第4話 透明で正確な秒針が刺した傷。

 柏木家の住宅は、ファミリー向けの分譲マンション内にある一室だった。

 高層とまでは言い難いが、それなりに高い階層の部屋なので窓からの景色が素敵な住まいだ。

 リビングやキッチンなどの他に部屋が二つあり、そのうちの一つが暁美さまの使用している子供部屋だった。

 私は暁美さまの部屋の前に立ち、その頑なに閉ざされた扉をゆっくりとノックする。


「失礼します暁美さま。ウィリーです。お父さまとお母さまは、先にお休みになられました。私はリビングかキッチンにおりますので、ご用命の際はいつでもお申しつけください」


 扉の向こうの暁美さまに向かって、私はなるべく優しく声をかける。

 小さな物音が聞こえたのでしばし待ってみたが、暁美さまからの返事はなかった。

 私は自分の中の衛星電波受信システムからの情報をこっそりと確認する。

 情報によると部屋の中の暁美さまに特に異常はないようだ。

 私は一安心して、扉の前で一礼をしてその場から下がった。


 とりあえず私はリビングへ戻り、改めて部屋を見渡してみる。

 健司朗さまは家の中のことに手が回らないとおっしゃっていたが、少なくともリビングは整頓されているし、目立つ埃も溜まっていない。

 言うほど家事が後回しになっている印象はあまり見受けられなかった。

 そのまま私はリビングに対面で設置されているキッチンへと入る。

 キッチンも綺麗で、食材もそれなりに貯蔵されているようだったが、……それよりも目についたのはカップ麺などのインスタント食品が大量に買い溜めされていたことだ。

 私はこの国で恐らく最もメジャーなメーカーの、よくメディア広告でも目にするカップ麺の一つを手に取った。

 ……前の主人も、これとまったく同じものをたまに食べていたのを思い出す。

 最近のインスタント食品は栄養機能にも気を遣ったものも少なくはなくなってきた。

 しかし、味の好みなどの理由で依然として栄養価のひどく偏ったものが世間では人気だ。

 今私が手に取った物も含め、目の前に溜め込まれているのはそういった味が濃く、栄養価は二の次で売り出されているものばかりだった。

 ……あの柏木夫妻がこのインスタント食品で日々の食事を済ませているとは、少し考え難い。

 恐らくこれらは、夜間に一人きりで生活をしている暁美さまのものだろうと私は推測した。

 私は時刻を確認する。日中だったならば、ちょうど昼食時にあたる時間だった。

 ふと思い立って、私はキッチンの冷蔵庫を開けた。ひやりとした冷気の中には、十分すぎるほどの食材が貯蔵されていた。


+++++


 温かいスープも作ったのが功を奏したのだろう。

 子供部屋まで漂ったらしいスープの湯気は、お腹を空かせた暁美さまの嗅覚を存分に刺激したようだ。

 リビングの入口付近で、キッチンに立つ私から隠れるようにしてこちらを窺っている暁美さまの姿があった。

 あれで隠れているつもりなのだろうか、とてもバレバレだ。


「ああ、暁美さま、ちょうど良かった! たった今、昼食が出来上がって、呼びに行こうと思っていたのですよ。すぐテーブルに並べますので、少しお待ちくださいね」


 私はいかにもたった今その姿に気がついた、という体を装って暁美さまへ声をかけた。

 本気で隠れていたらしい暁美さまは、私に発見されてその肩をビクリと揺らし、そして至極気まずそうに視線を泳がせながら隠れるのを止め、リビングへと入って来た。

 私はテーブルに昼食を手際良く並べていく。と言っても暁美さまの一人分なので、それも一瞬のうちに済んでしまった。

 おそらく普段の食事と比べ大分彩り豊かなそれらを見て、暁美さまが若干のたじろぎを見せた。

 蒸し鶏と野菜、それからゆで卵を挟んだボリュームたっぷりのサンドイッチに、コーンを多めに入れた濃厚なコーンクリームスープ。

 暁美さまは目を輝かせていて、明らかに食卓へ惹かれている様子だった。

 しかし、暁美さまはぐっと堪えた顔をしたかと思うと、食卓と私から、ぷいと顔を背けてしまったのだった。

 顔を背けたまま、その口からしどろもどろな言い訳が紡ぎ出される。


「わ、私、えっと……、その……そうだ、飲み物を……飲み物を取りに来ただけで……」


「食後にあたたかいお飲み物をご用意いたしますね」


「そうじゃなくって! 部屋で飲むやつのことを言っているの!」


「承知いたしました。そちらもご用意させていただきます。……さあ、暁美さま」


 暁美さまが反論をするために振り返ったのを契機とばかりに、私は食卓の椅子を引いた。

 着席を促された暁美さまは、私の顔と食卓を交互に見て、とうとう観念したかのようにその腰を椅子へと下ろした。


「どうぞお召し上がりください」


 私は最後にお茶をコップに淹れて、食卓に着いた暁美さまのそばへ差し出し置く。

 そして一礼をしてから、暁美さまの後方へと静かに下がった。

 暁美さまはしばし躊躇いを見せていたが、とうとう昼食へと手を伸ばした。

 一口、二口、と口に運んでいくうちに、その手は止まらなくなる。とてもお腹が空いていたようだ。もしかしたら先ほどの口論で、暁美さまは『朝食』にあたる食事も摂っていなかったのかもしれない。

