本当の夢

@Lian56

第1話

        1


「今までのあなたの記憶は、全部夢です」

 目の前の医師は私にそう言った。半年前のことだ。

 今の私はそれを知っている。

 私は半年前に、現実に関する記憶をすべて失った。生まれた場所、仕事、自分の名前。私の記憶は2035年現在の現実とは相容れない、架空の騎士の冒険の話にすり替えられてしまっていたのだ。


 私は騎士をしていた。していたはずだった。

 名前はシャドラック・ヘイズ。セイグルⅢ世の治める緑多き王国、ニットリアの零落した名門の騎士の子だ。

 ニットリアは最大の災厄に見回れていた。伝説に語られていた邪悪なドラゴン、グロームが魔女の封印を破り、美しい王女、キリル姫を誘拐したのだ。

 ヘイズ家再興と、名声、富を求め、私は王の募る討伐隊に志願した。

 戦いは熾烈をきわめた。竜の邪悪な罠の前に、仲間は次々と倒れていった。しかし私は、自らの信念と、神の与えてくれた幸運の元、グロームの心臓に剣を突き立てたのだ。その時の歓喜を私は覚えている。そして、囚われの地より救い出したときの、キリル姫が私に向けた感謝の笑顔。雪のように白く繊細な王女の手の甲の感触を私の唇は忘れない。姫の疲れ、汚れていても尚も美しい頬に恥じらいの紅を浮かべさせたのは私だ。彼女の唇から愛の言葉を導きだしたのも私だ。

 私は全ての幸福と、成功を手に入れた。国民の上げる歓喜の叫びの中で、王の前、私と王女は婚礼の誓いの口付けを交わすその瞬間‥‥‥‥私は目覚めたのだ。個室感応機の一室で。


 感応機、西暦2035年現在、最も進んだ娯楽機械の一つだ。感応機とは、機械を使って人間に疑似体験をさせる最先端の娯楽だ。 人間は夢を見るという能力を持っている。感応機は人間の夢を見るという能力を任意に制御が出来るようになっているのだ。人間の夢を発生させる働きの能力を外部から制御し、被験者の望んだストーリーを体験させる。アメリカのクメン社が開発したというこの技術は、日本の娯楽産業の大手GMY社によって実用化され、瞬く間に日本の主要都市の大型店舗に配備された。

 被験者は歯医者の椅子を思わせるシートに寝そべるように腰掛け、コードの接続されたヘルメットを被る。夢の中での疑似体験は体を少しも動かさない。

 感応機は望んだ夢を見させる機械だ。その体験は驚くほどリアルで、幻想を確かな形あるものとして被験者に経験させることが出来る。被験者がともすれば感応機の生む幻想の世界、感応世界と現実との境を認識せず、現実と同一視してしまうであろうことは、開発当初から懸念されていた事態だった。事故に対しては最新の防護策がとられ、被験者はわずかながら同調を外され、感応世界のリアルさのグレードを低くすることになっていた。つまり被験者は夢をみながら、これが夢であることを常に認識していることを強要されているのである。それを差し引いても、リアルな望みの夢というのは強烈な体験で、人気を博していた。


 ところがそれに事故が起きたのだ。


 私は半年前、感応世界から出たときに、現実を見失ってしまったのだ。私にとっての現実は感応世界の、姫とドラゴンのいる王国だったのである。私は、感応機に入る前の私の本当の人生の記憶を全て失ってしまったのである。

 今は、騎士の体験が感応機の夢にすぎないことを私は認識している。騎士の話は、感応機を使用する人には人気のあったストーリーだった。正常だった私がそれを注文したのだ。あの混乱と焦燥は、今でも私を包んでいる。私の記憶は、たしかに姫をこの手に抱き、口付けを交わそうとした瞬間に、こちらの世界に無理矢理連れてこられてしまったのだと告げている。私は、感応機に入る前の記憶というものを一切失ってしまったのだ。 

 感応機の上で目覚めた私は、まさに事件の渦中に放りこまれてしまった。

『新テクノロジーの事故! 安全神話の崩壊?』

『問われるGMY社の責任!』

 そんな見出しが日夜メディアの間に溢れ、私の顔写真がのった。西暦2034年9月12日午後2時、私は規定の料金を払い騎士の話を注文、感応機の個室に入ったのだ。2時間後、係員が混乱の極みにいる私を発見、私は精神科の医者に担ぎこまれた。

 私は感応機のなかの記憶以外、自分に関する記憶を全て失っていた。その後、何日も、医師、報道関係者、GMY社クメン社の担当者から同じ質問を何度も、何回も浴びせられた。私は発狂寸前の混乱の中で、正直に答えるしかなかった。

 第二世代感応機が実用化されて3年、利用者のべ一億人中、初めての症状だった。

 奇妙なことは、私が身分を示すものを一切持っていなかっただけでなく、私の過去を知る者がいないという事だ。私がマスコミに取り上げられたのはおよそ二週間あまりだったが、私を知っているという何人かの名乗りを上げた者が、全て人違いと証明され、私の過去は、名前に至まで何も分からない。

 私は幸運だったのかもしれない。記憶喪失という私の不安定な状態は、GMY社の保護のもと、安定した治療を受けることが出来たのだから。

 企業としての責任として、もちろん看板として使われたことは否定できないが、私は最先端の医学をうけ、自分の症状を理解し、快方に向かうことが出来たのは、やはり幸運という他ない。

 私の記憶喪失はかなり特殊なケースだった。金銭、感応機、テレビ、磁電車、信号、映話、コンピューター、ファーストフード、新聞、その他現代人が認識しているものを私は日を待たずに思い出していた。私は日本語を流暢に話すことが出来、平均程度に外来語を理解していたため、おそらく日本人だろうということになっている。しかし、それらの知識は記憶に結びつかないのだ。私の肉体年齢は22~25歳の間だと推測されている。およそ二十数年間で得た知識はあるのだが、どこでそれを得たかは全く思い出せないのだ。 私は記憶と居場所を失った異邦人だった。それでも二週間後には、なんとか現状を認識できる余裕も出来るようになった。GMY社の保護の元、毎日の生活は保障されていたが、私は社会にかえることを望んだ。私の記憶は少しも戻らなかったが、私の社会復帰は可能だと医師は保証をしてくれた。GMY社は私の仮の身元引受人になってくれた。

 私はGMY社の寮の一室と、仕事を与えられ、普通の人々と一緒にGMY社で働くようになった。

 私は時の有名人だったから、最初は奇異の目で見られていたが、一ヵ月、二ヵ月とたつにつれ、人々の関心は薄れていった。私は記憶を失ったが、未来はあった。仕事を与えられ、こなすのは楽しかったし、何よりも私を知っている人が増えていくのはうれしかった。今の私の名は、平野耕作。病院で、自分で選んで、自分に付けた名だ。今では名を呼ばれればすぐにふりかえることが出来る。

 記憶を失ってから半年、今では私は安定した人生のレールに戻ることが出来た。もちろん不安もあるが、平凡ながらも安楽な人生が待っている予感がある。 

 いや、あったのだ。あの電話が鳴り、あの女の声を聞くまでは。


        2


 いつもの道を通って家に帰る。

 私はまわりを見回し、軽く笑みを浮かべる。四ヵ月間、通い慣れた、見慣れた道。街路樹、信号、アスファルト、街灯。夕闇に浮かぶそれらが私には全て愛しく見える。

 私の知っている、私の記憶。現実を証明してくれるものだ。私はここにいる。見慣れた景色は私に居場所を与えてくれるのだ。

 すれ違った中年の婦人が、私の顔を見ているのに気付いて、私は咳払いをする。夕暮に道を歩きながらにやにやしている男はさぞかし変に思えるだろう。私は他人に注目されるのはもう沢山だった。

