第8話 夜の最深部はどこにある?
――……逃げたい逃げたい。逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい!
私は、とても暗い夜の中をひたすら走って、走って、……疲れ切って走れなくなってもとにかく足を止めずにひたすら逃げ惑っていた。
もうどれだけの時間が経ったのかもわからない。それでも私は逃げる足を止めることができなかった。
夜は、本当は暗くて大嫌いだ。
暗いのにチカチカと光る街の明かりがちぐはぐで、眠れない私を責め立てるオバケみたいに感じる。
いくら走っても逃げ切れない。
……夜からは、私はもうずっと逃げられないでいる。
夜が嫌いになったのも、クラスメイトにいじめられるようになったのも、本当のきっかけは案外、些細なものだったのかもしれない。
私はもともとの内向的な性格が災いして、中学に進学してから最初の友人作りに失敗した。
それこそ進学したての頃はまだお喋りしてくれる子がいたが、それも春がすぎる頃にはなくなって、すぐに教室内で孤立した。
孤立は徐々に変化して、次第にクラスメイトから無視されるという状況に陥った。
昼間は日常を耐えることで精一杯で、夜になるといつも憂鬱感でいっぱいだった。
特にお布団に入って、眠りに就く時間が一番の苦手な時間になった。
夜眠ったら明日になってしまうのが嫌だった。
『明日』になったら、学校へ行かなければならない。とにかくそれが嫌で嫌で堪らなかった。
そうやって毎日毎晩思っていたら、だんだんと夜眠れなくなって、寝つくのが下手になって、すぐに寝不足の毎日になった。
寝不足のせいで日中に眠くなってしまって、授業中に居眠りをしてしまうことが多くなった。
朝、きちんと起きられないから学校は遅刻ばかりになって、それで先生からも叱られることも多くなって、それが恐くてまたさらに朝が来るのが恐くなった。
居眠りと遅刻ばかりをしているからクラスメイトからは馬鹿にされる対象になって、いつの間にか始まっていたいじめはエスカレートしていった。
そしてある日、私は寝不足が祟って怪我をした。
階段を踏み外してしまったのだ。足の骨折、全治二ヶ月だった。
ギプスが外れるまでそんなに長い期間を要さなかったけれど、私を学校から遠ざけるには十分すぎるほどの要因になった。
怪我をしたことをきっかけにして、……あるいはそれを体良く言い訳に使って、私はついに学校へ行くことから逃げてしまった。
最初は、それでもほっとしていた部分があった。
やっと逃げられたのだと、私は思って安易な気休めを得たのを覚えている。
でもそれは私の勘違いだった。あまりにも大きな勘違いだった。
その時すでに寝つきが悪いことが常態化していた私は、朝から学校に行くことがなくなってすぐに、昼夜逆転の生活になってしまった。
夜間には開いている店も少なく、だからと言って外で一緒に遊ぶ友人もいなくて、私はますます家の中に籠もるようになった。
このままじゃいけない。何度もそう思った。今はまだ夜型の生活でも大丈夫かもしれないが、いつか必ず、絶対に困る日が来る。
だって私には、将来の夢があった。
それを叶えるには高校へ行って、大学に進学するのが一番良い方法だと両親から聞いていた。
志望校探しも、両親が手伝ってくれたお陰もあってすぐに見つかった。
少し偏差値が高い学校だったから、成績が落ちたりしないように毎日の勉強だって欠かさなかった。
それなのに、私は……。
その志望校へ行くには、当然今のままの生活ではいけないのはわかっていた。
……志望校は全日制、つまり日中に授業を行っている学校だったからだ。
今のままでは通学するどころか、入学さえも……試験を受けることすらも怪しくなってしまう。
危機感を抱いた私は、自分の活動時間を日中に戻すために何度も『早寝早起き』に挑戦した。
早くに寝て、決めた時間に起床すれば良いだけの話だ。何も難しい話ではない。皆やっている。
……難しい話では、ないはずなのに。
何度挑戦してみても、できなかった。失敗ばかりだった。
早めに布団に入って、眠ろう眠ろうといくら頑張ってもかえって目が冴えてしまう。
『明日』への恐怖感のようなものを思い出してしまう。
布団の中は気を逸らすものがないから、学校でいじめられたことや、先生に叱られたことを思い出してしまう。
そうやっていると窓の外が明るくなり始める。
白けた光が透けるカーテンを見て、「ああ、また駄目だった」とひどく落胆して、自己嫌悪に苛まれながらようやく来る眠気に辟易して、情けなく泣きながら眠りに落ちてしまう。
そんな情けなくて馬鹿みたいな日々ばかりだった。
何で皆ができていることが私はできないのだろう。
皆ができていることを私だけができない。
学校の先生は、私の気持ちが弱いとも言っていた。根性がないとも言っていた。
『朝起きるのは誰だってつらい。皆だって頑張って起きているのだから、あなたのそれはただの怠けだ』、と。
「――あっ……!」
暗い夜の中を一心不乱に走り続けていた私は、足を縺れさせて地面に倒れ込んだ。
地面の細かい砂利で、とっさに突いた掌が擦れてびりりと痛んだ。
膝も地面に打ってしまったようで遅れてじんじんと痛みが広がった。
……あまりに失敗続きだから、しだいにそれに挑戦することすら避けるようになってしまった。
気持ちは少し楽になったが、自己嫌悪感は膨れ上がるばかりだった。
さらにウィリーが我が家に来てからは、何だか日々が楽しくなってしまって、すっかり自分が『逃げている』ということを忘れてしまっていた。
「うぅ、ううぅぅ……」
私は地面に転げたままうめき声を漏らすが、周囲をはびこる夜が、肌の上までぴったりとひしめく夜が、私の声も、涙も、希望も、努力も、信頼も、将来も何もかもを飲み込んでしまう。
私は地面の湿った土に塗れて、ただ夜の気配に恐怖した。
夜というバケモノの胃袋の中で、ただ溶かされてしまうのを怯えて待つしかできない、餌用の虫のような自分の矮小さと愚かさを呪った。
……私は、いつも逃げてばかりだ。
逃げてばかりなのに、いつまでもいつまでも、逃げ切れない。
――『ちゃぁんと日中起きていられるようになりましょーねぇ、『居眠りサボりの柏木』サン!』
嘲笑混じりのクラスメイトの声が頭の中で思い起こされる。
その明らかに侮蔑を込めた声は、学校で散々先生から言われた声と重なった。
……私だって。
(私だって好きで眠れなくなったわけじゃないのに……!)
悔しくて情けなくて、ぼろぼろと涙が溢れて噛みしめた奥歯が折れそうだった。
(こんなの、もう嫌だ……)
逃げたい。この日常から逃げたい。
こんな思いをする自分からも逃げたい。夜から逃げたい。何もかもから逃げてしまいたい。
……でも、きっと私は一生。
逃げおおせることなんて、できやしないんだ。
――……カン、カン、カン、カン、カン、
ふと、警報音が耳に届く。
一瞬何の音だったかと思ってしまったが、これは間違いなく踏切の警報音だ。
幼い頃にはマンションから少しだけ歩いたところにもあって、私も聞いた覚えがある。
そういえば辺りに人の影も見当たらない。人通りが極端に少ない場所なのかもしれない。
最近はあまり聞かなくなってしまったが、まだあるところにはあるみたいだ。
乗り物の方は時代が進むごとにどんどん新しくなったらしいけれど、この音は基本的に昔から変わらないんだなと私はぼんやりと思った。
今私の近くに、古い踏切があるのはたしかなのだろう。
カン、カン、カン、カン、カン…………。
私は、鳴り響く踏切の遮断機の音に誘われるようにふらりと立ち上がった。
自分が何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。
涙でぼやけた視界と同じくらい、頭の中もぼやけたようになっていた。
それなのに、遮断機の警報音だけがやけにくっきりと私の胸の奥の方に響いてきていた。
そしてそのまま。
私は、夜のさらに深いところにあるだろう、その音の鳴る方へと歩き出してしまったのだった。
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