第九話 今日くらい、甘えさせて

第29話 Side Khristina①

 ◇◇◇


 今夜の夕食はシムスさんが作ってくれた。彼女はとても料理上手。

 道中セシルさんが狩ったキジをメインで、限られた野営調理器具と調味料で野外で作ったと思えないほど美味しい夕食をご馳走してくれた。

 今日は神殿で起きたことがあって、午後からずっと不安で不安で、胸騒ぎがする。

 シムスさんの料理のお掛けでようやく気持ちが落ち着いた。


 夕食の後、今日の火当番を決めたら、みんなが焚き火の前で集まって、寝る前の適当な雑談をした。

 イワンさんのお嫁さんの面白い話、シムスさんの料理心得、セシルさんのタニア惚気話、カルバンさんの釣り心得。一緒に旅してくれるみんなの色んな話が聞けて、とても楽しかった。みんなのことをちょっとずつ知る感じは好きだ。

 そして、他の人から私が知らないタニアのことを聞けて、結構新鮮な感じがする。

 いつもスキのない彼女が恋人の前でもたまにドジをするなんで、面白い。そんなことは自分の目で見てみたい。


 歓談を終え、夜が更けた。

 最初に火当番をするジュン以外の人は次の火当番や明日に備えて、テントに入って体を休む。

 私はもう少しジュンと一緒にいたいので、彼女の隣に座る。


 この時間の山は静寂に包まれ、人ところか、動物の活動音と鳴き声すら聞こえない。

 目の前に焚き火の炎が私今日の気持ちを表しているように、ゆらゆらと揺れる。

 ジュンはいつものように今日一日を振り返る記録を書いている。


 父上と約束した定期報告も、実はジュンが書いてくれいている。

 王都から出発した日から計算すると、多分五日くらい一回の頻度でジュンは報告を送っていた。山に入ると報告は送れないので、ウルムで最後の一通を出すところを見かけた。

 彼女は騎士団に入ってから、こういう文書仕事もやるようになって、結構手慣れた。


 焚き火の光はちょっと暗いせいか、横から見るジュンの目はいつもより細く見える。

 私は片膝を立ち、肘を膝の上に突き、頬杖をつきながら書き物をしている彼女を見つめる。

 ジュンの顔にも焚き火の暖かい光に照らされて、炎の揺らめくと共に光ったり、暗くなったり。私の方向じゃ見えないけど、もっとはっきり見えたいがために、眉間にしわも寄せていそう。


 ジュンが書いている物の内容に全く興味がないけど、真面目に作業している彼女を見るのが好き。

 書き続いているわけではなく、時に筆を止めて何かを回想する。思いつきがあった時はパッと閃いたような顔をして、また書き出す。

 彼女は多分自分の無意識な動きに気付いていない、あくまで自分は常に冷静で無駄な動きがないと思い込んでいる。

 そんな彼女を見ていると、なんだかどんよりとした気持ちが軽くなって、思わず口元が上がる。

 可愛い。ずっと見ていたい。


 そうを思っていたら、ジュンは大きく息を吐いて、筆を紙から離し、地面に置く。ひざ元に置いてた紙を手に取って、折り畳む。

 どうやら今日の分は書き終わった。

 もうちょっと見たいのに、残念な気持ちが湧いて、鼻から小さなため息をつく。


「どうされましたか?」

 ジュンは筆記道具を片付いたら、顔を私の方に向いてくる。視線は真っすぐに私に落としている。

 彼女の表情は平然からちょっと驚くに変わることから突然気付いた。さっき彼女を見つめるための姿勢のままだった。

 慌てて普通の座り姿勢に戻って、自分の焦りを隠そうと首を横に振る。


「なんでもない」

「ならよかったです」

 ジュンは軽く返事してから、横に置いている薪になりそうな枝を数本取って、焚き火に薪をくべる。そしてもう一本の枝を持って、焚き火をさらによく燃えるように薪の下から弄って、もっと空気を通すようにする。


「夜は冷えますので」

「ありがとう」


 焚き火を弄って戻って来たジュンは、体がぶつかるほどではないが、さっきより近いところに座った。

 私が自ら近づきに行かない限り、これは彼女が自発的に近づいて来る一番近い距離だ。


 ジュンは常に私の近くにいるけど、近すぎないように距離を保っている。その絶妙な距離感は、私が彼女に向かって一歩踏み出せない理由の一つでもある。

 体の間の距離かもしれないけど、それは心の距離でもある。ジュンから見れば、私は主でただの護衛対象に過ぎない、普通の主従より大分仲がいいが、それ以上でもそれ以下でもない。だから、彼女は私と接する時、ちゃんと線を引いていると思う。


