第10話 アンドロイドが夜明けに見る夢。
――ウィリー、……ウィリー起きて。
相変わらず暁美さまの声が聞こえてきているような気がしていた。
しかし私の聴覚マイクはまだ復帰していないはずだから、きっとこれは私のAIが記録した暁美さまの声が誤再生されでもしているかだろう。
つまりただのエラーだ。
そこではたと私は思う。
暁美さまは、お会いしてから今まで私に『起きて』などという言葉をかけたことがあっただろうか?
思えばそんな言葉は一度も聞いたことがない。
まさか登録声紋から勝手に暁美さまの音声を生成でもしているのだろうか。……いや、そんな機能は私に備わっていないはずだ。最新のアップデートにも含まれていなかった。
声紋というものは人間にとって大切なものだから、そもそも私のようなアンドロイドには真似ることすら不可能になっているはずだ。
「ウィリー、起きて」
それなのにずっと私には声が聞こえている。
よもや本当に壊れたのだろうかと私は自分というものを危惧したあたりで、唐突に目が覚めた。
もとい、視界映像が復帰した。
「やっと起きた。おはようウィリー。……珈琲、ありがとうね」
明るくなった画面に、朗らかに笑う女性の顔が映る。
私に声をかけていたのは、他の誰でもない茜さまだった。
茜さまは仕事が一段落ついたのか、お気に入りのマグカップを手にくつろいでいる。
(……誰の声と、間違えていたのだったかしら)
私が主人の声を聞き間違うはずもないのに。
私はついさっきまでの自分の思考に内心で首を傾げながら、目の前の主人が珈琲を啜ってくつろぐ姿を眺めていた。
ふと主人の机を見ると、あれだけ散らかしていた机の上が綺麗に片づけられている。
一体いつ片づけたのだろうと再び疑問に思ったと同時に、……私は、何かがおかしいと感づいた。
茜さまの机はいつも疲労除去剤の類いのもので溢れていた。
私はとても片づけたかったのだけど、茜さまの仕事の邪魔になるからと躊躇ってしまって、机に近づく機会が掴めなかったからそれはどんどん増えてしまったのだ。
いい加減片づけなくてはと、思った。
(――あれは、そんな日の夜だった)
忘れもしない。忘れたくても、しっかりと記録されてしまって忘れられない。
私は思い出した。
あの日の夜に茜さまはたしかに、……亡くなられたはずだ、と。
(だとしたら、今私の目の前にいる茜さまは……)
誰だ。一体、何がかつての主人の姿をして、私の前にいる。
それに私が今いるここはどこだ。
茜さまの使っていた仕事場兼住居にとても似ているが、何かが違うような違和感を覚える。
衛生電波受信システムで確認しようとしても、先ほどからなぜか一向に反応しない。
「夢だよ、ウィリー。あなたは夢を見ているのよ」
私が現状の理解に苦労していた横で、茜さま……の姿をした誰かが私にそう言った。
夢……?
「そんなつまらない警戒は止してよ。いつも通りお話ししましょう、ウィリー」
と目の前の……“茜さま”が困ったように笑って、私へとその目を向ける。
生前に私がよく見た表情とまったく変わらない。とても優しい目だ。
「ふふ、あなた私のことよく見ていたのねぇ」
茜さまが可笑しそうに笑う。
私は何も口にしていないのに、ここでは考えていることが筒抜けになってしまっているようだ。
(……当然か)
私は、目の前で笑顔を向けてくれている茜さまをまぶしく感じながら、思う。
夢は自身の記憶から作られるものだという。
正確なメカニズムはいまだに判明していないようだが、人間だったならば頭の中で記憶の情報処理として行われている過程で、夢というものを見るらしい。
つまり夢の中はすなわち自分の頭の中での出来事……なのだろう。
考えていることが筒抜けなのもそのため、なのかもしれない。
……だからといってそれが私にも当てはまるかと言われれば、それは甚だ疑問が残るし、正直私自身否定したくなるのだけれど。
何せ私は人間ではない。
私がどこか納得できずにいると、目の前の茜さまがまた肩を揺らして楽しそうに笑った。
「アンドロイドが夢を見たって良いじゃない。……何で夢を見ているのかなんて、どうでも良いわ。そんなこと目覚めてから考えなさい。現にあなたは夢を見ているの。それは人間のように必要だから見ているのかもしれないし、まったくの無意味なエラーで見てしまったのかもしれない。でも今はそんなことどうでも良いわ」
そう言い切って、目の前の茜さまは手にしているマグカップの珈琲を一口啜った。