 そして暁美さまは、あっという間に昼食を平らげてしまった。

 食べ終わった暁美さまは、最後にお茶を口にして喉を潤した。

 飲み干されたコップが静かにテーブルへ置かれる音がして、しばしの静寂が訪れる。


「……ご、ごちそうさま。美味しかったわ、すごく」


 暁美さまはぽつりと零すようにそう口にする。

 私はその素直な言葉を少しだけ意外に思ってしまった。

 ちょうど背後にいるので暁美さまが今どのような顔をしているかはわからないが、今の声はたしかに私に向けたものだった。


「すぐにお部屋へお持ちする飲み物をご用意いたしますね。奥さまから、暁美さまはココアがお好きだと伺ったのですが、そちらでよろしいですか」


 私の問いかけに暁美さまは少しだけ目を丸くして、遠慮がちに俯いてから「う、うん……お願い」と答えた。

 その返事を聞き、私は棚から花柄のマグカップを一つ取り出す。

 これが暁美さま愛用のマグカップだと教わったのだ。

 さらに私はあらかじめ恵美さまから教わった通りに、暁美さま好みのココアを作る。暁美さまはピュアココア粉から作ったココアが一番お好きなのだそうだ。

 そして私はテーブルに着いて待っている暁美さまの前へ、静かにそれを置いた。

 そのまま一礼をして、食事の時と同じく再び暁美さまの背後の方へ下がろうとした。しかし。


「ま、待って! 後ろに行かないで」


 暁美さまが私の袖を掴み、私を引き止めた。

 急に袖を掴まれて若干つんのめりそうになりながら、私は暁美さまを振り返る。

 暁美さまの顔には、よく見ると泣き腫らしたあとが残っていた。


「いかがされましたか」


 立ち止まった私がそう問うと、暁美さまはしばし迷ったような顔をしたが、すぐに私をおずおずと見つめ返してきた。


「その……あ、あなた、私の症状のこと……、もう知っているの?」


 暁美さまは不安そうに震える声でそう問うてきた。

 暁美さまの言う『症状』とは例の睡眠障害のことを指しているのだろう。

 私は頷いて返す。


「はい。暁美さまの睡眠障害についてなら、旦那さまから伺いまして、大まかにですが存じております」


 暁美さまは私の返答を聞き、「そう……」と沈んだ声で目を伏せた。


「だから、なんて作って待っていてくれたのね」


 そう零したきり、暁美さまは俯いたまま沈黙してしまった。

 リビングには秒針音のする時計すらもない。

 静まり返ったリビングで、マグカップから漂うココアの湯気だけが部屋の時を動かしているかのようだった。


「暁美さま」


 私は腰を低く屈めて、暁美さまの目線に合わせてその名を呼んだ。

 俯いたまま沈んだ表情をしている暁美さまのその横顔へと、私は語りかけた。


「……じつは、私も『睡眠障害』なのです」


 告白にも似た私のその台詞に、暁美さまは「え?」と声を上げて顔をこちらへ向けた。

 ……やはり、暁美さまは私の『故障』についてまだご存知なかったようだ。


「そ、そんな、アンドロイドが睡眠障害だなんて……」


 戸惑いの表情を浮かべる暁美さまに、私は一度屈めていた腰を伸ばし、自分の胸の前あたりに投影表示される『メニュー画面』を開いて見せた。

 暁美さまにお願いし、そのまま充電時間設定の画面まで進んでもらい、夜間の二十一時から翌朝方の五時までの設定を試してもらった。


「あ、あれ……? 決定ボタンが反応しない……?」


 表示された充電時間設定の画面で、暁美さまは再び戸惑いの声を上げる。

 そしてにわかには信じ難いといった目で私を見上げた。

 そのどこまでも不安げな光を宿した瞳を、私は浮かび上がっている画面越しに見つめ返して、軽く微笑んだ。


「私は、夜間の充電設定ができなくなってしまったのです。この故障のために、私は『難アリ』のアンドロイドとしてリサイクルショップで売られていました」


 私は浮かび上がらせていた、胸の前の画面を閉じる。

 戸惑いの表情を浮かべたままの暁美さまへ再び目線を合わせ、その少し幼さを残す手を自分の両手で掬うように包み込んだ。


「あと一日でも購入されるのが遅ければ、私は今頃工場でスクラップされていたのです。暁美さまのおかげで、私は命拾いをしました」