 しかしうれしさは押さえきれない。自分でも毎日よく飽きないと感心をする。しかしそれだけ以前の私は不安定なところにいたということなのだ。

 記憶にある風景が確かにあるということは、私に大きな安心を与えてくれる。道を曲がると、GMY社が借りているマンションが見える。地上六階、二十四部屋の内五部屋が独身寮になっている。私の部屋は一番上の階にある。暗証番号を押してドアを開け、エレベーターに乗って、廊下を歩き、自宅のドアを空ける。

 玄関でスイッチを入れる。明かりがつき、自分の部屋が見える。

 私の部屋だ。家具は備え付けの物だし、置いてあるものはまだ少ない、しかし私の空間だ。私は軽く息をはきながらいつものように部屋を見回す。ソファーに座って、ぶら下げていたカバンと、食料品の入った袋を床に置く。ポケットから煙草を取り出し、上着を脱いで、ネクタイを緩めてから、煙草に火を付ける。

 以前の私はどうかは知らないが、私は煙草を吸うようになった。会社の人々と同じように。小道具だが、コミニケーションの助けになってくれる場合があると、医師に勧められたのだ。あまり多くは吸わないが、部屋に帰ってからは必ず、一本吸い終わるまで、何となく部屋を眺めるのが私の日課だ。煙を肺まで吸い込み、ゆっくり吐き出す。心が休まる。煙が部屋を漂っている。煙は私の記憶と同じように、部屋にしみ込んで、積もっていく。そんな想像が、私を安心感で満たしてくれる。

 突然の電子音に、私は驚いて、煙草を取り落としてしまう。慌てて拾い上げ、灰皿に放りこむ。

 電話だ。電話が鳴っている。

 私は動揺する。私に、電話を?

 電話は鳴り続けている。四ヵ月、鳴ったことのない電話が、鳴っている。

 四ヵ月間の会社生活で、知り合いも出来た。友人と呼べる親しい人達もいる。しかし、電話を掛けてくるような人は、今までいなかったのだ。私は自分の家に電話があることすら、意識していなかった。

 電話のベルが私を呼び続けている。私は息を吸い込み、受話器をとる。

 ああ、あの時何故、私は電話をとってしまったんだろう!

「はい、平野です」

 とる前のためらいを振り切るように、電話に出る。待っていても受話器の向こうの相手は無言だ。

「もしもし?」私は問い掛け、相手の反応を誘う。

「ようやく見つけたわ」

「え?」

「私の声が聞こえますか? 平野さん?」

「だれです? あなた? いたずら電話なら、切りますよ」

「待って、待ってください。ようやくあなたとコンタクトがとれたのだから‥‥‥‥。切るといいましたね? その前は『もしもし』、と。ということは、電話という形で私はあなたと話をしているんですね?」

 私は思わず手のなかの受話器を見つめてしまう。この女は何を言っているんだ? 記憶を失った当初の不安が頭を持ち上げてくる。電話の相手が何か良くないことをもたらす使者に思えてくる。

「平野さん! 聞こえますか?」

 私は意を決する。いたずらかもしれないが、ひょっとしたら記憶を取り戻すきっかけがやってきたかもしれない。つきあってやろうじゃないか。

「聞こえます。あなたは誰ですか?話をするなら、名乗ってからにしてください」

「そうですね、失礼しました。いいですか、平野さん。落ち着いて、私の話を聞いてください。私はGMY感応機技術部一課に所属している、高木というものです。私は、感応機専門の精神科医をしています。」

「ああ、会社のかたですか」

 私は胸を撫で下ろす。

「違います。私はそちらの世界の者ではないんです。平野さん、落ち着いてよく聞いてください。‥‥‥‥あなたが今いるのは夢のなかの世界なんです」

 私は受話器を電話に叩きつける。心臓の鼓動が高まって息が出来ない。激しい怒りがヒステリーのあまり、呼吸器を圧迫している。荒い息をつきながら私は床にへたりこむ。

 やり場のない怒りのまま電話を蹴る。

 なんて残酷ないたずら電話だ。私は悔しさのあまり涙を流している。私は騎士の夢から醒めて、何も知らないこの世界に放り出された。たしかに悪夢のような状況だった。しかし、それでも私は自分の居場所を見つける努力をしている。しかし今でも思うのだ。この状況こそ悪夢であって、私は王女とともに城の寝室で目覚めることがあるのではないか。これこそ私のかなわぬ夢だ。私は騎士の世界が現実であることを証明しようと抗った事もあった。しかし、医師は首を振ってこう言った。『お気の毒ですが、あなたが話した細部にいたる全ては感応機の中で追体験できることです。あなたの話は全て感応ソフトの通りだ。いいですか?似ているんではなく、同じなんです。お気の毒ですが、そんな世界は、存在しない。あなたの記憶は、夢のなかの偽りの記憶なのです』そうだ、夢は醒めたのだ。私が今いる状況こそ、紛れもない現実なのだ!

 私は電話線を抜き、ベッドに逃げ込んだ。浅い眠りは悪夢によってたびたび遮られた、悪夢の内容を思い出せない苛立ちのなか、夜は過ぎていった。


        3


 あの電話がいたずら電話でなく、真実を告げているのを知ったのは次の日の、昼のことだった。

 私が勤めているGMY社の支社には社員食堂がある。外に食べにいくところもあるのだが、私は出来るだけここで食べるようにしている。社内の多くの人の顔を知っておきたいのだ。知っている人の顔が増えるのはいいことだ。直接所属している課の人以外にも知り合いが出来た。社員食堂にいつも通いつめているのは年配の人が多いのだが、それでも私の名を覚え、私の席を取ってくれるている人がいるのはうれしいことだ。

 しばらく前から私はいつも右の奥のほうで食事をしている。食事ののったトレイをもっていくと、先に着いている人たちが私に向かって軽く手を振る。

 きのうみたテレビの話、天気の話、女の話、とりとめのない会話と味気ない料理。私がみなと同じだということを感じさせてくれる瞬間だ。

 その時に、

『平野さん』

 私は突然自分の名を大きな声で呼ばれた。 私は驚いて、まわりを見回す。だれも私のほうを見ていない。たしかに遠くのほうから、女の人の声で呼び掛けられたのだ。

『平野さん』

 間違いない。私は席を立って辺りを見回す。しかし声の主らしき人は見当らない。

「平野くん、どうかしたのかね?」

 隣の席の人が怪訝な顔で私を見ている。返事をしようとして私のまわりテーブルの人たち全員が私の行動をいぶかっているのに気が付く。

 どういうことだ?私の名前が平野だということは、ここのみんなが知っている。あれだけ大きな声で呼び掛けられたのだ。ここの人たちに聞こえないはずがない。

『平野さん』

 まただ。私は声のほうをたどる。

『平野さん、私の声が聞こえますか?』

 テレビだ。社員食堂の大きなテレビが私に向かって話し掛けている。テレビではいつもの昼の番組がやっている。しかし、音声は、全く番組と独立して、私に呼び掛けているのだ。

 私の横の青年がテレビを見て笑い声をあげる。見回すと、何人かはテレビをみながら箸を動かしている。私以外には、テレビの異常は認識されていないのだ。

「平野くん、どうしたの?」

 立ち上がったままの私に同じ課の課長が問い掛けてくる。やはりテレビからの”声”は私だけに聞こえているようだ。私はあいまいにごまかして席に着く。箸を再び動かすが、すべての神経をテレビに向ける。

