温室育ち
住宅街にある一軒家。築四十年というのは夫と同い年だが、リフォームのおかげで築年数ほど古くは感じられない。五年前からはここが私の家でもある。義父の死と娘の誕生が重なった五年前、それを機に二世帯住宅へとリフォームしたこの家に引っ越してきたのだ。
義母のフサエさんは昭和の時代の箱入り娘を絵に描いたような人物で、大学卒業後、数年で義父とお見合い結婚。その後はずっと専業主婦をしている。マイペースでおっとりした性格の義母は、結婚前に独立して在宅でデザインの仕事をしている私とは正反対の生き方をしてきた人で、優しい人だけど私とはそりが合わないことは結婚当初からわかっていた。だからお互いの生活には口を出さないというのが同居前に決めたルールだった。
「あー、駄目だ。煮詰まったぁ」
自室でパソコンとにらめっこしていたが、どうにも色の組み合わせが気に入らない。何百通りと試したものの、これだと思えるものが出来上がらない。
気分転換をしようとリビングへとやってきた私の耳に、義母の鼻歌が微かに聞こえてくる。リビングから中庭に繋がる窓は開け放たれており、少し籠った音から察するに、庭に建てられた三畳ほどの温室で作業をしているのだろう。
「一応声はかけておくか」
五月の大型連休も終わり、夏の足音が近づいている今日この頃。歳を取ると気温の変化に気が付きにくいと先日テレビ番組で見たばかりだったので、義母の様子を見ることにした。そりが合わないからと言って嫌いなわけではないし、口を出さないと決めたからと言って無視をする関係でもない。
温室の扉を開けると外気よりも暖かな空気とともに、様々な植物の混じった香りが私を包む。広いとは言えない庭の大部分を占拠するように建てられた温室の中で作業するその背中に声をかける。
「お義母さん、作業に夢中になりすぎないで水分補給もしてくださいね。この時期の温室じゃあ熱中症になってもおかしくないですから」
「あらあら、ありがとう。お世話を始めるといろんなことが気になっちゃって。でも綺麗に咲いたでしょう。ほら、これなんか玄関に飾ったらどうかしら」
「へぇ、綺麗ですね」
嬉しそうに色とりどりの花を見せてくる義母。正直、私は花には興味がなく、わざわざ温室まで使って花を育てるこの人の趣味は理解できない。私の生返事を知ってか知らずか、おしゃべり好きな義母は話を続けてくる。
「ほらこれ、サルビアってお花なのだけど綺麗でしょう。この花の花言葉は家族愛とか良い家庭って意味なのよ。…ねぇ、ミユキさん…お仕事も大事だけど、お家のことも疎かにしないようにね」
お互いの生活には不干渉のルールがあるが、窓から若干散らかったままのリビングが目に入ったのだろう。
家のことは女がやるもの。人生の多くの時間を家事に費やしてきた義母は特にその意識が強く、私の仕事を理解していると口では言うものの、家にいながら家事ではなく仕事を優先する私に対して暗に家事をしろと言ってくることがある。
確かに私は家事があまり得意ではないが、その分稼いで苦手な家事は週に数回プロに頼んでいる。このリビングだって明日にはプロの手によって綺麗になる予定だが、それを義母が良く思っていないのは知っていた。
いつもはこの程度の小言は受け流してそのままゴミ箱へ入れてしまうのだけど、仕事の締め切りが迫って余裕のなかった私は苛立ちを抑えきれなかった。それにプロに任せているといっても毎日ではない、リビングが散らかっているのもどうにかしないといけないとは思っていた私にとって痛いところを突かれてしまったのだ。
「お義母さん、私には私のやり方があるんです。専業主婦だったお義母さんとは違って私には仕事があるんです!家のことだってプロの手を借りることの何がいけないんですか?家のことには口を出さないでください!」
