嘘つきは優しく
カタカタとキーボードを叩く音が響くオフィス。昨晩来ていたメールの対応や今日の業務準備をしながら、業務開始まではまで時間があるので席が近い同僚たちと雑談をして始業に備える。入社十年目ともなればいつもの日常の一コマだ。
始業時間の直前、隣の席の主が出勤してきた。チノパンにジャケットを羽織り、スニーカーとリュックサックで動きやすさを重視したカジュアル強めのビジネススタイル。俺達の部署では珍しくない格好だ。
「おはようございます」
「おはよう。いやぁ、今日もギリギリ間に合った。ふぅ」
既に一日働いた後のような疲労を滲ませた笑顔のこの人は俺の三年先輩のアサイさんだ。家庭の都合で変則的な出勤形態が認められている先輩だが、週に何度かは朝会に顔を出すため始業時間に間に合うように出勤している。
「ああ、そうだ。昨日の夜にメールもらっていた件、資料まとめておきました」
「えっ、もう? 流石仕事が早いね。助かるよ。…お、相変わらず見やすいなぁ。朝一でやってくれたの?」
「元々似たようなテンプレートはありましたからね。コツさえ掴めばそんなに時間はかからないんですよ」
「ありがとう、後でやり方教えてよ」
「いいっすよ。今日は切羽詰まっていないんで、アサイさんの都合のいい時に声かけてください」
「いやぁ、ホント助かるよ。ナカタさんにはこっちに来てから助けてもらってばかりだね」
今年度の途中から諸事情で部署が変更になったアサイさん。席が近いこともあって何かと仕事を手伝っている。それにこの人の事情には同情してしまう。
「ナカタさん、ちょっといいですか? なんかパソコンの調子悪くって」
「ナカタさん、あの資料ってどこにあるか知ってます?」
「ナカタさん、この機能使ったことあります? 使い方教えてもらえませんか?」
部署内でも何でも屋な俺はよく色々な人に声をかけられる。いい加減にしてくれと思わないこともないが、基本的には笑顔で対応している。
「ナカタさんって機嫌悪くなったりしないですよね。自分に関係ない仕事も頼まれたりして。私だったら、それは私の仕事じゃありません、って言っちゃいますよ。それにアサイさんの仕事も結構手伝っているし、なんか、ホントお人よしって感じですよね」
「まあ、それはね。一応イライラしない、というか人に優しく出来るコツがあるんだよ」
何故か別部署のパソコントラブルに駆り出されて戻ってきた俺に向かいの席の後輩が呆れた顔で話しかけてきた。
「コツ?」
「そ」
「なにそれ! 教えてくださいよ」
「ああ、それはね、嘘をつくことなんだ」
「嘘?」
「そう、嘘をつくと後ろめたい気持ちになるだろう。そうすると人は不思議と優しくなるものなんだよ。ほら、浮気した旦那さんがケーキやお花を買ってくる、なんて話聞いたことあるだろう」
「うーん、…まぁ、一理あるか。でもその理論で行くとナカタさんは皆に嘘をついているってことですか」
「そうなるね」
「えっ、それってどんな嘘ですか」
「…俺、実は石油王の息子なんだ」
「もう! からかわないでくださいよ!」
頬を膨らまして怒ったような反応をする後輩だが、別に可愛くないからな。後輩は世間一般的には整った外見だけど俺の趣味ではないということだ。それに俺が言ったことは本当のこと。無論、石油王の息子ではなく『嘘をつく』という方だ。
「…あの、ナカタさんって彼女いないんですか?」
「あのね、このご時世、その質問はハラスメントになりかねないよ」
「はぁ、ホントつまらない世の中ですよね。恋バナもオチオチできないなんて」
わざとらしく大きなため息をつく後輩。俺としてはそういう風潮は大歓迎である。
「そういうのは職場以外でやってくれ」
「はーい。…そうだ、金曜日なんだし仕事終わりにご飯でもどうですか? それなら職場じゃないしいいですよね」
そういう問題じゃあないんだけどな。俺が言ったのは友達とでもやってくれという意味だったんだが、どうも上手く伝わっていないみたいだ。
「今日は残業しそうだし、それに予定もあるから」
「えー残念。それじゃ、今度! 今度行きましょうね!」
「ああ、予定が合えばね。あっ、アサイさん!」
これ以上話しを続けるとその「予定」を合わせられそうだったので、この場から退散することにした。別に用事があったわけでもないアサイさんを呼び止めてそのまま席を離れる口実にさせてもらう。
「いいのかい、ミドリカワさんと盛り上がっていたみたいだけど」
「あはは」
「別に社内恋愛は禁止じゃないよ。俺が言うのもなんだけど、誰かと一緒になるのも悪くはないよ」
「いやぁ。まぁ…」
なんとか後輩から逃れた俺だったが、アサイさんからも暗に結婚をほのめかされる。俺も気づけば三十二歳。そろそろいい年齢だと言われることも多くなってきた。
だけど俺が結婚をすることはないだろう。
俺個人に恋愛感情がないということではないし、恋愛にトラウマがあるわけでもない。実際、恋人は存在する。
「ただいま」
俺が家に帰ると、明かりの灯ったリビングではその恋人がソファでゲームをしていた。ダイニングテーブルを見るとラップをかけられた夕食が用意されている。
「おかえり」
立ち上がった『彼』は俺よりも背が高く、向かい合うと俺がやや見上げる姿勢になる。熱い胸板に引き寄せられてお帰りのハグは帰宅の恒例行事だ。
これが俺の嘘。
異性に恋愛感情を持つことが出来ない俺は会社では『ノーマル』な男性として振舞っている。時にはレズビアンの友人に頼んで彼女を偽装するために写真を撮ったこともある。
昔に比べて同性愛に理解が深まってきたとはいえ、俺にそれを公開する気はない。たぶん、一生。だから俺は定年まで会社では人に優しく出来るはずだ。
ゲイであるということを隠すためにつく嘘が優しく出来る秘訣なのだから。
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