『平野さん‥‥聞こえますか? この方法では機械の負荷が大きすぎます。電話を‥‥‥‥取ってください』

 雑音混じりの言葉と同時に、社員食堂に備え付けの公衆電話のベルが鳴った。驚いている皆の視線を感じながら、私は急いで受話器を取った。社員食堂の電話は、映話、つまりテレビ電話だ。しかし映像モニターには何も移らない。

「平野さんですね」

「‥‥‥‥はい」こたえる声が震える。予想どおり、受話器を通して聞こえる声に、私の恐れは現実となった。

 電話の主は昨日の、すべての現実を否定した女の声だった。

「平野さん。私の質問にこたえてください。そこは今、どこですか? 最初の時からどのくらい時間が経ちましたか?」

「君はいったい何者だ?さっき、テレビが私に話し掛けてきた。どういうわけだ?」

 相手の質問を無視して私は受話器に質問をぶつける。人の目がある。声を小さくするのに自制心のすべてをかける。

「機械に負荷をかけてしまう危険な方法でしたが、あなたに納得してもらうためにはやるしかなかった方法です。ありえない現象を起こすことによって、あなたに現実への疑惑と、こちらの世界へ関心を向けさせる。そうするには多少でも危険を冒すしかなかった」

 そのたくらみは大成功だ。私は受話器からの女の声を聞いて思う。まさに悪夢のようだ。突然私にだけ聞こえる声で話し掛けてきたテレビ。そしてそれを起こしたと認める電話の女。記憶をなくした当初の恐怖が再び私の心を覆っていく。震えそうになる足を必死に押さえ付ける。私は受話器を握ったまま後をふりかえる。同僚たちがこっちを怪訝そうな顔で見ている。  

「平野さん、聞こえますか? そちらは最初のコンタクトからどのくらい時間がたっているのですか?」

 私は受話器に向き直る。

「どういうことだ? こちらとそちらでは時間の経過が違うのか?」

「それの確認が必要なのです」

「あんたの昨日の電話が昨日の十時で、今は次の日の‥‥‥‥十二時半だ。今、長電話をするのはまずい。とにかくあんたの話が聞きたい。こちらから連絡は取れないのか?」

「それは不可能です。夢の中から現実に連絡をとるのは感応機の機能にはありません。なるほど、現実と夢の時間の整合性が取れました。いいですか、あなたは感応機に入ってからもう‥‥‥‥」

「待ってくれ、今ここで話をするのはまずい。人目がある。‥‥‥‥今日の夜、八時くらいに自宅に連絡できるか?」

「こちらとの相対時間の計測も出来ました。可能です。では、そちらの時間で八時に」

 電話がきれる。

 そちらの時間? 現実と夢?分からない。私は軽いめまいを感じる。同僚たちがまだ怪訝な表情で私を見ている。うまい言い訳を考えることは出来そうもない。しかし一つだけいえることは、この事実はだれにも告げることは出来ないということだ。同僚たちを指差して、お前たちは夢のなかの住人だというのか?テレビが話し掛け、電話が現実は夢だと告げる。厳然としてあるはずの現実は、今、狂いはじめている。

 それとも狂っているのは私の頭だろうか? 

          4


 八時ちょうどに電話が鳴った。

「はい」

 私は電話のベルが鳴ると同時に受話器を取り上げる。

「私です。高木です」

 私は息を吸い込む。受話器を握りなおし、質問をする。

「あなたは昨日、そちらのGMY社といいましたね。ここが夢の中とも‥‥‥一体どういうことなのか、説明してもらえますか」

 彼女は少しの沈黙の後、語りはじめた。

「平野さん、あなたのお気持ちは分かります。しかし‥‥‥‥信じてください。あなたはいまだに醒めない夢のなかにいます。‥‥‥‥感応機の事故で」

「なんだって?」

「落ち着いて、聞いてください。あなたは当社の感応機で夢を見ることをご希望されました。私たちはあなたのご希望どおりのソフトを用意しました。ところがソフトの方に致命的な欠陥があり、あなたは醒めることのない夢の中に閉じこめられてしまったのです」

「‥‥‥‥」

「あなたの本名も平野‥‥‥‥耕作という名前です。あなたはそちらでもそう名乗っていませんか?」

「そ、そうだ」私は自分のフルネームを言われて動揺する。これはこの世界で選んだ私が自分に付けた名前のはずだ。

「組んだソフトどおりです。あなたの本名は平野耕作です。年令は二十八。食品会社の経理をなさっています。奥さんと、今年お生れになった女の子が一人いらっしゃいます」

「‥‥‥そうなのか」

 事務的に告げられる本当の自分のプロフィール。それはまるで他人のもののようだ。

「我が社は感応機の被験者を募集しました。あなたは応募なされ、第一回目のテストを行なうことになったのです。あなたがご希望なさった物語は”記憶をなくした男”でした。粗筋を言わせていただければ、こうなります。『時代は現在より一、二年未来で感応機が一般化されている世界。。記憶を亡くした男が、美しい女スパイと協力し、企業で行なわれている陰謀をあばく。主人公の記憶は企業の陰謀により奪われていたのです。そして、それは政府要人の記憶を操作させるためのテストケースだった。主人公は美しい女スパイと共に本社ビルをふっ飛ばし感動的なハッピ

ーエンドを迎える』というお話です」

「現実にこの世界にいる私とは似ても似つかない活劇だな」

「本当のストーリーはこうなるはずだったのです。しかし事故が起こった。あなたは物語の主人公と同じスタートラインに立たされていながら、そちらで半年も、記憶をなくした過去を持つ会社員として生きている」

「この世界がフィクションだというなら、今すぐここから私を出してくれ! そちらの言う現実の世界とやらへ、私を行かせてくれ!今すぐにだ!」

 私は思わず受話器に声を叩きつけている。記憶のない自分も、テレビが話し掛けてくる世界も、事務的に事実を告げる女の声も私にはもう沢山だった。

「申し訳ありません‥‥‥‥それは出来ません。感応機は一応の安全性は確認されていたのです。しかしそれに事故が起こってしまった。私たちは今も必死で原因を究明しています。けれども、今のところ不明としかお答えできない。現在あなたを感応機から出すということは、そのままあなたの記憶の変容を意味してしまうのです。現実世界でもあなたは記憶を失ってしまうのです。あなたを物理的に感応機から取り外すことは出来ない。夢を安全に終わらせるにはもう一つの手しか残されていません。‥‥‥‥夢の中の物語を完結させることです」

「夢を‥‥‥‥終わらせる?」

「あなたが夢の中の登場人物になりきって、企業の陰謀を暴き、工場を爆破させる」

「そんな、馬鹿な!」

「これしかありません。私たちの手元には、実行するはずだったシナリオがあります。それにしたがってあなたがこの物語を完結させるのです。そうすれば感応機は機能を停止し、あなたは現実の奥さんとお子さんの待つ世界へ帰ることが出来る」

「ち、ちょっと待ってくれ、大体、一体なんでシナリオがうまく動かなかったんだ。私の生活からは、そんなものなど起こりそうもないぞ」

「物語の中で、あなたを導くはずの女スパイ。それが事故でそちらの世界に存在していないのです。結果、あなたに物語の中での真実を説明するものがいなくなり、あなたは記憶の戻らないままになっている」

