第9話 記憶の魔女
また御旗自然公園にやってきた。今日はまた一段と寒い。この近辺じゃ初雪が観測されていたし寒くて当然だ。
前回と同じ場所に車を駐めて同じように景色を見る。
一拍ついて振り返った。
「よし」
意気込むように呟く。今日はナイフを持ってきていない。管理棟に目を向ける。向かって歩いた。
「⋯⋯」
何かおかしい。不思議で不自然で違和感がある。それに対して言いようのない焦燥感が胸の内を満たそうとしていた。
深呼吸してみても冷たい空気が肺に入ってくるだけ。
「そっち⋯⋯?」
管理棟手前から伸びる森林の奥の方から、人の気配を感じた。
駐車場にある車は私の車一台のみ。こんな山の中に徒歩で人が来るとは考えられないので、その存在の正体は魔女だと考えられる。
私は気のせいを承知で森の中に入ることにした。
木で舗装された緑道を道なりに進んでいくと、嫌な予感が強まっていくのを感じる。いないならそれがいい。でもなぜかそんなはずはないと心の内で決めつけていた。
人影がある。どうやらこの道で正解だったらしい。この前と同じくすらっとした後ろ姿だ。ただし正面から見たらそんなことはないだろう。
特に足音を消して歩いてたわけでもないので、もう向こうも気づいてるはずだ。
「これは⋯⋯」
立ち止まり呟く。依然魔女はこちらに背を向けたまま。
私の眼前には奇妙な光景が広がっていた。魔女の前には二人、身構えてる人がいる。戦闘態勢というヤツだ。一人は刀を向ける少年。本物かどうかは私には見てわからない。もう一人は雪かき用の鉄スコップを持つ大人の男性。たしかにこの山では今年の初雪は観測されているけど、そうじゃなく武器として持っているのだろう。そしてその二人の近くにもう二人、地べたに布団も敷かずに寝ている人がいた。本当に寝ているという感じだ。外傷も何もないように見える。息だってかすかにしている。
「また来たのね真奈」
「どうも」
相変わらずの落ち着いていて瑞々しい声。気さくに努めて返答したけど、この状況に対する困惑と名前呼びに内心戸惑った。
私の登場で少し空気が弛緩したような感じがする。身構えていた二人も疑問の顔を浮かべていた。
「今ね、この人達と戦ってたのよ。残りは後二人だから少し待っていなさい」
「あ、そっちの二人はただ寝てるだけじゃないんですね」
「ええ。記憶を抜いているのよ」
「記憶を⋯⋯」
記憶を抜くと眠ってしまうんだろうか。
「いつものように少しだけじゃないわ。保有してあった記憶の殆どは、もうその二人には存在していないの。どういう意味かわかる?」
「⋯⋯どういう意味でしょう?」
「これまでに経験してきた記憶も、身体に染み付いた記憶も、遺伝子に刻まれている記憶さえ、もう殆ど残っていないという意味。それはつまり、生まれたばかりの赤ちゃんができることさえできないということよ。彼らにできることは、辛うじて臓器を動かすことだけ。ともするとそれさえ何かの拍子で忘れてしまうかもしれないわね」
「それは⋯⋯」
そんなことがあり得るのか。いや、この人がそう言うんだからあり得るんだろう。只事じゃない。
「どうしてまた?」
動揺しつつそう問うことができた。
「咎めないのね。好きよ、そういうところ。頭に来たのよ。いきなりやって来ていきなり攻撃を仕掛けてきたから」
「⋯⋯予期してなかったわけじゃないでしょう? 私に記憶を抜くことを伝えた時点で想像はしてたんじゃないんですか?」
「そうだけどね。でもあまりに無作法だったし、私と貴女達の立ち位置というものをわかってもらおうと思ったのよ」
「そうですか」
私にはどうこうできる問題じゃない。それこそ首を突っ込むような立ち位置に私はいない。
「なあ、魔女さんよお。記憶を抜くってことは、戻すってこともできるんだよな?」
スコップを持った方の男が口をついた。魔女は反応を示さない。
彼らは私のような、社員に仕事を任されて来た人なんだろうか。
「戻してやってくれないか?」
「いやよ」
「このままだと、あんたと世界とで全面戦争になるぜ。流石の魔女さんでも世界を相手取れば死ぬ。それは避けたいだろ?」
「さてね。それならそれでいいんじゃないかしら」
