第4話 記憶と身体
割れた皿3枚。水をかぶってダメになった薬のストック3種、それぞれ10回分。破れた服2枚、うち1枚は修繕不可。
「お前、本当に、マジで、どこの、お坊ちゃんだよ……!」
記憶喪失の男カヴァリが目を覚ましたその翌日夜、ヌーラは夕飯を前にしてぐったりとダイニングテーブルに倒れ伏した。
捻挫しているだけだから手伝えることはなんでもやる、と言ったカヴァリだったが、実際に家事をやらせてみた結果は散々なものだった。散らかしたものの片付け、服の修繕、薬の増産。そして、行き倒れの青年が目を覚ましたと聞いて見舞いの品を持ってくるトナリ村の人たちへの対応。それが落ち着いてから今日のうちにやっておきたい事が終わる頃には、平素の夕飯の時間を大きく過ぎていた。
当の本人はヌーラの正面の椅子に座って大きな体を小さくして猛反省している。
「す、すまない……手伝うつもりが逆に仕事を増やしてしまった」
「無事に夕飯にありつけたからもうそれで良い……」
よろよろと体を起こし、スプーンを手に取ったところでふとヌーラが顔を上げて真正面で身体を縮こまらせているカヴァリの顔をまじまじと見つめた。
「そういやお前、皿洗いも雑巾がけも洗濯もてんで駄目だったのに、料理はやけに手馴れてたな」
「……言われて見れば。身体が覚えている、という感じだったかな」
カヴァリが自身の大きな手を見つめて握ったり閉じたりしてみる。料理中、ふと手を離したヌーラの代わりに包丁を手にした彼の動きは滑らかだった。不器用なわけではないらしい。台所に椅子を置いてやると、それに座っていかにも手慣れた様子でシチューを作ってみせた。逆に言えば、それ以外の家事はやったことがないのだろう。
「身体が覚えてる、か。なるほど、身体の感覚に引っ張られて何か思い出すかもしれん。……うん、さっき味見した時も思ったけど美味いなお前の作ったシチュー」
途端に、さっきまで叱られた犬のようにしょげていたカヴァリがピンと背筋を伸ばして笑顔になった。そのままズイを身を乗り出す。
「明日も良かったら俺にも何か手伝わせてくれ。料理以外でも、がんばる、から」
尻すぼみになった言葉に、ヌーラは声を上げて笑った。こんな風に同年代と楽しく喋るのは久々だった。ヌーラは大魔女サーヘラの代理としてトナリの森を見守り、緊張関係にある隣接するワタニー領への警戒もしなければいけない。森から出ること自体が少ない。その上、一番立ち寄ることの多いトナリの村は小さな村で、生まれた子供たちも大きくなるとそのほとんどがトナリの町に移住する。さらにそのトナリの町とは、過去の出来事から仕事以上のかかわりを持とうとしない。ウィッチクラフトの腕が求められるのであれば熱心に町に通って客たちの要望に応えてやるし、相談役としての業務もきちんとこなすが、それ以上にかかわることは避けていた。
カヴァリが顔を真っ赤にして文句を言う。ヌーラと同じ20代前半のこの若者は、万華鏡のように表情が変わる。
「そんなに笑わないでくれよ、ヌーラ」
「悪い悪い。ま、明日は森を見回る日だからな。さあ怪我人は飯を食ったら風呂に入ってさっさと寝ろ」
そう言うと、ヌーラは空になった木製の皿を素早く回収してしまう。1日で皿を3枚割って服を2枚破いた男は台所には近寄らず、すぐそばのソファベッドの背もたれに引っ掛けていた寝間着を引っ張って大人しく風呂場に向かった。
タイル張りの浴槽には湯が張られていて、ラベンダーの香りがする。浴槽の隅に置かれた石鹸はトナリの村の特産品である。
家主を待たせることが無いように素早く身体を洗ったカヴァリはほとんど湯に浸からず、早々に浴室を出て渡された清潔な下着と寝間着を身に着ける。
台所に立っていたヌーラは、さっきようやく皿を洗い終えたらしい。目を丸くしてカヴァリの方を見た。
「随分早いな。ちゃんと肩まで浸かって温まったか?」
「……湯が冷めると悪いと思って」
そんなに遠慮するなよ、と笑って浴室に向かう家主を見送って、カヴァリは自分の着ている着替えを見つめた。ヌーラは小柄というわけではないが、カヴァリほど体格が良いわけではない。彼の師匠で育て親だった大魔女サーヘラは女性だという。それなのにカヴァリが着ることができる大きな服が常備されているというのは奇妙に思えた。
カヴァリがそんなことを問えば、魔女の家の住人は患者の腕や胸のあたりにある傷に薬を塗りながら答えてやった。体力があるのか回復力があるのか、火傷や裂傷と言った傷の類はもうずいぶんよくなっている。
「ウチは診療所も兼ねてるから、お前みたいな奴のために服は一式そろえてんの。あとはトナリ村の人たちとか師匠が俺にくれたやつ。数年経てばでっかくなるだろうってな。……ま、実際にはそこまででかくはなれなかったんだけど」
「君の服だったのか! 申し訳ない、ありがとう、貸してくれて」
ソファに座っていたカヴァリが頭を下げる。その隣に座った魔女の弟子は、怪我人の足首に湿布を張りなおしながら苦笑した。その横顔を見て、記憶喪失の男が顔を曇らせて気まずそうな声を絞り出した。
「前にも言った気がするが、おれは何かから逃げようとしていた気がする。しかしおれが誰かに追われているのなら、やっぱり君やこの村の人たちに迷惑をかけているんじゃ」
「トナリの森は広いし中も複雑だ。魔獣が住んでるから、御符とか特殊な技術無しに安全に通り抜けるのは難しい」
気にするなよ、と言ったヌーラは捻挫した方の足首の下に丸めたタオルを置いて患部を少し高くしてやる。
「じゃあ、俺はそろそろ寝るよ。寝るときはランプを消してくれ」
また明日な、と2階に上がる家主の背を見送ってからカヴァリはリビングルームをぐるりと見渡す。ダイニングテーブルの端には昼間に来た客人たちが持ってきてくれた花が飾られ、カヴァリへの見舞いの品としてヌーラの好物らしいオレンジが籠に山と盛られている。部屋の隅に置かれた大きな本棚の隣には場違いにカラフルなペンキで塗られた小さな棚が置かれ、絵本や子供のための玩具が仕舞われている。それがあの拾われ子ヌーラがかつて愛用していた品々で、育て親サーヘラによって用意されて使われなくなった今もそのまま大切に置かれているのが手に取るようにわかった。それを見ていると記憶喪失の青年の胸は締め付けられるような心地になった。
(おれはいったい誰の子で、どんな友達がいて、どこから来たんだろうな……)
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