「そいつさえ、存在していればシナリオは始まっていたのか?」

「魅力的な謎の美女があなたをヒーローの道へと誘う‥‥‥‥よくある話でしょ。物語として受けそうな」

「ああ。その通りだ」

「しかしそちらの世界には、でてくるはずだった女スパイはいない。そのためにあなたは夢から出られないと推測されています。女の名前は高木麻衣‥‥‥私と同じ名前です。もっとも偶然でもなんでもありません、開発者の一人がふざけて私の名前を入れたのです。この麻衣がいないために、あなたの物語は進みません。どうしてこんな事故が起きてしまったのか‥‥‥‥」

「とても信じられないが‥‥‥‥昼のとき高木さんは『そちらの時間』といいましたね?こちらでは私が夢に入ってから六ヵ月がたっている。現実ではどうなっているんだ?私は六ヵ月も夢のなかにもう六ヵ月以上も閉じこめられているのか?」

「外部から干渉が入る以外の場合、夢と現実は時間的に大きなずれが生じます。事故があってから、三日たっています。私たちは全力をあげてあなたの健康状態を維持していますが、後二日くらいで健康に障害をもたらす可能性があります。私たちは早急に行動を起さなければなりません」

 私は何か言いようのない不安に覆われていた。この世界が、夢だって?とても信じられない。しかし、それが真実ならば‥‥‥‥私は記憶を、現実の場所を得ることが出来るのだ。

「わかった。高木さん、あんたの言葉を信じよう」

 私の心は決まっていた。

「ありがとうございます。信じていただけてうれしいです。私たちのスタッフともう一度打ち合せをして、そちらに指示をお送りさせていただきます。一時間後でよろしいですか?」

「わかった。‥‥‥‥そうだ。妻と娘の名前‥‥‥‥教えておいてくれないか?」

「奥さんの名前は礼子さん、お嬢ちゃんの名前はみさきちゃんですよ。お二人ともあなたの無事を祈っています。私たちも全力を尽くさせていただきます。では、一時間後に」

「ああ」

 電話がきれる。礼子と、みさき。二人の名前は私にとって、なんの現実感もない。しかし、それが現実なのだと電話はいった。私は天井を見上げる。キリル姫、あなたこそ現実であればよかったものを!今の私にとって、妻や娘の名よりも確かな存在を持って呼ぶ事が出来るのは、感応機の一登場人物にしか過ぎない美女の名だった。記憶が戻れば私は妻と娘を今の姫に向ける想いと同じ強さで呼ぶ事が出来るだろう。


 きっとそうなるだろう。


          6


 「高木麻衣がいる」という仮定にもとづいてシナリオをすすめる。というのが、現実のGMY社の出した結論だった。

 私は高木麻衣が教えてくれるはずだった情報を現実のGMYから与えられ、公的な秘密組織であり、高木麻衣の所属しているグループへと連絡を取ることとなった。

 高木麻衣は自分にもしもの事があったときのために、私を保障し、そのグループへの橋渡しをしてくれるための手筈を整えていた。調べてみたところ、それは見つかった。駅の汚いロッカールームに彼女のIDカードと、私を紹介するコピーが不可能の圧縮映像電文が、電話の指示どおりのところに。

 私は疑問を感じた。この世界に高木麻衣は存在していないはずだ。しかしなぜ彼女が残したものがあるのだろう。それはシナリオに矛盾を生じさせるはずだ。

 現実の高木麻衣はこうこたえた。

「‥‥‥‥彼女は存在していません。だからこそ私が彼女の変わりにあなたに指示をしています。しかし、起きるべきシナリオの状況はそのまま残っているのです。感応機のソフトは受容の広い自由度の高いものです。彼女はいた。という事実はあるのです。原因不明の事態で、消されていると彼女のグループは考えています。あなたは彼女の死の瞬間に立ち合い、託された。とすればなんの問題もありません」


 問題はあった。接触した秘密グループのリーダーに私は信用を得るためにテストを受けさせられることになった。


 「簡単な仕事だよ」と、宮本と名乗ったそのグループのリーダーは言った。長い髪とこけた頬の男の酷薄そうな目が、度の強い眼鏡ごしに私を見つめていた。

「この仕事をやってくれれば私たちは君を同志として認めよう」

 私は引き受けるしかなかった。たしかに簡単な仕事だ。私は手にあるケースを見つめる。眼鏡のケースだ。しかし中には盗聴器とカメラが仕掛けられている。ケースには特殊な細工がしてあり、内部の反応は探知不可能になっている。これを工場の最深部に置いてくるだけだ。

 昼飯時には工場のほとんどの人がいなくなっている。

 私は適当な書類を持って中に入り、奥へ行く。顔見知りには一人も出会わなかった。二人ほどの作業着を着た男とすれ違っただけだ。ここの開発室は、主に感応機のハードの方を扱っているが、組立が主なために、滅菌などは必要ない。偏向ガラスに覆われた部屋の奥に目的地はある。私のIDカードでもこのドアは開くが、私は高木麻衣のカードを使う。証拠をなくすためだ。このカードが使えることは確認してある。

 私は彼女のカードを見る。IDカードには写真もはってある。長い髪を後でまとめたきつい目をした二十代半ばの美女がカードの中から私を見ている。

 初めて入る工場の最深部。場所は宮本にすでに聞いてある。『第一開発室』とかかれているドアを手袋をはめて、開ける。

 私は部屋に入るときに初めて躊躇する。これは会社への背徳行為だ。私は私を助けてくれた会社を裏切ろうとしている。今なら引き返せる。

 私は頭を振って弱気な自分を叱る。この世界は感応機の中の、いわば嘘の世界だ。私はシナリオをクリアしなければこの世界から逃れられないのだ。ここでやらなければ私は記憶を失った男のまま一生を終えなければならないのだ。

 挫けそうになる足を押さえ付け、簡単に見付けられないところにケースを置く。


 終わってしまえば実にあっけない、簡単な仕事だった。


 家に帰ると宮本の留守番電話のメッセージが私を待っていた。

『よくやった平野くん、八時のニュースを見てみたまえ。君は私たちの同志だ』

 私は不安な胸騒ぎを覚えた。

 予感は的中した。

『‥‥‥‥今日の夜、七時ごろ、GMY社、支社工場で爆弾テロがありました。死者二名、重軽傷者も四人でています。犯行声明はまだ出されていませんが‥‥‥‥』

 八時のニュースでは、アナウンサーが二番目にその事件を語った。見慣れた工場の外観から、焼け焦げた現場へ。カメラが次々と拭われていない血や、放り出された靴、無残に破壊された部屋を映し出す。

 私が置いたものは盗聴器ではなく、爆弾だったのだ!

 体の力が抜ける。座り込むと、今度は震えがとまらない。

 電話の音に私は驚いて体を大きく震わせてしまう。

 私は受話器をとった。

「私だ。宮本だよ。ニュースは見たかね」

「あんたは‥‥‥‥」激しい怒りがこみあげてきて思わず言葉につまる。

「君を欺いたのは、作戦実行をスムーズにするためだ。これで実質的な感応機の製造に大きな遅れが生じることとなる」

「貴様、人を殺しておいて!」私は声を荒げ、受話器に叩きつける。怒りの感情を宮本にぶつけることだけが、自分の罪悪感から逃れる唯一の方法だった。

「私の組織の一員になるというのは、そういうことなのだよ」

 冷徹な、あざけるような宮本の声に、私の背中に冷たいものが走る。

「平野君、いいかね? 私は協力者など必要としていないし、信用してもいない。必要なのは協力者などというあやふやなものではなく、結束した仲間だ。君は今日、仲間となった。君は共犯者だよ、平野君。君がこの事件を起こしたのだ。もう我々の組織から離れることは出来ない、我々は一蓮托生だよ‥‥‥‥証拠は私が握っているからね。君は、もう‥‥‥‥人殺しだ」