そして、戸惑いの残る私へとその視線をゆるりとよこす。
しばらくこちらを眺めていたかと思えば、茜さまは小さくふと笑った。そして、
「……あんまり、無理をしちゃだめだよ」
と、私へと言った。
その言葉を聞いた途端、私は底知れぬ激しい感情が一瞬で湧き出てきたのを感じた。
感情が声に生成される前に鎮めなければと思ったが、それよりも感情が噴出する勢いの方が早かった。「それは……ッ!」
「……それはこちらの台詞ですッ!! あんなにご無理をなさって! 倒れるのは当然ではないですかッ! いくら大切なお仕事だとしても、ご自身のお身体を大切にできなければ意味がありませんでしょう! どうして、それがわからなかったのですか! どうして、そんなこともわからなかったのですか! それすらも難しかったのなら……、どうして、どうして、このウィリーを…………!!」
私はそこまで喚いて、言葉が不自然に詰まってしまって紡げなくなった。
私は人間のように嗚咽を発生させていたのだ。
必要のないはずの呼吸が荒くなって息苦しさを感じ、出るはずのない涙がこぼれて頬を伝っているのがわかった。
目の前の茜さまはそんな私を微笑んだまま、静かに見つめている。
それまでの饒舌だった彼女が、嘘のように口をつぐんで、無言で佇んでいる。
まるで。
……まるで、私の発した言葉には何も返すことができないとでも、言っているかのように。
(……そうだ、)
茜さまはもう、亡くなってしまったのだ。
今さら何を言っても、遅いし、何も返ってこないのだ。
そんなこと。
(わかっていた、はずなのに……!!)
私はかつてない感情の暴走に完全に飲み込まれて、自分がアンドロイドであることも忘れてその場に泣き崩れた。
このまま壊れてしまいたい、本気でそう思った。
やがて、私の周囲は暗い夜に包まれていく。
夜の暗闇が、まるで侵食してくるかのように、カーテンの隙間から、部屋の四隅から、静物が落とす影から、どんどん忍び寄ってきて、私の周囲を仄暗く染めていく。
目の前の茜さまも、夜に取り込まれていく。
「あ、茜さま……っ!」
私は思わず茜さまへと手を伸ばした。
しかし茜さまも、彼女を取り込もうとする夜も、私の手を霞のようにするりと抜け、私の手はただただ空を掴むだけだった。
ああ、私は。
(夢の中でさえ、彼女を助けることができないのか……!)
私はもはや必死になって茜さまの幻影に取り縋ろうとしたが、そのどれもが失敗に終わった。
結局、私は為す術もなくその場で絶望するしかない。
茜さまはそうしている間にもどんどん夜に取り込まれていく。
それなのに、どうすることもできない。
私は……。
(……どんなに夜を見張り続けていても、)
どんなに夜を警戒していても、どんなに夜が敵だと忌み嫌っていようとも。
(……私は、変われていない)
大切な人を守れなかったあの夜から、ずっと弱いまま。
大切な人が夜の中に消えてしまったあの日から、ずっと愚かなまま。
「私は……、どうすれば、良かったのでしょう……?」
生ぬるい涙をぼろぼろと流しながら、私は夜に取り込まれていく主人へと問いかけた。
問いかけてもこの茜さまは何一つ返してはくれないことはわかっていた。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
自分の中で答えをいくらシミュレーションしてもわからない。
あの時もう一度声をかければ良かった?
あの時最後にお顔をきちんと拝見しておけば良かった?
無理矢理にでも休憩に入らせれば、良かった?
こういった答えはいくらでも出てくる。
私の後悔は尽きないが、結局はただの後悔でしかなく、それをもとに仮説を立てたとしても私の中のAIはいつも『正解』の太鼓判を押してはくれない。
「茜さま、ごめんなさい……、ごめんなさい、茜さま……」
私は自分の非力と愚かさを痛感し恨んで憎んで、泣きながら謝罪を口にするしかできなかった。
茜さまは夜の闇に飲み込まれながら、そんな私を無言で見つめ返し続けている。
そしてとうとう、茜さまの姿が完全に夜の闇に見えなくなってしまった……ちょうどその時だった。
……私は、夜に飲み込まれてしまう茜さまを見ていられなくて、両手で顔を覆っていた。
その時に気がついたのだ。
自分の目から流れているものは、人間が目から流すそれではなかったということに。
(……これは、メンテナンスオイル?)