 いつもなら、ジュンが距離を取ることには気になるけど、気にしないようにしていた。でも、今日はとても嫌。

 神殿で聞こえた声は突如脳内で再生し、ようやく収まった胸騒ぎがまた始まった。その声が話した言葉が、私の心を搔き混ぜ、締め付ける。

 ジュンは今何事もなく隣にいるのに、私は彼女を失うことを恐れずにいられない。


 まだ、ジュンに気持ちを伝えてないのに。まだ、彼女に触れてないのに。

 そう思っているうちに、不安な胸騒ぎより、好きの気持ちと欲望が勝った。

 今日くらい、甘えさせて。


 私は体をすこし起こして、ジュンと密接できるほど近いところに移動して、座る。

 ここまでは普段割とやっていることだから、彼女は特に反応することはなく、焚き火に向かって普通に考え事をしている。

 体を近づき、腕と腕、肩と肩がピッタリくっつくように彼女に寄りかかる。そして、ちょっと背中を丸め、頭を彼女の肩に乗せる。


 焚き火から発した煙の匂いに、ジュンの匂いが混ざってくる。

 近くでしか聞こえてこない、彼女の均等な呼吸音も聞き心地がよく、私の心を穏やかに戻す。

 やはりジュンのすぐ隣にいると、安心する。私はその気分を味わうように、目を閉じる。


「眠いのであれば、テントで寝た方がいいですよ」

 耳がジュンの体に当たっているせいか、側面からの声なのに、モヤモヤとした感じで直接私の脳に響いてくる。

 相変わらず察しが悪いな、この人。そういうことではないだよ、もう。

 心の中でジュンに愚痴りながら、彼女の言葉を無視する。


 ジュンに寄りかかっている左腕をちょっと後ろにずらし、彼女の右脇と腕の間をくぐりぬける。

 私の手が目指す終点は彼女が膝上に置いている右手。当然、障害一つもなく、すんなりと目的地に到着する。

 ただ上から手を重ねるのもいいけど、それだけならつまらない。もっと触れてみたい。


 人差し指を彼女の親指と膝の間の隙間に入れ、そのまま親指をちょっと上げる。

 自分の親指の腹を彼女の手首からゆっくりと軽く指先までなぞって、人差し指と一緒に挟み、またなぞる。

 次に人差し指、中指、そして薬指。親指にやったことを他の指にもするように、すこしずつ手を彼女の手と膝の隙間にずれ込む。


 身長と比例して、ジュンの指は私のよりは長く、一本一本形もいい。表から見れば、結構綺麗な手だと思う。でも指を触る時、たまに手のひらに触れてしまう。手の甲と違って、彼女の手のひらは粗く、指の根元には一個一個のまめがある。

 触り心地は決してよいとは言えないが、それはジュンが日頃に努力している証拠だから、私は逆に愛おしいと思う。


 私の親密すぎる行動に動揺を隠せないジュンは、言葉を発することはなく、鼻から大きく息を吸って吐くのを繰り返す。

 頭が彼女の肩に乗せたままなので、大きく呼吸する時胸郭の動きはそのまま私に伝わってくる。微かに聞こえてくる心臓が拍動する時の音も、間隔が短くなっているような気がする。

 ジュンだけではなく、実は私もとても緊張している。自分の理性は感性の思い切りさと大胆さに驚いている。


「…!?」

 私の理性と感性が戦っている間、思ってもいなかったことが突然起きた。

 ジュンは右手をすこし斜めにして、親指を私の手の拘束から逃し、元々彼女の手の下に差し込んだままの私の手を握った。

 軽すぎず、重すぎず、程よい力。その手は、さっきよりちょっと熱く、そして震えている。

 心臓の鼓動が一気に激しくなった。


 今のはなに?

 気持ちが昂り、嬉しさと戸惑いが混ざり合い、私はどうすればいいかわからなくなった。あんまりにも突然に舞い降りた幸せに、私は消化不良になっている。

 こんなことはもう二度とないかもしれない。私の理性まで、「今はこのままでいい」と吹き込んでくる。

 考えることを諦め、ジュンの様子見るのを諦め、彼女の手を握り返し、ただ今の時間を楽しむことにした。


 お互いの呼吸音と時々の薪が爆ぜる音しか聞こえない。握りしめた手の暖かさしか感じられない。

 時間が静かに過ぎて行く。

 願わくば、心が通い合った状態で、もっと、もっと、もっとこうして一緒にいたい。

 でも、これ以上は求めてはいけない。


「ねぇ、ジュン」

「はい」

 いつもの声じゃない。この短い返事から彼女の気持ちも読めない。

 元々言おうとした言葉を呑み、ちょっと軽い口調で別のことを話す。


「そういえば、今日昼間中指を切ってしまった」

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