 私は震えながら、受話器を耳から離せずにただ立ちすくんでいた。

「これからも仕事を依頼させていただくよ。ようこそわが同志。私たちは君を歓迎する。また連絡を取らせてもらうよ」

 くぐもった笑い声とともに電話はきれた。 私はソファに座り込む。まだついたままのテレビを切る。何も具体的な考えは浮かばないまま、『どうしよう』という言葉だけが頭の中で渦巻いている。

 再び電話が鳴る。私は恐くて受話器を取ることが出来ない。

 留守電のメッセージが流れて、電子音が鳴る。

「私です、高木です。平野さん、いらっしゃいますよね?」

 私はあわてて受話器を取る。

「高木さん、私はあんたの言った通りに、奴らの仕事を受けた。だが‥‥‥‥結果は!奴らは私に人殺しをさせたんだ!」

「落ち着いてください。これはお話なんです。仕方のないことなんです。これで組織にもあなたは疑惑を持つ。高木麻衣はあなたに謝り、あなたと麻衣は結ばれる。そういうシナリオなんです」

「ここは‥‥‥‥感応機の中の世界‥‥‥‥そうなんだよな」

「その通りです。こうしなければ、あなたは夢の世界から出ることは出来ません。あなたのお気持ちは分かります。しかし、頑張って下さい。もう少しです」

「そちらは現実の世界だよな?私の妻と、娘、礼子とみさきの声だけでも聞かせてくれないか?」

「‥‥‥‥申し訳ありません、平野さん。私の力では‥‥‥‥とても。この事件は社外秘となっています。あなたは集中治療室の中で治療を受けて、とても面会が出来ない、ということになっています。感応機のイメージのためにあなたの病状は正式に発表されていない。会社としてはあなたに出来るだけのお詫びをご用意しますが、今は‥‥‥‥」

 なるほど。感応機がこれから世に出るときに夢から出られない男の存在はとんでもないマイナスイメージになるのだろう。こちらの世界と同じに、GMY社が社運をかけているだけに、私のことは公表させないつもりだろう。今の私にはそれに抗議することも出来ない。私はGMY社にとって、感応機というまな板の上にのった鯉なのだ。

「わかった。ただ、利用者の意見として言わせていただければ、このシナリオはどぎつすぎる。娯楽用なんだから、もっと爽快感がほしいな」

 私は無理に明るい声を出す。夢の状況に押しつぶされてはいけない。ふさぎ込んでは、駄目だ。とにかくシナリオを終わらせる。それからすべてが始まるんだ。

「貴重なご意見ありがとうございます。また連絡をします。‥‥‥‥頑張って下さい」

 電話がきれる。最後の台詞の中には、切なげな、掛け値なしに私を思いやる感情が含まれているのが感じられ、一瞬私の胸は高鳴った。私は受話器を置く。こちらの世界の高木麻衣のIDカードを取り出す。目元のきついそれでいて顎の線のやわらかい、美しい女。本当だったら私は今日、彼女と結ばれるはずだったのだ。現実の彼女の声が思い出される。写真は実際の彼女と違うのか、今度確かめてみよう。

 ベッドの中で私は再び襲いかかってくる罪悪感と戦った。私は人を殺してしまった。夢の中で夢と自覚していても、罪悪感は消えず、私を悩ませた。私は酒を飲み、意識が混濁するまで飲み続けた。夢の中で体を壊しても、正常な自分の体で醒めるはずだ。夢の中で起きたことは、目が覚めればそれは帳消しになるのだ。

 

        7


 私は次々と命令され、それをこなしていった。私は優秀な諜報員だった。

 宮本に対する不快感と不信感はわずかながらだが、確実に増していた。宮本の声、人に命令し、結果を値踏みする目。落ち着きのない、どこか病的な狂気を秘めている仕草。

 反対に組織に所属することへの安心感が生まれていった。仲間というものも多くなった。時には命の危険も顧みずにともに行動をする連帯感。危機を脱したときの共感。私の行動に対する掛け値なしの称賛。秘密を共有しているもの同士の甘い快感。まるで夢の中のようだ。騎士として、先頭に立ち、勇者を率いてドラゴンの洞窟に入っていった偽りの記憶が、現実の世界に生まれたような、奇妙な既視感を私はたびたび感じていた。

 私を勇敢に、大胆にさせていったのは、この世界がシナリオにすぎないことを知っていたからだ。高木麻衣の話す通りに話が進む。私は死なないことも、成功することも、すでに知っている。私の無謀にさえ見える自信たっぷりな行動は仲間の称賛と憧憬を呼ぶ。

 それでも幾度かは不安を感じたことも、絶体絶命の目にあったこともあった。そんなとき私をささえたのは騎士の記憶だった。私は自分に”シャドラック”と話し掛け、ドラゴンを前にした時の勇気や、指南役だった老戦士の言葉を思い出し危機を脱していった。

 実際、奇妙なことだった。シナリオを進めるたびにこの世界が私を主人公にした漫画のような世界であるという実感は強くなっていったが、この世界でさえ夢にしかすぎないはずの騎士の夢が私の中で現実の重さを持ってくるのだ。

 私は何人かの仲間を失い、それ以上の人の命を奪っていた。これはお話にすぎないのだ。しかし自分の手のなかで体温を失っていく仲間の体や、死の瞬間まで私を炎のような激しさで睨み続けた男の目の記憶は私を苦しめた。

 そんなとき、母のように、恋人のように慰めてくれるのは高木麻衣の声だった。

「頑張って下さい平野さん。もうすぐこのお話は終わります。もうすぐです。あなたは現実に人を殺しても、犯罪を犯しているのでもありません。奥さんや娘さんのもとへ早く帰ってきてください‥‥‥‥」

 私は現実に帰るのだ。シナリオを終えなければ現実には帰れない。私は成功と、仲間の称賛を得ている。私はスリリングでたまらなく面白い物語の主人公だ。

 しかしこの世界は生々しすぎる。現実と夢の境界線が強すぎて、私は現実の世界を実感できず、この夢の世界しか感じることが出来ない。感応機は、娯楽機械として危険すぎるかもしれない。騎士の夢ばかりが現実感を増し、娘や妻のことは少しも感じ取ることが出来ない。

 私は現実に戻ったとき、本当に記憶を取り戻すことが出来るのだろうか?

 とにかくシナリオを進めよう。この世界で大写しになるエンドマークを見るために私はヒーローを演じ続けなければならない。 


「‥‥‥‥これがいちばん重要な作戦だ。気を引き締めていけよ」

 宮本の青白い顔が、緊張と興奮で赤くなっている。

 ライトバンの中の、平行に並べられた座席には、私と宮本を含めた六人の男女が同じような緊張感を持って話を聞いている。私たちは同じ服装をしている。防弾ジャケット。黒で統一された服。腰に回されたベルトには手榴弾や予備のマガジンが取り付けられるようになっている。時計の秒針はさっき統一した。

 天井に付けられた粗末なライトの下のテーブルに宮本は地図を置く。

「これが本社ビルの見取り図だ。入り口はここ。この階段を使い六階の‥‥‥‥この部屋まで行く。通路や階段の配置は、廃ビルで練習したとおりだ。落ち着いてやれば問題はない」

「その情報、出所は本当に確かなんだろうな?」

皆の内心の不安をあおるように、ささくれだった声で髪を後で縛った痩せた険の強い顔をした男、桜井が言った。

「あ、当たり前だ!桜井、おまえ、いまさら‥‥‥‥」

 宮本が感情的に大きな声をあげるのを横の大きな体格の男、藤枝が肩を押さえて引き止める。

 車内に金属的な大きな音が響き、私たちの混乱した雰囲気がかき消される。自動拳銃の銃床を引き、弾を装填した音を響かせたのはこの集団のなかの唯一の女性、柴田だった。「いまさらそんな事言っても始まらない。桜井さんだって分かっているでしょ。やるしかないのよ」

