第3話 記憶喪失の男カヴァリ
「自分がどこから来たのかも、どこに行きたかったのかも、家族構成も友人関係も覚えてないィ?」
床に散らかった物を片付けながら、ヌーラはカヴァリと名乗った行き倒れの青年を胡散臭そうに見た。
「本当なんだ! カヴァリという名前と、何かから逃げていたようなことだけが確かで……そんな顔しないでくれ、頼む、信じてくれ! いや、信じられないのも無理はないが、おれだって困ってるんだ!」
記憶喪失らしいカヴァリと名乗った青年がソファの上で金髪を抱えて悶えた。床に落ちたものを近くの机の上に置きつつ、一人でもやかましくクルクルと表情を変える男に視線を向けてヌーラはため息をついた。そしておもむろに立ち上がるとカヴァリのすぐ隣に座り、彼の腰に巻かれたベルトのバックルに手を伸ばした。とたんにカヴァリが大きな体を強張らせて身動ぎし、声を派手に跳ねさせた。
「うおぉぉぉ待ってくれッ、ええと……ヌーラといったか? 男同士というのは別段気にしないが、こ、こういったことはその、もっとお互いよく知り合ってから!」
「暴れるな、よく見えねぇだろ」
「見えないって何のことだ?!」
「記憶喪失とかマジで言ってんのか?」
「本気だ、自分の身元も本当に分からなくて……って、それはダメだー!」
大柄で伸びやかな四肢を持つカヴァリが抵抗すると、平均的な体格しか持たないヌーラは心底迷惑そうな顔をしながら癖のある黒髪を振り乱しながら必死にカヴァリのすすけて所々が破れているシャツの胸ぐらをつかんだ。そのまま制止すること数秒……ヌーラはカヴァリを突き飛ばすように手を離した。ソファベッドに倒れこんだ素性の分からない美丈夫をヌーラは鋭く見下ろす。
「お前、どこの貴族のお坊ちゃんだ?」
「おれが貴族?」
「お前の着てるそのシャツ自体はいかにも普段着っぽいデザインで綿製だけど、ボタンは黒蝶貝。うちの国だとほとんどが輸入品だ。ボタンを縫い付ける糸は絹、艶があるからな。そのシャツは少なくとも金のない奴が着る服じゃねぇ。俺ら庶民なら貝ボタンと絹糸は一張羅の絹のシャツにしか使わない。で、お前のそのベルトのバックル、金メッキかと思ったら本物の金だ。透かし彫りで植物をかたどるのは貴族に好まれる意匠だな」
ヌーラが一息に言うと、カヴァリはしばし彼を見つめてから自分の服装を確認して、呆けた声を上げた。
「君はすごいなぁ。おれはボタンがキラキラしてることしか分からん」
それが心底感心したような声色だったので、なんだか警戒するのが馬鹿らしくなってヌーラはため息をつきソファの端に座りなおして言った。
「記憶喪失は置いといて、刃物による裂傷や火傷の類はすぐに治るはずだ。応急手当もしてあるからな。問題は足首だ、ずいぶん腫れてる。痛いんだったな?」
「あ、ああ、うん」
「ちょっと触るぞ。痛いと感じたら言ってくれ」
幹部を触り、足首を動かし、最後に怪我人を立たせての様子を観察したヌーラはなるほど、と呟き患者を座らせた。
「足首は捻挫だろう。しばらく運動や足首に負担のかかるようなことは控えておけ。とりあえず湿布をしておくが……さて、どうしたものか。カヴァリ、お前、どこに行きたいとかどこかに行かないといけない、とかそういうのはあるか?」
「記憶がないからそのあたりはさっぱりだよ」
「村長たちいわく、着の身着のままで倒れてたって言うしなぁ」
製薬用のスペースをぐるりと見渡し、見事な金髪をした行き倒れの青年カヴァリを見比べて、トナリ地区相談役代理はため息をついた。
これが村の住人であれば薬のストックと渡して家に帰すところだが、目の前の患者はいかんせん身元も行先も知れない行き倒れだ。それも記憶喪失と来るのだからタチが悪い。治療が必要な患者であれば完治まで見守るべきだ。このままどこにでも行けと放り出すのは師匠である大魔女サーヘラの教えには無かった。だがトナリ地区の相談役としてこの男を預かると言った以上、捻挫が完治するまで村で面倒を見てくれと言うのもはばかられる。
ヌーラは癖のある黒髪をガシガシかき回して一つ息をすると、カヴァリを見つめて落ち着いた声で言った。
「カヴァリ、もしよければ怪我が治るまでこの家にいると良い。んで、お前の記憶を取り戻すのと並行して、お前の身元も明らかにする。家族とか友達が心配してるかもしれないからな」
「そ、それはとても嬉しい申し出だけど、良いのかい?」
「患者を放り出しては師匠の名に傷がつく」
ヌーラが淡々とした口調でそう言って湿布薬を持ってくると、破顔したカヴァリは破顔して獅子のたてがみを思わせる金髪を揺らしてソファから立ち上がり、ヌーラを強く抱きしめた。その拍子に、動揺したヌーラの手から乳鉢が滑り落ちた。
「馬鹿、薬が!」
だがヌーラの声を聞くや否や、乳鉢が床に落ち切るより前にカヴァリが素早くキャッチした。見事な動体視力のなせる技である。
「……っと、すまない! 中身は少し零れてしまったけれどほとんど無事だぞ」
