36.婚約者はあなたじゃなく私よ

 睨む必要も感じなかった。国同士の外交や王族同士の婚姻の意味を知らない、愚かな女性だもの。たとえ胸が大きくても、これでは貴族令嬢とは呼べない。


 贅沢を享受する権利の裏に、己を犠牲にする義務がある。紹介も挨拶もない貴族令嬢が、他国の王族に無礼を働く。そのツケを誰が払うか、考えが足りな過ぎた。知識も教養も足りていない相手と同じ立場で話をしたら、私の格が下がるわね。


「先ほども申し上げましたのに、理解できないのは幼いせい? それとも足りないのかしら」


 阿呆と言いたいの? ぴくりと眉が動くけれど、私はこの女性の挑発に乗るほど安くない。これでもアルドワン王国の末っ子姫なの。最低限の礼儀も知らない女性に取り乱す無様はできなかった。


「では、あなた様は幼子でもできる挨拶も学んでいない、礼儀知らずなのね」


 ふふっと笑って口元を手で隠す。夜会なら扇で隠せたのだけど、さすがに朝の散歩には持ってこなかった。


「なんですって?!」


「誰に向かってその口を開いたのか、無礼を働いているか。よく考えてみなさい。若くとも私はアルドワン王国を代表して、モンターニュ国の王宮に招かれた来賓よ」


 物の道理を説明したところで、彼女は理解しない。承知の上で、一応形を整えた。私は来賓の王族で、未来の公爵夫人なの。どんなに頭の悪い人相手でも、一度は引いてみせる。


「ただの客でしょう。特別でも何でもないわ」


 おほほと高笑いする彼女の後ろに、駆けつける騎士が見えた。数人の騎士に混じり、エル様のお姿がある。やり返すなら今のうちね。


「でもフェルナン王弟殿下の婚約者は私よ」


 彼女が私に突っかかったのは、きっとこの部分よ。身を引けと言い放ったのは、王弟であるエル様の妻の座を狙っている。だったら、彼女にとって一番聞きたくない言葉のはず。わかっていて、私はこの言葉を選んだ。


 次に彼女が放つ言葉も想像がつく。


「あのお方の隣に、お前が相応しいわけないでしょう! 王弟殿下は私を好きで、私と結婚したいのよ!!」


 事実だから胸に刺さる言葉に反応し、かっとなった女性が叫んだ。歩み寄るエル様の表情が強張る。怒りの形相で足を速めたエル様を確認し、私は俯いた。庇うように斜め前に出たクロエが、私を抱くように守る。


「嘘をほざくな! この女を不敬罪で投獄せよ」


 近衛騎士や衛兵が駆けつけ、目を見開く女性を拘束する。エル様は伸ばされた手を振り払い、私の前で膝をついた。慌ただしく私の頬を手で包み、髪や服装の乱れがないか確認する。


「ケガはないか? 何かされたのなら教えてほしい」


「怖かったですわ、エル様。婚約者の座を譲れと脅されましたの」


 頬を包まれたまま、ほんのり大袈裟に伝える。ぎゅっと抱きしめられ、慣れ始めた匂いと温もりにほっとした。強いつもりでも、本当は怖い。でも軽んじられて、引き下がるわけにいかないの。


 私はアルドワンの王族で、その振る舞いは国の威信を傷つけるから。毅然と対応した。ぎゅっとエル様の上着を掴んだ。

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