 煙草を灰皿に押しつけながら柴田は皆を見回す。きつい視線で睨まれた桜井は居心地が悪そうに身じろぎをする。

 何となく雰囲気が悪くなったのを取り持つように私の横でさっきからずっとハンディコンピューターを抱いていた男、水島が話し始める。

「情報が漏れたのが分かっても、あれだけのスーパーコンピューターを動かすのは不可能ですよ。感応機に関するデーターは外部からは完全に隔離された所にあります。外部からのハッキングが不可能な以上、証拠を得るためには侵入するしかないんです」

 宮本が改まった声であとを続ける。

「そうだ。我々は同志が警備システムを殺した間隙を縫って内部に侵入、麻酔ガスを使って警備員を無力化、目的地につき、制圧と同時に水島はハッキングを行なう。時間は十五分。我々はその間に爆弾を仕掛けタイマーをセット、その後脱出するというわけだ」

 何度も検討し、訓練した計画だった。

「もうすぐですよ。用意をしてください」

 前の方から運転手が私たちに呼び掛ける。 宮本はうなずき、ジェラルミンケースを皆の前に出し、開ける。

 桜井が口笛を吹く。

 サブマシンガンだ。私は銃にそれほど詳しくないがその銃が最新式の機能的なものであることぐらいは分かる。真新しい金属の銃身。前についている円筒形のものはたぶん消音器だろう。

 子供のように目を輝かせて桜井がその銃をひねくり回している。

「すげぇ!消音器に増設マガジン、おまけにケースレスかよ!こんなの軍にだってまだ少ししか出回ってないぜ。」

「それだけ上の方もこの作戦に本気だっていうことだ、桜井」

「分かったよ。宮本さん」

 二人の会話を気にせずに藤枝はむっつりと皆に銃を渡す。柴田は銃を受け取るとあちこちをいじり、作動状態を見ている。

「私はマシンガンはいいよ、藤枝さん」

 私は差し出されたマシンガンを藤枝に返し、使い慣れた小口径のリボルバーをケースから取り出す。

「ぼ、僕もいりません」

 差し出されたものがまるで刃物か何かのように身を引いて水島は私の横で言う。両手はしっかりと端末のコンピューターを抱いている。狭い車内のなかで水島の緊張と怯えが震えとなって私に伝わってくる。明らかに荒事向きではない男がいるのは危険なことだと私は感じる。

 宮本の行動もおかしい。落ち着きのない感情的な所は‥‥‥‥いつものことだ。しかしどこかおかしい。前に出て実際の行動をするのは宮本にしては珍しいことだ、それについての緊張は分かる。それだけではない。何となく違うのだ。眼鏡ケースを私に渡したときの雰囲気と同じ感じ。奴は秘密を持っている。すぐに露見しそうな、しかし重大な秘密を隠している。この疑惑は確信だ。証拠はないが、奴は我々を欺いている。何かを。高木麻衣の電話は何も言ってはくれなかったが、奴に油断をしてはいけない。

 私はナイフを鞘から出しもう一度音を立てておさめる。騎士だった経験が生きているとは思えないが、私がいちばん得意としている得物だ。幅広の三十センチの刃渡りのナイフは私の短剣を使っていた技術を生かしてくれる。鎧の隙間をつき急所に突き刺す技法で数人の血を吸っている私の武器だ。

 ガスマスクが渡される。顔と目をおおう大きなマスク。

 宮本、藤枝、桜井がボルトを引いてサブマシンガンに弾を装填する。

 車がとまる。

 私たちは窓からGMY社の本社ビルを見つめている。

 車内に電子音が響く。午前三時、作戦開始の時刻だ。

 外部からのハッキングで警備システムが殺されて本社ビルの明かりが一気に消える。

「行くぞ!」

 小さく叫んで宮本がドアを開け放った。

 私たちは裏口のドアに向かって、走る。


          8


 後続のバンがダクトの所に車体を横付けする。私たちと同じ格好をした仲間達が蛇腹の太いホースをダクトに取り付ける。ポンプの音がかすかに車体の中から響く。

 待つこと二分。換気口から眠りガスを逆流させ本社ビル中に行き渡させる。

 裏口のドアに桜井が爆弾をセットする。桜井が遠ざかると同時に宮本がスイッチをいれる。

 小さな爆発音とともにドアのノブが弾け飛ぶ。

 藤枝がドアを開け、柴田が中に入って銃を構える。両手での射撃姿勢を保持したまま周囲をみて、私たちを手招きする。

「大丈夫、だれもいないわ」

 宮本を先頭に、私、水島、桜井の順で突入を開始する。

 訓練どおり迅速に、藤枝と柴田が様子を見て安全を確認してから移動する。照明は切られていて、非常用の赤いライトの中、私達の靴音と呼吸音だけが響いている。

 目的地までに警備員が二人、白衣姿の従業員が一人、倒れているのを発見した。無臭、無色の睡眠ガスは、分解するまで五分かからないが、効果が発揮している間に吸い込めば三時間は人事不省に陥ってしまう。

 コンピュータールームの前に辿り着く。通路に藤枝と柴田が残り、私達はドアの前に辿り着く。

 ドアの横に数字を打ち込むキーボードと指紋錠がある。無理に爆破すればドアの後にもう一枚隔壁が落ちる仕掛けになっている。宮本がポーチから薄い手袋を取り出して、はめる。人工皮膚にかたどられた研究員の指紋で指紋錠を開け、キーボードに水島が自分の端末を接続する。キーを操作すると、端末の画面に多数の文字列があらわれ、猛烈な勢いで上へ流れていく。十日に一度変更される八桁の数字を解析し、小さな電子音とともにドアが開く。

「急げ!」

 宮本が入り口に立って我々を招きいれる。私と水島は柱のように立っているスーパーコンピューターを避けながら奥へと急ぐ。宮本と桜井は荷物のなかから爆弾を取り出し、部屋に取り付けはじめる。

 非常灯の頼りない明かりに照らされた部屋の中で、コンピューターだけは活発な活動状態にある。こちらの活動で外部からの電力供給を絶たれてしまったこのビルは、自家発電の電力の大部分をコンピューターの保護に使っている。

 目的の出力装置へと辿り着く。水島がしゃがみこみ、手に持っていたハンドコンピューターからケーブルを装置に接続させる。私は作業を手伝う。水島から受け取ったアンテナを組み立て、窓の外から見える仲間の車の方を向くように立て掛ける。水島のコンピューターではとてもスーパーコンピューターのデーターを収めきれない。データーを受け取るのはビルの外の車の大きな記憶装置だ。

 ハンドコンピューターの照り返しの光の中で、水島は素早く指を動かしてハッキングを開始する。カタカタとキーボートを叩く音が、いやに大きく部屋に響く。私はリボルバーを抜く。シリンダーをスライドさせて弾を確認する。