 アンドロイドが『命拾い』だなんて表現はおかしく思われてしまうだろうかとも思ったが、私は感じたことを素直に暁美さまへ告げた。


 実際、暁美さまが夜間に活動される生活を送っていなければ、私は購入されることもなかっただろう。暁美さまがいたから、私は今こうして人格を保って――生きているのだ。


 ……たとえ、すぐにでもスクラップになってしまいたいと思った夜があったとしても。


 私は、まだ自分にもかすかな未来が残されていたと、この家庭に来たおかげで実感してしまったのだ。

 私の言葉を聞いて、暁美さまは目を瞬かせてしばし押し黙ってしまった。

 しかし、次には少しだけ俯いて、どこか気まずそうに口を開いたのだった。


「その……ごめんなさい。さっきは、ひどいことを言っちゃって」


 突然の謝罪に私が首を横に振って見せると、暁美さまは苦しそうに目に涙を浮かべてこちらを見た。


「ごめんなさい。あなたがそんな事情だったなんて、知らなかったの。ルクルトの『ウィリー』なんて、とても高くて、とても優秀なアンドロイドで有名だったから……。まさか私と同じ症状を持っていたなんて、思いもしなかった……」


 暁美さまは目に涙を溜めたまま、無意識だろうか、私の手を強く握り返す。


「今まで、誰も理解してくれなかったの、私の症状。皆、私が怠けてるって言う。お父さんもお母さんも、本当は心の中で駄目な娘だって、思ってる。厄介な駄目な子供だって、思ってるわ」


 私は「そんなことはない」と否定しようとしたが、それをまるで遮るように暁美さまは「でも、仕方がないわ」と首を横に振った。


「だって、本当に私が昼間起きていられないのがいけないんだもの。本当は私だって頑張って起きていたいんだけど、どうしても上手くできないの。これじゃお父さんとお母さんが、困るのも、当然だわ。……でも」


 堪えきれなくなった涙が、ぼろり、と暁美さまの頬の上に流れ落ちる。


「でもね、こんな私でもやっぱり、寂しかった。あなたが来るのを知って、とうとう私、お父さんとお母さんにも見放されちゃったんだって、思っちゃった」


 ごめんなさい、と暁美さまは泣きながら謝罪を繰り返す。

 私は暁美さまの不安が少しでも和らぐようその背をさすった。「……大丈夫ですよ、暁美さま」


「どうかご安心ください。私は旦那さまと奥さまから、暁美さまの抱える負担が少しでも軽くなれば、とたしかに考慮されて購入されました。所有権申請の際の、使用目的の第一項欄にもそう入力されております。それに、もう暁美さまはお一人ではございません。暁美さまの感じておられる寂しいお気持ちも、軽減できるよう務めさせていただきます」


 私は暁美さまへと改めて向き直り、その瞳をまっすぐと見つめた。


「暁美さま。私は機械の……アンドロイドです。機械と人はたしかに違う存在です。ですがこのウィリーは、今後暁美さまが寂しい思いをなさらなくなるその時まで、あなたの一番の友でもあることを誓います」


 精一杯の気持ちを伝えたつもりだったが、はたして暁美さまには伝わっただろうか。


 ……私は家庭用アンドロイド。型落ちの中古品、さらにはにはなってしまったが、かのルクルト・フレール社製の家庭用アンドロイドだ。

 バッテリーの持ちの良さも、頑丈さも持ち合わせていないけれど、……工業用にはできないことが、私にはできるはずだ。


「……だから、どうかもう泣かないでください。私がいつでも、あなたのお側におります」


 私はハンカチを取り出し、暁美さまの涙を優しく拭った。

 涙を拭われた暁美さまは、目を真っ赤にしてさらに大粒の涙を零した。

 暁美さまはしばらく泣いていた。

 それでも落ち着いた頃合いに、俯いていた顔をようやく上げて、こちらを向いてくれたのだった。

 腫らした目をどこか眩しそうにしながら、やっと私をまっすぐ見てくれたのだ。


「ありがとう、ウィリー。……これから、よろしくね」


 少しだけ照れくさそうにして、暁美さまは私に笑顔を向けた。

 やはり最初に思った通りの、本当は大変笑顔の可愛らしい方だったのだと、私はようやくそれを視覚カメラで認識することができたのだった。


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