やってしまった、そう思ったのは全てを言い切った後。私はいつもこうだ。ついつい喧嘩腰になってしまう悪い癖。二世帯住宅とはいえ、義母と同居するにあたって強気な自分は封印しようと心に誓っていたのに。
「ご、ごめんなさいね、私ったらつい…」
一瞬驚いた顔をした義母はそう言うと手に持つ植木鉢に視線を落とした。紫色の小さな花がたくさん咲いている植木鉢。美しいはずのその花がなんだか無性に物悲しく感じてしまい、居心地の悪くなった私は「失礼します」とその場を立ち去った。
「ああ、もう!気分転換もなにもないじゃない…私の馬鹿…」
自室に戻った私に自責の念が押し寄せる。
「…今のは私が完全に悪い」
だってそうでしょう。仕事のストレスと家事のプレッシャー、それを八つ当たりみたいにぶつけてしまっただけなのだから。あんな態度をとるのは一人の大人として間違っている。
「謝らなきゃ…」
重い足取りで温室に戻ると、先ほどの植木鉢を手に持ったまま棚に腰かけた義母がじっと花を見つめていた。その姿を見ると、ますます胸が痛んだ。
「お義母さん、さっきはすみません。ついカッとなっちゃって。仕事で煮詰まっていて…それにお義母さんの指摘も図星だったから…」
「いいのよ。…ねぇ、ミユキさん。私もね、お嫁さんだった頃があるのよ。私ね、お姑さんとはあまりうまくいかなかったの。あの人はとても厳しくて、私が何をしても満足してもらえなかったわ。家事のやり方も、食事の準備も、全て細かく指示されてね。何度も泣いたのを思い出すわ」
義母は少しだけ微笑みながら話を続けた。
「だからこそあなたにはそんな思いはさせたくないって思って、一緒に住んでくれるのは嬉しかったけど、どう接すればいいかよくわからなかったの。お互いに不干渉、あなたの提案を聞いてちょっとだけホッとしたのよ」
優しく植木鉢の花に触れた義母。揺らされた花から甘い香りが漂ってくるように感じる。
「沈黙、この花の花言葉なの。私はおっとりしているから、言いたいことを上手く伝えられないこともあるし、あなたを傷つけてしまうかもしれない。だから言いたいことがあっても言わないようにって思ってきたの。私ね、あなたのことが羨ましいのよ」
「えっ」
何を言われるのかと身構えた私は拍子抜けしてしまった。私が羨ましい?
「結婚して、子供も産んで、それなのにお仕事まで。私が出来なかったあなたの生き方がね。…それでね、本当はもっとあなたの手助けがしたいのよ」
「手助け?」
「そう、あなたは業者の方に家事をお願いしているみたいだけど、私はね…頼ってほしかったのよ。自分の身の回りのこととお花を育てるだけのおばあちゃん。姑に手を出されるのが嫌かもしれないけど、暇な私に頼ってほしかったの。それに、この先の子育てにはもっともっとお金がかかるわ。だったらハナちゃんのために私が家事をお手伝いしたことで浮いたお金を貯めてほしいのよ」
私が家事をプロにお願いしていることに対して義母が何故そこまで良く思っていなかったのか、その理由がやっとわかった。単に古い価値観に縛られているわけではなく、義母自身が自分の存在価値を見出すために私を手助けしたいと思っていたのだ。義母は私の生活を侵害しようとしているわけではなく、むしろ家族の一員として私たちの役に立ちたいと思っていたのだ。
「一つの花にはいくつかの花言葉があるんのだけどね。この花には他にも幸福って意味もあるのよ。…せっかく家族になったんですもの。お互いが幸せになるためにも少しだけ関わり合いを増やすのはどうかしら?もちろん無理のない範囲でね」
義母が持つ植木鉢の花が、そよ風に揺られて優しく揺れた。さっきまで物悲しく感じていた紫色の花が、今は不思議と心を穏やかにしてくれるように見えた。私は改めて、お義母さんとしっかり向き合うことの大切さを感じたのだった。
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