「どうだ?」

 作業を終えた宮本が入り口に注意をそらさずに近付いてくる。

「ここまで来たらどうもこうもありませんよ。用意したプログラムがこの強固極まりないプロテクトをうまく突き崩すように祈るだけです」

 私、水島、宮本は息をのんで水島のコンピューターの画面を見つめる。目にも止まらぬ速さ膨大なで文字列がスクロールしていく。ピーッ

 電子音が鳴り、UN LOCKの文字が輝く。

「やった!」

 水島が短く歓声を上げ、指を鳴らす。

「よし、あとはデーターを送るだけだ」

 弾んだ声で水島はキーボードを叩く。私は止めていた息を吐き出す。

 その時だ。

 宮本が一瞬だけ見せた表情。驚きと、疑い、当惑。作戦が成功した指揮官が決して見せることのない表情だ。

「宮本さん?」

 私は宮本に問い掛けようとした。

「変だ、おかしいぞ?」

 悲鳴のように上擦った声を上げて水島が私の言葉を遮った。

 水島は紙のように青ざめた表情で、何度もキーを叩く。

 画面には何の反応もない。

「データーが、存在しない!このコンピューターには何も記憶されていない!」

 宮本の唇がゆっくりと笑みの形に曲がっていくのを私は視界の隅で見た。

 ドオン

 突然の轟音が、ビル全体を揺らした。

 不意に強い光が窓の外から差し込んだ。私は窓に駆け寄る。

 車が燃えている。

 仲間が乗っているはずの車は巨大な火球となって炎を天にのばしている。そのまわりには仲間が倒れているのが見えた。何人かの武装した人間が明らかに悪意を持って車を距離を保って囲んでいる。

 不意に窓にシャッターが落ちた。

「情報が漏れたんだ、罠だ!」

 誰かが叫ぶのが聞こえた。同時に非常灯の電源が落ち、我々は真っ暗な闇のなかに閉じこめられた。

「きゃあぁっ!」

 銃声、そして女の悲鳴。通路を固めていた柴田の悲鳴だ。

 我々の銃にはサイレンサーがついている。大きな音がするのは私のリボルバーぐらいのだ。

 何発もの大きな銃声の音と、サイレンサーで押し殺した音が部屋の外で交差するのが聞こえる。やがて銃声は大きく、威圧的になり、もう一方を消し去り、静寂が訪れた。

 足音が、複数の人間の足音が近付いてくる。私は自分の指も見ることの出来ない、まるで闇という物質に閉じこめられたような暗黒の中にいた。

 非常灯はおろか、コンピューターさえ消された闇の中。宮本の物か、水島の物か、荒い呼吸音がかすかに聞こえるくらいだ。

 柴田と、藤枝、そしておそらく桜井も殺されてしまっただろう。原因はこの闇にある。私達は暗視装置を持っていないのだ。おそらく敵にはそれがある。

 足音が大きくなってくる。部屋のなかに入ってきたのだ。足音の数からいって敵は、三人。

 一言も警告を発しない。私達をどうあっても殺すつもりだ。

「うわぁぁっ!」

 恐怖の悲鳴を上げて、水島が走りだした。 銃声が上がった。

 何発もの猛打を浴びて、水島は空中を泳ぐかのように舞い、落ちた。その姿が、闇の中に銃のマズル・フラッシュを浴びてコマ落としのように浮かび上がった。

 私は蜘蛛のように床に伏せて移動を開始した。右手には抜き放ったナイフがある。

 銃を射った光の照り返しで奴らがどこにいるかも、部屋の状態もわかった。銃を射ってはこちらの場所を教えてしまう。物陰に隠れて奴らに近付く。奴らは三人だ。不意さえ付ければ。

 私は一瞬、自分がなぜ、こんな状態に陥っても降伏もせずに抗うことを考えているのかいぶかった。無論これはお話のなかだ。私が死ぬはずはない。しかし、それだけではないのだ。

 そうだ。ドラゴンとの最後の対決。私の残りの武器は短剣一本。真っ暗な闇のなかに奴と二人、私は岩陰から奴に飛び移った。その状況に似た今の私は同じような興奮にある。「待てっ!射つなっ!」

 闇の中、宮本が叫び声を上げる。

「俺だ、宮本だ」

 宮本の足音が奴らの方に近付いていく。

「お前等の上の方とは話は通ってるんだ。俺は仲間を売る。代価は俺の安全だ。お前等は俺の情報の通りに仲間の大部分を始末することが出来た。後は俺の情報で、組織の上の方も分かる。もう一人仲間がいるがそいつの始末も頼む。それに‥‥‥‥」

 媚びるような宮本の声の調子。しかし宮本は最後まで台詞を言うことは出来なかった。 銃声が宮本の台詞をかき消したのだ。

 私は同時に奴らに踊りかかっていた。

 私の刃は正確に奴らの一人の急所をさし貫いた。血飛沫が私の顔にかかる。私の体は私の理想の通りに動き、もう一人の敵をまるで人形のように屠っていく。敵の断末魔が刃を通じて私に伝わる。私はシャドラック・ヘイズだ!最後の一人が引き金を引くが、至近距離とはいえ不意をつかれた銃などは当たらない。私に弾は当たらないようにこの物語は出来ている!私は歓喜の叫びを上げたまま最後の敵にのしかかる。馬乗りになり、私は奴の胸に刃を突き立てる。

 目の前に立ちふさがる障害を力で切り裂く恍惚感。感応機はすばらしい娯楽機械だ。騎士の記憶は今や完全に蘇っている。剣をふるった偽りの記憶が、私をヒーローにさせるための伏線だったとは、実に良く出来ている。私は主人公だ!

 次のストーリー展開は予想できた。私は宮本の死体へと近付く。死体の服を探ると予想どおりに目的のものを手に入れる。

 部屋の明かりがつく。突然の光に私は目をおおう。

「動くな!」

 落ち着いた、命令し慣れた声が聞こえる。私は声の方を見る。目が痛い。徐々に戻ってくる視界には、入り口に立ち、銃を構える四人の男がいる。

 私は笑みを浮かべ、宮本から奪ったものを掲げる。

「命令するのは私の方だ。ここには起爆装置がある。ここに来るまでに何箇所か爆弾を仕掛けた。ビルごと崩れ落ちたくなければ、私を安全に外に出すんだな」

 正確にはこの部屋しか吹き飛ばないが、脅しにはなる。事実、奴らの表情に一瞬緊張が走ったのを私は見逃さなかった。

 男の一人が無理に取り繕った獰猛な笑みを私に向けた。

「やってみろよ」

 私の心は決まっていた。これでENDマークだ。私はこの部屋を爆破して、ストーリーは完結する。妻と娘の待つ世界に帰るのだ。

 私はスイッチを押した。


 部屋には何の変化もなかった。私はもう一度スイッチを押した。結果は同じだった。

 私はパニックに陥っていた。何度もスイッチを押し、怒りのあまり投げ捨てた。どういうことだ?

「どういうことだ?」

 思わず口にだして叫んでしまう。

「なぜ爆発しない? これでは、これでは‥‥‥‥」

「これではシナリオを終えることが出来ない‥‥‥‥かね? 平野さん?」

「?」

 シナリオ? どうしてこの世界の登場人物がそれを知っている?