生薬で汚れた手をヌーラから遠ざけながらカヴァリが乳鉢を差し出す。だがヌーラはそれをほとんど無視して冷静に厳しい声をあげた。
「薬がかかった部分に違和感はないか? 痛みやかゆみ、あるいは熱を感じるなど」
「無い、無いよ。……ええと?」
「カヴァリ、乳鉢はそこに置け」
訳の分からないまま言われたとおりにすると、ヌーラは厳しい顔になってカヴァリの言葉にも答えず彼の手をグイと引っ張って歩かせる。足首が痛むという文句を聞きもせずにカヴァリを台所に立たせると、ヌーラは大量の水をかけて生薬を洗い流した。何が起きたのか分からない患者がポカンとしていると、ウィッチクラフトを習得した男はホウと息をついて緊張を解いた。
カヴァリが首をひねると、ヌーラが真剣な目で彼を見上げてゆっくりとした声で喋りかけた。
「良いか? 今のはただの湿布薬で、肌に触れても問題のない薬だ。だが、俺が扱う薬の中には触れただけで肌がただれる物もある。薬がこぼしたりひっくり返った時にはそのままこぼれさせろ、怪我をするよりずっと良い」
この家に生活する上での注意事項だ、と言い加えてヌーラはカヴァリの濡れた手をタオルで拭ってやる。がっくりと肩を賭しながらも了承した、と生真面目な返事をする彼は大きな犬か何かを思わせた。
「危ないことだったんだな。これから気を付ける……」
「そんなに落ち込むなよ。俺も昔同じようなことをして、こんな風に師匠に世話をされた」
「嬉しかったよ、真っ先におれの身体を心配してくれたこと」
「そんなんじゃねぇよ。師匠の教えだ」
「だとしても、だよ」
ニコニコと笑うカヴァリを見上げて諦めたようにヌーラがため息をつく。けれど追究することはせず、元居たソファに患者を座らせててきぱきと患部の処置をしながら患者に問うた。
「お前、多分何か長年修練してるものがあるはずだ。それは覚えてるか?」
「何か?」
「さっき手を拭いてる時に気づいたんだが、お前の手は皮膚の一部が固くなってタコができてる。ペンダコじゃないが、いずれにしても長年何かを握ったり持ったりしないとこうはならない」
カヴァリが自分の手を閉じたり開いたりしてから腕を組んで首をかしげた。その上、本人は分からないなぁとカラカラと笑った。
「笑ってる場合かよ」
「ここまで何も覚えていないともう笑うしかないだろう! それに、命があって自分の名前も覚えているのはかなりの幸運だ」
そうだろう、と記憶喪失の男が金髪を揺らして自信ありげに笑う。めちゃくちゃな言い分だったが、その顔を見ているとなんだかそれもそうだな、と思えてくる。
「それにしてもヌーラはやっぱり凄いな、まるで魔法だ!」
「どこがだよ。それに、全部教わったことだ」
ぴく、とヌーラの眉が動いて、険のある声が返事する。けれどそれに構わずカヴァリは声を弾ませる。
「いいや、すごい! だってあっという間に俺の足首が捻挫だって分かったし、処置もあっという間に終わらせた。俺の気付かない細かいことに沢山気付くし、俺の知らないことを沢山知ってる」
カヴァリの輝く琥珀色の瞳と僅かに紅潮した頬を見て、ヌーラはかつて師匠に言われたことを思い出す。師からはウィッチクラフト以外にも、簡単な診察の心得、金銀財宝や工芸品の真贋を見極める方法なども教わった。相手の言動を観察して発言の真偽判断の基準にするのもまた、師の教え。
ヌーラはカヴァリの言葉が本心であると理解して、だからこそ顔をしかめて一息に言った。
「俺は魔法なんて使えないぞ。生まれつき、そういう体質らしい」
言葉尻に自嘲が交ざる。
どうせ、一緒に生活していたらいつかバレることだ。そしてがっかりするに決まっている。大魔女サーヘラという稀代の魔法使いに育てられて沢山の知識を授けてもらったのに誰でもできることができないのか、と。トナリの町の学校にいた子供たち、そしてこの「魔女の家」に時折やって来るトナリ村以外からの客人たちもそうだった。
けれど、カヴァリの反応は予想に反して。
「それとこれとは別の話だぞ」
淡々と、そしてきっぱりと言い放った。
「おれはヌーラが豊かな知識と鋭い観察眼を手に入れるためにこれまで重ねてきたであろう研鑽に敬意を払っている。それは魔法が使えるとか使えないとかとは全く別の話だ。そんなことでヌーラがこれまで行ってきた努力と今の知識と技術が嘘になるわけでもない。記憶喪失で色々忘れているおれでも、これくらいのことは分かるぞ」
カヴァリが歯を見せてニィっと笑った。そのまま続けて「この家の居候である以上、雑用は何でもするぞ」と言うものだから、唖然としていたヌーラは小さく笑った。陽の光に照らされた彼の癖のある黒髪が七色に艶めいて、その合間から青い瞳が覗く。その表情に一瞬見惚れたカヴァリの額を、ヌーラが指ではじいてからかった。
「怪我人は大人しくしてろよ、バーカ」
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