全面戦争という聞き慣れない単語。それは本当だろうか。仮にこの二人と私を殺して口止めしても還らないという事実は伝わるから、全面戦争が本当に起こるとしたとき、それを防ぐためには記憶を戻すほかにはないと思う。戦争を避ける必要がないと思っているなら話は別だけど。
「ハッタリじゃないぜ。そういう手筈で俺たちはここに来たんだ」
「わかってるわ。記憶を抜いてるもの」
「ああ、それもそうか」
「全部わかった上で、そうなってもいいといっているのよ」
「そうかよ」
男は引き攣った笑み、少年は絶望した顔を浮かべていた。きっと魔女はこの二人からも記憶を抜くんだろう。そしてことの顛末を私に伝えさせて、晴れて戦争か。そうしてこの人は死ぬ気なんだろうか。それとも本当にどっちでもいいと考えているんだろうか。見た感じ、後者のような感じがする。そして男を見るに、戦争になれば魔女が死ぬ公算が高いのだろう。
もしも魔女が死んでしまうなら、私はそれを避けたい。それは明確に言える。だから私はここで口を挟まなきゃならない。ただ予感も働いていた。下手な事をすると魔女を怒らせる。怒ったら私は、この前とは打って変わって呆気なく殺される。
身震いした。強烈な恐怖。それでも私は前に出て主張する。
「私は記憶を戻してあげて欲しいです」
魔女が、ゆっくりとした動作で私に視線を向ける。
「今、貴女は口を挟んだのかしら」
失望か無関心か。ともかく酷く冷めた目。吐き気が込み上げてくる。
「挟みましたよ。私は、あなたを死なせたくありません。それが理由です。一番真っ当な理由です」
「そうかもしれないわね。で、それだけかしら?」
死への道が拓かれている。私はその道を踏み出してしまっていて、もう引き返すことはできない。今更言ったことを撤回してももう遅いだろう。この道を突き進むしか死を回避する術はない。
「別に全部の記憶を戻せとは言いません。自分の足で歩いて家まで帰れる程度の記憶だけでいいと思います。それだけで戦争には発展しません」
「そうかしら。仮にそうだとして、私に死んで欲しくないのは真奈の願いであって、私は別にどちらでも良いのだけど。いえ、むしろ死を望んでいるわ」
人間じゃない長寿な生物とか不老不死が死を望むのは物語としてはよくある話だ。死にたいから死ぬ。生きる必要がないから死ぬ。
「じゃあ死にたくなくなったらいいってことですよね」
「そうなるわね」
「だったら話しは単純です。魔女さん、私が私の人生を懸けて、あなたの知らないことを教えてあげます。そうしたら死にたいだなんて思わなくなりますよ」
半ば口から出まかせのように話す。
「私の知らないこと?」
「はい。今、こんな下らない小競り合いで生き死にを決めるよりもっと楽しいことです。それを何も知らないうちに死んでしまうのは勿体ないですよ」
「随分と自信があるのね」
薄らと魔女が微笑む。
「まあ、いいわ。興が冷めたし記憶は戻すわ。後は勝手に連れて帰りなさい。そして二度と私に会おうとしないことよ。次はないことはちゃんと伝えなさい」
「わかった」
当たり障りなく男が返答する。その後倒れていた二人は目を覚まし起き上がった。四人は訳のわからない様子で、それでも足早にこの場から離れていった。
「良かったんですか」
「それを決めるのはこれからよ」
魔女は私に向かって手を伸ばす。身構えるもなす術なく手は私の顔まで来て目を塞がれた。
「こうしたらワープできるのよね」
「⋯⋯あ、ああ、そういうことですか。はい」
一瞬あり視界が開けると、前と同じ建物の中だった。そして同じく椅子に座るように促される。
「私の知らないことって何かしら」
「それはこれから見つけていくんですけどね。でも一つだけ思い当たるものがあります」
「それは?」
「ネット配信です。流石に、やったことないでしょう?」
控えめに呆けたような、そんな表情。
「まあ、ないわ。知識としてはあるけど」
「これから私と二人で、知らないことを沢山体験していきましょう。退屈なんて私が絶対させませんから」
それは助かりたい一心から出た言葉。でも同時に実現させたい未来でもある。
「本当に、自信があるのね」
「もちろん」
魔女は眩しいものを見るかのように目を細めて笑った。
「騙されてあげるわ、その輝きに」
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