 銃を構えた男の人垣が割れ、現われたのは、白衣を着たあの医師だった。

『今までのあなたの記憶は、全部夢です』

 そう私に告げた医師が、銃を構えた男の後から現われたのだ。


        9


 初老の医師は、口髭の向こうでやわらかな微笑を浮かべて私を見つめていた。

「あんたは、確か、芹沢さん? だったよな? ‥‥‥‥なんであんたがここにいる?」「今日きみが来ることを聞きましてね。きみは本当に興味深い患者だ」

 私は一瞬戸惑った。シナリオはまだ続いているのだろうか? だとしたら登場人物になりきっているほうが得策だ。

「ふざけるな、芹沢! 貴様が私の記憶を書き替えたくせに!」

 芹沢は声を出さずに笑った。

「何がおかしい!」

「いや、失礼。しかし、ここで説明するよりも、きみに見せたいものがあるんだ。それを見せてから説明させてもらおう」

 芹沢が指図をすると、銃を持った男が私に近付いてきた。

「とにかくついて来て下さい。平野さん」

 四方から銃を突き付けられ、私は手を上げて頷いた。

 私達は電力の復活したビルの廊下からエレベーターに乗り、大きなモニターのある部屋に連れてこられた。

 部屋には先客がいた。冷たい目をしたスーツを一部の隙もなく着こなした男。

 芹沢が手を上げると男は軽く会釈をした。「平野さん、紹介しよう。GMY者の警備部の副主任、若槻くんだ」

 若槻は私を冷たく見つめる。口元に冷ややかな笑みが浮かぶのを見て私の背に悪寒が走る。科学者がモルモットを見るような、静かな興味。私はこの男に恐怖を感じる。

「平野さん、私はきみに見せたいものがあるといったね。若槻くん、頼むよ」

 若槻が操作バンを動かすとモニターがついた。

 大きなモニターの中には一つの部屋が映っていた。灰色の何の飾りもない部屋。中央に椅子があり、一人の髪の長い女がうつむいたまま座っている。女のまわりの床には飛び散った血が床にしみを作っている。かなりの出血量だ。

「女の顔を映せ」

 落ち着いた静かな声で若槻が命ずる。モニターの手前から黒ずくめの男が現われて、髪を掴んで女の顔を前に向ける。女のうめき声がかすかに聞こえる。

 彼女の声には聞き覚えがある。

 カメラが彼女の顔に焦点を合わせる。

「!」

 私の驚愕を楽しむように、静かに芹沢はいった。何故だ、何故彼女がこの世界にいるんだ?

「紹介しよう、GMY社警備部、高木麻衣くんだ」

 なぜ高木麻衣が存在しているんだ? 彼女は感応機の故障で存在しないはずだ。私のシナリオはどうなるんだ? 

 困惑する私の姿を明らかに芹沢は興味深く見つめているのが分かる。

「どうしたのかね、平野さん? 彼女は存在してはいけないのかね? この世界では?」 私は驚いて芹沢を見つめる。

「なぜあんたが、それを知っている。あんたはシナリオ上の登場人物のはずだ。自分の役割を自覚するなんてありえない。感応機の生んだ世界でなぜこんなことが起こるんだ?」 私の問いに静かな調子で答えたのは若槻だった。

「簡単なことだ。ここが現実の世界なのだよ。平野さん」

 振り返った私の前に、若槻は片手を差し出す。その手には小さな機械が握られていた。「これが何だか分かりますか? 支社の食堂のテレビに付けられていたものです。指向性のスピーカーです。これを使えばあなただけに、食堂のみなには知らせず、あなただけに声を聞かせることが出来る」

「なんだって?」

 若槻が機械を操作した。声が流れる。

『平野さん‥‥‥‥聞こえますか? この方法では負荷が大きすぎます。電話を‥‥‥‥取ってください』

 足の力が抜ける。私は床にへたりこむ。

 芹沢が私の肩に手を置く。

「きみは高木麻衣に利用されたのだ。若槻くんが彼女の正体と計画を知ったのは二週間前だ。彼女はきみの所属していた組織の上層部の人間だったのだ。組織とはある企業、もちろん我がGMY社と敵対する企業の工作員だったのだよ、彼女は」

 芹沢の台詞を若槻が引き継ぐ。

「彼女はすべてを自白した。きみを架空のシナリオの主人公だと言聞かせた。きみの心の弱い部分に彼女は付け込んだのだ。テレビの仕掛けや、ほかにも少しの仕掛け、無論電話などはすぐに調べられる。記憶がないという不安定な状態のきみはいともたやすく彼女の話を信じ込んだ。もっともきみの不安を訓練してある彼女につかれれば引っ掛からないほうが難しいが。きみは彼女の操り人形となって我が社に膨大な損害を与えた。本来ならきみはこのまま殺されてしまう人間だ。本当のことを知る迄もなく」

「しかし‥‥‥‥」

 芹沢が私の肩に置いた手に力を込めた。

「しかし、きみの正体が今だによく分からない。我々はきみに興味があるのだよ、平野くん。きみは何者なのかね? さっきのナイフの扱いは訓練された者の動きだ、とても一朝一夕で出来るものじゃない。きみは身元を証明するものは持っておらず、きみを証明してくれる人も皆無だった。まるで感応機の主人公のようにね。きみの騎士の話は細部まで凝り過ぎていた。感応機の体験ではあそこまでリアルな話は出来ないはずなのだよ。きみはいったい何者なのだ? 我々の実験に協力するのならば、命の安全だけは保障しよう」

「嘘だ」

 私は思わずつぶやいていた。芹沢は私の口元に耳を寄せる。

「なにか言ったかね、平野くん?」

「嘘だ」

「嘘などつかんよ、きみの命の安全は保障する。多少は不自由を感じるかもしれんが‥‥‥‥」

「嘘だーっ!」

 私は芹沢の胸ぐらを掴んで床に引き倒し、その体の上に馬乗りになった。

「嘘だ。ここは感応機の世界なんだ。現実には妻と娘が私を待っているんだ! さあ、次のシナリオは何だ! 早くこの世界から私を出せ!」

 銃声が響いた。

 私は右の太股にとてつもない温度と異物感を感じた。足を押さえて床を転げ回る私に、銃をポイントしたまま若槻は冷ややかに言った。

「いい加減認めるんだ。平野さん、ここは現実の世界だ」

 脳を焼き尽くすような痛みが若槻の言葉を待たずに私に教えていた。ここは現実の世界だ。こんな痛みが夢のわけがない。ここは現実の世界だ!

「うわあぁっ!」

 どうにもならない絶望が意味のない絶叫を上げさせた。

 その時、


       10


 その時に、まったくだしぬけに、部屋の真ん中に輝く光球が出現したのだ。

「なっなんだ?」

 芹沢の狼狽した声が聞こえる。私は痛みに顔をしかめながらも光球を見る。

 キリル姫!

 私が見間違うはずはない。額に輝く王家の輪。美しい銀の髪。

「ようやく見付けました、シャドラック」

 王女の微笑み、頬を伝うのは、間違いない、歓喜の涙だ。

 私は王女の顔を見つめていた。

「何だこの映像はっ?」

 芹沢か、若槻かは分からないうろたえた声が聞こえる。

 私は王女だけを見つめていた。

 王女は私だけを見つめていた。

 王女は私に手を差し伸べた。

「帰りましょう、シャドラック。あなたはドラゴンの最後の呪いで醒めない夢に閉じこめられているのです。ここはあなたの世界ではありません、帰ってきてください、シャドラック」

 私が王女の手を取るのに何のためらいも感じなかった。

 白い光が私達を包んだ。


      ※※※※ 


 そして私は帰ってきたのだ。緑多きニットリアの国へ。

 私達は王の前でもう一度婚礼の誓いをはたした。いま、私の傍らにはキリル姫がいる。以前の記憶は消えずに私の中にある。西暦2035年あの世界の記憶は夢とは思われないほどに生々しい。この王国の生活の方が夢のようだ。

 もちろんこの世界にも不安はある。燐国の動き、成り上がりの私に対する大臣の行動。 しかし私はこの世界を夢だと信じたくはない。目覚めたときに続いている世界。記憶の断絶がなく、起きたときにある現実。それが本当の現実だ。醒めない夢は現実と何の違いがあるだろう。

 私は生きていることを実感している。その認識があれば、それはすべて現実の世界なのだと私は思う。




             完


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本当の夢 @Lian56

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