいないだろう。

 晴香は夢を叶えた。諦めずに自分自身で道を作って辿り着いた場所だ。それに心を許せる人がそばにいる。声を聞くたびに、晴香への気持ちが溢れかえったが、見ていたらとことん晴香の幸せを応援したくなった。かつて手紙に書いたことは、決して嘘ではない。

 どんなことがあっても、晴香には幸せになってほしい。

 晴香が納得して今を生きているなら、何も言うことはない。

 俯いて落としていた視線を上げると、晴香がキッチンカーの前に出てきていた。ふとしたときに、目が合ってしまった。

 晴香は二度見したあと、目を丸くしてじっと見つめている。でも変な緊張感はなく、すぐに頬は緩んでいった。後ろにいる男性に見つからないように、小さく手を振った。

 うまく目が合わせられずに宗一郎は頭を下げた。恐る恐る頭を上げると、晴香が口元に手を添えて何か言っている。口パクだが唇が読めた。

「お仕事がんばって」

 そんな言葉をもらえただけで元気になれる。

 さぁ、この後も仕事を頑張ろう。


 この作品はフィクションです。実在する人物、団体、事件とは一切関係ありません。 

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