大好きなママ
「わたしねぇ、ママのことだいすき!」
「ウフフ、ママもミユちゃんのこと大好きよ」
ふと思い出すのは小さい頃の思い出。新緑の香りのする公園で大好きだったママと手を繋いで散歩したんだっけな。その様子をパパが嬉しそうに眺めていた気がする。もうしばらくこの思い出に浸っていたいけど、ふっと鼻につく消毒液の匂いが否応なしに私を現実に引き戻す。
どこか薄暗く感じる病院の待合スペースで、ママの手術が終わるのを私は待っている。二つ席を挟んで座るパパは顔を手で覆い俯き、時折時間を確認しては虚ろな目で床を見つめている。
どうにか気を紛らわそうと取り出したスマホについた大きな傷が嫌でも目に入る。これはリビングにスマホを置いていただけなのに、ママにつけられた傷だ。壊れなかったのが幸いと思えるほど床に叩きつけられたスマホ。そう、小さい頃の優しかったママはいつの間にか私の前から姿を消したんだ。
パパにも私にもいつも怒鳴り散らすママ。物忘れがひどく、言ったことを聞いていないと言い張るママ。家事は適当なくせに、私やパパが手を出すと途端に怒り出すママ。
いつからか、家の中は私が大嫌いな空間で、ママのことは本当に大嫌いになっていた。
「いつまでも遊び歩いて、いいご身分よね」
「は? マジうぜぇし。そっちこそパパの収入にだけ頼って一日中家でゴロゴロしてるだけじゃん。ママにそんなこと言われる筋合いなんてないんですけど。今時専業主婦とかマジ笑えるし。それなのに家事もやらずにママこそいいご身分ってやつじゃん、ウケる」
顔を合わせればすぐに言い合いの喧嘩。口達者になった私に言い負かされると今度は泣きはじめる始末。それに呆れて、ママのことが嫌になって部屋に閉じこもるを繰り返す毎日。
そんなある日、ママが倒れた。
幸いにもパパが家にいて、すぐに病院に搬送された。私は家になんて一分一秒たりともいたくなかったからその日も友達の家に遊びに行っていた。パパがいなかったらそのまま亡くなっていたかもしれないらしい。
でも大っ嫌いなママが倒れたと聞いても、「はい、そうですか」としか思わなかった。ようやくあの居心地の悪い家じゃなくなるんだって思ったし、正直「死んじゃえばいい」って思っていた。
でも、というかなんというか手術は無事に終わった。
「心配かけてごめんなさい、あなた。それにミユも。変ね、手術をしたっていうのになんだか不思議な気分なの。スッキリというか頭の中のモヤモヤがなくなったみたい」
術後意識が戻ったママは穏やかな笑みを浮かべていた。その笑みに昔の優しかったママが重なる。
「ママ! よかった! 戻ってきてくれたんだね!」
私にはすぐにわかった。あの優しいママが戻ってきたんだって。嬉しさのあまり思わず抱きついて泣きじゃくった私の頭を小さい頃のように撫でてくれたママ。パパも私とママをいっぺんに抱きしめて涙を流している。
だけどすぐに罪悪感が私の心に広がっていった。
死んじゃえばいい。
たった一度だってあの状況でそんなことを考えたなんて最低だ。
その日は術後すぐということで面会も短く、すぐに家路についた私とパパ。パパがお医者さんから受けた説明によるとママの脳に腫瘍があったんだって。
「…脳に腫瘍ができると性格が変わることがあるらしい」
車を運転しながら最後にそう付け加えたパパ。パパも最近のママはおかしいって思っていたんだろうね。
「…そっか」
そういえば最近はパパとも会話していなかったな。いつの間にかバラバラになっていた私たち家族だけど、それは今日で終わり。だって優しいママが戻ってきたんだから。
一週間の入院生活を終えたママが戻ってきた我が家は幸せだった。
「ただいまー」
「おかえり。もうすぐご飯できるからね」
「あー、ちょっとママ! 病み上がりだから無理しないでっていったじゃん。ほら、後は私がやっておくからママは座ってて!」
ちょっと前のママなら、そんなことを言えば「手を出すな!」なんて喚いていただろうけど、「ありがと」と笑顔のママ。パパもすぐに帰ってきて、三人で囲む食卓は笑顔にあふれていた。
「二人とも最近は帰りが早いのね。私が倒れる前、ミユはお友達と遊ぶって言って、あなたは仕事が忙しいって全然帰ってこなかったのに」
「そう? 私はテスト近いし…」
「俺も仕事が丁度閑散期だからな…」
そう言い訳のように話した私とパパは思わず目を合わせて苦笑する。きっとパパもママと顔を合わせたくなくて家に帰りたくなかったんだろうな。
ああ、ようやく幸せが戻ってきたんだ。手術後にあった罪悪感も薄れてきて、そう思っていたのに。
「…きっと大丈夫だ」
パパが自分に言い聞かせるようにそう呟くその声が再び私を現実に引き戻す。そう、あの幸せな日々は僅か数日で終わりを迎えてしまったのだ。
術後の経過観察に訪れた病院で階段を踏み外したママは頭を強く打って現在二度目の手術中。一度目と同じ消毒液の匂いが私の中にあった罪悪感を蘇らせる。
「…パパ、ごめん。私がいけないんだ。この前の手術中にママなんか死んじゃえばいいって思ったの。腫瘍のせいでママがおかしくなっているなんて思ってなかったから…。私がそんなことを、娘の私が考えちゃったのがいけないんだ。せっかく元の優しいママにもどったのに、私がひどいこと考えたから…たぶんそのせいだよ…ごめん、ごめんなさい」
気が付いた時には涙を流しながら心の内を告白していた。私はてっきりパパに怒られると思ったんだけど、少し驚いたような顔をしたパパは私の隣にきて肩をそっと抱いてくれた。
「ミユのせいなことがあるもんか。誰だっていろんなことを考える。でもミユはたとえ死んじゃえばいいって思ったってそれを直接口にすることはなかっただろう。今もそれを後悔している、そんな優しい娘のせいで母親が死ぬなんて馬鹿なことがあるはずない。それに…謝らなきゃいけないのはパパのほうだよ。ママがおかしくなっているのにそれを見て見ぬふりをして…ごめんな、ごめん」
涙を流し、お互いに謝り続ける私たちだったけど、ガチャリという音で扉の方へと視線を向ける。
やって来たお医者さんが手術結果について語るのを、涙を流しながら二人で聞いた。
おかえりなさい。ママ。
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