いつか

 ブーブーと背広の内ポケットに入れていたスマートフォンが着信のある事を告げる。社用のスマートフォンはデスクの上にあるので私用の電話だろう。プライベートの連絡があるのは家族か親しい友人のどちらかだが、そのどちらもこの時間にメッセージを送るならアプリでのやり取りになるはずだ。


 作成途中の資料を保存してパソコンをスクリーンセーバー状態にし、席を離れながら振動を続けるスマートフォンを取り出すと地元に残っている姉の名前が表示されている。まさかという気持ちで休憩室への足取りが少し早まってしまった。


「もしもし」

『ああ、ユウジ? 仕事中ごめんなさいね』

「いや、大丈夫だよ。…姉さん?」

『あのね…』


 電話の先の姉は沈んだ声だ。おしゃべりの姉だが、今日に限っては言葉が続かないようだ。ああ、この日が来てしまったかという悲しみが私の心を包んでいった。


「母さんか?」


 ここ数年、母は入退院を繰り返していた。幸い意識ははっきりしているものの、幼かった頃の母の面影はもうなく、会うたびに老けてしまったなという時の流れの残酷さを目の当たりにすることが増えていった。いつかやってくる母親の最期、それを覚悟する時間があったのはある意味幸いだったのかもしれない。


 母が亡くなったとすると心配なのは父である。健康だけが取り柄だと自負する父は私の知る限りでは風邪もひいたことがなく、まるで子供のように元気な人だったが、母が病気に侵されてからは落ち込んでいるのがはっきりと分かったからだ。母の死を父は受け止められるのだろうか。


「ユウジ、お父さんが…」

「父さん?どうしたんだ?」

「…父さんが死んだの」


 一瞬、言葉の意味が理解できず、ひどく耳が鳴るような感覚に襲われた。父の死。全くの予想外の出来事であり、心の準備などできているはずもなかった。目の前の景色がぼやけ、全ての音が遠くに聞こえる。今、この時が非現実なのではないかと錯覚するが、夢ではなかった。心の整理ができていたはずの母の死とは異なり、父の死は突然やって来た嵐のように私の心をかき乱す。健康な父、いつもそこにいると信じて疑わなかった存在が突然消えてしまったのだ。


 電話口の姉に向かい何か話そうと言葉を探すが、口から出る言葉はなかった。自分という存在が崩れ去りそうだ。しかし、ここで崩れるわけにはいかない。なにせ自分には支えるべき家族がいるのだから。


 二三言葉を交わし、後で連絡すると伝えて電話を切る。これからどうすればいいのか、どのように父の死を受け止めればいいのか、考えはまとまらないまま上司に伝えて早退する。


 心を落ち着かせようとひと気の少ない公園のベンチに座ると、父の笑顔と優しい声が頭に浮かび涙が頬を伝う。しかしこのまま悲しんでいるわけにはいかない。息子としてやるべきことがたくさんあるのだ。一度だけ天を仰ぎ雲一つない空を見上げ、嫁に電話をかける。数秒のコールの後電話が繋がり、嫁であるヨウコの明るい声が聞こえてきた。


『もしもし、ユウジ?どうしたの?』


 嫁のいつもと変わらぬその声に一瞬言葉を失ったが、深呼吸をしてから静かに話し始めた。


「ヨウコ、今仕事中か?」

『ううん、大丈夫よ。ちょうど休憩中だから。何かあったの?』


 彼女の優しい声に少しだけ安堵を感じながら、重い心で事実を伝える決意をする。


「今、姉さんから電話があったんだ。父さんが…亡くなった」


 電話の向こうでヨウコの驚きと悲しみが静かに伝わってきた。彼女の声が震えているのが分かる。


『えっ…お義父さんが?どうして…何があったの?』

「心臓発作だったみたいだ。町内会の会合で急に倒れて、そのまま…。医者も駆けつけたけど、間に合わなかったんだ」


 ヨウコはしばらく沈黙し、そして静かに泣き始めた。その声に私もまた、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。


『ユウジ、そんな…お義父さんが…。でも、お義母さんも心配だね。大丈夫かな?…とにかく私もすぐに帰るわ。何か必要なものがあったら教えてね』

「うん、ありがとう。姉さんが今そばにいるから大丈夫だとは思う。俺も早く実家に帰らなきゃと思ってる。ヨウコ、ヒナにもこれから連絡するから。…俺もすぐ家に帰るよ」

『ユウジ、気をつけて帰ってきてね』

「そうだな。ありがとう、本当に」


 電話を切ると、少しだけ気持ちが軽くなった。悲しみを分け合う人がいるのだと。ヨウコの支えが私にとって大きな力となり、これからの困難な時間を乗り越えるための希望を与えてくれたから。


 続けて娘のヒナにも報せるため電話をかけようとしたとき、ふと手が止まってしまった。スマートフォンに表示された娘の名前を見つめながら、心の奥底で何かがひっかかるのを感じたのだ。


「そうか、俺もいつか…」


 それは、将来自分もこの世を去る立場になるという妙な実感だった。父の死は、父である自分の有限性を初めて強く意識することになった。


 私がこの世を去るとき、嫁や娘、未来の孫たちはどんな気持ちになるのだろうかと考えると胸が締め付けられるような思いがした。それは出来ることなら孫の顔を見て、彼らに何かを残したい、父が私に遺してくれた愛情と教えを私もまた次の世代へと繋げたいという想い。


 そんな私の呟きは、新緑の風に溶け込み、空の彼方へと消えていった。

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