柔軟剤の香りと共に

 土砂降りの雨の中、咄嗟に口から出たのは「危ない!」という悲鳴に近い言葉。そして続くドスッという鈍い音。


 それから数時間後。


「あのなぁ、お前が博愛精神の持ち主だってのはわかってるけどさぁ」


 四人部屋の病室に呆れたような低音の声が響く。


「あははは、…面目ない」

「雨で視界が悪かったって、それでビニール袋と猫を見間違えるか?」

「いやぁ、あの時のビニール袋の動きは本当に猫みたいだったんだよ」


 呆れた声の主に弁解する俺の右足には人生で初めてのギプスが装着されている。


「仮に本物の猫だったとしても聞いた状況じゃお前が助けるなんて土台無理だろう」


 普段は比較的無口な同居人が眉間にしわを寄せると、ただでさえ細い目が一層細く感じられてしまう。それもまた愛おしい、なんて考えてしまうのは彼の心配に対して不誠実だろうか。


 国道に架かったよくある歩道橋。家路であるその歩道橋の階段を下っているときに目に入ったのは今にも車に轢かれそうな白猫だった。距離的に考えても俺が走ったところで間に合うはずもない、それなのに駆けだそうとした俺は足をもつれさせてしまい盛大に転倒。その時初めて猫だと思っていたものがビニール袋だと認識した俺を待っていたのは右足の激痛だった。


 そして自分で救急車を呼び、治療を受け今に至る。


「骨折して入院するから着替えとか持ってきてちょ、じゃねーよ。ったく」


 頭をガシガシとかいた彼がポイと足元に置いてあったボストンバッグを俺に手渡す。


「一応頼まれていたものの他にも、ネットで調べて必要そうだったもんは入れてある。面会時間ももう終わるから何か必要なもんが追加であったら連絡してくれ」

「ありがとう、明後日には退院だから大丈夫だとは思うけどね」

「じゃあな」

「うん」


 去り際に俺の頭を撫でてから去り行くその背中はまるで熊のように大きな背中だ。


「お友達ですか?」


 ベッドに寝たまま彼を見送ると隣のベッドで雑誌を読んでいた初老の男性から声をかけられた。


「ええ、まあ。結婚もしていませんし、実家も離れているので頼れる友人がいると助かりますよ」


 職場や家族にも明かしていない彼との関係だ。たった二晩相部屋になる見ず知らずの人に説明する気はないので頭の中の想定設問集から適当な答えを引っ張り出す。険悪にならないよう世間話に付き合った後、彼が持ってきてくれたボストンバッグを開ける。


 あの熊のような外見からは想像できない程に几帳面な彼らしく、ボストンバッグの中は着替えや歯ブラシ、コップに充電器などが種類別にポーチやら手提げ鞄やらに小分けされていた。

 着替えといっても病衣は指定の物を着用しなければならないので、下着や退院時に着る服なんかがしっかりと準備されていた。


 ボストンバッグを開けると爽やかで芳醇な香りが鼻をくすぐる。天然由来成分を使ったこだわりの柔軟剤の香りは一般的なドラッグストアで販売しているものとは違う。その香りは、先ほどまでいた同居人からも仄かにしていたものと同じ香りでもある。


 消毒液や医療機器、薬品の匂いが混じった無機質な病院の匂いの中、その香りが俺の心を落ち着かせる。


 ゆっくりと深呼吸をすれば思い出すあの日のこと。といっても大それたことがあったのではない、世間一般ではよくある新人会社員の失敗と頼りになる先輩のエピソード。


 極々一般的、いや、やや裕福な家庭に生まれた俺は物心ついた時から大学受験、就職活動と大きな挫折や失敗を経験せずに生きてきた。というかそういう危険に会わないように小ずるい生き方をしてきた。自分の性的趣向に悩むこともあったが、そんなことは片田舎に住む少年には秘密にして生きる以外の選択肢なんかないことにはすぐに気が付き、それがより一層俺の生き方を窮屈なものにしていたのかもしれない。


 しかし社会の荒波はそんな俺の小ずるい生き方が簡単に通用するようなものではなかった。自分に与えられた逃れられない責任の重さに押しつぶされそうな日々。失敗と学びを繰り返す日々の中で、迎えたとあるプレゼンテーションの日。


 社内の重要人物が集まる重要なプロジェクトの一端を任された俺。当時は新入社員にそんなことを任せるなよ、と大きな不満と不安、それと少しだけそんな仕事を任されたという自信と期待を胸に業務に取り組んでいた。今思えば、あれが一人前になるかどうかの社内儀礼のようなものだったんだけどさ。


「あっ」


 マズイ、やってしまった。そう思った時の俺の表情はどのようなものだっただろうか。何度も社内の共有フォルダを確認しても存在しない。慌ててローカルのデータを探してみるが、作業中のデータをバックアップなんか当然していなかった。


 額に滲む脂汗、いや、体中から何か嫌なものが噴き出してきた。


 ふとデータの名前を変更しようと考えた俺は何故か「削除」を選択。それに続くダイアログも何も考えずに「はい」を選択してしまったのだ。


 時計を見ればプレゼンはあと一時間後に迫っている。助けを求めようにもこんな時に限って直属の先輩や上司は打ち合わせで離席中。どうしよう、どうしようとパソコンを前に半ばパニックに陥ってしまった、そんな時だった。


「どうした?」


 声をかけてくれたのは当時隣の部署だったアサイさんだ。何度か雑談をしたことがある程度だったが、後々話を聞くと見る見るうちに顔が青くなっていく俺を見て心配して声をかけてくれたらしい。


「あ、あ、あああのえっと、デ、データが」


 パニックに加え、口内がカラカラになってまともに話せない。


「なんだ?とりあえず落ち着けよ」

「そ、その、このあと使うデータが共有フォルダに、あのローカルに保存とかしてなくって、でも誤って削除してしまって…」

「ああ、なるほど。…削除したデータはこのフォルダ?」

「あ、はい」

「このフォルダは他に使っている人はいる?」

「いや、自分だけです」

「そっか、ちょっとパソコンいじらせてもらうよ」


 いつの間にか隣の席の椅子に腰かけていたアサイさんは社内チャットで誰かを検索してメッセージを送信。そして「借りるよ」と俺のヘッドセットを装着する。


「ああ、もしもし。アサイです。どーもご無沙汰してます。…ああ、いや、今ちょっと隣の部署の新人君のところ。…そうそう。で、今メッセしたフォルダのデータを復元してほしいんだけど。…うん、そう。間違えて削除しちゃったんだって。…ああ、たぶんそうかな。悪いんだけど超特急でやってくれないかな。…アハハ、そこをなんとか頼むよ。…そうそう、そのフォルダだけ。…うん、他に使用者はいないってさ。…あーはいはい、そりゃそうだよね。…うん、それじゃ頼んだよ。ってもう戻ってるじゃん。流石でございます。…ありがとう、助かりました。それじゃ」


 そして何でもないような顔でヘッドセットを戻して一言。


「はい、戻ったよ。一応中身が先祖返りしてないか確認すんだぞ」

「えっ?あの?なんで?どうやって?」

「ああ、共有サーバの管理者に連絡して復元してもらったんだよ。うちの社内情シスは優秀なんだ。…おっといけない、打ち合わせなんだった、じゃあ」


 僅か数分で解決してしまった先輩。今思えば俺のミスなんて大したことなかったのだが、何故か無性にその先輩が眩しく、俺もそんな風になりたいと思った出来事。


「それでビニール袋にまで優しくした結果入院とはね…はぁ」


 それから話すようになったアサイさんが使っていたのがこの柔軟剤だ。この香りを嗅ぐとあの時の失敗を思い出して、誰にでも優しくしよう、冷静でいようと思えるので戒め半分、単純に香りが気に入ったのが半分で俺も使い始めた。


 結婚したアサイさんはもうこの柔軟剤は使っていないらしい。先日の人事異動で同じ部署になった時に、「おお、この匂い久しぶりだなぁ、まだ使ってたんだ、この独身貴族が」と懐かしそうに、そしてどこか元気のない表情で笑っていた。


「しかも、入院して迷惑かけるのはそのアサイさんだもんなぁ」


 俺の入院予定は二泊三日。幸い今日は金曜日なので、月曜日からは出社できる。と普段なら考えるのだが、明日は社内システム更新のため、うちの部署からも数人出社しなければいけない。俺が出社できない以上、代わりの業務ができるのは一人しかいない。


 訳あって普段も特殊な勤務形態をとっているアサイさんに土曜日の出勤までしてもらうのは本当に気が引ける。


「えっ?入院?」

「はい、すみません」

「いやいや、いいって」


 最低限のやり取りで明日の作業の引継ぎを行う。後輩の俺が言うのもおかしな話だが、本当に有能な人だ。誰にだって公平で優しく、仕事も出来て人望もある。そんな先輩。


 それなのに。


「奥さんが意識不明だもんなぁ」


 世界は優しくない。だからせめて人だけは優しくいたいと思う。ボストンバッグからは慣れ親しんだ香りが広がっていく。

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