私の目から溢れていたのは、水分が成分のほとんどを占めている人間の涙などではなく、涙よりも粘度が圧倒的に高く水分よりも油分の方が多い、アンドロイド用のメンテナンスオイルだった。
アンドロイド用メンテナンスオイル自体は色の透明度が高いので、一見して涙のように見えなくもないが、……それでもやはり人間の涙とは異なるものだ。
両手に擦りついたメンテナンスオイルはとても真新しく、サラサラとしていて汚れも少ない。
ここまで綺麗なものはよほどそのアンドロイドに対して気を配って、頻繁にオイルを差すようにしてくれた証だ。
――素敵ね、誰がそこまでしてくれたの?
すっかり夜の闇に包まれてしまった暗がりの中で、誰かが私にそう問うた気がした。
私は掌の上の綺麗なメンテナンスオイルを見つめながら、湧き上がる感情を噛みしめるように答えた。
「……これは、暁美さまです。暁美さまと、健司朗さま、恵美さまの、……柏木家の方が、」
ぱたり。
私の紡いだ声は、掌の上へと新たに一滴が落ちたのをきっかけに途切れた。
自分の掌を見下ろしていた私の目から、再び次々と透明な雫が溢れ出てきたのだ。
それは掌の上のメンテナンスオイルと分離して、明らかに成分が違うことを主張していた。
私は不思議に思って目を拭うが、それはいくら拭っても流れ出てきた。
――……「私、ウィリーと一緒に食事がしたくって」
夜の最中、食卓で見た無邪気な笑顔を私は思い出す。
『オイルスープ』として、メンテナンスオイルを日々摂取するという提案をしてくれた少女を、思い出す。
彼女は茜さまよりもずっと幼くて、夜の脅威に戸惑い、怯えて過ごしていた。
アンドロイドの私よりもずっと深刻に、夜というものに頭を悩ませていた。
(そんな暁美さまのお力になりたいと、……そのために私ができることは)
夜を見張ることなんかでは、なかったのだ。
私は、周囲にひしめく夜の闇を力いっぱい睨んで顔を上げた。
どんなにこの闇が恐くても、どんなにこの暗さが絶対的なものだと知っていようとも、私は。
「……私は、家庭用アンドロイド『ウィリー』。“家族を愛し助けることが使命です。”」
私は震える声で感情を絞り出す。
「茜さまはこの程度の暗がりなんて、まったくどうってことないくらいの素晴らしい方でした。 私が……、私が一番それを知っていました。暁美さまだって、夜に負けるような方ではありません。私の愛する人たちは皆……夜明けを信じられる方々……!!」
私は目から透明な雫を散らしながら、それでも決して視線を逸らすことはせず暗い夜に向かって、ついにめいっぱい吠えた。
「だから私も、夜明けを……信じます!!!」
私が製造されてかつ意識を持って以来、初めてというくらいの大声量でそう喚くと、周囲をずっと支配していた闇夜が、まるで潮が引いていくかのように退いていった。
それでも、夜の暗がりが退いてしまった後でも、そこにはすでに茜さまの姿はなかった。
少しだけ寂しく思ったが、私は明るくなった視界に、……ようやく明るくなった自分の夢の中の景色に、どこかすっきりした気分を覚えていた。
闇夜が退いた視界は、先ほどと同じく茜さまの仕事場兼住居の光景だった。
それでも、そこにはすでに、かつての主人の姿はないけれど。
(……大丈夫)
私は懐かしさでいっぱいの視界を静かに閉じ、心の中だけで呟く。
先ほどから、自分の身体に電気が急速に流れて、バッテリーが満たされてきている感覚がしていた。
自分の中の時計が現時刻を合わせ始め、衛星電波受信システムが再起動されているのがわかる。きっと夢ではない現実の方で、バッテリー切れを起こした私に充電の措置が取られたのだろう。
きっと私が夢なんてものを見るのは、これが最初で最後だ。
しかし不具合の可能性を考えて目が覚めたら何らかの検査を受けた方が良いのかもしれない。
そんな考えが一瞬だけよぎったが、……今回ばかりは、私の記憶の中だけの経験に仕舞っておくことにしようと、そう思った。
目を瞑り、夢から覚める再起動の心構えをしていた私の背中を、誰かのあたたかな掌が優しく触れたような気がしたが、それを確認する余裕もなく私の意識は夢の中から急浮上に向かってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます